セントヘレナ
座標: 西経5度42分51秒南緯15.929702度 西経5.714211度
テンプレート:Infobox British territory
セントヘレナ (Saint Helena) は、南大西洋に浮かぶイギリス領の火山島。アフリカ大陸から 2,800 km 離れた孤島で、人口は約4,000人。ナポレオン1世幽閉の地として知られる[1]。
行政上はイギリスの海外領土セントヘレナ・アセンションおよびトリスタンダクーニャに属する一区域で、その中心地である。島の中心集落であるジェームズタウンは、この海外領土の首府である。
Contents
地理
アフリカ大陸西岸より 2,800 km 離れている。スエズ運河完成まではインド洋に向かう航路上の要衝であり、給水地として用いられた。
700万年前の火山活動により大西洋中央海嶺上に出来た火山島で最高峰がダイアナ山 (818m) である。島の周囲は断崖が多い。
熱帯海洋性気候だがベンゲラ海流や貿易風の影響で穏やかである。1 - 4月が平均21 - 28℃、5 - 12月が17 - 24℃。降水量は750 - 1000mmである。
絶海の孤島であるため流刑地として使用され、ナポレオン1世幽閉の地として著名である。このことは現在、島の観光経済に大きく寄与している。またボーア戦争後にもボーア側首脳の流刑地として使用された。
歴史
発見と争奪
セントヘレナ島は1502年5月21日、ポルトガルの航海家ジョアン・ダ・ノーヴァによって発見された。島名はコンスタンティヌス1世の母でキリスト教の聖女である聖ヘレナにちなむ。
この無人島では航海に必要な豊富な材木と新鮮な水が入手できたことから、ポルトガル人は島に生活物資や果物・野菜を持ち込み、礼拝堂と一・二軒の家屋を建設した。彼らは定住はしなかったものの、島はヨーロッパとアジアを往復する船舶の補給基地や待ち合わせ場所として用いられた。
歴史に残る最初の定住者はポルトガル人フェルナンド・ロペスである。1584年5月27日には、日本からヨーロッパへ向かう途中の天正遣欧少年使節が寄港している。
セントヘレナに来航した最初のイングランド人はトーマス・キャベンディッシュである。
オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1633年にこの島の領有権を主張するが、彼らが島を占拠したり要塞化をしたりした証拠は残っていない。1651年、オランダがアフリカ南端の喜望峰周辺に植民を開始する頃までには、島はほとんど打ち棄てられた状態であった。
イギリス東インド会社領
1657年、オリヴァー・クロムウェルはイギリス東インド会社にこの島の行政権を認めた。東インド会社はこの島の要塞化と植民を決定し、1659年に初代総督ジョン・ダットン (Captain John Dutton) が着任した。これをもって、セントヘレナはイギリスで二番目に古い(バーミューダに次ぐ)植民地となったとされる。1660年の王政復古後、東インド会社は王の特許状を手に入れ、島の要塞化と植民地化が認められた。東インド会社によって1658年建設された砦が現在の主都ジェームズタウンであり、この名は当時の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)にちなんで名づけられたものである。当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷であった。
なお、1676年からエドモンド・ハレーが天文台を設置し、天体観測の拠点としていた。
1810年以降は、東インド会社による広東貿易の寄港地として使用されるようになる。
ナポレオンとセントヘレナ
ナポレオン・ボナパルトがエルバ島脱出ののちワーテルローの戦いで敗れると(百日天下)[2]、ウィーン会議により身柄の扱いはイギリスに一任された。イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否し、保護を名目としてこの絶海の孤島に閉じ込めることにした。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死去するまで島中央のロングウッド・ハウスに暮らした。しばしば「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づかない不法拘留であった。
イギリスは、ハドソン・ロー総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。ハドソン・ローの干渉に、ナポレオンは不満を漏らすこともあったが、ロングウッドの屋敷に、アンリ・ガティアン・ベルトラン将軍とその家族、さらに32人の中国人を含むスタッフなどと多数で、豊富な食料品を移入して暮らしていたことが、近年(2015年)に明らかになっている[3]。
ナポレオン幽閉の時代もこの島は東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。ナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島[4]にもイギリス軍が派遣された。
1817年の国勢調査によれば、島には821人の白人住民、820人の兵士、618人の中国人労働者、500人の黒人自由民、1540人の奴隷がいたことが記録されている。ナポレオンの死後、数千人の「滞在者」たちは島を去り、東インド会社が島の統治を続けた。ナポレオンが幽閉中に島のコーヒーを称賛したことから、パリではセントヘレナ産コーヒーの評判が高まった。
王領植民地
1833年に発布された「インド法」により、1834年4月22日に王領直轄地となった。1853年1月米国ペリー提督のミシシッピ号が日本への来航途中に石炭補給のため寄港した。1870年代半ばまで、大西洋とインド洋を結ぶ航海の要地として繁栄したが、スエズ運河開通(1869年)以降は交通量が激減した。しかしなお多くの船がセントヘレナに寄港を余儀なくされた。第2次ボーア戦争の間(1899年-1902年)には、数千人のボーア側捕虜の収容所となった。
21世紀のセントヘレナ
セントヘレナと外部を結ぶ交通は、南アフリカ共和国のケープタウンとの間を結ぶ船便(イギリス郵便事業会社ロイヤルメールの定期便、セントヘレナ号)が、3週間に1度の頻度で5日間かけて往来していた。このため観光客の満足な受け入れはおろか、生活物資の確保にも困難をきたす状態が続いていた[5]。
かねてより旅客機の発着が可能な空港の建設構想があったが、紆余曲折を経て2017年に完成し、同年10月15日、ヨハネスブルグからの初の旅客定期便が就航した[6]。これにより船便は2018年2月に退役している。
経済
住民
住民はセントヘレナ人(イギリスの白人と黒人などの混血)が85%を占める。
宗教は英国国教会がほとんどである。
交通
海運
セントヘレナ号(RMS St Helena)によって運行されている[7]。
航空
鉄道
1829年にセントヘレナ鉄道会社によってラダー・ヒルの斜面に索道が造られたが、1871年より階段に替わっている[10]。
文化
放送
- ラジオ・セントヘレナ(年1回の短波で放送するセントヘレナデーが有名)
脚注
- ↑ “デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. . 2018閲覧.
- ↑ 中野京子 『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』 光文社、2014年。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ↑ ナポレオン、流刑地でも豪華な食生活 セントヘレナ島 AFP(2015年9月24日)2017年10月17日閲覧
- ↑ 「隣」と言っても、アセンション島とは約1,300km、トリスタンダクーニャ島とは約2,430km離れている。
- ↑ 買い物は至難の業、供給不足のセントヘレナ島 AFP(2015年4月24日)2017年10月17日閲覧
- ↑ ナポレオンの流刑地、絶海の孤島セントヘレナ島に初の民間定期航空便 AFP(2015年10月15日)2017年10月17日閲覧
- ↑ RMS セントヘレナ号公式サイト(英語)
- ↑ ナポレオンの流刑地、絶海の孤島セントヘレナ島に初の民間定期航空便(AFPBB)2017/10/16確認
- ↑ なおセントヘレナ島の年間平均給与所得は7280ポンドだが、この飛行機の運賃は往復で800ポンドで、南アフリカ本土からロンドンへの便よりも高い料金という。参考「ナポレオンの流刑地、絶海の孤島セントヘレナ島に初の民間定期航空便(AFPBB)2017/10/16確認」
- ↑ Views of St Helena
参考文献
- アントニー・ワイルド 『コーヒーの真実』 三角和代訳、白揚社、2009年。ISBN 978-4-8269-9041-7。
外部リンク
- 政府
- セントヘレナの公式サイト (英語)
- 旅行
- セントヘレナ観光局 (英語)
- その他