小栗忠順
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小栗忠順 | |
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時代 | 江戸時代末期 |
生誕 | 文政10年6月23日(1827年7月16日)[1] |
死没 | 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日) |
幕府 | 江戸幕府西の丸書院番→使番→目付→外国奉行→寄合席→小姓組番頭→勘定奉行→南町奉行→歩兵奉行→講武所御用取扱→寄合席→陸軍奉行並→勤仕並寄合→軍艦奉行→寄合→海軍奉行並→陸軍奉行並→勤仕並寄合 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜 |
氏族 | 三河小栗氏 |
小栗 忠順(おぐり ただまさ)
江戸時代末期の幕臣。新潟奉行小栗忠高の子。豊後守,上野介と称する。万延1 (1860) 年,日米修好通商条約 (安政五ヵ国条約 ) 批准のため,新見正興らの遣米使節に監察として随行。帰国後,外国奉行となる。文久1 (1861) 年,ロシア軍艦による対馬占領に際しては,交渉の任にあたって成功せず辞職したが,翌文久2 (1862) 年勘定奉行に登用され,以来,町奉行,軍艦奉行を経て慶応1 (1865) 年5月,難局に際し再度勘定奉行となる。倒幕諸藩と対決する最も強硬な幕府主戦派の一人として,幕閣で主流を占め,フランスとの間に借款契約を結び,フランス式軍制の導入を試み,横浜造船所を創設するなど,意欲的に幕府権力の確立に貢献した。また,封建制を廃止して郡県制の樹立を企画し,薩長両藩をフランスの援助のもとに征討しようとはかったが,幕府内の反対派に制止されて成功しなかった。大政奉還に反対して,慶応4
(1868) 年1月免官となり,以後,上野国権田村に帰郷して農兵の育成に努めた。東山道鎮撫総督に対しては帰順の意を表明したが,不穏のたくらみをするものとして討伐を受け,捕縛,斬首された。
- ↑ 村上 265頁