ナポレオン3世
ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。
以降2018年現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。
概要
1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトとその妃オルタンスの三男としてパリに生まれる。兄にナポレオン・ルイ・ボナパルトがいる。一説に母が愛人の男性との間に儲けた子ともいわれる(→生誕と出自をめぐる疑惑)。
1815年のナポレオン失脚でブルボン家の復古王政によって家族とともに国を追われ、長きにわたる亡命生活を余儀なくされた(→ナポレオンの失脚)。母に引き取られ、スイスやバイエルンで育った(→アレネンベルク・アウクスブルクで育つ)。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国は認められなかった(→7月革命をめぐって)。
1830年にローマへ移住し、イタリア統一運動に参加したが、教皇やオーストリアに対する抵抗運動ボローニャ一揆の失敗によりスイスへ逃げ戻った(→イタリア統一運動への参加)。その後文芸活動に精を出し、「空想的社会主義」のサン=シモン主義に接近した(→文芸活動)。
またボナパルト家の帝政復古を目指して武装蜂起を策動し、1836年にはストラスブールからフランス軍に蜂起を呼びかけるストラスブール一揆を起こしたが、失敗して逮捕される(→ストラスブール一揆)。この時はアメリカへ国外追放だけで済んだが、フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として1840年にブローニュで再び一揆を起こした。やはり失敗して逮捕され、今度は終身刑に処せられた(→ブローニュ一揆)。5年半に及ぶアム要塞での獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした(→アム要塞服役時代)。1846年の父の危篤に際してアム要塞を脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた(→脱走)。
1848年2月の革命で7月王政が崩壊するとフランスへの帰国を果たし、憲法制定議会議員補欠選挙で当選した(→1848年革命をめぐって、→憲法制定議会の代議士)。12月の大統領選挙にも出馬し、「ナポレオン」の名の高い知名度、豊富な資金力、両王党派(正統王朝派とオルレアン派)の消極的な支持などで74%の得票率を得ての当選を果たす(→大統領に当選)。
しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、共和派が牛耳る国民議会によって帝政復古は掣肘を受けた。そのため当初は両王党派やカトリックから成る右翼政党秩序党との連携を目指した(→秩序党との連携期)。その一環でローマ共和国によってローマを追われていた教皇の帰還を支援すべくローマ侵攻を行った。これに反発した左翼勢力が蜂起するも鎮圧され、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。代わって秩序党が国民議会の支配的勢力となり、男子普通選挙の骨抜きなど保守的な立法が次々と行われ、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢も強めてきた(→ローマ侵攻とその影響、→秩序党の支配)。
国民議会から政治主導権を奪う必要があると判断し、クーデタを計画。軍や警察の取り込みなど準備を慎重に進め、1851年12月にクーデタを決行した。秩序党幹部らを逮捕したのを皮切りに共和主義者にも逮捕の網を広げ、国内反対勢力を一掃した(→クーデターの準備、→「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」)。翌1852年1月には大統領に全権を認めた1852年憲法を制定して独裁体制を樹立する(→1852年憲法と独裁体制の樹立)。さらに同年12月には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった(→皇帝に即位)。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義・議会主義的な統治へと徐々に転換していった(→権威帝政と自由帝政)。
内政面ではサン=シモン主義を背景にした経済政策を行った(→経済政策)。金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努めた(→金融改革)。また各国と通商条約を結んで自由貿易の推進にも努めた(→自由貿易)。国土整備も推し進め、ジョルジュ・オスマンにパリ改造計画を実施させて道路増設や都市衛生化を推進した(→パリ改造計画)。また金融資本家の鉄道融資を煽ることで鉄道網整備にも尽くした(→鉄道建設)。しかしサン=シモン主義の自由放任主義から社会政策には不熱心だった(→社会保障の不十分)。
外交は、彼の伯父を否定するウィーン体制の改定、ヨーロッパ各国の自由主義ナショナリズム運動の擁護、アフリカ・アジアに植民地を拡大することを基本方針とした(→外交)。クリミア戦争ではイギリスと同盟してロシアに対して勝利したことでフランスの国際的地位を高めた(→クリミア戦争)。イタリア統一戦争ではサルデーニャとともにオーストリアと戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけることでイタリアへの影響力を維持しようとした(→イタリア統一戦争)。非ヨーロッパ諸国に対しては帝国主義政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下にフランス植民地帝国は領土を3倍に拡張させた。サン=シモン主義の影響からとりわけアジア太平洋地域への進出に力を入れ、アジア諸国に不平等条約を結ばせたり、拒否した時には戦争を仕掛けたり、コーチシナを併合したり、カンボジア保護国化するなど強硬政策をとった(→アジア太平洋地域植民地化)。サハラ砂漠以南の「黒アフリカ」にも植民地を拡大していき、強圧的な植民地統治を行った(→サハラ以南アフリカの統治)。一方アルジェリアでは「アラブ王国」政策と呼ばれる先住民に一定の配慮をした植民地統治をおこなった(→アルジェリア統治)。
ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、メキシコ出兵の失敗で国内的な地位を弱めた(→メキシコ出兵)。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセンと対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で普仏戦争へ突入する羽目になった(→スペイン王位継承問題)。自ら前線に赴き、指揮をとったが、フランスは連敗を重ね、セダンの戦いにおいては彼自身がプロイセン軍の捕虜になった(→普仏戦争と破滅)。これにより求心力を決定的に落とし、パリではクーデターが発生して第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した(→第二帝政崩壊)。
普仏戦争が終結してプロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデターを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した(→イギリスでの晩年、→死去)。
皇后はスペイン貴族の娘ウジェニー。彼女の政治面での影響力は大きかった。彼女との間に唯一の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けた(→ウジェニーを皇后に迎える)。
まぶたの垂れ下がり、低身長、胴長短足など容姿には恵まれていなかったが、座高が高めだったので馬上の姿が映えたといい、「馬上のサン=シモン」とあだ名された(→容姿)。身分の上下問わず数多くの女性と性交したので漁色家として知られた(→漁色家)。話下手で無口だったといわれ、「スフィンクス」と呼ばれた(→無口)。君主としての正統性の欠落を気にしていたという(→正統性の欠落)。
カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』や『フランスにおける内乱』などの中で第二帝政を「ルンペン・プロレタリア体制」「超国境的な金融詐欺師の祭典」として批判した。ヴィクトル・ユーゴーも〚小ナポレオン〛においてナポレオンと比ぶべくもない小物の独裁者として批判した(→マルクスとユーゴーの批判)。ビスマルクもナポレオン3世の知性を低く見ていた(→ビスマルクによる評価)。キッシンジャーはウィーン体制こそがフランスにとって対ドイツの最良の安全保障であるのにそれの破壊を目指したこと、国民世論を気にしすぎて近視眼的になったことが彼の外交が破綻した原因と分析した(→キッシンジャーの評価)。一方、パリ改造計画や経済政策など内政面には再評価論もある。また外交面でもフランスの植民地を拡大したこと、イギリスと協調して一時的とはいえフランスの国際的地位を上げたことなどに評価する声もある(→再評価論)。
脚注
参考文献
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