フランス領インドシナ
フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語: l'Indochine française、ベトナム語: Đông Dương thuộc Pháp / 東洋屬法, 中国語: 法属印度支那)は、1887年から1954年まで、大日本帝国により占領された一時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島(インドシナ)東部地域である。現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。仏印(ふついん)とも略する。
Contents
概要
フランス領インドシナは以下の領域から成っていた。なお、南海諸島(スプラトリー諸島、パラセル諸島)も範囲に含むとフランスは主張していた。
直轄植民地
保護国
保護領
租借地
成立までの歴史
総督府の設置
1887年10月17日、インドシナ総督府が設置され[1]、海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地を統括した。1899年4月15日にはフランス大統領令でラオスを編入し、インドシナ連邦が成立した[1]。以下に各地域の成立史を記述する。
コーチシナ植民地
フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に1858年に遠征軍を派遣したのに始まる[2]。遠征軍はまずベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じた[2]。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を攻略した[3]。1862年6月5日、フランス政府と阮朝はサイゴン条約を締結。阮朝はコーチシナ東部3省(ビエンホア、ジャーディン(サイゴン周辺)、ディントゥアン(現在のミトー)、プロコンドール島を割譲し、またダナンの開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権など認め、これがコーチシナ植民地の始まりとなった[3]。フランスは海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。
カンボジアは1863年の条約でフランスの保護国となったが、それによりコーチシナ西部の3省(チャウドック、ハティエン、ヴィンロン)はカンボジア保護国とコーチシナ東部植民地に挟まれる状態となっていた。1867年6月にフランスは東部3省の警備上の不安を解消するために西部3省を攻略し、6月25日にこれを植民地として一方的に宣言した[4]。このコーチシナ6省およびコプロコンドール島がコーチシナ植民地である。
フランス保護領カンボジア
カンボジアは、ベトナムとタイに侵略されつつあった(第一次泰越戦争、第二次泰越戦争)。1863年8月11日にフランスはタイからの保護を名目にノロドム国王に保護国条約を結ばさせ、1865年4月1日にはカンボジアの保護権をタイに認めさせた[5]。その後1867年のフランス・タイ条約、1884年の新条約にてノロドム王は実権を完全に失い、フランスの保護国となった[5]。
ベトナムの保護国化
1882年にフランス軍がトンキン地方を占領し(トンキン戦争)、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナム(フランス保護領トンキン、フランス保護領アンナン)を保護国化すると、ベトナムの宗主国である清国の介入を招き、清仏戦争(1884年 - 1885年)が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。この年が暮れる頃から、インドシナ銀行がその既得権をめぐりソシエテ・ジェネラルと政治を争った。
1886年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。南部のコーチシナはフランスの直轄地であり、フエの阮朝宮廷が中部のアンナンの行政を支配し、阮朝から任命されたハノイ総督が北部のトンキンの行政を支配する形であったが、いずれも形式に過ぎず、実際にはトンキン・アンナンに配置されたフランス人理事官が実質的にコントロールしていた。名目的な保護国の形を残した巧妙な支配といえる。
ラオス
1872年頃よりラオスは複数のチン・ホー族(赤旗軍、黄旗軍、Stripe Flags、黒旗軍)による来襲を受けていたが(ホー戦争)、宗主国のタイは自国を守るのに精一杯で、国王ウン・カムがフランスのオーガスト・パヴィに守られるという事件が起こった。1888年にフランスがタイ保護領シップソーンチュタイ(ディエンビエン省、ライチャウ省、ソンラ省)を保護国化した。
併合を不服としたタイは、1893年に仏泰戦争を起こしたが、フランス保護領ラオス(旧ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国)の併合が確定した。この結果、シャン州に進出していたイギリス領インドと領土を接することになり、雲南問題が発生したが、1896年にシャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表して戦争を回避した。
1899年、シエンクワーン王国(シエンクワーン県、ゲアン省)が、フランス保護領ラオスのルアンパバーン王国とフランス保護領トンキンに分割併合された(地図には描かれていない)。
植民地の経営
インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成させたのは、1897年から1902年にかけてインドシナ総督に就任した大物政治家ポール・ドゥメールである。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって同化政策を推進した。その後、ポール・ボー総督やアルベール・サロー総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす協同政策に転換した。
インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱(現ハロン市)を中心とする鉱山業に集中した。メコンデルタや紅河デルタでは欧州人大地主による米作プランテーションも広く行われ、ハイフォンから輸出される石炭や米が植民地経済を潤した。一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。
インフラ建設としては昆明とハノイを結ぶ滇越鉄路(雲南-ベトナム鉄道、1910年)やハノイとサイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道(1899年着工、1936年完成。海運と競合したためさほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進された。
独立運動
ベトナム
初期の独立運動としては、即位の翌年に抗仏勤皇大蜂起の檄を発し王都を脱出し、各地で抵抗を続けた阮朝8代皇帝の咸宜帝と、それを支えた大臣の尊室説、咸宜帝に呼応し、北中部のゲアン・ハティン・タインホア・クアンビンでゲリラ活動を展開し、勤皇独立運動の先駆けとなったファン・ディン・フンとカオ・タン、北部バクザン省に根拠地を築き、大都市ハノイを幾度も脅かした安世起義の指導者ホアン・ホア・タムなどが存在する。
1904年には、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デ侯が中心となり、ベトナム維新会を結成した。ファン・ボイ・チャウは翌年に反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)したが、フランスとの衝突を恐れる明治政府の意向により、日本がベトナムに強く加担することはなかった。チャウは1909年に日本から追放されると、1912年に広東でベトナム光復会を結成した。同時期の活動家としては、暴力革命と他国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義思想への訴えによる国土解放を主張したファン・チュー・チンがいる。
1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。
1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。
1930年、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエトの蜂起。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
日本の北部仏印進駐
1940年6月ナチス・ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落してヴィシー政権が成立した。ヴィシー政権がドイツと休戦すると、日本政府は同年7月雲南鉄道による中華民国国軍への援助補給封鎖をジョルジュ・カトルー総督に要求して、西原少将を長とする軍事監視団をハノイに派遣した。
日本はヴィシー政府に日本軍の駐屯を認めさせ、同年8月には25,000の日本軍が「北部仏印」(トンキン)に進駐させた。大部分のフランス軍部隊は日本軍の進駐を平和裏に受け入れたが、中華民国との国境のランソンに駐屯していたフランス部隊は日本軍と交戦しつつ、中華民国国軍支配下の雲南省に退却した。
タイとの国境紛争
タイ王国はフランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を以前からフランスに求めていたが、日本軍がラオス・カンボジアに進駐すれば、これらの要求を実現することが不可能になると見て、1940年11月23日からラオス・カンボジアに対する攻撃を加え始めた(タイ・フランス領インドシナ紛争)。
1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス軽巡洋艦「ラモット・ピケ」が交戦し、タイ側の旗艦トンブリ級海防戦艦「トンブリ」が撃沈される事件が発生した。これを見た日本は東京で泰仏(タイ・フランス)両国の間に立って居中調停を行い東京条約が締結され、フランスはラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州をタイに割譲することとなった。
後にタイは日泰攻守同盟条約を結んで日本の同盟国となる。
日本の南部仏印進駐
さらに1941年7月、日本は東南アジア侵攻時の基地とするために「南部仏印進駐」を求めた。これに対してフランスのヴィシー政権は、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認めるのを条件に承認した。こうしてドクー総督のインドシナ植民地政府は太平洋戦争の大部分の期間、日本軍と共存することとなった。アメリカおよびイギリスはこの南仏印進駐を行わないよう求めており、日本の進駐は太平洋戦争への回帰不能点をもたらすこととなった。
戦争中、インドシナ植民地政府は日本に駐留費やホンゲイ炭やゴム、米などを供給した。一方でインドシナ政府は、植民地支配継続のための軍事力を得ることになった。この体制は現地住民にさらなる負担を強いることになり、現代のベトナムでは「一つの首に二つの首枷」と評されている。
仏印処理とインドシナ独立
しかし、1944年にパリが解放され、ヴィシー政権が崩壊すると、ド・ゴール派からの働きかけも活発化し、インドシナ植民地政府の立場は微妙なものとなった。このため、日本軍は1945年3月9日『明号作戦』を発動してフランス植民地政府を武力によって解体し(仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝にベトナム帝国を独立させた。
また、3月12日にはカンボジアのシアヌーク国王にもカンボジア王国の独立を、4月8日にはルアンパバーン国王のシーサワーンウォン王にもラオス王国の独立を、それぞれ宣言させた。
日本の降伏
1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾したため、ベトナムでは中国国民党軍が北ベトナムに、英印軍第20歩兵師団が南ベトナムに進駐して、日本軍の降伏を受け入れた。なお、広州湾租借地(現・広東省湛江)は1945年8月、仏印からの中華民国軍撤収の見返りとして中華民国へ正式に返還されている。
ベトナム八月革命によってハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、バオ・ダイ帝の退位を説得し、9月2日にはポツダム宣言調印と同時に大統領としてベトナム民主共和国の独立を宣言した。
ラオスでは一旦独立が撤回されたが、8月18日にラーオ・イサラが結成され、臨時政府を樹立し、10月に独立を宣言した。
独立戦争
しかし、フランスは、これらインドシナ諸国の独立を認めていなかった。1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきたフランス軍は、コーチシナ植民地をコーチシナ共和国として他地域から分離した上で、アンナン、トンキンにいるベトミンの制圧戦争(第一次インドシナ戦争)を開始した。当初ハノイなど都市部を占拠していたベトミン軍は農村部に後退してゲリラ戦を余儀なくされた。
しかし、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ソビエト連邦と中華人民共和国はベトミン軍に対する軍事援助を活発化させ、強化されたベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を敗北させた。このため、フランスはジュネーヴ協定によってインドシナ3国の独立を承認し、フランスのインドシナ連邦は正式に解体した。
影響
ラオス
1949年、フランス保護領ラオスは、ラオス王国(1949年 - 1975年)として独立した。1953年にラオス内戦(1953年 - 1975年)が勃発した。
カンボジア
1954年、フランス保護領カンボジアは、カンボジア王国 (1954年-1970年)として独立したが、カンボジア内戦(1967年 - 1975年)が勃発し、1970年にロン・ノル政権のクメール共和国(1970年 - 1975年)が樹立された。ポル・ポト政権の民主カンプチア(1975年 - 1979年)が誕生したがカンボジア・ベトナム戦争で崩壊。1979年、ベトナムの支援するヘン・サムリン政権のカンプチア人民共和国(1979年 - 1993年)と三派連合の民主カンプチア連合政府(en、1982年 - 1993年)に分裂。国際連合カンボジア暫定統治機構(1992年 - 1993年)を経て、カンボジア王国となったが、キュー・サムファン政権のen:Provisional Government of National Union and National Salvation of Cambodia(1994年 - 1998年)がパイリンに割拠した。
ベトナム
トンキン、アンナン、コーチシナを統合するベトナム民主共和国が1945年に独立宣言をする一方、それに取って代る勢力としてフランスが後押しするベトナム国が1949年に成立した。ジュネーヴ協定の結果、両者は北緯17度線付近に引かれた軍事境界線を境として暫定的に北(民主共和国)と南(ベトナム国)に分かれ、1956年までに総選挙を経て将来の体制を決定することになった。
だが、冷戦の激化に伴い、フランスの肩代わりでアメリカが東南アジアでの反共活動を継続、ベトナム国のジュネーヴ協定への参加を見送らせ、1955年にゴ・ディン・ジエムを大統領に擁立してベトナム共和国(南ベトナム)を成立させた。これを受け南ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線によるベトナム戦争(1960年 - 1975年)が勃発、サイゴン陥落で反共政権が崩壊するまで激しい内戦が続いた。
1975年、ベトナム民主共和国の指導下にある南ベトナム共和国臨時政府が南ベトナムを掌握、1976年にベトナム民主共和国へ吸収されることでベトナムの独立闘争は終焉した。しかし、その過程で共産主義国家から脱出するベトナム人が大量発生し、1981年にはボートピープル問題(ベトナムからのボートピープル)が国際問題化した。
出典
参考文献
- 小倉貞男 『物語ヴェトナムの歴史 : 一億人国家のダイナミズム』 中公新書、1997年。ISBN 4-12-101372-7。
関連項目
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