ルイ18世 (フランス王)
ルイ18世(フランス語: Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)は、復古王政期のブルボン朝のフランス国王(1814年4月6日 - 1815年3月20日、1815年7月8日 - 1824年9月16日)。ナバラ国王としてはルイス7世(テンプレート:Lang-eu)。
Contents
生涯
出生からフランス革命の勃発まで(1755年‐1791年)
ルイ・スタニスラス・グザヴィエはルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスとの間に3男として1755年11月17日にヴェルサイユ宮殿にて生誕した。生誕と共にプロヴァンス伯爵の称号を授けられた。信仰心の篤いヴォーギュイヨン公爵が彼の教育係となったが、彼自身はヴォルテールや百科事典編集者による書物を愛好した。1771年5月14日、彼はマリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワと結婚したが、両者の間に子は生まれなかった。彼の宮廷における立場は窮屈であった。上昇志向に溢れ、かつ兄のルイ16世よりも能力があると自負していたが、彼の権限の範囲は制限されていた。よって彼はエネルギーの大部分を嫌っているマリー・アントワネットに対する策謀に傾けた。ルイ16世が後嗣に恵まれなかった時期、プロヴァンス伯は王位継承者として人気を集め、政治にも積極的に関わった。しかし1781年に王太子が生まれたことで彼の野心は挫かれた。彼は高等法院の再興に反対し、多くの政治的パンフレットを著した。また名士会が収集された際には、他の王族たちと共に「賢人委員会」と名付けられた部局を統括し、さらに第三身分の二重代表権を弁護した。同時期に彼は文学に親しみ、リュクサンブール宮殿や居城のブリュノワ城にて詩人や作家と交遊し、彼の愛妾であるバルビ伯爵夫人のサロンでは詩作と警句が機知に富んでいるとの称賛を得ている。バルビ伯爵夫人は1793年まで彼に相当な影響力を及ぼしたと言われる。[1]
バスティーユ牢獄の陥落後、プロヴァンス伯は亡命を選ばずパリに残った。一時期ミラボーは彼を新たな立憲政府の首相に据えようと考えたが、彼の腰が引けていたため失望する。1789年5月に起きたファヴラ事件は彼に反対する激しい世論を引き起こす。多くの人々は、プロヴァンス伯がファヴラと陰謀を企みつつも、彼を見捨てたと信じていた。1791年6月、国王一家がヴァレンヌへ逃亡した時、彼もアヴァレ伯爵と共に別路を通って逃亡した。アヴァレ伯爵はバルビ夫人に替わって亡命時代のプロヴァンス伯に政治的な影響を与える人物となる。その後無事ブリュッセルに到着し弟のアルトワ伯と合流すると、亡命貴族の拠点があるコブレンツへ移った。[2]
亡命生活(1791年‐1814年)
コブレンツの王室所領に居を構えると、彼は反革命運動の旗手として、大使を任命し、欧州諸国の君主たち、その中でもとりわけロシアのエカテリーナ二世に向けて、熱心に援助の要請を行った。フランスの内情から切り離され、更にはアルトワ伯やカロンヌらに率いられた激烈な反革命主義者に囲まれた彼は、全くもって身勝手な政策を推し進める。オーストリアとプロイセンに働きかけピルニッツ宣言を出させたが、それは革命派をより過激にさせた。ヴァルミーの戦いの後、彼はヴェストファーレンのハムに引退し、そこにてルイ16世の刑死を知ると、自らを摂政であると宣言した。その後、南部フランスの王党派を駆り立てる目的でヴェローナに移り住み、ルイ17世死去にあたってルイ18世と称した。この時期、彼とバルビ夫人との関係は終わりを告げ、アヴァレ伯爵の影響力は頂点に達する。この時以降、彼は果てることのない放浪と駆け引きと謀議の日々を送るようになる。[3]
1796年4月、プロヴァンス伯はドイツとの国境付近で展開するコンデ軍と合流したが、すぐにその国を去るよう求められる。その後1797年までブラウンシュヴァイク公の庇護の下ブランケンベルグにて過ごしたが、それ以上避難先として滞在できなくなり、ロシアのパーヴェル1世の許可を得てクールラントのイェルガヴァ(ミタウ)に移り、1801年までその地に住んだ。彼はずっとフランス内の王党派と連絡を取っていたが、イギリスに居るアルトワ伯による相反する策動には悩まされ、腐敗し不実な工作員たちのなすがままになっていた。イェルガヴァにて、彼はルイ16世の娘のマリー・テレーズとアルトワ伯の息子のアングレーム公の結婚という積年の夢を実現させた。1799年、彼はイェルガヴァよりボナパルト宛に手紙を送り、ジョージ・マンク(イギリスの王政復古の立役者)の役割を務めるよう要請したが、却下された。その一方でルイ18世もボナパルトからの年金の受理を拒み、さらに1803年に彼の財産が底をついても、ボナパルトの求めに応じて退位するのを拒否した。[4]
移り気なパーヴェル1世によってイェルガヴァを突如追い出されたため、ルイ18世は極寒の中旅をし、プロイセン国王の許可を得てワルシャワに移ると3年間をその街で過ごした。彼は引き続きフランスに再び王政を呼び戻そうとしており、1799年の終わりにロワイエ=コラール、モンテスキュー、クレルモン=ガルランドらによって設立された「王室顧問委員会」をパリに置いていたが、その活動はライバルのアルトワ伯の機関によって頻繁に妨げられた。しかし1800年以降、カドゥーダル、ピシュグリュ、モローら王党派による陰謀の失敗と、それに続くアンギャン公の処刑ならびにナポレオン帝政の幕開けによって、王政復古は絶望的になる。1804年、ルイ18世はスウェーデンのカルマルにてアルトワ伯と再会すると、ナポレオンの帝政に反対する声明を発したが、プロイセン国王よりポーランドに戻ってはならぬとの警告を受けたことで、ロシアのアレクサンドル1世の許可を得て、再びイェルガヴァに退いた。しかしながら、1807年のティルジットの和約で仏露が同盟関係になると、彼はまたもイェルガヴァを追い出されたためイギリスに避難し、当初はエセックスのゴスフィールドに、次いでバッキンガムシャーのハートウェルに身を落ち着かせた。1810年、妃のマリーが死去し、翌年にはアヴァレもこの世を去り、寵臣の地位はブラカ伯爵が引き継いだ。[5]
1813年のドイツ戦役でナポレオンが敗北すると、王党派は再び活気付いた。そしてルイ18世は新たに声明文を発し、その中で革命の成果を肯定すると約束した。ルイ18世はスウェーデン王太子のベルナドットが協力してくれるだろうと期待して交渉を持ったが、王太子は実際のところ独自の意思に基づいて行動していた。[6]
ブルボン復古王政(1814年‐1824年)
1814年3月、連合国軍はパリ入城を果たす。そしてタレーランの働きによってブルボンの復権が決定されると、ルイ18世は立憲君主制を約束するサン=トゥアン宣言を発した後、5月2日にパリに入城した。[7] 彼は立憲君主制、二院制議会、信教の自由、そして全ての人民の憲法で規定される権利を公的に保証した。そして6月4日、1814年憲章が公布される。[8]この時すでに彼は60歳になっており、苦境によって疲弊し、痛風と肥満に見舞われていた。思考は明敏で、博覧強記で知られ、優れた外交術の持ち主だったが、感受性が強く、情緒的な性質をしていたため、彼は周囲や家族から容易に影響された。アルトワ伯とアングレーム公妃を筆頭とする亡命貴族内部の反動派および聖職者たちに譲歩して見せたことは、彼の立憲政治に向ける忠誠心について疑いを持たせた。また王室軍(メゾン・ミリテール・デュ・ロワ)の再導入は軍隊の離反の要因となる。さらに寵臣のブラカが国王に常に侍っていたことは、閣僚たちの協働を困難にした。[9]1815年、ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランスに上陸すると、ネイ元帥を差し向けたが、彼が3月17日に軍隊共々ナポレオンに寝返ると、国王は国外へ逃亡した。ナポレオンの百日天下の間、国王はヘントに避難した。[10]
ワーテルローの戦いの後、2度目の復古王政の条件のひとつにブラカの追放が提示されている。7月8日、「連合国軍の荷車に乗って」ルイ18世はパリに2度目の帰還を果たすが、それでも戦争に倦み疲れ、立憲政治を希求する民衆から熱狂的な出迎えを受けた。当初国王は不信感を抱きつつもタレーランとフーシェを閣僚入りさせていたが、1815年の選挙で超王党派(ユルトラ)が大勝し、彼が名付けるところの「またと見出し難い議会」が成立すると、両者を合わせて政権から放り出した。同時期、国王はフーシェの下で警視総監を、そしてリシュリュー内閣で警察長官を務めていた平民生まれのドゥカズ伯爵(後に公爵)を見出すと、新たな寵臣として全幅の信頼を置いた。リシュリュー公爵およびドゥカズ伯爵ら穏健派をメンバーに持つ、確固たる内閣に国王は誠意を持って対応し、王族による攻撃からあらゆる努力を払って閣僚達を守った。1816年9月、ユルトラが多数を占める「またと見出し難い議会」との対立に危機を感じた国王は、議会の解散を行う。ユルトラらはかつての寵臣ブラカのパリ帰還を黙認することで国王に対する優位性を取り戻そうとしたが、失敗に終わった。[11]
ルイ18世の政策は総じて慎重さと常識に基づいていたと評される。その統治の間、フランスにて革命後初めてとなる議会制政治の成立を見た。国王に執行権と法案提出権が付与される一方、議会は法案の議決と予算を承認する機能を有した。[12]1814年憲章はポルトガルからトルコに至る各国の憲法制定のモデルとして、ナポレオンの共和暦12年憲法および付加法よりも大きな影響を与えたとも評される。[13]ルイ18世の政治的姿勢は、主体的というよりむしろ受動的であり、一貫して時の内閣に可能な限り協力的であった。ドゥカズが政権を握っている間、国王の政策は大部分において彼に倣っており、どちらかと言えばリベラルかつ穏健であったが、1820年にベリー公が暗殺されると、国王はドゥカズによる政権運営はもはや困難であると判断して、惜しみつつも彼の退陣を黙認し、新たに首相となったリシュリューへ支援の手を向けた。国王の体力の衰えと共に、彼のユルトラの策謀に対抗する力も弱まっていった。ベリー公の忘れ形見アンリの生誕(1820年9月)、ナポレオンの死(1821年5月)、そしてリシュリューの辞任によって、国王は完全にユルトラの意のままとなる。そしてユルトラの首班であるヴィレール伯爵による新内閣が成立して、アルトワ伯が政権と密接した関係を結ぶと、次第に政治は国王の手から離れていった。[14]
1824年9月16日、ルイ18世は崩御した。身体的には疲弊していたが、最後まで明敏な洞察力と懐疑主義的な思考力を保ち続けていたという。子供がいなかったため、弟のアルトワ伯がシャルル10世として王位を引き継いだ。[15]
人物評
ウィーン会議で正統主義を唱えたことで知られ、総裁政府およびナポレオン政権にて外相を務めたタレーランは、最終的にルイ18世により政権から放逐される。彼が残した記録には、以下のようなルイ18世評がある。
ルイ18世はおよそこの世で知る限り、きわめつきの嘘つきである。1814年以来、私が王と初対面の折りに感じた失望は、とても口では言い表せない。……私がルイ18世に見たものは、いつもエゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず、といったところだ。……
他方、ナポレオンはルイ18世を「ルイ16世から実直さを引き、機知を足したもの」と評したと伝えられる。[16]
脚注
出典
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.47
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.47
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.47
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.47
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.47
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Encyclopedia Britannica/ Louis XVIII.
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Encyclopedia Britannica/ Louis XVIII.
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Encyclopedia Britannica/ Louis XVIII.
- ↑ Mansel, Philip.(2015) .pp.5
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
- ↑ Phillips, Catherine Beatrice .(1911).pp.48
参考文献
- Phillips,Catherine Beatrice .(1911)“Louis XVIII. of France”, in Encyclopædia Britannica, (11th ed.),Cambridge University Press, Cambridge.pp.47-48
- Encyclopedia Britannica/ Louis XVIII. (最終閲覧日2017-8-24)
- Mansel, Philip.(2015) The Eagle in Splendour: Inside the Court of Napoleon, I.B.Tauris & Co ltd, London, pp.5
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