松下村塾

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松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

変遷

1842年天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門した。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった。松下村塾は武士町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館は士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽中間なども入学できなかったのと対照的であった。1857年安政4年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ。名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。

29歳で刑死した松陰はじめ、本塾の塾生の多くが幕末の動乱期に若くして死んだ。また維新後にも多くの門下生が萩の乱に参加して刑死し、創設者の玉木文之進も責任を取る形で切腹死している。著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。幕末を生き延びた伊藤博文山縣有朋品川弥二郎山田顕義野村靖松本鼎岡部富太郎正木退蔵らは明治新政府で活躍した。その他の出身者には、前原一誠飯田俊徳渡辺蒿蔵天野清三郎)、松浦松洞増野徳民有吉熊次郎時山直八駒井政五郎中村精男玉木彦助飯田正伯杉山松助久保清太郎生田良佐境二郎宍戸璣(山県半蔵)らがいる。桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている。井上馨はよく松下村塾の塾生と間違えられることが多いが、高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことは無い。また乃木希典は玉木家の親戚にあたり、塾生ではないが一時玉木家に住み込んで文乃進から指導を受けた。講師には松陰のほかに富永有隣がいる。

1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。

萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民治が塾を再開した。1892年明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾した。

建物

萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存する。建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものである。

1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存することとした。1922年大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されている[1]。管理団体は松陰神社である。

2009年平成21年)1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。

模築

下記のところに松下村塾の模築がある。

松下村塾に関する文献

  • 桐村晋次「吉田松陰 松下村塾 人の育て方 -リーダーは教えない。”自力”で成長していく人材を育てた史上最強の教育機関・松下村塾のリーダーは何をしていた?-」あさ出版 (2014/12/9)

脚注

  1. 「塾ハ爾来僅カニ修理ヲ加へタルモ完全ニ旧態ヲ維持ス」 山口県編  史蹟名勝天然記念物調査報告概要. 1925年(大正14年)

関連項目

外部リンク

座標: 東経131度25分02.44秒北緯34.4121694度 東経131.4173444度34.4121694; 131.4173444