奇兵隊

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奇兵隊きへいたい)とは、江戸時代末期(幕末)に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」も、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語に由来する。主に結成された奇兵隊は以下の通りで、順次詳細をこの項にて述べる。

  1. 江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊
  2. 西南戦争のときの西郷軍が組織した部隊

長州奇兵隊

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長州奇兵隊の隊士(一部)

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。その後、河上弥市滝弥太郎の両人が総督職を継いだのを経て、総督は赤禰武人、軍監は山縣狂介が務めた。同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。翌元治元年(1864年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、禁裏を侵して会津藩桑名藩などの幕府側と衝突し、長州藩の不穏な動きを警戒していた薩摩藩が援軍として加わると形勢が変わり、長州勢は総崩れになり敗北した。この禁門の変で長州藩は禁裏を侵したために朝敵となった。幕府は朝敵・長州藩を伐つため、第一次長州征伐を行う。この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。

長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉は帰藩。高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌、元治2年(1865年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。

慶応2年(1866年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、慶応3年10月14日1867年11月9日)の大政奉還を経て、慶応3年12月9日1868年1月3日)に薩長が主導した王政復古が行われた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。

奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級[1]農民町人が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。また、奇兵隊には被差別部落民も取り入れられていた。当初これらの賤民層は屠勇隊として分離され、奇兵隊とは別に扱われていたが、その後彼等は奇兵隊に組み入れられる事となった。

隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ[注釈 1]このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は泰平の世で、貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた[注釈 2]

奇兵隊には統一された西洋的な軍服のイメージがあるが、当初からそうだったわけではなく、結成から最初の1年ほどは服装に明確な基準がなかった。元知元年(1864年)にはじめて胴着に袴の和装軍服が定められ、軍服に用いる生地や色には身分ごとに細かな定めが設けられていた。慶応元年(1865年)に藩は規則を追加し、軍服の生地に輸入毛織物を使用することを許可した。和装から洋装へ変化したのは慶応3年(1867年)9月になってのことだが、この段階でも使用する生地は身分別だった。画期となったのは慶応4年(1868年)6月のことで、この時に軍服が羅紗の生地で統一され、以降全兵士が身分に関係なく同じ軍服で戦うことになった[4]

脱隊騒動

明治2年6月17日1869年7月25日)の版籍奉還により長州藩占有地の石見国浜田豊前国小倉の返却が実施されると、藩知事毛利元徳は11月25日収入減に伴う藩政改革を断行。奇兵隊を含む長州諸隊5000余名を御親兵四大隊2250人に再編、残り3000余名は論功行賞も無く解雇され常職を失った(採用基準として従軍の功績は考慮されず身分・役職で選別をかけており、藩正規軍にあたる旧干城隊員が再雇用される一方で共に各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職した)。これにより、11月30日に寄組山田氏の家臣であった長島義輔ら旧奇兵隊士の一部や振武隊の藤山佐熊や鋭武隊の富永有隣ら旧諸隊士1200人が脱隊騒動を起こした。

明治3年(1870年1月13日大森県浜田裁判所を襲撃。1月24日には山口藩議事館を包囲すると、交戦した旧干城隊を撃破し、付近の農民一揆も合流した1800人規模で包囲を続けた。この騒動に対し長州閥の発言力が低下することを恐れた木戸孝允(桂小五郎)が直接鎮圧の指揮をとり、長州藩常備兵300名に加え第四大隊250名・大阪兵学寮80名・上関宇部の援軍100余名からなる討伐軍800名を派遣。2月9日には陶垰・鎧ヶ垰を越えて小郡の柳井田関門で会戦、一時は制圧するも反撃を受けたため三田尻防府)に撤退する。2月11日に再び同地を攻略し脱隊軍を潰走させる。小郡と防府がこの戦いの激戦地[5]とされ、そのひとつである防府の勝坂砲台[6][7]に近い右田ヶ岳山麓の天徳寺では、脱隊軍が立て籠もったため焼失するなどした[7][8]

一連の過程による人的被害は、脱隊軍の戦死60名・負傷73名、討伐軍の戦死20名・負傷64名であった。農商出身者1300名は帰郷が許され、功労者と認められた600名には扶持米1人半が支給された。3月18日の長島ら25名をはじめ、5月6日までに35名が処刑された。この件で処罰された221人の内訳は斬首84名、切腹9名、水牢舎2名、牢舎33名、遠島41名、謹慎45名であった。なお後に関連を疑われた後述の大楽や河上らを合わせると計133名が処刑されている。奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍した。

脱隊騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎には3月5日に出頭命令が下る。大楽自身は包囲活動にも戦闘にも参加していないが、が、前年9月に門弟の神代直人・団紳二郎らの襲撃で暗殺された上、多数の門弟が脱隊騒動に参加していたことで首謀者であると疑われたのである。身の危険を感じた大楽は九州の豊後国姫島を経て旧知の河上彦斎を頼り鶴崎へ逃れる。挙兵を促すも河上に反対されるが、攘夷派志士を糾合し明治政府の打倒を画策する。

しかし、明治4年(1871年3月広沢真臣暗殺事件の捜査中に二卿事件が露見。尊攘志士の影響力が根強い久留米藩の応変隊を頼るが、久留米藩への飛び火を恐れた応変隊士により3月16日に処断された。これに連座し、河上も犯人隠匿罪で逮捕され処刑。

処罰を逃れた奇兵隊士の一部は農民一揆にも参加しており、明治時代初期に多発した士族反乱にも影響を与えたと言われる。また、生き残りの一部は豊後水道の無人島を根拠地に住み着き、海賊にまで身を落としたと言う。かつて干城隊頭取として北越戦争で諸隊と共闘した参議前原一誠は諸隊の解雇および脱隊者の討伐に猛反対し、冷徹な処置を強行する木戸孝允と対立した結果兵部大輔の要職を辞して下野し、後に旧干城隊や四大隊の隊員を率いて萩の乱を起こした。

西郷軍奇兵隊

西南戦争のときに高瀬・田原の戦いに敗れ熊本城の包囲を解いて矢部浜町に退却した西郷隆盛の軍が大隊を中隊に編制替えしたときにつくられた部隊で、野村忍介が指揮し、豊後国(大分県)に進出し、西南戦争の中期・後期に活躍した。

脚注

注釈

  1. 軍事訓練は昼の2時間の休憩を挟んで5時から20時まで13時間に及び、文学稽古も早朝と夜間に各2時間行われた。[2]
  2. ミニエー銃の有効射程距離は最大500mで、会津戦争に於ける戸の口原の戦いで有効射程距離が100m以内のゲベール銃を所有していた会津藩兵は、新政府軍との戦闘開始直後に潰乱した。[3]

出典

  1. 大半が陪臣足軽中間等の下級武士の二男以下の扶養者であった。
  2. 『幕末・維新』 P137〜13
  3. 『幕末・維新』 P136、『会津落城』 P114〜116
  4. 奇兵隊、紆余曲折の軍服転換 (2018年5月11日産経新聞)
  5. 脱隊騒動 - 日本大百科全書コトバンク
  6. 現地説明板「勝坂砲台跡」
  7. 7.0 7.1 脱退騒動 防府市歴史用語集(コトバンク)
  8. 現地説明板「禅 曹洞宗 萬年山天徳寺 由緒」

参考文献

  • 『奇兵隊結成綱領』
  • 『長州奇兵隊名鑑』:名簿
  • 『奇兵隊日記』:全4巻。創設から解散までの記録。
  • 星亮一 『会津落城-戊辰戦争最大の悲劇-中公新書1728』、中央公論新社、2003年、ISBN 4-12-101728-5
  • 井上勝夫 『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新 岩波新書(新赤本)1042』、岩波書店、2006年、ISBN 4-00-431042-3

関連項目