エクアドル
- エクアドル共和国
- República del Ecuador
- 国の標語:Dios, patria y libertad
(スペイン語:神、国と自由)
公用語 | スペイン語 |
---|---|
首都 | キト |
最大の都市 | グアヤキル |
独立 - 日付 | スペインから 1822年5月24日 |
通貨 | 米ドル (USD) |
時間帯 | UTC (-5)(DST:なし) |
ISO 3166-1 | EC / ECU |
ccTLD | .ec |
国際電話番号 | 593 |
エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく、スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキト。最大の都市はグアヤキル。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。
国名
正式名称はスペイン語で República del Ecuador。通称 Ecuador [ekwaˈðor]。
公式の英語表記は Republic of Ecuador。通称 Ecuador [ˈɛkwədɔːr]。
日本語の表記はエクアドル共和国。通称エクアドル。漢字による当て字は厄瓜多。
国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区」(Distrito del sur) と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通る赤道から名前を採り、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。
歴史
先コロンブス期
現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前10000年頃の人類の生存が確認されており、その後様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。
インカ帝国時代
このような諸文化は最終的に、15世紀半ばにクスコを拠点に急速に拡大していたタワンティン・スウユ(テンプレート:Lang-qu、インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの遠征によって征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。1527年に皇帝ワイナ・カパックがスペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などを巡ってクスコのワスカルと内戦(1529年–1532年)を戦い、勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。
スペイン植民地時代
1531年にスペイン出身のコンキスタドールの一群を率いてインカ帝国に上陸したフランシスコ・ピサロは、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、1533年にタワンティン・スウユを滅ぼした。
スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領に編入され、リマの統治を受けることになった。1563年にはキトにアウディエンシアが設置された。1717年にサンタフェ・デ・ボゴタを中心にヌエバ・グラナダ副王領が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、1722年には再びペルー副王領に組み込まれた。
征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行された。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。
独立戦争と保守支配
1789年に勃発したフランス革命以降のヨーロッパでの政変、そして1808年にフランス皇帝ナポレオン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。
1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカルの差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパス、カラカス、ブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタなど、大陸的な規模で勃発した。
1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進む中で、北のベネスエラからシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言し、1822年のピチンチャの戦いでスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。
こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区」(Distrito del Sur) としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレスが初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。
独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)、保守派と自由派との間でのエクアドル内戦(グアヤキルの戦い)など混乱が続いたが、1861年にガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年に渡る独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。
自由主義革命
この頃からエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、このことがコスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。
モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロが1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。
軍政とポプリスモ
1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし、政治の混乱は続き、さらに1929年の世界恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。1933年にポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラスコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間に渡り、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。
1941年にペルー軍がアマゾン地域を侵略し、エクアドル・ペルー戦争が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万から25万km2の領土をリオ・デ・ジャネイロ条約で失うことになった。この戦争はこの後50年間に及びエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。
第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展が見られたものの、1960年頃から政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。また、この頃から、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説が見られるようになった。
革新的軍事政権
この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバや東側諸国との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構 (OPEC) に加盟するなど自主外交が行われたが、こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。
新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。
民政移管以降
1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラが当選し、軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。1981年、en:Paquisha War。1984年の大統領選挙ではレオン・フェブレス・コルデーロが当選した。フェブレスは親米政権を推進した。1987年には大地震によって多数の犠牲者を出し、また、石油パイプラインも破壊された。
1992年にシスト・デュラン・バジェンが大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡ってペルーのアルベルト・フジモリ政権とセネパ紛争を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構 (OPEC) から脱退した。
1996年にはレバノン系のアブダラ・ブカラムが大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初のアラブ系大統領は奇行を繰り返したために失脚し、1998年に同じくレバノン系のハミル・マワが大統領に就任した。マワは10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域を巡る国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。
1998-99年、銀行危機(Ecuador banking crisis)。財政再建策をめぐり国際通貨基金との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できないまま、1999年9月ブレイディ債をデフォルト(世界初)、さらにこの後ユーロ債や他の種類のブレイディ債もデフォルトした[2]。債券を保有していた外国の機関投資家で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた[2]。2000年1月5日、マワは非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからUSドルに通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府はデフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、グスタボ・ノボアが大統領に就任した。政治は安定せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレスが大統領に就任したが、2005年に失脚した。
2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラのチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟などに尽力した。2008年3月3日、コロンビアのウリベ親米政権が3月1日にコロンビア革命軍(FARC,反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対し両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した(アンデス危機)。
2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認され、公布された。 2009年4月26日には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50%以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民族制などを取り入れている。また、米国の同盟国でなく、自主的な立場を明確にしている。ワシントン・コンセンサスや新自由主義政策と決別することにとどまらず、南米の統合を展望し、エクアドルに南米諸国連合の本部を設置した。
2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選したレニン・モレーノが、同年5月25日に大統領に就任した。
政治
大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年、今まで再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。
立法権は一院制の議会に属し、任期は4年、定数は137議席である[3]。
司法権は最高裁判所に属する。
軍事
徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約50,000人を有している。エクアドル軍はエクアドル陸軍、エクアドル海軍、エクアドル空軍の三軍からなる。
過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革が主にクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い[4]。
コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍 (FARC) の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。
太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていたが2009年9月、賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。
国際関係
1942年のペルーとの戦争でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。
一方コロンビアとの関係は、プラン・コロンビアが開始されてから、コロンビア人の難民や反政府武装組織が国境を越えて流入し、エクアドル・コロンビア間の外交問題になっている。この問題は近年アンデス危機に発達している。
アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定 (FTA) の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年のパナマ運河返還に伴って、パナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。
EUとの関係も重要であり、スペイン、イタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。
地方行政区分
22の県(provincia,州と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。"-" の右側は県都。
オリエンテ(アマゾン地域)
- モロナ・サンティアゴ県(Morona-Santiago) - マカス
- ナポ県(Napo) - テナ
- オレリャナ県(Orellana) - プエルト・フランシスコ・デ・オレリャナ
- パスタサ県(Pastaza) - プージョ
- スクンビオス県(Sucumbios) - ヌエバ・ロハ
- サモラ・チンチペ県(Zamora-Chinchipe) - サモーラ
シエラ(アンデス地域)
- アスアイ県(Azuay) - クエンカ (エクアドル)
- ボリーバル県(Bolivar) - グアランダ
- カニャール県(Cañar) - アソゲス
- カルチ県(Carchi) - トゥルカン
- コトパクシ県(Cotopaxi) - ラタクンガ
- チンボラソ県(Chimborazo) - リオバンバ
- インバブーラ県(Imbabura) - イバラ
- ロハ県(Loja) - ロハ (エクアドル)
- ピチンチャ県(Pichincha) - キト(首都)
- サント・ドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県(Santo Domingo de los Tsáchilas) - サント・ドミンゴ・デ・ロス・コロラドス
- トゥングラワ県(Tungurahua) - アンバト
コスタ(太平洋岸地域)
- エル・オロ県(El Oro) - マチャラ
- エスメラルダス県(Esmeraldas) - エスメラルダス
- グアヤス県(Guayas) - グアヤキル
- ロス・リオス県(Los Rios) - ババオヨ
- マナビ県(Manabi) - ポルトビエホ
- サンタ・エレーナ県(Santa Elena) - サンタ・エレーナ
島嶼
- ガラパゴス県(Galapagos) - プエルト・バケリソ・モレノ
- LocMap of WH Galapagos Islands.png
本土とガラパゴス諸島
- Galapagos-satellite-esislandnames.jpg
主要都市
地理
エクアドルは赤道直下にあり、北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れた太平洋上にガラパゴス諸島を領有する。
本土は標高によって三地域に分かれる。中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ (La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ (La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ (El Oriente) と呼ぶ。
山
国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈、東部のオリエンタル山脈、及び両山脈の間に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山 (6,267m) である。幾つかの火山が現在も活動している。
気候
基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。
経済
2013年のエクアドルのGDPは約937億ドルであり[1]、広島県よりやや小さい経済規模である[5]。同年の一人当たりのGDPは5,943ドルである[1]。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、南米連合の加盟国でもあり、南米連合の事務局がキトに置かれている。2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからUSドルに切り替えた。
農業
エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていること、農地の所有制度に問題が残ることから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。
農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。大土地所有制度の弊害は大きい。人口のわずか1%を占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民、一種の農奴として働く農民が少なくない。
しかし、2007年には革新政権が誕生し、つづく2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、食料主権を確立するために大土地所有制を禁止した。それを受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする政令が発効した。それにより、政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始めた。 2009年12月20日、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2千ヘクタールの未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産し後は放置されていたものである[6]。
主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1%)、同7位のカカオ(14万トン、3.6%)、コーヒー(10万トン、1.3%)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は馬に集中している。
また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが水揚げ、ガラパゴス沖ではマグロなどが漁獲されている。
鉱業
鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3%を占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、火力発電を規制し、地形を生かした水力発電に投資している。2011年では、水力発電が発電量の 58%占めており、火力発電は34%でしかない[7]。2016年には水力発電の比率を93.5%にすることを目標としている[8]。
エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。
有機鉱物資源の品目では、石油(2046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、鉛(200トン)のほか、錫やビスマスも確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言い難い。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。
観光・移住
キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4000人いる[9]。
交通
首都キトにメトロ、バスと鉄道が通る。同国最大の都市であるグアヤキルにもバスがある。ドゥランに鉄道駅がある。
国民
エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67%を占めるメスティーソであり、2番目に多いのは22%を占めるインディヘナとなり、白人が12%を、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8%を占める。また、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、カナダ、日本には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3-5%ほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、フランス、ドイツ、レバノン(レバノン系エクアドル人)、イタリアなどが挙げられる。
人口
1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1168万人になった。
言語
公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語(キチュア語)、シュアール語が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている
宗教
カトリック教徒が国民の80%であるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつあり、社会問題になっている。他にはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。
教育
5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。
エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年のセンサスによれば、15歳以上の人口の識字率は91%(男性:92.3%、女性89.7%)である[10]。
主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(1826年)、グアヤキル大学(1867年)、クエンカ大学(1868年)などが挙げられる。
1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(主にケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。
文化
食文化
地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と中華料理やスペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ファストフードなどの世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国ではあるが、ペルー、ボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。
コスタでは主にコメ、バナナ、ユカイモ、魚、エビ、貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる[11]。日常的なものの一つにはセコ・デ・ポロと呼ばれる、鶏肉をコメとアボカドのスライスと共に煮込んだ料理がある。その他にもアロス・コン・ポジョやアロス・コン・マリネーロなど、周辺国と似た料理が食べられている。
シエラでは芋や、トウモロコシを主食とし、牛、豚などを飼い ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる天竺鼠の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは豚肉のフリターダや羊肉のセコ・デ・チーボ、スープのロクロなどの名が挙げられる。
オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。
乾燥したトウモロコシをゆで塩で炒め卵・牛乳・ねぎで炒めた「モテ・ピージョ」、トウモロコシを寒冷地で干し豚のラードで炒る「トースタッド」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「ウミータス」という料理がある。
文学
エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。
独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。
エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いたルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927)によってエクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。後に国際的に最もよく知られたエクアドルの小説となった[12]ホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。
キューバ革命後のラテンアメリカでは魔術的リアリズムが影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、『マルクスと裸の女の間に』(1976)でフリオ・コルタサルに勝るとまでの反響を得た[13]ホルヘ・エンリケ・アドウムや、ベラスコ・マッケンジー、アリシア・ヤネス・コシーオ、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤を描いたグスタボ・アルフレド・ハコメ、『塵と灰』(1979)でピカレスクを義賊として描いたエリエセル・カルデナスなどが有名である。
音楽
エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビア、バジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。
スポーツ
多くのラテンアメリカ諸国と同様に、エクアドルでもサッカーが大変盛んである。1957年にプロリーグが創設された。主なプロクラブとしては2008年のFIFAクラブワールドカップで準優勝に輝いたLDUキト、エル・ナシオナル、CSエメレク、コパ・リベルタドーレスで2度の準優勝経験があるバルセロナSCなどが挙げられる。
サッカー以外のスポーツとしてはテニスや、サッカーボールを使った三人制のオリジナルスポーツ、エクアボレーなどが盛んである。
世界遺産
エクアドル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。
- Galapagos.jpg
ガラパゴス諸島 - 1978年、自然遺産、世界遺産登録第一号。ウミイグアナなどのこの諸島固有種の生物が多々生息している。
- Complejo de lagunas de Ozogoche.jpg
サンガイ国立公園 - 1983年、自然遺産。
- Catedral de la Inmaculada Consepción en el Parque Calderon en Cuenca, Ecuador.jpg
サンタ・アナ・デ・ロス・リオス・クエンカの歴史地区 - 1999年、文化遺産。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
3月から4月 | 聖木曜日 | Jueves Santo | |
3月から4月 | 聖金曜日 | Viernes Santo | |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
5月24日 | ピチンチャ戦勝記念日 | 24 de mayo Batalla de Pichincha | |
7月24日 | シモン・ボリーバル生誕記念日 | Natalicio del Libertador Simón Bolívar | |
8月10日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
10月9日 | グアヤキル独立記念日 | Independencia de Guayaquil | |
10月12日 | スペイン人の日 | Dia de la Hispanidad (Conquista Española) | |
10月31日 | 国章の日 | Dia del Escudo Nacional | |
11月2日 | 死者の日 | Día de los Difuntos | |
11月3日 | クエンカ独立記念日 | Independencia de Cuenca | |
12月6日 | キト建設の日 | Fundación Española de Quito (Conquista) | |
12月25日 | クリスマス | Navidad | |
12月31日 | 大晦日 | Fin de Año |
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2015閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 荒巻健二 「SDRM IMFによる国家倒産制度提案とその評価」 開発金融研究所報 2003年3月 第15号 63-66頁
- ↑ 「エクアドル共和国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)379頁。
- ↑ 新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 pp.62-66
- ↑ 内閣府による県民経済計算 (PDF)
- ↑ 未利用地を農家に分配しんぶん 赤旗 2009年12月24日
- ↑ 円借款 案件概要書](日本外務省)
- ↑ エクアドル経済の現状と今後の展望 ~ 「ドル化」したエクアドル経済のゆくえ ~三菱UFJリサーチ&コンサルティング
- ↑ Ecuador Voted The Best Place In The World To Live In Retirement]Business Insider 2013年5月14日
- ↑ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ec.html 2009年8月22日閲覧
- ↑ 新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 p.191
- ↑ 新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 p.154
- ↑ 新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 p.155
参考文献
総合
歴史
- エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄 『ラテン・アメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史34〉、東京、1985年1月。ISBN 4-634-42280-8。
- 増田義郎編 『ラテンアメリカ史II』 山川出版社〈新版世界各国史26〉、東京、2000年7月。ISBN 4-634-41560-7。
地理
- 下中彌三郎編 『ラテンアメリカ』 平凡社〈世界文化地理体系24〉、東京、1954年。
- P.E.ジェームズ/山本正三、菅野峰明訳 『ラテンアメリカII』 二宮書店、1979年。
- 野沢敬編 『ラテンアメリカ』 朝日新聞社〈朝日百科世界の地理12〉、東京、1986年。ISBN 4-02-380006-6。
- 福井英一郎編 『ラテンアメリカII』 朝倉書店〈世界地理15〉、東京、1978年。
関連項目
外部リンク
- 政府
- エクアドル共和国大統領 (スペイン語)
- 在日エクアドル大使館 (日本語)
- 日本政府
- 観光
- エクアドル観光省 (スペイン語)(英語)
- その他
- “Ecuador”. The World Factbook. Central Intelligence Agency. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 (英語)
- エクアドル - DMOZ (英語)
- エクアドルのウィキメディア地図 (英語)