孝明天皇
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。
Contents
生涯
天保2年6月14日(1831年7月22日)、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。
傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、天保6年6月21日(1835年7月16日)儲君。天保6年9月18日(1835年11月8日)、親王宣下により統仁親王となった。天保11年3月14日(1840年4月16日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、天保14年(1843年)には侍講に中沼了三を迎えた。弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御。2月13日に践祚した。
弘化3年8月29日(1846年10月19日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌・弘化4年3月9日(1847年4月23日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。4月25日(6月8日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。9月23日(10月31日)、即位の大礼が行われた。同月27日(11月4日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、弘化5年2月28日(1848年4月1日)に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。
嘉永3年4月8日(1850年5月19日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。嘉永6年(1853年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約が締結された。同年4月6日(5月2日)、内裏が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、同年11月27日(1855年1月15日)に元号を安政と改元した。
安政5年1月14日(1858年2月27日)、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。1月25日(3月10日)には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。
太閤鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった[注 1]。1月17日(3月2日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。同月25日(3月10日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。
2月22日(4月5日)、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許を貰いたいという答書を3月5日(4月18日)に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て3月14日(4月27日)に堀田老中へ下すことになったが、3月12日(4月25日)、88人の公卿が列参という事件を起こし条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した。『孝明天皇紀』では久我建通が3月11日(4月24日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、岩倉具視とともに行動に移したとされる。3月20日(5月3日)、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。
6月19日(7月29日)、幕府は日米修好通商条約に調印。この条約調印に関する奉書は27日(8月6日)に京都へ着き、朝廷では評議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。翌28日(8月7日)の評議で九条関白に下した宸翰は譲位の意思を示していた。驚愕した一同は関東より御三家、大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。7月6日(8月14日)に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は7日(8月15日)に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので、酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し、9日(8月17日)に京都へ送った。その一方で7月11日(8月19日)に日露修好通商条約、7月18日(8月26日)に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日(8月30日)、近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。
8月5日(9月11日)、近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、近衛らは九条関白へ交渉し、具体的には8月7日(9月13日)の朝議のため参内を求めた。しかし九条関白は参内をしなかったため、近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。9月2日(10月8日)、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。9月2日(10月8日)に辞表を受け取り、4日(10月10日)に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。9月17日(10月23日)に間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。10月19日(11月24日)、九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。10月25日、徳川家茂の将軍宣下が行われた。
10月24日(11月29日)、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。11月9日(12月13日)に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。12月24日(1859年1月27日)、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。12月30日(2月2日)、間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。
安政6年1月10日(1859年2月12日)、幕府と九条関白からの圧力により、近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合って貰いたいと宸翰を出したが、2月5日(3月9日)に酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王、一条忠香らへの処分案もあった。その後も2月17日(3月21日)に九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。3月28日(4月30日)に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられ、4月22日(5月24日)に落飾の勅許を出した。
8月12日(9月8日)、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日(9月11日)、九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞をうけるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。
万延元年4月12日(1860年6月1日)、幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。これに対し5月4日(6月22日)付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。酒井所司代は5月11日(6月29日)に独断で再度奏請したが、5月19日(7月7日)、再び拒絶する宸翰を出した。酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出、6月4日(7月21日)に上奏された。観行院の生家・橋本家は、元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。孝明天皇は、鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。
7月4日(8月20日)、幕府は降嫁について三度目の奏請を行ったが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため、却下された。7月29日(9月14日)、酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、今後七八カ年ないし十カ年の中で、その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。これにより孝明天皇は勅許を決断したが、当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。8月15日(9月29日)に和宮はついに降嫁を受諾し、11月15日(12月26日)に江戸城に入った。
正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、文久元年6月2日(1861年7月9日)、長州藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。
同年11月(12月)、薩摩藩の島津久光と島津茂久が近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し上京のために勅命を求めてくるが、容れることは無かった。しかし、12月(同月から1862年1月)に御製の和歌を下した。
文久3年3月(1863年4月から5月)に家茂が上洛してきたときは、攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸した。 もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。孝明天皇は文久3年4月22日(1863年6月8日)付の中川宮宛の書簡で、4月10日(5月27日)の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白[1]し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている[2]。
その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。
慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[注 2]。
このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[5]し、岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している[6]。こうした中で慶応2年8月30日(1866年10月8日)には、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[7]。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、在位21年にして崩御。宝算37(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている(下記参照)。
人物
- 京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。
- 遺品として時計[注 3]が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。
- 孝明天皇が、即位の大礼や元旦の朝賀の際に着用した礼服が宮内庁に保管されている。通常、中国の皇帝や日本の皇室では天皇大帝を信仰しているため、祭服には北斗七星や織女(織女三星)がデザインされている。しかし、孝明天皇の礼服には、背中の中央上部に北斗七星が置かれているが、織女は置かれていない。
系譜
仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。
系図
在位中の元号
一世一元の制制定前の最後の天皇である。
諡号・追号
孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。勘申者は八条隆祐[8]。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵事業で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した現陵が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに祀られている。また、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として昭和15年(1940年、皇紀2600年)に合祀された。そのほか、愛知県武豊町の玉鉾神社に祀られている。
仮御所
嘉永7年(1855年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、翌年の再建までの間に聖護院や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。
崩御にまつわる疑惑と論争
崩御に至るまでの経緯
慶応2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日(1月17日)に発熱する。天皇の持病である肛門脱を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した12日(1月17日)、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌日・13日(1月18日)になっても病状が好転しなかった。14日(1月19日)以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。
12月16日(1月21日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日(1月22日)に武家伝奏等へ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。
『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。
伊良子光順の日記における12月25日(1月30日)の条には、天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった25日にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日(2月3日)になってからのことだった。
毒殺説
孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。その天皇が数えで36歳にして崩御してしまったことや、幼少の睦仁親王が即位し、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していった状況などから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で明治42年(1909年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげるなど[9]、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また昭和15年(1940年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[10]。
第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」等の論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)[注 4]である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
次いで昭和50年(1975年)から同52年(1977年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[注 5]。
孝明天皇暗殺説を唱えるものの一部(鹿島昇など)は更に睦仁親王暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。当初この論を主張した鹿島の説では大室は南朝の末裔であるとされ、いくつかの根拠が挙げられたが、陰謀論の域を出ていない。
すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに根拠の希薄なまま大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、説は迷走を続けている(この説の根拠としてはフルベッキ群像写真に明治天皇が写っているという説がある)。
毒殺説に対する反論
平成元年(1989年)から同2年(1990年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。
「孝明天皇の死因について」[11]、「孝明天皇は毒殺されたのか」[12]というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
- 12月19日(1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと
- 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
- 中山慶子の12月23日(1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日(1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。
また原口は別に記した「孝明天皇と岩倉具視」[13]という論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反駁したことにより、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至っていない。
脚注
注釈
- ↑ しかし「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。
- ↑ 慶応元年12月17日(1866年2月2日)、典薬寮の高階経由・経徳らの建言による[3]。天皇没後の戊辰戦争を受けて、慶応4年3月8日(1868年3月31日)に同じ高階親子の建言で撤回された。[4]。
- ↑ 第15代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。
- ↑ 天皇史関係の書籍では著者名は主に「禰津正志」を使用。
- ↑ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。
出典
- ↑ 『孝明天皇紀』巻四P592
- ↑ 『孝明天皇紀』巻四P845-846
- ↑ 『孝明天皇紀』巻五P706-707
- ↑ 『明治天皇紀』巻一P643
- ↑ 慶応元年9月23日(1865年11月11日)付書簡『大久保利通文書』巻一P311
- ↑ 『岩倉具視文書』巻一P264
- ↑ 『孝明天皇紀』巻四P893
- ↑ 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、786頁。
- ↑ 安重根は伊藤博文を暗殺した15の理由うちの1つとして、「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝(明治天皇)ノ御父君ニ当ラセラル御方(孝明天皇)ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス」と述べている(新聞集成明治編年史編纂会、1940年、p.171)。
- ↑ 京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)1301頁
- ↑ 原口清「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学史会報』第15号、1989年10月)
- ↑ 原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰他編『日本近代史の虚像と実像1』大月書店、1990年)
- ↑ 原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』第39巻別冊、1990年2月)
参考文献
- 宮内省図書寮編 『孝明天皇実録 1・2巻』(ゆまに書房、2006年) ISBN 4843320404
- 平安神宮編 『孝明天皇紀』(全5冊:吉川弘文館、1981年)。1906年(明治39年)刊の復刻。NCID BN01623977
- 下橋敬長・述/羽倉敬尚・注 『幕末の宮廷』(平凡社〈東洋文庫〉、1979年)ISBN 4582803539
- 藤田覚 『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年/講談社学術文庫、2013年) ISBN 406292157X
- 佐々木克 『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005年) ISBN 4061597345
- 家近良樹 『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社〈中公叢書〉、2007年) ISBN 4120038831
- 家近良樹 『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』(文春新書、2002年) ISBN 4166602217
- 阪本健一 『天皇と明治維新』(暁書房、1983年。ISBN 4900032166/皇學館大學出版部、2000年。ISBN 4876440972)
- 高橋秀直 『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642037772
- 原口清『王政復古への道 原口清著作集2』(岩田書院、2007年) ISBN 978-4872944778
- 李元雨『幕末の公家社会』(吉川弘文館、2005年) ISBN 4642034021
- ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年) ISBN 978-4582842319
- 蜷川新 『天皇 誰が日本民族の主人であるか』(光文社 1952年/長崎出版、1988年・2004年。ISBN 4860950445)
- 伊良子光孝『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』(「医譚」復刊第47・48号、1976年) ISSN 0536-0307{{#invoke:check isxn|check_issn|0536-0307|error={{#invoke:Error|error|{{issn}}のエラー: 無効なISSNです。|tag=span}}}}
- 京都府医師会 編 『京都の医学史』(思文閣出版、1980年) 全国書誌番号:80026728、NCID BN00717747。
- 徳富蘇峰・平泉澄校訂 『近世日本国民史』(時事通信社、1966年)
- 『61.孝明天皇御字終篇』、『62.孝明天皇崩御後の形勢』(後者のみ講談社学術文庫刊、1979年) NCID BN0601148X
- ※時事通信社版は全100巻、50冊分は1979年から1996年にかけ文庫再刊された。
関連項目