パリ改造

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パリ改造(パリかいぞう)は、第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが取り組んだフランス最大の都市整備事業である。

ジョルジュ・オスマンの名をとり、「travaux haussmanniens」とも呼ばれる。

背景

19世紀半ば頃までのヨーロッパの都市では、通りに張り出した屋根からの排水が道の中央の排水溝に流れ落ちるようになっていた。大都市では敷石で舗装がなされていたが、パリでも豚が放し飼いにされている状態だった。住民は日々出る生ごみや汚物を通りに投げ捨てるため、道の窪みや溝にはそれらがたまり、河川には動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み、水が汚染された。市民はそれらの川の水を飲料水などに使用したため、生活環境・都市衛生は極めて劣悪だった。

概要

オスマンは1853年から1870年まで17年にわたってセーヌ県知事を務め、ナポレオン3世の構想に沿って大規模な都市改造を企てた。改造では、非衛生的なパリに光と風を入れることを主目的として幅員の広い大通りが設置されるとともに、道路網の整備が行われた。また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い、開放的で衛生的な街を整備した。それを実現するためにスクラップアンドビルドという手法が取り入れ、計画地にある建物を強制的に取り壊した。都市整備により経済を活性化するとともに、当時、しばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するものでもあった。これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものであった。パリ改造は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与え、近代都市のモデルとして見なされた。

詳細

エトワール凱旋門から放射状に並木が配されたアヴェニューと呼ばれる広い12本のブールヴァール(大通り)を作り、中世以来の複雑な路地を整理した。オスマンの計画によって破壊されたパリの路地裏面積は実に7分の3に上ったという。このようにして交通網を整えたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、二月革命で反政府勢力を助けた複雑な路地がオスマンの都市改造によって大方なくなったため、反乱が起こりにくくなった。現在では観光名所として名高いノートルダム大聖堂などがあるセーヌ川の中州に位置するシテ島は、19世紀当時においては貧民層が集まっていたが、ここもオスマンによって改善され、パリの清潔な空間の一部となった。

また、上下水道を施設し、学校や病院などの公共施設などの拡充を図った。上下水道の施設や、学校における教育により、衛生面での大幅な改善がみられ、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑えることになった。

パリ改造を通して市街地がシンメトリーで統一的な都市景観になるよう、様々な手法を取った。例えば、(道路幅員に応じて)街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定した。さらに当時名を馳せた建築家を登用してルーヴル宮オペラ座(1874年竣工)などの文化施設の建設も進めた。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、パリ万国博覧会で訪れた日本人もその風景をたたえている。

超過収用

街路の整備にあたって超過収用の手法が取られた。当時の法令によれば、道路建設で土地収用(公共事業に必要な土地を、補償を行ったうえで強制的に公有化すること)が認められるのは、道路に必要な部分のみであるが、パリ改造では道路に加え、(条件付きではあるが)その沿道の土地も収用できる規定を適用した。そして街路や区画を整備した後、資産価値の上がった沿道の土地を売却し、事業資金に充てた。これは開発利益を還元する手法である。

評価

こうした一連の改造はHaussmannisation(オスマニザシオン=オスマン化)」とも称された。整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされた。首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高めることにつながり、当時の政権の寿命を延ばしたといえる。

パリ改造は混乱した社会状況を受け、それに対して極めて合理的にその解決を行ったと考えれば、まさに近代的都市計画の出発点と呼ぶに相応しいものだと評価できる。一方、スイスの建築史家ジークフリート・ギーディオンはその著書『空間・時間・建築』のなかで、改造後のパリの街を「まるで衣装棚のように、画一的な大通りの裏側にあまりにもひどい乱雑さが隠されている」と批判している。

この大規模な都市改造は反面、都市としての防御力をなくしてしまうことになり、普仏戦争ではパリを防衛することが出来なくなり敗戦する原因となった。スラムを一掃したことは下町の自治共同体を解体することにもなり、パリ市民は現代東京のように隣の住民の顔も知らないような住民ばかりになり、多くのコミュニティが破壊された。さらに、オノレ・ド・バルザックアレクサンドル・デュマ・ペールヴィクトル・ユーゴーらの文学者が作品において描写した当時のパリの街並みが失われたことから、これらの作品の内容を理解することが難しくなった[1]

脚注

  1. 鹿島茂「失われたパリの復元」第1回、芸術新潮2012年1月号

参考文献

  • 安藤忠雄 著 『建築に夢を見た』 日本放送出版協会、 2002年4月、 ISBN 4-14-084149-4
  • S.ギーディオン 著、太田實 訳 『空間・時間・建築1 新版』 ISBN 4-621-04829-5
  • 柴田三千雄 著 『フランス史10講』 岩波書店、2006年5月、ISBN 4-00-431016-4

関連項目

外部リンク