19世紀

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19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀

19世紀の歴史

国民国家の成立

西欧ではフランス革命の影響により自由主義ナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、「諸国民の春」や数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツイタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。 またナポレオン戦争による混乱に乗じて1810年代から1820年代にはスペイン・ポルトガルの支配からラテンアメリカ諸国が各地で独立した。しかし大土地所有者の優遇やモノカルチャー栽培などで独立してからも近代化は進まず、欧米列強への従属がこの後も長く続いた。

帝国主義の興隆

ファイル:SepoyMutiny.jpg
インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。

19世紀のイギリス工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家であるロシア海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。

アジアアフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコタイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清国の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。

日本でも1853年アメリカペリー浦賀に来航、江戸幕府開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。

列強の植民地争奪戦

19世紀中頃に、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国はイギリスに続いて産業革命をなしとげた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより1870年代の露土戦争前後から19世紀末には列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争日露戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。

できごと

  • 日本では江戸時代の後期及び末期(幕末)から明治時代にあたる。
  • 中国ではの時代の後期から末期にあたる。
  • イギリスではジェームズ・ワットの圧縮蒸気機関が開発され、その10年後にはワットの複動式蒸気機関が完成し、炭鉱において地下300メートルの深さまで掘ることが可能になった。毎年さまざまなタイプの石炭を何百万トンも産出するようになり、世の中が一変した[1]

1800年代

ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg
江戸時代の旅行ブーム。1802年には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、文化文政時代のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋」。
ファイル:Nội thất cung Diên Thọ.jpg
阮朝越南の成立。黎朝衰退後に台頭した西山三兄弟を倒し、阮福暎は嘉隆帝と名乗ってベトナム全土を統一した。画像は首都の順化(ユエ)に今も残る順化皇城の延寿宮中文版

1810年代

ファイル:Masakra mameluków.jpg
シタデルの虐殺。エジプト総督ムハンマド・アリーはアラビア半島遠征への壮行会に乗じてこの国の支配者層であるマムルークを虐殺し、権力基盤を固めた。
ファイル:Napoleons retreat from moscow.jpg
ナポレオンのロシア遠征。画像はアドルフ・ノーザンの「ナポレオンのモスクワからの退却」。

1820年代

1830年代

1840年代

ファイル:Carl Spitzweg 036.jpg
ビーダーマイヤー時代。ウィーン体制の相対的安定は政治や国際情勢ではなく小市民としての平穏な生活を優先する人々の嗜好に合致していた。画像はビーダーマイヤー時代を代表するドイツ人画家カール・シュピッツヴェークの「日曜日の散歩」。
ファイル:Ireland population change 1841 1851.png
ジャガイモ飢饉。連合王国に併合されたアイルランドでは、その弊害としてイギリスに住む不在地主の搾取により大飢饉が発生し人口が激減した(1841年 - 1851年)。

1850年代

1860年代

1870年代

1880年代

1890年代

1900年代

文化

文学

音楽

思想

科学

技術

人物

ヨーロッパ

政治家・王族

フランス
オーストリア=ハンガリー
ロシア
イギリス
ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む)
北欧
イタリア
スペイン
ベルギー
ギリシア

軍人

実業家

科学と技術

思想と哲学・人文諸学

宗教

文学

美術

音楽

社会事業家

探検家・旅行家

料理

その他

アングロアメリカ

ラテンアメリカ

サハラ以南のアフリカ

西アジアと北アフリカ

南アジア

東南アジア

オセアニア

東アジア

越南

日本

脚注

注釈
  1. ただし、この時点ではA型、B型、C型の3つであるとされた。
出典


外部リンク