チャールズ・サンダース・パース

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チャールズ・サンダース・パース

チャールズ・サンダース・パース[1]: Charles Sanders Peirce1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、アメリカ合衆国哲学者論理学者数学者科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られる。マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。パースは化学者としての教育を受け、米国沿岸測量局に約三十年間、科学者として雇われていた。「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる[2]。存命中はおおむね無視されつづけ、第二次世界大戦後まで二次文献はわずかしかなかった。莫大な遺稿の全ては今も公表されていない。パースは自分をまず論理学者とみなし、さらに論理学を記号論(semiotics)の一分野とみなした。

生涯

清教徒の移民であったジョン・パースの子孫であり、当時アメリカ最大の数学者と見なされたハーバード大学数学教授ベンジャミン・パースの次男として生まれる。早くから父に才能を見いだされ、特別の教育を受ける。なぞなぞ・トランプの手品・チェス・暗号を好み、8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与され、1869年〜70年度には、エマスン、キャボット、フィスクなどの年長者とならんでハーバード大学の哲学講演に参加した。

1859年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891年まで断続的に測量の仕事を続けた。1869年から1875年まで、ハーバード大学天文台の助手として測光に従事した。光の波長を測量の規準単位として用いるやり方は、パースが始めたものである。1875年にアメリカの最初の代表として国際測地学協会に出席し、振り子による実験が精密ではないことを指摘し、各国の学者に注目されている。

1867年アメリカ芸術科学アカデミーでパースは、すでに1847年ブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、さらにラッセルホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。

1887年以後、ペンシルベニア州のミルフォードに隠棲し、さまざまな事典や雑誌への寄稿と新刊書評によって生計を立てた。『ネイション(The Nation)』誌のための新刊書評を担当していたときは、莫大な数の書物を読みこなしては毎日2000語ずつ書いたと言われている。これらの仕事は、エジプト学犯罪学言語学心理学数学力学天文学化学測量社会学歴史文芸評論神学伝記に及ぶ。

パースの興味は常に哲学に向いていたのだが、それを本職にすることはかなわなかった。理由は、1883年にかれが引き起こした離婚問題が清教徒道徳の根強かったマサチューセッツ州で嫌われたということである。当時のハーバード大学学長のチャールズ・ウィリアム・エリオット[3]は、パースを校内のいかなる場所にも立ち入らせなかった。このように冷遇されたことはパースの発表機会を損ね、いっそう難解にしたとも考えられる。パースは中年以後まったく窮乏状態で過ごした。長い年月を持病に苦しめられつつ、死後20年たたないと学者たちから理解されないような学説を書き続けたのである。

米国沿岸測量局

1859年から1891年のあいだ、パースは米国沿岸測量局に、さまざまな科学上の立場で断続的に雇われた。1880年の父の死までのあいだ、影響力のある父から保護を受けた。この雇用のおかげで南北戦争兵役をまぬがれたが、このことは彼にとって非常にばつの悪いことだった。というのもボストンエリートであるパース家はアメリカ連合国に同情していたからである。この測量局で彼は主に測地学重力測定に取り組み、地球の重力の大きさの地域による小さな変動を確定するために、振り子の利用法を改良した。この測量局は彼をヨーロッパに五回派遣した。一回目は1871年で、日食観測するために派遣されたグループの一員としてであった。ヨーロッパにいるあいだ、彼はオーガスタス・ド・モルガンウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、そしてWilliam Kingdon Cliffordについて研究した。彼らはイギリスの数学者や論理学者で、彼らの考え方はパースと似ていた。1869年から1872年まで、彼はハーバード大学天文台に助手として雇われ、の明るさと銀河の形の確定についての重要な研究を行った[4]1876年全米科学アカデミーの会員に選出。1878年、彼はメートルを特定の振動数の非常に多くの波長として定義した最初の人となった[5]

大学と追放

1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学(Josiah Royceとジョン・デューイは同大学で博士号を取得した)、心理学(スタンレー・ホールが教鞭をとり、Joseph Jastrowが研究を行った。Jastrowは重要な経験的研究の成果をパースと共同で執筆した)、そして数学(ジェームス・ジョセフ・シルベスターが教鞭をとった。彼は数学と論理学についてのパースの著作を称賛するようになった)といったぐあいである。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる[6]

パースの私生活もまた彼を不利にした。彼の一人目の妻ハリエット・メルシナ・フェイ(Harriet Melusina Fay)は1875年に彼と別れた。彼は間もなくある女性と親しくなったが、彼女の旧姓と国籍は現在も不明確なままである(彼女の名前はジュリエット・フロイシー[Juliette Froissy]で、彼女はフランス人だったというのが最も信頼できる推測である)。だが、彼がハリエットと離婚したのは1883年になってからのことで、彼はそのあとでジュリエットと結婚した。その年、ニューカムはジョンズ・ホプキンス大学の理事に、「パースが、ホプキンス大学で働いているあいだ、ある女性と暮らしたり旅行したりしていたが、パースは彼女と結婚していない」ということを指摘した。スキャンダルの結果、彼は解任された。以後、Clark University、ウィスコンシン大学マディソン校ミシガン大学コーネル大学スタンフォード大学シカゴ大学で就職を試みるがすべて失敗した。パースはどちらの結婚でも子供を持たなかった。

離職

  • 1880年代、パースの沿岸測量局の仕事への無関心は増し、測量作業の質も速度も低下した。数ヶ月で完成させるべきレポートを書くのに何年もかかったともいわれる。その間、『センチュリー事典』の論理学、哲学、そして科学に関連する何百もの項目を執筆した[7]
  • 1885年、アリソン委員会の検査はパースの潔白を証明したが、局長のJulius Hilgardおよび沿岸測量局の何人かのほかの従業員は、公金の不正支出のとがで解雇されることになった。1891年、パースは局長のトマス・メンデンホールからの要請で沿岸測量部を辞任。以後、定職に就くことはなかった。

貧困

1887年ペンシルベニア州ミルフォード近くの2000エーカー(8平方km)の田舎の土地を買うために両親からの相続財産の一部を支払ったが、この土地が経済的収益をもたらすことはけっしてなかった。彼はそこに大きな家を建て、家に「アリスベ」(Arisbe)という名前をつけ、人生の残りの期間を過ごし、大量に執筆をしたが、遺稿の多くは公表されていない。

生活は、まもなく深刻な金銭的、法的困難を引き起こし、最後の20年間の多くを冬は暖房なしですごし、地元のパン屋が親切に寄贈してくれた古いパンをいつも食べていた。新しい文房具を買うことができないので、彼は古い原稿の左側に執筆した。彼はしばらくのあいだニューヨーク市で逃亡者になることになった。彼の兄弟James Mills Peirceと彼の近所の人たち、Gifford Pinchotの親類の人たちを含む何人かの人たちが彼の借金を処理し、彼の固定資産税と貸付金を支払った。

パースは科学技術関連のコンサルタントをやり、原稿料を得るために大量に執筆した。執筆したのは主に辞書と百科事典の項目、「ネイション」誌[8]での書評だった。ほかスミソニアン博物館サミュエル・ラングレー館長からの強い勧めで、同館向けに翻訳をした。パースは動力飛行についてのラングレーの研究のために、大量の数値計算を行いもした。資金を稼ぐことを望んで、パースは発明をしようと試みた。彼は多くの著書を作ろうとしたが、完成させることはできなかった。

  • 1888年グロバー・クリーブランド大統領は彼を分析委員会(Assay Commission)のメンバーに任命した。
  • 1890年以降、シカゴのFrancis C. Russell判事がパースの友人かつ崇拝者となり、RussellはパースをPaul CarusとEdward Hegelerに紹介した。彼らはそれぞれ、アメリカの草分け的な哲学雑誌「モニスト」(The Monist)の編集長とオーナーであり、この雑誌は最終的にパースが執筆した14本の論文を公表した。
  • 自分の一生の仕事を要約した著書を執筆するために、助成金を求めて、新たに創設されたカーネギー研究所へ申請を行ったが却下された。彼の宿敵ニューカムが同研究所の執行委員会に参加しており、さらに同研究所の理事長はパースが解任されたときのジョンズ・ホプキンス大学の学長だった。

これらの困難な時期にパースを助けたのは、古い友人ウィリアム・ジェームズだった。ジェームズはハーバード大学周辺でパースの連続講演を企画した。また1898年からジェームズが亡くなる1910年までのあいだ毎年、ジェームズはボストンの友人たちに、パース支援の寄付を要請した。パースはジェームズの長男を、ジュリエットが自分より先に死んだ場合の自分の遺産相続人に指名することによって返礼した[9]

パースはペンシルベニア州ミルフォードで極貧状態で亡くなり、彼の妻はその20年後に亡くなった。

学問の分類

パースは数学を哲学よりも一般的・普遍的・抽象的な学問分野とみなした。

彼は生涯を通して何度か哲学の分類を試みているが、1902年以降の最終版の分類では[10]、彼は哲学を二種類、すなわち「第一哲学」(philosophia prima)と、「最終哲学」(philosophia ultima)ないし「綜合哲学」(synthetic philosophy)に分けている。

第一哲学の本質を上手く捉える用語として、パースはジェレミ・ベンサムのcenoscopy (coenoscopy)を採用している[11]。cenoscopyは「共通のものの観察」を意味するギリシア語のκοινοσκοπιάに由来する。この名称の通り、パースは第一哲学を、特殊な実験を行わず、人間の日常生活における観察から得られるデータに基づく実証学として捉えていた。第一哲学はさらに現象学、規範学、そして形而上学に分類される。cenoscopyに対置されるのが、実験や探索などの特殊な観察方法に基づくidioscopy、すなわち特殊科学である[12]。idioscopyは「固有なものの観察」を意味するギリシア語のιδιοσκοπιάに由来する。最終哲学ないし綜合哲学の仕事は、それぞれの特殊科学の成果を統一的な視点から綜合することである[13]

数学

パースの純粋数学における研究は数論線型代数学トポロジー、リスティンク数、射影幾何学四色問題集合論ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。応用分野としては経済数学、地図の投影法確率論統計学などを研究した。

数学における発見

哲学

背景

パースの職業は科学職であって哲学職ではなかったということ、そして彼は存命中、主に科学者として、そして二次的にのみ論理学者として知られ評価されていたのであって、哲学者としてはほとんど知られたり評価されたりはしなかったということは、十分に認識されていない。この事実がパース研究におけるお決まりの前提になるまでは、哲学と論理学についての彼の著作さえ理解されることはないだろう。

Max H. Fisch, in Moore and Robin (1964), p.486

パースは30年間、科学者として働いていた。プロの哲学者だったと言える時期は、ジョンズ・ホプキンス大学で講義をした五年間だけである。彼が哲学を学び始めたのは、ハーバード大学の学部生だった頃であり、最初に読んだ哲学書はフリードリヒ・フォン・シラーの『美的書簡』だったという[16]。そこからカントの『純粋理性批判』に移り、これを毎日二時間ずつ三年以上も読んだ結果、ほとんど完全に暗記したほどだった[17]。後にはイギリス哲学にも触れ、特にJ・S・ミルの支持者であったチョンシー・ライトとの議論を通してミルの哲学を学んだ。論理学についてはギリシア語・ラテン語・ドイツ語・フランス語の諸文献を広くあさったが、特に中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスから多くを学んだという[18]

以下、第一哲学の下位分野である現象学、規範学、形而上学の順にパースの哲学を見ていく。

現象学・カテゴリー論

パースの論理学の中核にあるのが彼のカテゴリー論である。彼はある箇所で、自分のカテゴリー論が「私が世界に贈るギフト」であり、「私――私の身体――が跡形なく滅びた後も、私はその中に宿ることだろう」と述べている[19]

「新しいカテゴリー表について」

その中でも特に重要な位置を占めるのが、1868年の「新しいカテゴリー表について」(On a New List of Categories)[20]という論文である。晩年になってもパースは、「新しいカテゴリー表」が「論理学的観点から見て、私の書いたものの中で最も不備の少ない」論文であると述べ[21]、「哲学への私の唯一の貢献である」とまで評している[22]。これらの発言から、パースがいかにこの論文を重視していたが伺える。

カテゴリーというのは普遍概念、つまりどのような思考においても働いている概念のことである。(一般概念も「普遍概念」と呼ばれることがあるが、ここでは区別する。この定義に従えば、例えば「人間」は一般概念であるが普遍概念ではない)。「新しいカテゴリー表」の目的はこのような普遍概念を見つけ、それによって人間の思考の構造を最も根本的なレベルで明らかにすることである。

パースが採る方法は、実験心理学のデータからカテゴリーの候補となる概念を探し出し、それが実際にカテゴリーであるかどうかを、彼がprescisionと呼ぶ条件を満たすかどうかによって検証していく、というものである。その結果、次の五つのカテゴリーが得られる[23]

  • 存在
    • 質(根拠への参照)
    • 関係(被関係項への参照)
    • 表象(解釈項への参照)
  • 実体

「新しいカテゴリー表」の時点では中央の三つは「偶有」(accidents)と呼ばれているが、後にこの三つだけが「カテゴリー」と呼ばれ、上から順に「第一性」(Firstness)、「第二性」(Secondness)、「第三性」(Thirdness)となる。

論文の後半では、カテゴリーの応用として、記号には「類似体」(Likenesses)、「指標」(Indices)、「シンボル」(Symbols)の三種類があることが示される[24]

規範学

現象学が「何があるか」を研究するのに対して、規範学は「何があるべきか」を研究する。すなわち、規範学は「現象が目的に対して有する普遍的・必然的関係を研究する」[25]。パースは規範学を論理学、倫理学、美学の三つに分類するが、それぞれに対応する「目的」が真、善、美である。

美学

美学は、あらゆる振る舞いに影響を与える諸目的についての研究であり、他の規範的諸研究の基礎に位置するとパースは考えた。

倫理学

倫理学は目的一般ではなく、人間行為に関わる「良し悪し」のみを研究するという意味で、美学の特殊分野である。

論理学・記号論

論理学は、人間行為のうち思考のみを扱うという意味で、倫理学の特殊分野である。 パースは自分をまず第一に論理学者と見なしていた。しかしパースが「論理学」と言うとき、彼が念頭に置いているのは、現代の哲学者が「論理学」として理解可能なものよりも遥かに射程が広い[26]。パースにとって論理学は、広く探究(inquiry)の構造と方法を研究する学問分野である[27]。そして「探究」というのも科学的探究に限らず、あらゆる思考や知覚過程を含む。

論理学の前提

パースは、1898年に行ったケンブリッジ連続講義の第四講義「論理学の第一規則」で次のように述べている[28]

理性の第一の、そしてある意味で唯一の規則は、学ぶためには、学ぶことを欲する必要があり、しかも自分が考えたいと思うことに満足することなく欲する必要がある、ということである。ここから、哲学の街のあらゆる壁に刻まれるべき一つの系が帰結する:

探究の道を塞ぐな。
デカルト主義批判

パースは、1868年にJournal of Speculative Philosophyに掲載された論文「人間に備わっているとされるいくつかの能力に関する疑問」[29]において、当時様々な形で広く普及していたデカルト哲学を批判している。

パースのデカルト主義批判の要は、後者が「直観」(intuition)に訴えるという点である。直観というのは、直前の認識によって決定されないような認識、言い換えれば「前提なき結論」である[30]。ここでパースの議論において重要なのは、絶対的に不可知なものの概念は自己矛盾であるという点である。どのような特定の思考についても、それから独立のものを考えることできる。というのも、そうでなかれば認知的誤謬の可能性がないことになってしまうからである。しかし思考一般から独立のものを考えることはできない。なぜなら、あるものを「思考一般から独立」なものとして思考することは、やはりそれを思考することであるからである。ゆえに「絶対的に不可知なもの」の概念も思考可能であるが、そうするとこれは「A、非A」という形式の概念になってしまい、矛盾概念である。ここからパースは、「(最も広い意味における)認識可能性(cognizability)と存在(being)は、形而上学的に同じであるばかりでなく、同義的な用語である」という結論を引き出している[31]。したがってカント物自体のような概念は斥けられなければならない。

さて、直観というのは直前の認識によって決定されないような認識であった。しかしある認識を説明できるのは、それに先行する認識を提示することによってである。ゆえに、直前の認識によって決定されないような認識は絶対的に説明不可能ということになる。しかし上で見たように、絶対的に不可知なものの概念は自己矛盾である。ゆえに直観の能力の存在を仮定することは、矛盾概念を含意する[32]。したがってそのような能力は存在しないと考えるべきである。

同じく1868年にJournal of Speculative Philosophyに掲載された「四能力の否定の諸帰結」[33]の冒頭においてパースは、自分が「人間に備わっているとされるいくつかの能力に関する疑問」において行ったデカルト主義批判を次の四点にまとめている[34]

  • 我々には内観の能力はなく、内的世界に関する我々の知識はすべて、外的事実に関する我々の知識からの仮説的推論に由来する。
  • 我々には直観の能力はなく、すべての認識は先行する認識によって論理的に決定される。
  • 我々は記号を用いずに思考することはできない。
  • 我々は絶対的に不可知なものの概念を持つことはできない。
プラグマティシズム

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推論の種類

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記号論

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形式論理学における発見

形而上学

パースの形而上学は1878年の「自然の秩序」[37]などにその萌芽がすでに見られるが、その輪郭がはっきりしてくるのは1884年の「デザインとチャンス」[38]および1887-1888年の「謎への挑戦」[39]においてである。パースの初めての体系的な形而上学の著作は、1891-1893年にかけて『モニスト』誌上に掲載された「モニスト形而上学シリーズ」(Monist Metaphysical Series)である。その内容は以下の通りである。

  • 「理論の建築学」(The Architecture of Theories;1891)[40]
  • 「必然性の教説再考」(The Doctrine of Necessity Examined;1892)[41]
  • 「精神の法則」(The Law of Mind;1892)[42]
  • 「人間のガラスのような本性」(Man's Glassy Essence;1892)[43]
  • 「進化的愛」(Evolutionary Love;1893)[44]

また1898年に行われたケンブリッジ連続講演「推論と事物の論理」(Reasoning and the Logic of Things)[45]も、パースの形而上学が体系的にまとまっているテクストである。以下、これらのテクストに沿ってパースの形而上学の主要な教説を概観する。

偶然主義

パースの偶然主義(tychism)については、「モニスト形而上学シリーズ」の第二論文「必然性の教説再考」が詳しい。そこで彼は「必然主義」(necessitarianism)の立場を次のように定義している[46]

[必然主義の命題は]ある時点において存在する物事の状態と、一定の不変な法則とを合わせれば、他のあらゆる時点における物事の状態が完全に決定される、という命題である(というのも未来の時点だけに限定するのは擁護不可能だから)。

偶然主義は必然主義の否定である。つまり自然法則の支配は絶対的ではなく、規則性からの何らかの逸脱が常に存在するという立場である。その論拠としてパースは以下の五点を挙げている[47]

  • 機械的必然性は、自然において観察される物事の成長や複雑性の増大を説明できない。
  • 法則からの無限小の逸脱を仮定することによって、宇宙の多様性を説明できる。
  • 必然主義者は、規則性が存在するという一般的な事実を説明できないが、偶然主義者は、規則性そのものを、純粋偶然に起源を持ち、徐々に進化してきたものとして説明できる。必然主義者は、自然法則が存在するという事実をそれ以上説明できない絶対的な所与として扱うが、これは探究の道を塞ぐ仮説である。
  • 必然主義は意識を一種の幻想にしてしまう。
  • 純粋偶然の仮説から演繹される帰結が、観察されている事実と合致する(この点に関する詳しい説明は「必然性の教説再考」にはない)。

連続主義

「連続主義」(synechism)は、パースがギリシア語のσυνεχής(シュネケース:「連続的」)から案出した造語である。彼自身の説明によれば、連続主義は何らかの絶対的な形而上学的教説というよりは、我々がいかなる仮説を編み出し、検討すべきかを規定する、論理学の規範原理である[48]。平たく言えば、連続主義はあらゆる物事に連続性を見出していこう、という考え方である。

ここで「連続性」という概念をどう理解するかが問題であるが、パース自身、生涯を通して数学における連続性概念について思索を深めていった経緯があり、一つの固定的な捉え方があるわけではない。ただ、1895年以降、彼の思考が成熟していくにつれて、一つの明確なモチーフが浮かび上がってくる[49]。それは、「真の連続体」(true continuum)は、いくら無限に要素があろうと、単なる集合に還元することはできない、という発想である[50]ゲオルク・カントールは、1874年の論文[51]で連続体を実数全体の集合と同一視したが、パースはこれを「疑似連続体」(pseudo-continuum)と呼んで斥けている[52]。彼によれば、真の連続体は、集合の濃度によって決まるのではなく、要素同士の繋がり方によって決まる。そして真の連続体に特徴的な要素の繋がり方は、「直接的連結」(immediate connection)だと彼は言う[53]。二つの要素、AとBが、ある意味において同一であるとき、AとBは直接的連結の関係にあると定義する。しかし、この「ある意味において」が問題である。

ケンブリッジ連続講義の第三講義「関係項の論理学」に、この問題を解いてくれそうな例がある[54]。連続的な線に点を書いたとする。次にその点の箇所で線を切断し、左側の領域Lと右側の領域Rを作る。そうすると元の点は二つの点になる。一つはLの右端に、もう一つはRの左端にできる。ここで再度二つの端をくっつけると、二つの点はまた一つに戻る。

この思考実験が示しているのは、二つの要素、AとBは、同一でありながら潜在的に異なることが可能だということである。もし外部から不連続性が課されると、AとBの違いが顕わになるような順序性が存在していると言える。しかし不連続性が導入される以前は、AとBは異なるとは言えない。これがパースにとって、真の連続体の最も重要な特徴である。すなわち、それは個体的要素の集まりではなく、むしろ個体を書き込むことのできる存在者なのである。連続体の要素間で関係が成り立つのでは決してなく、連続体そのものが関係の構造だというわけである。個体性は、あくまで外部的な確定の結果生まれるのであって、切断前においてAとBが同一であるか異なるかという問いは厳密には意味を成さない。「他性(otherness)や同一性(identity)の適切な定義は個体の世界を前提とする。個体から構成されていないような世界、すなわちあらゆる部分が同種の部分から成るような世界においては、個体が認められる限りにおいてのみ他性や同一性は成り立つ」[55]

以上、パースの数学的連続性の概念を見てきたが、この概念が、数学外の世界でいかなる意味を持つのかと疑問に思われるかもしれない。ここで重要なのは、パースが「一般概念」を真の連続体と同一視するということである。「関係項の論理学に照らせば、一般者(general)は正確に連続体であることが分かる。したがって、連続性の実在性を主張する教説は、スコラ哲学者たちが実念論(realism)と呼んだ教説と同じである」[56]。 真の連続体が、可能な要素の空間であるのと同様に、一般概念は、可能な具体的事例の空間を指定する。さて、連続体の一つの性質に、どの二つの要素を取っても、その間の要素が必ず存在する、という性質がある(これを「稠密性」と呼ぶ)。一般概念の場合も同様に、どの二つの具体的事例を取っても、その間の性質を持つような事例を考えることができる。例えば「猫」という概念の場合、「黒い猫」と「茶色の猫」の間の性質を持つ「黒茶色の猫」を考えることができる。重要なのは、どれだけ多くの個体を集めても、決して一般概念を尽くすことはできないという点である。真の連続体が点の集合に還元できないのと同様に、一般概念もその個々の体現事例に還元することはできないのである(実念論)。

もちろん、二つの具体的事例の中間の性質を持つような事例が、現実に存在するとは限らない[57]。例えば「猫」と「犬」は一見したところ、全くかけ離れている。しかし、それらが互いに完全に切り離された概念だと考えると、我々の知識はそこで止まってしまう。「猫」と「犬」との間には確かに不連続性があるが、その不連続性は絶対的ではなく、より高次の連続性に対して相対的であると考えるべきである。かくして、その二つの概念を包括する高次の類概念として「哺乳類」という概念が編み出され、我々の切り離された知識も統合される。これがすなわち連続主義の持つ規範性がある。つまり連続主義は、一見全く性質の異なる二つのものがあったとしても、それらが互いに切断されていると考えるのではなく、何らかの隠れた関係が存在するという前提で探究せよ、と命じる発見法的仮説である。

パースが挙げる例に睡眠と覚醒というのがある[58]。我々は普通、起きている状態と寝ている状態は全く異なる状態だと考えがちであるが、実際は、我々が寝ているときも、我々が思っているほど寝ているわけではなく、また我々が起きているときも、我々が思っているほど起きているわけではない、と彼は言う。「我」と「汝」の違いについても同様である。連続主義者は、「私は完全に私であり、あなたではない」と言ってはいけない[59]。また生と死も連続的であり、あくまで程度の差だと彼は述べている[60]

これらの例からも分かるように、連続主義はあらゆるものの本質的同一性を説く考え方であるが、これは、先に述べた真の連続体の特徴とも関わっている。不連続性が課される以前は、個々の要素の同一性について云々することが不可能であったのと同様に、一般概念においても、個々の具体的事例は、現実化以前は全体の構造の中でいわば「融け合って」いるのである。また、科学的探究とは、個々の具体的な事物や出来事を理解可能にしていく過程であるが、何かを理解するとは、それを一般概念の特殊なケースにすることであるから、科学とは、個々の具体的事例を一般概念に包摂していくプロセスと捉えることができる。そして一般概念=連続体だとすれば、科学的探究とは、個々の具体的事例を連続体に包摂していくプロセスということになる。これがパースにとっての「最高善」(summum bonum)である[61]。宇宙進化の究極の目標は、あらゆるものが、一つの完全な連続体として結晶化することである。我々人間は、その宇宙進化の極小な一部を担っていると彼は考えていたわけである。

客観的観念論

連続主義の心身問題への応用として、精神と物質の連続性が帰結する。「精神の法則」においてパースは次のように述べている[62]

私が提示した原理によって次のことが要請される。すなわち、これらの[色や音などの]感覚は連続的に神経に伝達されるから、それらに似た何かが刺激源自体にあるはずだと。

これがパースの「客観的観念論」(objective idealism)の立場である。客観的観念論によれば、「物質は退化した精神であり、物理法則は凝り固まった習慣である」[63]。観念の作用を司る法則が宇宙の最も根本的な法則であり、物理法則はあくまでその特殊な現れに過ぎない。

進化的宇宙論

編集中

実念論

編集中

特殊科学における発見

著作

パースが生前出版した著書は、分光分析の手法を天文学に応用した『測光研究』(Photometric Researches;1878)と、ジョンズ・ホプキンズ大学の院生たちとの共著である『論理学研究』(Studies in Logic;1883)の二冊のみである。それ以外の彼の研究はすべて、学術雑誌に投稿された論文や書評、そして死後遺された手稿に分散している。現在、彼の代表的著作を集めた著作集はいくつかあるが、それらを本記事中の略号とともに以下に示す。なお、Writings of Charles S. Peirceは現在刊行中であり、予定されている全30巻のうち、7巻が出版されている(2015年3月現在)。詳しい文献リストについては、en:Charles Sanders Peirce bibliographyを参照。

著作集・略号

  • CP m. n=Collected Papers of Charles Sanders Peirce, vols. 1-6, eds. Charles Hartshorne and Paul Weiss (1931-1935);vols. 7 & 8, ed. Arthur W. Burks (1958). Cambridge:Harvard University Press. mは巻番号、nは段落番号。
  • NEM m, n=The New Elements of Mathematics, 4 vols. ed. Carolyn Eisele. Hague:Mouton, 1976. mは巻番号、nはページ番号。
  • EP m, n=The Essential Peirce:Selected Philosophical Writings, 2 vols. ed. Peirce Edition Project. Bloomington & Indianapolis:Indiana University Press, 1992-1998. mは巻番号、nはページ番号。
  • W m, n=Writings of Charles S. Peirce:A Chronological Edition, ed. Peirce Edition Project. Bloomington & Indianapolis:Indiana University Press, 1982-. mは巻番号、nはページ番号。
  • RLT n=Reasoning and the Logic of Things:The Cambridge Conferences Lectures of 1898, eds. Kenneth Laine Ketner & Hilary Putnam. Cambridge:Harvard University Press, 1992.

邦訳

  • 『世界思想教養全集14:プラグマティズム』 久野収ほか訳、河出書房新社、1963年。
  • 『世界の名著48:パース・ジェイムズ・デューイ』 上山春平山下正男訳、中央公論社、1968年。
  • 『偶然・愛・論理』 浅輪幸夫 訳、三一書房、1982年。
  • 『パース著作集』 1~3、勁草書房、1985年-1986年。
    • 「現象学」「記号学」「形而上学」の三巻三部門による著作集である。
  • 『連続性の哲学』 伊藤邦武訳、岩波書店、2001年。
  • 『プラグマティズム古典集成:パース、ジェイムズ、デューイ』 植木豊 訳、作品社、2014年。

参考文献

  • 新茂之 『パース「プラグマティズム」の研究―関係と進化と立論のカテゴリー論的整序の試み』 晃洋書房、2011年。
  • 有馬道子 『パースの思想―記号論と認知言語学』 岩波書店、2001年。
  • 伊藤邦武 『パースのプラグマティズム ― 可謬主義的知識論の展開』 勁草書房、1985年。
  • 伊藤邦武 『パースの宇宙論』 岩波書店、2006年。
  • 伊藤邦武 「第一章 源流のプラグマティズム 1 パース」『プラグマティズム入門』〈ちくま新書〉2016年、36-64。ISBN 9784480068705。
  • 岡田雅勝 『パース』 清水書院、1998年。
  • ウイリアム H. デイヴィス 『パースの認識論』 赤木昭夫 訳、産業図書、1990年。
  • コーネリス・ドヴァール 『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』 大沢秀介 訳、勁草書房、2017年。
  • 『パースの世界』 R.J.バーンシュタイン編、岡田雅勝 訳、木鐸社、1978年。
  • ^ジョゼフ・ブレント 『パースの生涯』 有馬道子 訳、新書館、2004年。
Brent, Joseph (1998), Charles Sanders Peirce:A Life. Revised and enlarged edition, Indiana University Press, Bloomington, IN.
  • 米盛裕二 『パースの記号学』 勁草書房、1981年。
  • 米盛裕二 『アブダクション ― 仮説と発見の論理』 勁草書房、2007年。
  • 『大航海』 60号、特集 パース 21世紀の思想、新書館、2006年。
  • Moore, E., and Robin, R.S., eds., (1964), Studies in the Philosophy of C.S. Peirce, Second Series, University of Massachusetts Press, Amherst, MA, 1964. 1964年より前の二次文献の目録がpp. 486-514.に収録されている。
  • Taylor, Barry N., ed. (2001), The International System of Units, NIST Special Publication 330. Washington DC:Superintendent of Documents.

脚注

  1. 「パース」"Peirce"は、チャールズ・サンダース・パースの場合、ちょうど英単語の「purse」のように発音される。()。"Note on the Pronunciation of 'Peirce'", The Peirce [Edition] Project Newsletter, Vol. 1, Nos. 3/4, Dec. 1994, Eプリントを参照。
  2. 哲学者ポール・ワイスの発言。Weiss, Paul (1934), "Peirce, Charles Sanders" in the Dictionary of American Biography. Arisbe Eプリント.
  3. 在任、1869-1909
  4. 天文学者としてのパースについてはMoore and Robin, 1964の中のLenzenの章を参照
  5. この定義は1983年まで採用され続けた(Taylor 2001:5)。
  6. ブレントの伝記による
  7. パースの『センチュリー事典』への寄稿についてはUQÀM (Université du Québec à Montréal)内のthe Peirce Edition Project (PEP)参照。
    『センチュリー事典』自体はここでオンライン(無料)とCDの両方で利用できる。
  8. パースは同誌の編集者Wendell Phillips Garrisonと友人になった
  9. これが、パースが自分の氏名にサンティアゴ、つまりスペイン語の「聖ジェームズ」(Saint James)を加えた動機だったと言われてきた(Joseph Brent 1998:315–16, 374)。だが、パースは1890年1891年、そして1892年に印刷物の中で「チャールズ・サンティアゴ・パース」と名指しされている。ブレントはパースが自分の動機をMS 318で説明しているのを見つけたと主張したが、他の研究者たちはそれを見つけていない。
  10. "A Detailed Classification of the Sciences" in Minute Logic (1902), CP 1.203-283:Eprint;"An Outline Classification of the Sciences" in "A Syllabus of Certain Topics in Logic" (1903), CP 1.180-202:Eprintを参照。
  11. CP 1.241
  12. CP 1.242
  13. "The Basis of Pragmaticism" (1906), EP2, pp.372-372
  14. "Orders of Infinity" (MS of 1860), News from the Peirce Edition Project, September 2010 (pdf). p.6に手稿のテクストがある。
  15. Peirce, Charles S. 1881. "On the Logic of Number." American Journal of Mathematics vol. 4:85-95. Reprinted in CP 3.252–88;W4, pp.299–309. EPrint
  16. Introduction by Max H. Fisch in W1, p.xxvii.
  17. CP 1.4
  18. CP 1.6
  19. W2, p.1
  20. EP1, pp.1-10;W2:49-58. EPrint.
  21. CP 2.340 (1899)
  22. CP 8.213 (1905)
  23. EP1, p.6;W2, p.54
  24. EP1, p.7;W2, p.56
  25. "The Three Normative Sciences" (1903), EP2, p.197.
  26. 実際の現代の論理学の世界は芳醇である。論理学の歴史#戦後論理学を参照のこと。
  27. 「[論理学は]研究の方法を考案するアート、すなわち方法の方法である」(CP 7.59)。
  28. EP 2, p.48
  29. "Questions Concerning Certain Faculties Claimed for Man" (1868), EP1, 11-27;W2:193-211;EPrint
  30. EP1:11-12.
  31. EP1:25.
  32. EP1:26.
  33. "Some Consequences of Four Incapacities" (1868), EP1:28-55;W2:211-242;EPrint
  34. EP1:30.
  35. "A Boolean Algebra with One Constant" (MS of 1880–81), CP 4.12–20;W4, pp.218-21.
  36. Peirce, Charles S. 1885. "On the Algebra of Logic:A Contribution to the Philosophy of Notation." American Journal of Mathematics 7, two parts, first part published 1885, pp.180-202. Reprinted in CP 3.359–403;W5, pp.162–190. EP1, pp.225-228には抜粋がある。
  37. "The Order of Nature" (1878), EP1, pp.170-185:EPrint
  38. "Design and Chance" (1884), EP1, pp.215-224;W4:544-554.
  39. "A Guess at the Riddle" (1887-1888), EP1, pp.245-279:Eprint
  40. EP1, pp.285-297:Eprint
  41. EP1, pp.298-311:Eprint
  42. EP1, pp.312-333:Eprint。上山春平による日本語訳が『世界の名著』第48巻(中央公論社,1968年)に収録されている。
  43. EP1, pp.334-351:Eprint
  44. EP1, pp.352-371:Eprint。上山春平による日本語訳が『世界の名著』第48巻(中央公論社,1968年)に収録されている。
  45. Charles S. Peirce. 1992. Reasoning and the Logic of Things:The Cambridge Conferences Lectures of 1898, eds. Kenneth Laine Ketner & Hilary Putnam. Cambridge:Harvard University Press. 伊藤邦武による日本語訳が『連続性の哲学』(岩波書店,2001年)として出版されている(ただし第二講義「推論の種類」および第五講義「推論の訓練」は省略されている)。
  46. EP1, p.299.
  47. EP1, pp.307-309.
  48. "Synechism" in Dictionary of Philosophy and Psychology, Vol. II (1902), CP 6.173.
  49. Potter, Vincent G. & Paul B. Shields. 1977. "Peirce's Definitions of Continuity." Transactions of the Charles S. Peirce Society vol. 13, no. 1:20-34.
  50. CP 4.219
  51. Cantor, Georg. 1874. "Ueber eine Eigenschaft des Inbegriffes aller reellen algebraischen Zahlen." Journal für die Reine und Angewandte Mathematik 77:258–262.
  52. "The Bedrock Beneath Pragmaticism" (1906), CP 6.176.
  53. CP 4.642
  54. RLT pp.159-160
  55. NEM 3:747
  56. CP 8, Bibliography General (MS of 1893, The Grand Logic)
  57. 本段落の内容は、"The Doctrine of Chances" (1878)の第一節の議論に依拠している。EP1, pp.142-144:Eprintを参照。
  58. EP2, p.3
  59. EP2, p.2
  60. EP2, p.3
  61. CP 5.433
  62. EP1, p.332
  63. "The Architecture of Theories" (1891), EP1, p.293
  64. "Letter, Peirce to A. Marquand," dated 1886, W5, pp.541–543. また、Burks, Arthur W. 1987. "Review:Charles S. Peirce, The New Elements of Mathematics." Bulletin of the American Mathematical Society vol. 84, no. 5:913-918, p.917:EPrintを参照。

関連項目

外部リンク

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