博物学
博物学(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:自然史)は、自然に存在するものについて研究する学問。広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物(岩石)など(博物学における「界」は動物界・植物界・鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。東洋では本草学がそれにあたる。
歴史
自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、古代ローマ時代ではプリニウスの『博物誌』などがある。
東洋では「本草学」と呼ばれ、伝統中国医学の「薬(漢方薬)」(または仙人になるための方術である錬丹術に必要とされた霊薬仙丹)の原材料の研究とともに発達した。明の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。
フランシス・ベーコンは自然史と自然哲学とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。
ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・茶・ゴム・コショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアのフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。
リンネは、動物界、植物界、鉱物界という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。ビュフォンは『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。
1755年にはカントが『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。
地質学の領域などで、次第に歴史的な研究が活発化すると、こういった研究については、記述することに重点がある自然史とは区別して考えようとする動きが出てきた。歴史的な考察に力点がある分野を、カントは「自然考古学」とすることを1790年に提唱。だが定着せず、歴史的な分析も含めて、自然史と呼ばれつづけた。
19世紀になると、ラマルクやトレヴィラヌスが「biology(生物学)」という学問名の領域を提案した。これは簡単に言えば、生物に関する自然哲学を意味していた。そして、これは自然史とは異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。自然史の領域は領域で、知識の集積が進み、もはやひとりの人間が自然三界の全部について専門的な研究を進めるのは困難な状況になっていった。そして、19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学・植物学・鉱物学・地質学などに細分化された。そして「自然史」や「博物学」という言葉は、それらをまとめて指す総称ということになっていった。
近年では博物学、自然史という言葉は多義的に用いられており、例えば1958年の日本学術会議によって用いられた表現「(博物学は)いわば、自然界の国勢調査」に見られる理解のしかたがある。動物分類学や植物分類学だけを指すためにこの言葉が用いられることもある。また、アマチュア的な生物研究を指すためにこの言葉が用いられることもある。
分類
博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。
素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。
自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな分類法が編み出された。たとえば、人間-高等動物-下等動物-植物-鉱物-火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。
一方、生物の分類についてはリンネが形式的には二名法による学名を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における分類学が大きく進んだ。
その後、19世紀後期にダーウィンが『種の起源』を著して進化論を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、系統分類(もしくは分岐分類)の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。
また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフの周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。
20世紀の科学では、生物には系統分類もしくは分岐分類、鉱物には化学的組成と結晶構造による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになる。一般化・体系化が科学的方法論の本流であり、博物学が旨とする収集・記述は傍流であるとみなされるようになってきたのである。これにより博物学はその使命を終えた。
現在の博物学
現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。これは、直接フィールド(野山など)に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。
またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。
このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、プラントハンターを詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、シミュレーションや分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。
天文学の分野でも、スーパーコンピュータを駆使する天体物理学や最先端の物理学による宇宙論など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、天体観測などアマチュア天文学と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、彗星や新星の発見が今でも盛んである。
日本と博物学
本草学
日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。江戸時代には1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した徳川家康もこの年から本格的な本草研究を始めている[1]。林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が出現した。 1712年には寺島良安が『和漢三才図会』を著わした[2]。 稲生若水は1738年に『庶物類纂』を編纂した。藍水門下の平賀源内は物産会を開いた。また、石綿や、いくつかの鉱山を見つけた。
魚介類・鳥類・植物などを図鑑としてまとめる作業は、大名などのあいだで流行し、極密の魚介図譜・禽獣図譜などが作られた。これらの多くは、美術的にも評価が高い。
その後杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていた。ただしそれは一般に広まらなかった)。大槻玄沢や司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学的知識は実用可能である上に、当時の幕府が危険視するような思想的背景が薄いため、かなり早くから流入し、本草学にも影響を与えている。
西洋の博物学の移入
日本は島国であり、地形の起伏に富む。そのため固有種は少なくない。大航海時代以降、ヨーロッパ各国の学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。
わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは出島の三学者と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。
博物学の語
「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には政治学・神学などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち物理学と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。
Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。
自然史博物館
現在、各国の博物館に「自然史博物館」がある。これは「Natural History Museum」の直訳である。この場合の「Natural history」の意味は広義の博物学、つまり自然科学一般を指す。
日本語では「Museum」を「博物館」と訳しているため、「Natural History Museum」を「博物学博物館」とするわけにいかず直訳して「自然史博物館」としたと思われる。ロンドン自然史博物館、スミソニアン博物館の一部である国立自然史博物館、カーネギー自然史博物館などがある。
近年では、日本国内でも「自然史博物館」と名づけられた「Natural History Museum」が増えてきている。