明治十四年の政変
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明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)
1881年大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件。当時,藩閥政府に対抗する自由民権論者は国会開設,憲法の早期制定を強く政府に迫っていた。政府もこれに対処するため2月各参議に意見を徴したが,同年3月政府部内で国会開設,憲法制定をめぐり意見が食違い,大隈が単独で左大臣有栖川宮に「政党内閣制,本年中に英米流の憲法を制定,2年後に国会開設」という意見書を提出したことに端を発し,大隈は伊藤博文と対立するにいたった。時を同じくして北海道開拓使長官黒田清隆が国費 1400万円をかけた事業を,同じ薩摩出身の五代友厚に 38万円 (30年賦) で払下げ決定をしたいわゆる開拓使官有物払下げ問題が生じ,大隈はこれに強く反対した。ここで,伊藤ら薩長派は大隈,福沢諭吉らに反政府陰謀があったという口実で,10月 11日御前会議で大隈一派を罷免する一方,開拓使払下げを中止する決定を行い,また翌 12日には「明治 23年に国会開設と憲法を制定する」という詔勅を出すにいたった。この政変は単に国会開設問題だけでなく,維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面があり,以後,明治政府の政策は伊藤,黒田,松方,そして山県有朋らの薩長藩閥グループによって決定されていくこととなった。