カシミール
カシミールあるいはカシュミール(テンプレート:Lang-ks, 英語: Kashmir, ウルドゥー語: کشمیر)は、インド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、パキスタンとの国境には世界第2の高峰K2がそびえる。
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概要
カシミールの帰属をめぐって、インドとパキスタンの対立が絶えない係争地である。対立の背景には、イスラム教(パキスタン)とヒンドゥー教(インド)の宗教的な対立がある。日本の学校教育用地図帳では、パキスタンから中国へ割譲された地域を除き、印中パ三国の主張するすべての地域を所属未定とし、実効支配線(停戦ライン)のみ描く手法がとられている。
中世にはカシミール・スルターン朝が支配し、その時代に住民の多くがムスリムに改宗した[1]。
インド
インドの実効支配地域は、かつてジャンムー・カシミール藩王国(1846年 - 1947年)があった地域で、ジャンムー・カシミール州となっている。 インドの実行支配が及んでいるジャンムー・カシミール州を文化・宗教的に三つに分けるならば、カシミール渓谷地域(ムスリム95%)、ジャンムー地域(ヒンドゥーが過半数)、ラダック地域(仏教徒とムスリムがほぼ半数ずつ)の西半の地域である。なかでもカシミール渓谷は自然の美しさと人間の暴力の酷さが同居する州の中心地である。
最大の都市は、避暑地として知られる夏の州都シュリーナガル(スリナガル)で、インドのジャンムー・カシミール州の州都となっている。特にダル湖一帯が観光客であふれた。高級織物のカシミア(英: Cashmere wool, カシミヤとも)の語源で、カシミアはこの地域原産のカシミア・ヤギの毛から作られる。
パキスタン
パキスタンの実効支配地域は、ギルギット・バルティスターン州及びアーザード・カシミールと呼ばれている。
ムスリムの集団による分離独立運動
また、カシミール問題と言うときには、インド管理地域内でのムスリムの集団による分離独立運動も指すことがある。
中華人民共和国
中華人民共和国の実効支配は、ラダック地方の東半にあたるアクサイチン及びシャクスガン渓谷(克里青河谷)となっている。
歴史
18世紀、ドゥッラーニー朝とムガル帝国は、マラーター同盟との度重なる戦闘(マラーターのインド北西部侵攻、第三次パーニーパットの戦い、ノウシェーラの戦い)で弱体化し、ドゥッラーニー朝の影響が及ばなくなった空白地帯に、1801年に新興国シク王国が登場した。
カシミールの東側半分以上を占めるヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯、ラダック(およびザンスカール)地方とバルティスターン地方は、元々チベット系のラダック王国があったが、1834年に最後の王Tsepal Namgyalがシク王国に敗れ、en:Stokに追放され、シク王国の支配下に入った[2]。
1841年にはシク王国のドーグラー勢力とチベットとの間でドーグラー戦争が起きた。その際に捕虜となったカシミール兵士の末裔数千人が、ラサなど中央チベットに居住している。これらはカチェ(チベット語でカシミール人)と呼ばれ、イスラム教の信仰を保っているが、言語や大部分の習俗はチベット人に同化している。これがひいてはチベットでイスラーム教徒の移民を漠然とカチェと呼ぶようになり、青海省・甘粛省方面から移住してきた回族もギャナ・カチェ(直訳すれば「中国のカシミール人」の意)と呼ばれる[3][4]。
だが1845年からのシク戦争では、第1次シク戦争のソブラーオーンの戦いでイギリスがシク王国を破り、ラホール条約を締結した。この条約をもってイギリス間接統治のジャンムー・カシミール藩王国が成立した[5]。
グレートゲーム
イギリス植民地統治下のインドでは、国内の様々な地域に大小無数に散在する藩王国をイギリスが間接的に統治していた。
1885年、アフガニスタン首長国(en)とロシア帝国とのパンジェ紛争が発生。
1886年、フランシス・ヤングハズバンドが満州からゴビ砂漠を横断し、カラコルム山脈のマスタフ峠を越えてインドに至る「中国-インド間のルート」を開拓。
1889年にフンザによる「ヤルカンド-インド間の交易路」への襲撃が激化。1890年に、ヤングハズバンドが南下するロシア帝国のブロニスラフ・グロンブチェフスキー率いるロシア軍兵士にワハーン回廊のボザイ・グンバズで拘束されそうになる事件が発生し、1891年のフンザ・ナガル戦争が勃発。
カシミール紛争
1947年8月、それまでイギリス植民地のイギリス領インド帝国として一つのまとまりだった広大な地域が、植民地独立を契機に、ヒンドゥー教徒が多数派であるが多民族・多宗教の国是(ガンディーの「一民族論」)を掲げるインドと、イスラム教徒は別個の民族と見なすジンナーらの「二民族論」に基づきイスラム教を国教とするパキスタンの2つの国家に大きく分裂した。
このインド・パキスタン分離独立によって、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた。しかし、カシミール藩王は自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はムスリム(イスラーム教徒)という微妙な立場にあり、独立を考えていた。パキスタンが武力介入してきたことで、カシミール藩王はインドへの帰属を表明し、インド政府に派兵を求めた。これが第一次印パ戦争(印パ戦争)の発端である[6][7][8]。 以後、この地域についてはパキスタンとインドが領有を主張し、これまで大小の軍事衝突(カシミール紛争)を繰り返し、第二次印パ戦争、第三次印パ戦争、カールギル紛争まで争っている[6][7][8]。
現在はほぼ中間付近に管理ライン(LOC)が引かれている[6]。現在(2000年代後半)、インドはジャンムー・カシミール州を、パキスタンはアーザード(自由)・カシミール州とギルギット・バルティスタン州(旧称:北方地域)を、中国はアクサイチン及びShaksam Valleyを実効支配している[6][7][8]。
1990年代に入るとパキスタンの支援を受けた過激派のテロが頻発し、治安部隊の過剰ともいえる反撃が続いた[6]。
2002年の州議会選挙の時、ジャンムー・カシミールのヒンドゥー勢力が州を三分割してジャンムー州を建設すべきとの主張をした。また、ラダック地域では自治権拡大の要求が起きている。
2006年、インド人観光客が戻り始めたが、それらの観光客を狙ったテロが横行した。
2016年9月18日、ウリの基地が襲撃され、インド軍兵士17人が死亡、約30人が負傷、武装勢力は4人死亡。
中印国境紛争
カシミール地震
一部で「カシミール地震」とも呼ばれる2005年10月8日のパキスタン地震の後、同地は莫大な労力と巨額の復興費用を必要としている。
Daulat Beg Oldi Incident
2013年4月、en:Daulat Beg Oldiでen:2013 Daulat Beg Oldi Incidentが勃発。
住民
民族
言語
カシミール人の言語はインド語派カシミール語などの諸語で、ラダックではチベット語西部方言に属するラダック語、バルティスターンではラダック語のバルティ方言が話される。
宗教
住人の宗教はイスラーム教が支配的であるが、この地域のイスラム教は、スーフィズムやヒンドゥーの影響を受けた非常に独特のものである。この世の全てのものが絶対神(アッラー)の化身であると考え、多神教との折衷的な汎神論的世界観を保有している。この世界観に基づき預言者を通じずに神との交信が可能であると考えられており、独特の神秘的儀式が多数存在している。
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が対立するカシミール問題の中では看過されがちであるが、チベット圏に属するラダック地方ではチベット仏教が信仰され、現在では最もよくチベット仏教の伝統を保存する重要な信仰拠点の1つとなっている。またバルティスターンは、チベット系民族でありながらイスラーム教を信仰する特徴的な地域である[9]。
脚注
- ↑ 小谷汪之 2007, p. 133.
- ↑ “BestLadakh: ラダック”. . 2017閲覧.
- ↑ “チベット史年表/1838-1855 - ★'s Lab”. 東京外国語大学. . 2017閲覧.
- ↑ clearwater 『チベットの歴史(1/7)』。 オリジナルの2015年5月21日時点によるアーカイブ 。
- ↑ “シク戦争”. Y-History 教材工房. . 2017閲覧.
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 井上あえか (PDF) 『第3章 カシミール問題の現状 -武装闘争の発生と変容-』 日本貿易振興機構。 オリジナルの2017年5月16日時点によるアーカイブ 。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 『カシミール紛争』。 オリジナルの2015年5月8日時点によるアーカイブ 。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 “カシミール地域の紛争”. 岐阜女子大学. . 2017閲覧.
- ↑ 山本高樹. “ラダックの歴史 - Days in Ladakh”. . 2017閲覧.
参考文献
- 小谷汪之編 『南アジア史2 : 中世・近世』 山川出版社〈世界歴史大系〉、2007年。ISBN 978-4-634-46209-0。