江藤新平
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江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)
明治新政府の参議,司法卿。肥前佐賀藩下級武士の家に生れ,領内の国学者枝吉神陽に学ぶ。ペリー来航の際『図海策』を建白して攘夷の不可を説く。藩の目付,代官を経て貿易方をつとめたが,尊王攘夷運動に投じ,文久2 (1862) 年脱藩して上京,攘夷派公家と提携したため,帰藩後永蟄居 (えいちっきょ) に処せられた。王政復古に伴い再び藩に登用され大総督府監軍となって江戸におもむき,鎮将府,江戸府の各判事として江戸の人心収拾と復興に尽力。明治2 (69) 年佐賀藩権大参事となり,9月上京して太政官中弁となる。法律制度に卓越した見識をもち,制度改革の建白を再三行なった。同4年7月文部大輔,8月左院副議長,同5年4月司法卿となり,参議に上った。民法典の編纂などみるべき業績が多かったが,岩倉遣外使節外遊中の留守政府で,西郷隆盛,板垣退助らとともに征韓派の一人となった。征韓論が敗れると,1873年 10月 24日西郷,板垣とともに辞職し,翌 74年1月,民撰議院設立建白に加わった。しかし,帰郷した江藤は郷里の反政府勢力に推されて同年2月 13日挙兵し,佐賀の乱を起した。敗戦後,鹿児島に行き西郷に救援を求めたがいれられず,土佐に向って林有造らを頼ったが成功しないまま,高知の甲 (かん) の浦で官軍に逮捕され,佐賀に護送,投獄された。4月 13日,内務卿大久保利通臨席のもとに,臨時裁判所で斬罪梟首 (きょうしゅ) となった。