全国高等学校サッカー選手権大会

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開始年 1917年
主催 日本サッカー協会
全国高等学校体育連盟
民間放送43社
参加チーム数 48
前回優勝 前橋育英(1回目)
最多優勝 御影師範(11回)
サイト www.jfa.jp/match/alljapan highschool
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全国高等学校サッカー選手権大会(ぜんこくこうとうがっこうサッカーせんしゅけんたいかい、英語: All Japan High School Soccer Tournament[1][2])は、高校サッカー部の頂点を決めるサッカーの大会。各都道府県代表(東京都は2校)48校による、トーナメント戦で行われる。通称「選手権」「冬の国立」「冬の高校サッカー」。

全国高等学校体育連盟の区分では、全国高等学校選抜大会に含まれている。

歴史

日本フットボール優勝大会の開始

本大会の前身である日本フットボール優勝大会第1回大会大阪毎日新聞社の主催により、1918年1月(1917年度)に、大阪府豊中村豊中グラウンドを会場として開催された[3]

関東関西広島など日本の各地で1910年代初頭から個別に小規模の学生サッカーの試合が行われていた[4][5][6]。そうしたなか1917年5月に東京で開催された第3回極東選手権競技大会極東選手権競技大会サッカー競技)は、国内の各サッカーチームにとって大きな刺激となり、各地でサッカー大会が開かれるようになっていた[7][8][9][10][11][12][13]

また、1910年代から1920年代にかけて関西地方では、朝日新聞大阪本社大阪毎日新聞社(現:毎日新聞社)を中心に主新聞拡販を目的とした多くのスポーツイベントを開催されており、本大会もそのひとつであった[9][14][15]

創設の経緯

この大会は、もともとラグビーの関係者が大阪毎日新聞社に、ラグビー競技の大会として持ち込んだ企画で、日本のラグビーの始祖ともいうべき慶應を関西に招いて試合をしたいという狙いがあって大会名に「日本」という名を冠した。しかしラグビーは、関西には当時3チームしかなく[16]、ラグビー単独では大会が成立しなかった。サッカーの場合は、関西には当時10以上のチームが存在したことから[9]、サッカー(当時はアソシエーションフットボールと呼ばれていた。通称ア式)とラグビーとの共同開催として「日本フートボール優勝大會」が行われた[6][10][17][18][19]。但しこの慶應を呼ぶという話はラグビー部門に限ったことで、慶應のサッカー部(慶應義塾体育会ソッカー部[20])はまだ創部されていないから、サッカー部門とは全く関係がない。結局慶應義塾體育會蹴球部(ラグビー部)は来場したが、相手が中学生ばかりなので怒って棄権して帰ったといわれるが[6][10][21][22]「日本フートボール優勝大會」という名前を付けていたことが、後に一本化する際に優位に働いたとされる[6][23]。つまりサッカーはラグビーの付属大会として始まり、ラグビー部門が前述の理由で付けた「日本フートボール優勝大會」という大袈裟な名前のおかげで生き残ったということになる。なお、サッカー部門と同時に始まったラグビー部門の方も全国高校ラグビー大会の前身となっている。この他、「日本フートボール優勝大會」と銘打っているように当初は「中等学校蹴球大会」という計画ではなかったため[17][24]旧制中学校とは年長となる関西学院高等部[25]第1回から第6回大会まで、神戸高商[26]第3回大会に出場した。当時の関西にこれら旧制高等学校旧制専門学校以上のカテゴリーの蹴球部がなかったから問題がなかったものと思われ[27]『関西サッカーのあゆみ』30、31頁には「日本フートボール大會ですから。なんでも来いや」と記述されている。しかし実際は何でも参加させた訳ではなく、第1回から第8回大会までは関西以外からのチームの参加はなく[10][28]、またラグビー部門のように(慶應は棄権したが)例えば関東から東京蹴球団東京高等師範などを参加させたということもない。こうした他地域からの参入があれば、試合結果が変わるのは勿論、「高校サッカー選手権」の前身である「中学校蹴球大会」とは認められなかったかも知れない。後述するが、同時期に各地で「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が数多く開催されたが、どれも参加は師範学校旧制中学校のみで、これ以上のカテゴリーのチームの参加はなく、またこれらの大会には他地域からの参加があった(#記録上の問題点)。大会は大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会に対抗するべく、ラグビー競技の大会をメインとして始めたため、サッカー関係者には相談がなかった[29]。『日本サッカーのあゆみ』には「蹴球関係者側の意見を尊重してもらう余地もなく、新聞社の方が先に立った」と書かれている[17][18]。この毎日新聞が主催して大阪で始まった大会を現在の高校選手権の前身としている[10]

他地域の大会

同じ年に関東地区で「關東中等学校蹴球大會[30]」(かんとうちゅうとうがっこうしゅうきゅうたいかい=東京蹴球団主催、朝日新聞社の後援)[10][13][31]、名古屋では新愛知新聞社(現:中日新聞社)の主催で「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた[3][9][10][12][17][32][33]。「關東中等学校蹴球大會」は東京蹴球団東京朝日新聞と組んで開催したもので[13][34][35] 第1回大会は、中等學校優勝大会の外、東京高師帝大、外人(外国人チーム)等の模範試合が行われ、大日本体育協会の当時の会長・嘉納治五郎が名誉会長を務め、久邇宮邦久王久邇宮邦英王山階宮藤麿王山階宮萩麿王山階宮芳麿王竹田宮恒徳王殿下の台臨、さらに内野台嶺大会委員長と親交のあった英国大使グリーン、副領事・ウィリアム・ヘーグの来場まであった[9][13][17][36][37][38]1936年に出版された『大日本體育協會史』下巻内の<大日本蹴球協會史>や、やはり日本体育協会が監修して1988年に出版した『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』の中では、この「關東中等学校蹴球大會」が詳述され、毎日新聞主催の大会はほとんど書かれていない[37][39]。この他「關東中等学校蹴球大會」を毎日新聞主催の大会と同様に高校選手権の前身と見なし、歴代優勝校年表を毎日新聞主催の大会と並列に記載した文献もある[40]。大日本蹴球協會はこの大会の3年後の1921年に設立されるが、設立にあたり中心的に動いたのが内野台嶺ら東京高等師範の関係者で「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団を設立したのも内野、後援した朝日新聞社側の担当者が東京府青山師範学校OBで東京蹴球団の選手でもあった山田午郎、「關東中等学校蹴球大會」の名誉会長を務めた嘉納治五郎は、大日本体育協会会長でもあり当時、東京高師の校長でもあった[17][31][35][41][42]。大日本蹴球協会も初期の間は、師範学校系の幹部たちが力を持っていたため、彼らの多くが関与した「關東中等学校蹴球大會」の方をある時期までは支持していたためと見られる[31][37][41][43][44][45][46]。毎日新聞主催の大会は、当初は大日本蹴球協会がタッチできなかったと言われるが[17][47]第9回大会からの全国大会移行にあたっては野津謙ら、大日本蹴球協会の大学OBが関与したため[34]#全国大会へ(第9回〜)

1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で[48]、毎日新聞主催の大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が[49][50][51]1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が[52]1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」[53][54][55]八高主催の「全国中等学校蹴球大会」[55]東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」が[56]1925年には関西学院高等部主催(大阪毎日新聞社後援)の「全国中等学校ア式蹴球大会」が[48]、その他刈谷中学広島高専主催でも「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が[57]、その後全国各地で新聞社や蹴球団、大学旧制高校師範学校など、学校主催による「中等学校蹴球大会」がいくつも行われるようになり、競技会の乱立時代といわれた[6][34][48][58][59][60]1932年から1933年にかけては、全国各地で22も中等学校のサッカー大会があった[57][59][61]。1933年に関西大学主催で行われた「関西中等学校蹴球大会」などは、他地域からの参加も含めて37校が集まる大きな大会で[57][59][62] 同年の毎日新聞主催大会の参加12校を大きく上回る規模であった。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」第1回大会(1924年)には、関西や広島からも参加があったように[55][63]「全国中等学校蹴球大会」と付けられた大会や、先の「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」などは、所在地域の参加が主で全国規模の参加まではいかないが、どの大会にも他地域からの参加があった[54][55][56][64][65]。ところが、毎日新聞社主催の大会は「日本フートボール優勝大會」と名乗っていても、第1回から1925年の第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がなかった。「全国中等学校蹴球大会」という名前の大会が多いのは、主導権争いが目的であったといわれる[33]1934年に大阪の毎日新聞社主催の大会に一本化されたが(#大会の一本化)、現在の高校選手権は、これら全てを源流とする見方も出てきている[9][60]

カテゴリーの問題

多くの大会で師範学校旧制中学校と同じ大会で争ったため、年齢のハンデを無視したものとして非難もあった[34][66]。旧制中学校と師範学校とでは就学年齢が一致せず、体力差が大きく影響して中学校側がいつも優勝圏に近づけない不満を持っていたので、中学校の部と師範学校の部を区別してそれぞれ公平に戦わせるのが理想であった[53]。戦前の学校制度は複雑で、さらに飛び級や、旧制中学入学に年齢制限がないようなことがあり分かりにくいが、基本的に師範学校は小学校を卒業後、高等小学校2年を経て、5年制の師範学校に行くので卒業時は19歳となるが、旧制中学校は小学校卒業後、5年間行くため卒業時17歳となり、年齢で3年重なり、最上級生のとき師範学校が2歳上となりハンデが生じる(日本の学校制度の変遷[67]。第1回大会から第7回大会まで七連覇した御影師範は、年齢が高かったこと、また師範学校は全寮制で、年中合宿をしているようなものでチームワークが良く、練習も充分にやれ、旧制中学のチームは適わなかったといわれる[10]。当時は柔道や庭球などでも師範学校と旧制中学校は同じ大会で試合を行うことが多かった。これは各都道府県のスポーツ史等を見れば確認できる。中等野球(高校野球)でも戦前に福島師範長野師範などが全国大会に出場したことがある[68]。サッカーの「関東中等学校蹴球大会」は、この大会名で朝日新聞に広告も打った[69]。大新聞に「中等学校大会」と広告も打って普通に師範学校が出場しているのだから、特に問題はなかったものと思われる。本来は師範学校と中学の部は分けて行うべきなのだが、しかしこの二分野を別立てすると大会そのものが成立しなかったと『東蹴六十年史草稿』22頁に書かれている。それが何故なのかはこの本に書かれていないが、この時代サッカーをやっている学校自体が少ないから、師範学校と中学を別々に分けるとチーム数が少なくなり、例えば各5チームずつの参加ではトーナメント大会として成立し難く盛り上がりに欠ける、あるいは、元々サッカー自体に人気がない上、中学の大会ならまだしも、師範学校の大会は地味で人気がなく、師範学校だけの大会では成り立たなかったため一緒にやらざるを得なかった、等といった理由が考えられる[66][70]。毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大會」は、カテゴリーを問いていないので、この問題は本来関係がないが、その毎日新聞社主催大会を第9回大会から全国大会に移行させるおり、この二つを分けるという案を大日本蹴球協会が出したが、毎日新聞社側に断られたという[34]。新聞社がスポーツの大会を支援するのは、新聞の拡販や、広告獲得などの目的があるためと見られ、新聞社の主催でない学校主催の大会では、この二つを分けて開催することがあった。東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」では1924年の第1回大会から、師範学校の部と中学の部は別々に行われた[9][56]八高主催の「全国中等学校蹴球大会」でも、1926年の第4回大会からこの二つを分けている[55][56][59][71]。この他、旧制大学旧制高等学校大学予科大学専門部高等師範学校旧制専門学校は、師範学校とは年齢が重なる場合もあるが、旧制中学とは年齢が上で重ならないため、これらに所属するチームが「中学校大会」に参加することはあっても、優勝を争うトーナメントのような公式試合で対戦することはない。中学校と対戦することがあるのは模範試合や練習試合である。前述したように毎日新聞主催の大会に関西学院高等部神戸高商が出場したのは「中学校大会」ではないからで[17]、このように「中学校大会」と銘打っていない年齢制限などを設けていない大会では対戦することがあった。広島一中神戸一中などは、中学校でも強かったから、天皇杯の本戦や極東選手権日本代表全国予選などに出場し、これら上のカテゴリーのチームとも対戦した[45][72]。なお、旧制高等学校1923年から「全国高等学校ア式蹴球大会」が、旧制大学大学予科旧制専門学校なども各地で大会やリーグ戦があった[48][73]

毎日新聞主催(第1回 - 第8回大会)

毎日新聞主催の「日本フートボール優勝大會」の第1回大会から第8回大会までは、関西の学校のみ参加の大会であった[18]。当時は関西でもサッカーをやっている学校は多くはなかったから、初回は予選をする程のこともなく主催者側の推薦で出場チームを決めた[74]第8回大会では、出場の申し込みをした全チームが出場していることから、第1回〜第8回大会の間は、主催者側から推薦されれば、あるいは学校側から申し込めば、予選なしで全てのチームが参加できたとみられる[75][76]。予選制となったのは参加チームを全国に拡大させた1926年の第9回全国中等学校蹴球選手権大会第9回大会からである[10][28][75]。このため第1回大会から、大阪兵庫からは複数の学校が参加し、第8回大会では、和歌山奈良滋賀京都からは、各1チームに対して、大阪からは11チーム、兵庫からは7チームが参加した。当時は兵庫勢の力が抜けていたから、第1回〜第8回大会までの決勝のカードは、兵庫×大阪、兵庫×京都か、兵庫同士のいずれかになる。関西地区以外の参加に関しては『神戸一中サッカー部史』[77] や、『広島一中国泰寺高百年史』[78] 等に、広島一中は、毎日新聞の大会は出場できず、神戸高商主催(朝日新聞後援)の「全国中等学校蹴球大会[48]」に出場し、毎日新聞の大会を連覇中だった御影師範を二年連続で破って優勝した、と記述されていることから[50][79] 第1回大会から第8回大会までは、関西地区以外の学校は参加させない、実質的に関西ローカルの大会であった[9][10][28]。これは参加チームを見ても分かるし、多くの文献に記述されている[28][80][81]。第1回から第7回まで御影師範が連続優勝したとされるが、これは正確には日本一とはいえない[28]。また当時の交通事情は非常に悪く[9]賀川浩は「当時の遠征試合はハンディキャップが物凄く大きいため、地元の大会で御影師範や神戸一中が勝ってもあまり威張れない」などと述べている[9]1921年に名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会[52]」が、東京府青山師範学校豊島師範明倫中学愛知一師御影師範姫路師範など、関東、東海、関西地区から10チームが参加して名古屋で行われたが、ここでも御影師範は関東の東京府青山師範学校に敗れている[55][82]。この大会の決勝戦は東京府青山師範学校×明倫中学である。御影師範は毎日新聞主催の第1回大会から第7回大会までを七連覇するが、他の大会に出場すると負けることがあったことから、この毎日新聞の大会は、他の多くの大会と同程度のレベルであったと考えられる。大会の権威に関していえば、『高校サッカー60年史』の32頁に「東京ではそうでもなかったらしいが、大阪では大新聞の主催でないと大会に権威がなかった」、38頁に「私達御影師範では毎日新聞の大会を最高峰としていて、他の蹴球大会は前哨戦、準備大会位に考えていた」という記述や、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』107頁に「大日本蹴球協会が設立される(1921年)まで、最も権威のあるフットボール大会は大毎の主催する全国蹴球大会で、その後も関西では蹴球大会の最高峰の一つであった」という記述が見られるから、関西の他の大会よりは権威があったのかも知れない。しかし、神戸一中の選手たちは「近畿のチームだけの毎日新聞の大会より、広島一中や広島高師附属中学の広島勢が来る神戸高商主催の大会で勝つ方が値打ちがある」と言っていたという賀川浩の証言もある[83]静岡県立藤枝東高校のサッカー部60年史[84] には、「われわれ志太中学(藤枝東高校)の全国大会の初優勝は、1931年東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」で、此処に全国津々浦々に志太中サッカーの名声を響かせた」と書かれている[9][85]。この東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」というのも、1924年から1932年に9回開催された全国規模の中等学校サッカー大会で、東日本の学校がほとんどだが、近畿や東海地区の学校も参加した大きな大会であった[56]。志太中学は毎日新聞主催の大会が全国大会になっても、戦前には毎日新聞主催の大会の予選には出場していないようで[86]、つまり学校によっては、特に関西以外の学校にとっては、毎日新聞主催の大会を唯一の全国大会とは捉えておらず、乱立していた他の全国大会等を選んで出場していたものと見られる。毎日新聞社主催の大会が1925年度の第9回大会から全国大会となり"名実とともに全国大会として発展した"と書かれた文献もあるが、すぐに唯一の全国大会と認知された訳ではなく、徐々に認知されていって、"名実とともに全国大会""唯一の全国大会"として完全に認知されたのは、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会が終了した第16回大会に以降の話と考えられる[6][34]。『高校サッカー60年史』32頁に「毎日新聞主催の大会は準備委員会[87] がともかく強力で、大日本蹴球協会ができてからも、協会はタッチできなかった」、また「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団の団史には「東京ではサッカーの関係者が主体で、朝日新聞の方が善意の後援をしてくれたのだが、他の二つは新聞社の方が強力に推進された。これはこれらの地域のサッカー関係者が、まだ微力だったといった方がよいのかも知れない」[88] と書かれており、

第8回大会は、旧制専門学校と中学の部を分けて実施した[89]。専門学校の部の出場チームは早稲田高等学院官立神戸高商松山高等学校関西大学関西学院の5校で、決勝は早高2-1関学。何故分けて実施したのかは『高校サッカー60年史』にも記述がないが、翌年の「全国中等学校蹴球選手権大会」移行に伴い、カテゴリーが明らかに中学より上のチームを切り離すということかも知れない。各試合の結果他、詳細が『高校サッカー60年史』に書かれておらず、翌年の第9回大会以降の大会に旧制専門学校の部の結果は記載がない。『輝く埼玉サッカー75年の歩み』1082頁には「第8回大会"から"高専の部と中等学校の部に分け、会場も甲子園球場に移って開かれたのである」と書かれているため[90]、その後も継続されたと見られるが詳細は不明。

全国大会へ(第9回〜)

1925年度の第9回大会から、全国をいくつかのブロックに分け、その予選優勝校で"本当の全国大会"に飛躍させようとの気運が高まり、全国での地区予選制となって、名称も「全國中等學校蹴球選手權大會」と改められ、ラグビー大会と分割、関西の学校以外の学校も参加する全国規模の大会に成長することになった[81][91]。前述のように第8回大会までは大日本蹴球協会は運営にタッチできなかったようであるが、この第9回大会からの全国大会移行にあたっては、毎日新聞からの要請で田辺五兵衛野津謙鈴木重義ら、大日本蹴球協会の関係者が運営に関与した[34]。ここで年齢制限の問題が出て、それまで年齢では2歳上となる師範学校が中学校と同じ大会で争っているという問題点について、別々に分けるという案も出されたが、この第9回大会から参加を予定していた朝鮮地区の選手が、戸籍を持たず、年齢確認が困難ということが分かったこともあり、引き続き一緒にやることになった[34]。この後、1929年第11回大会)、1935年(第17回大会)の二度に渡り、年齢制限が加えられたため、師範学校チームは弱体化したという[92]。なお、毎日新聞が中等野球の全国大会を持とうと考えたのは、このサッカー大会がマイナーなまま、朝日新聞主催の夏の全国中等野球大会に対抗できなかったからという見方がある[93]

大会の一本化

1925年度の第9回大会から、毎日新聞社主催の大会は全国大会になったが、全国各地にあった大会も、これ以降も続けられていた。毎日新聞社主催の大会が形を整えてゆくにつれ、これらの地方大会をどうするかという問題が起ってきた[34]。「全国大会」と銘打ったものも他にたくさんあったが、毎日新聞社主催の全国大会が規模内容が最も大きくなり、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会は終了した[6]。これらを指示したのは大日本蹴球協会で[34]、この1934年から大日本蹴球協会が主催に加わった[80]。一本化にあたっては、他の地域からは大きな抵抗があり[9][33]、中でもやはり「關東蹴球大會」が最後まで問題となったが、サッカーの将来を考え終了を受け入れたという[34]。毎日新聞社主催の大会に一本化されたのは、ラグビーの大会をするために付けた「日本」を大会名に付けていたこと、「關東蹴球大會」は朝日新聞の後援で主催でなかったことが、有利に働いたともいわれる[23]。当時、大日本蹴球協会の大学OBが主導権を握るため、師範系OBを排除しようとしていたというから、野津謙ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ、野津らが関与した「毎日新聞社主催大会」が支持を増やし、師範系OBが大きく関わっていた「關東蹴球大會」は、支持が減っていったのかも知れない[43][44][94]。この他、一新聞社に遍することのないよう、また全国の中学校へサッカーを普及振興させようと文部省に主催を移すという案も検討されたことがあった[34]

以降、太平洋戦争による中止を挟み、戦後の学制改革で現在の名称となっても西宮球技場を主な会場にして関西での開催が続いた。1948年(昭和23年)4月新制高校が発足。同年6月に全国高等学校体育連盟(高体連)が創立され、本大会に主催団体として加わることになった[95]

高校総体の開始と毎日新聞社の主催終了

1965年全国高等学校総合体育大会(高校総体、インターハイ)が夏の大会として整備され、翌1966年にはサッカー競技が全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会として加えられ、秋の国民体育大会サッカー競技高校の部(国体)を合わせると、高校サッカーの全国大会は3つとなった[96]。当時の文部省は文部省の通達により、学校教育活動としての高校スポーツの全国大会は国体を除いて年一回しか認めていなかったため、日本蹴球協会と全国高等学校体育連盟(高体連)は冬の高校選手権を夏の高校総体に組み入れようとした。この動きのなか、毎日新聞社は第1回大会から行っていた本大会の主催を終了し、結局は日本蹴球協会が単独で冬の高校選手権を開催することになった。1966年度大会は、毎日新聞社の主催終了による経済的な影響や文部次官通達との関係により、出場校が前年の32校から16校に変更され、夏の高校総体の上位2校と、秋の国体の上位4校、地域推薦の10校となった。各地域の予選も、文部次官通達との関連で公式には行わず、地域推薦とする建て前となった。16校での開催は、1970年度大会まで続いた[97]。また、1966年度から大会の回数が大会名から外されるようになり、1980年度の第59回大会で復活した[98]

読売新聞社後援へ

1970年から国体が各都道府県選抜の参加となり、インターハイとは別に「選抜大会」として競技ごとに全国大会を開くことが認められた。これにより高体連としては選抜大会の扱いをするということで、第49回大会(1970年度)から主催に復帰した。

一方で当時読売新聞社を中心とした読売グループでは、将来的なプロ化も睨んだ本格的なサッカークラブである読売サッカークラブ1969年に発足させるなど、サッカーに対して力を入れつつあった。そうした動きの中で「クラブの長期的な存続には、将来的な選手の供給源の充実が不可欠である」として高校サッカーに対する支援を行うことになり、1970年8月には日本テレビの主催で全国の強豪校11チームを招待した「高校サッカー研修大会」を開催した。読売新聞社・日本テレビではこの研修大会を継続して開催する意向だったが、夏場はインターハイや国民体育大会の予選など試合数が多く、日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、以下JFA)側では研修大会の継続は難しいと判断。そこで代替策として、JFAでは本大会の後援に読売新聞社が加わること、並びに日本テレビが大会の中継を行うことを提案。これを読売新聞社側が了承したことから、高体連の主催復帰と時を同じくして日本テレビが大会のテレビ中継を行うことになった[33][75]

しかし以前より決勝戦のテレビ中継を行っていたNHKが日本テレビへの中継の移行に難色を示したため、第49回大会(1970年度)は決勝戦のみNHKと日本テレビの2局同時中継という異例の形になった[99]。第50回大会(1971年度)から日本テレビ系列の独占中継体制になったが、高体連はこれに反発し全国放送のNHKによる中継を廃するからには「最低でもNHKの8割のエリアをカバーできる放送体制を取る」よう要求した。当時の日本テレビのネットワーク体制ではとても無理な注文だった[100] が、ここで電通が仲介に入り当時のTBS系列のローカル局[101] と折衝を行い、日本テレビをキー局としつつTBS系列を含めたローカル局による全国38局の中継体制を築くことに成功。これにより第50回大会より正式に中継が日本テレビに移行した[102][103]。『関西サッカーのあゆみ』では「高校野球は朝日と毎日がやっているが、それにはどうしても入れない読売と日本テレビが、何が何でも高校サッカーを取りたいと電通を絡ませて関西から奪った」と書かれている[104]

全国テレビ中継とスポンサーを得た本大会の運営は強化される方向に向かい、特例としてインターハイとは別の選手権として高校サッカーの最高峰の大会と位置づけられるようになった。

1971年度の第50回大会は、長居競技場が主会場となり、1回戦と2回戦では西宮球技場神戸中央球技場が併用された[105]。翌年からの第51回大会第52回大会第53回大会第54回大会では、長居競技場とうつぼ球技場が会場となった[106][75][104]

決勝大会の首都圏への移転

第55回大会(1976年度)からは、決勝大会の会場を首都圏(東京都千葉県神奈川県埼玉県)に移すこととなった。元々日本テレビやJFA関係者の間では決勝大会を首都圏で開催したいという要望が強かったことに加え、当時日本テレビで本大会の中継スタッフだった坂田信久が「(日本テレビに中継が移って)最初の2年で関西ではスタンドを満員にするのは厳しいとわかった」と語っているように、大会の採算面からも関西開催では大会の発展が厳しいという認識が関係者の間で広まり、最終的に高体連の47都道府県の委員長会議で多数決により会場の移転が決まった。しかし現在もなお、関西のサッカー関係者にはこの決定に不満を唱えるものが多数存在するという[107]

さらに第62回大会(1983年度)からは、原則として1都道府県1代表制で実施されるようになり(それ以前は、第60回記念大会(1981年度)を除き、都道府県大会のあと、さらに東北や九州などの地域大会で代表校を決めていた)、現在に至っている。

開会式・準決勝・決勝(年度により準決勝は他のスポーツ大会の都合で別会場)は旧国立競技場で大々的に行われており、高校サッカー選手たちは「目指せ!国立」を一つの合言葉にしていたが、2013年5月に旧国立競技場が閉鎖→2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴う全面改築工事に入ったため同年-2014年の年末年始にかけての大会以後は、暫定的に開会式を駒沢オリンピック公園陸上競技場、準決勝・決勝は埼玉スタジアム2002をメイン会場として行っている。

現在

近年はクラブユース勢の台頭とそれに伴う人材のシフトにより、ユース年代のサッカー大会としてのプレステージが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会、その後継大会である高円宮杯U-18サッカーリーグに移行し、当大会のレベル低下を指摘されているが、今なお多くの高校サッカー部の選手にとっては最も価値あるサッカートーナメントの位置を占めている大会であり、社会的にも最も大きな注目を集めるサッカー大会の一つである。また、クラブユースの台頭に伴って、かつて優勝を寡占した名門校の地位が下がり、また近年のサッカーの普及に伴って各地域の底上げがなされた。

この大会の優秀選手から選手を選抜し、1973年から毎年4-5月に行われるヨーロッパでのユーストーナメント大会(隔年で偶数年にスイスベッリンツォーナ奇数年にドイツデュッセルドルフ)に日本高校選抜チームとして出場している。また、かつては「ニューイヤーユースサッカー」として、ヨーロッパのユース年代のチームを招待した交歓大会もあり、日本高校選抜もそれに出場した。第88回大会(2009年度)終了後は、海外遠征前に本大会協賛社の富士ゼロックスが特別協賛している「FUJI XEROX SUPER CUP」の前座試合として、U-18Jリーグ選抜(高校1,2年生)との親善試合が組まれる。

第91回大会(2013年)の決勝戦は当初1月14日に行われる予定だったが、降雪により中止。当初は、大学入試センター試験(1月19・20日)などで3年生に影響が出る可能性があるために両校優勝の措置をとることも検討されていたが、決勝を戦う両チームの登録メンバーの中にセンター試験受験申込者がいなかったため、試合を1月19日に順延することに決定した。悪天候による決勝戦の順延は史上初(中継は録画放送)[108][109]。なお、1月14日に予定されていたテレビ中継についても、内容が大幅に変更された(詳細は#テレビ中継の項目)。

大会歌

開催方式

  • 都道府県大会は、おおむね9月から11月にかけて各都道府県で行われる。大会の試合方式は、各都道府県により多少異なる。原則として、各都道府県予選に優勝した学校が全国大会に出場するが、東京都のみ2校出場が認められ、全48校でトーナメントを戦う。なお北海道からの出場校は、高校球技の全国大会では珍しく1校のみである[110]。また末尾0および5の回が「記念大会」と称されることはなく、全国大会出場校の増枠も行われない。
    • 三重県大会では、まず1次トーナメントを行い2次予選に進む8校を選出。2次予選では4校のグループに分けてのリーグ戦を行い、上位2校が準決勝に進むというシステムが取られていた。
    • 実力が他校よりも突出している、あるいはプリンスリーグに参加しているなど試合数が多くてスケジュール調整が難しい高校の場合、スーパーシードと呼ばれてかなりの段階までシードされることがある。例を言うと第92回大会の青森県予選では青森山田は準決勝からのシードだった。
    • 第69回大会(1990年度)では、武南習志野清水市商国見が推薦出場で予選免除されたため、全52校で争われた。
      • この年度は、都道府県大会が行われていたのと同時期に開催されたAFCユース選手権に、日本代表として上記の4校から選手が選出されていたため、推薦出場という措置がとられた。
    • 第79回大会(2000年度)では、前年度優勝の市立船橋が推薦出場で予選免除されたため、全49校で争われた。しかしその市立船橋が早々に敗退してしまったことが「予選免除による調整不足」と判断され推薦出場枠は翌年から廃止に。
  • 全国大会はトーナメント方式の一発勝負で行われる。全国大会の場合、警告2回で次の試合出場停止。1試合警告2回、もしくはレッドカードで退場。
  • 試合時間については次の通り行う。
    • 準々決勝までは前後半40分ハーフの計80分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
    • 準決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
    • 決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、同点の場合は前後半10分ずつ計20分の延長戦を行う。延長戦終了後、同点の場合はPK戦で決着をつける。
      • 第78回大会(1999年度)まで、決勝で延長戦でも決着が付かない場合、両校優勝としていた。
      • 第81回大会(2002年度)まで、決勝も前後半40分ハーフの計80分で行われていた。
      • 第86回大会(2007年度)まで、準決勝も準々決勝までと同様の試合形式で行われていた。

使用会場

前述の通り首都圏(1都3県)の複数会場(おおむね9会場前後)が使用される。多くの会場が、施設改修や芝の張り替えなどの理由で、毎年のように会場が変更される(通常使用されない会場が使用される)のが特徴である。

第96回大会(2017年度)の会場

以前使用されていた会場

関東へ移転後も、Jリーグ基準を満たすスタジアムが増加したことから、2000年代から使用されなくなった会場もある。また、通常は使われないが本会場の施設改修に伴い代替会場として使用されるケースもある。

関西開催時代[112]

関東へ移転後

国立競技場での試合開催

国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)でのプレーが許されるチームは、開幕戦を戦うチーム(1つは東京都代表のどちらか)とベスト4のチームの最大6チームのみであり、厳しく狭き門であると言える。開幕戦のなかった第77回(1998年度)以前はさらに厳しく、ベスト4の4チームだけであった。「目指せ国立」は、この大会のキャッチコピーともなっている。

  • 1月に国立競技場で行われる全国大学ラグビー選手権大会決勝との日程重複のため、当大会の準決勝を国立競技場以外で開催した事例もある。その場合、当大会で国立競技場のピッチに立てるチームは最大4チーム(国立競技場での開幕戦実施以前については2チーム)に減少する。
    • これに該当するのは第62回大会(1983年度)・第67回大会(1988年度)・第87回大会(2008年度)。第62回・第67回の準決勝は駒沢陸上競技場、第87回の準決勝は埼玉スタジアム2002で開催された。第67回については、1989年1月7日昭和天皇崩御したため準決勝は1月9日に延期されたが、会場は変更せず駒沢陸上競技場で開催された。

なお国立競技場は2019年の開催が決定したラグビーワールドカップ2019及び2020年の開催が決定した東京オリンピック・パラリンピックへ向けた全面建て替え工事の施工(2016年12月着工〜2019年11月竣工予定)に伴い、2014年1月に行われる第92回大会(2013年度)の決勝をもって一旦会場から外れることになる。第93回大会(2014年度)以降については、開幕戦を駒沢陸上競技場で、準決勝・決勝を埼玉スタジアム2002で開催する[111]

日程

同大会は選手の健康管理を考え、第73回大会(1994年度)より、それまでの新年元日1月1日)開幕(試合は1月2日から)から年内12月30日開幕(試合は大晦日12月31日)から)に早め、試合日程に余裕を持たせる措置をとった。これに伴い、以前は3回戦と準々決勝の中間日(1月5日)のみだった休養日が拡大され、3回戦と準々決勝の中間日(1月4日)に加えて、1回戦と2回戦の中間日(元日)、準々決勝と準決勝の中間日(1月6日)も休養日に当てられるようになった。

なお、第81回大会(2002年度)以降は、決勝戦をハッピーマンデー制度が適用された成人の日(1月第2月曜日)に移動して、さらに余裕を持たせている(ただし、1月第2月曜日の成人の日が1月8日であった、第85回大会(2006年度)については、準々決勝と準決勝を1月5・6日の連続開催とし、7日を休養に当てた。また、第86回大会(2007年度)は、1月6日が日曜日である点を考慮して準決勝を開催)。第91回(2012年度)は、準々決勝を1月5日に行った後、1週間空けて1月12日に準決勝・19日に決勝(14日の成人の日に開催予定のところ、降雪により延期)とする日程が組まれた[108]

このように、大会後半(準々決勝と準決勝、ないしは準決勝と決勝)の日程の間隔が開いたことにより、その間のコンディションの維持、もしくは回復が新たなポイントとなった。

開幕戦

元日開幕の頃は、開会式は天皇杯決勝戦の前座イベントとして行われていた(開幕式の模様は1月2日に1回戦の実況に先だって放映されていた)。ところが、12月30日開幕となって以降、開幕日は開会式のセレモニーのみ行われ、試合自体は行われていなかったため、観客動員の減少が懸念されていた。これをふまえて、第78回大会(1999年度)から一部変更し、開会式直後に「オープニングマッチ」を開催することになった。

初めて開催された第78回大会では集客を考え、地元の東京のチームの試合が選ばれた。東京都は毎年2校出場するが、この年は帝京高校が2回戦から登場のシード校だったため、もう一校の国学院久我山高校の試合と事前に決められた(抽せんの結果対戦相手は沖縄県の具志川高校となった)。

次年度の第79回大会(2000年度)では、趣向を変えて、前年度優勝チームの市立船橋を推薦出場とし、対戦相手を抽せんで決めて開幕戦を開催してみたものの、その後、同校が2回戦敗退(PK戦による)と成績がふるわなかったことから、前年度優勝チームの推薦出場・開幕戦招待はその年度限りで廃止。第80回大会(2001年度)以降は、1回戦の対戦カードのうち、神奈川県、埼玉県、千葉県代表の試合を除いたものの中から1試合抽出し、対戦カードが決定されるようになった。さらに第86回大会(2007年度)より、東京B代表のチームの試合が1回戦に組まれた場合、その試合が最優先で開幕カードとなることになった。

結果と統計

主催

担当都道府県 参加民放社名 放送系列 備考   担当都道府県 参加民放社名 放送系列 備考
東京都 日本テレビ NNS 主幹局   愛媛県 南海放送 NNS
茨城県 高知県 高知放送
北海道 札幌テレビ 山口県 山口放送
青森県 青森放送 福岡県 福岡放送
岩手県 テレビ岩手 佐賀県
宮城県 ミヤギテレビ 長崎県 長崎国際テレビ 1991年開局
秋田県 秋田放送 熊本県 くまもと県民テレビ 1982年開局
山形県 山形放送 大分県 テレビ大分 NNS/FNS 2000年から放送開始[114]
福島県 福島中央テレビ 鹿児島県 鹿児島読売テレビ NNS 1994年開局
新潟県 テレビ新潟 1981年開局 宮崎県 宮崎放送 JNN [115]
長野県 テレビ信州 1980年開局 沖縄県 沖縄テレビ FNS
山梨県 山梨放送 栃木県 とちぎテレビ 独立局 1999年開局
静岡県 静岡第一テレビ 1979年開局 群馬県 群馬テレビ 1971年開局
愛知県 中京テレビ 埼玉県 テレビ埼玉 1979年開局
富山県 北日本放送 千葉県 千葉テレビ放送 1971年開局
石川県 テレビ金沢 1990年開局 神奈川県 テレビ神奈川 1972年開局
福井県 福井放送 NNS/ANN 岐阜県 岐阜放送
大阪府 読売テレビ NNS 三重県 三重テレビ
鳥取県 日本海テレビ 1989年フルネット化 滋賀県 びわ湖放送 1972年開局
島根県 京都府 京都放送
広島県 広島テレビ 奈良県 奈良テレビ 1973年開局
香川県 西日本放送 1979年相互乗り入れ 和歌山県 テレビ和歌山 1974年開局
岡山県 兵庫県 サンテレビジョン
徳島県 四国放送

過去の参加放送局

担当都道府県 民放社名 現在の系列 中継終了年次 引き継いだ社名 系列 理由
岩手県 IBC岩手放送 JNN 1982年 テレビ岩手 NNS 系列局への一本化
福島県 福島テレビ FNS 1976年 福島中央テレビ 系列局への一本化
栃木県 日本テレビ NNS 1999年 とちぎテレビ 独立局 地元局開局による移行
新潟県 新潟放送[116] JNN 1983年 テレビ新潟 NNS 系列局への一本化
長野県 信越放送 1990年 テレビ信州 長野朝日放送(ANN系列)開局による
テレビ信州フルネット化のため
静岡県 静岡放送 1983年 静岡第一テレビ 系列局への一本化
石川県 北陸放送 1990年 テレビ金沢 系列局開局による移行
愛知県 名古屋テレビ放送 ANN 1973年 中京テレビ 系列整理による一本化
島根県 山陰放送 JNN 1971年 日本海テレビ 日本海テレビへのNNS
番組一本化のため
岡山県 山陽放送 不明[117] 西日本放送 相互乗り入れ後もしばらく放送
系列局へ一本化
長崎県 長崎放送 1991年 長崎国際テレビ 系列局開局による移行
熊本県 熊本放送 1982年 くまもと県民テレビ 系列局開局による移行
大分県 大分放送 1999年 テレビ大分 NNS/FNS 系列局への一本化
鹿児島県 南日本放送[118] 1994年 鹿児島読売テレビ NNS 系列局開局による移行


後援

補足

  • 毎年、日本テレビ(主幹局)+NNS系列放送局[119]+独立局(若干局)が、幹事局とされている。
  • かつては一部地域において、1つの県で2つのテレビ局が共同で主催・制作していた時期があった。例えば静岡県では静岡第一テレビと静岡放送が(静岡県においては参加社の切り替えが行われた1983年度第62回大会に限り、両社で決勝戦・清水東帝京が同時放送された[120])、長野県ではテレビ信州と信越放送が、長崎県では長崎国際テレビと長崎放送が、熊本県ではくまもと県民テレビと熊本放送が共同で行っていた。石川県では1990年のテレビ金沢開局後も、石川県大会は1994年まで北陸放送で放送されていた。これらは、NNS系列局が開局して年数がまだ経っておらず、制作能力がまだ弱かったことや、テレビ信州についてはテレビ朝日系列メインのクロスネットだったことと、フルネット後も信越放送が長野県大会の主催を続けており、SBC杯兼高等学校選手権長野県予選といったねじれ解消に時間がかかったため(2000年度より県大会の放送もテレビ信州へ移行し、SBC杯はインターハイの県予選に移行[121])。さらに新規開局の放送(平成新局)の多くは、UHFであり、中継局が十分に整備されておらず、同じサービスエリアの県であっても、直接受信で視聴できない地域(ケーブルテレビでは配信しているため視聴可能世帯多い)が存在するためによることも挙げられる。
  • また、日本テレビ系フルネット局がない、もしくはあっても、クロスネットでメインネットが日本テレビ系でない地域では、系列に関係なくテレビ第一波目のVHF局が参加放送局だった地域が多かった。そのため、JNN系列局が参加していた地域もあった[122] 。しかし、日本テレビ系の新局が開局したことにより、制作参加局がそちらへ移るようになったため、現在は宮崎放送のみとなった。また日本テレビフルネット局がない沖縄の担当局である沖縄テレビもテレビ第一波目のVHF局である[123]
  • 三重県は現在、三重テレビが担当しているが、日本テレビが中継を開始した当初は名古屋テレビが、1973年4月の系列整理による一本化から1980年度の大会までは、中京テレビが担当していた(三重テレビが放送を開始した時期は、1981年度の第60回記念大会から)。
  • 優勝校には持ち回り賞品の優勝旗[124]文部科学大臣杯、ミドルセックス・ワンダラーズ杯[125]、アルゼンチン共和国杯、チャーリー・マイヤー杯[126]。永久保持の表彰状、文部科学大臣賞状、民放杯(金色)、協賛各社から贈呈される協賛社杯が授与される。民放杯は当時の日本テレビプロデューサー・坂田信久によってデザインされた。なお準優勝・3位校にも民放杯、協賛社杯(準優勝は銀色、3位は銅色)が授与されている。

協賛

テレビ中継のオープニング・エンディングでのスポンサー紹介では、各社のコーポレートメッセージ・キャッチコピーが付け加えられる形での紹介方法である(年度によっては付かないスポンサーもある)。なお、協賛字幕は地方大会決勝戦と、全国大会1回戦-準々決勝までは後述の映像をバックに通常の白文字、準決勝と決勝は薄い白地絨毯+各社カラー表示を行っている。

  • 帝人
    帝人の新CI導入以前("カタカナ"ブランド名義時代)は協賛企業として参加した頃から、ムーミンを起用した帝人グループ(テイジングループ)のCMが主に放映されていた。
    現行のものは、主にスポットCMで流されているバージョン(※15秒ver.)のロングバージョン(※30秒ver.)がほとんどである。第94回大会(2015年)では、サッカーをアクティブに活動している若者たちを応援する企業CMを放映している。当該CMでは、帝人が取り組んでいるサッカー関連の社会貢献活動も合わせて紹介している。
    なお、全国大会出場校には、同社より記念のサッカーボール(PUMAが帝人製の素材で製造したもの)が贈呈される。
  • トヨタ自動車(第89回大会から参加)
    第90回大会(2012年)では、ヴィッセル神戸所属の森岡亮太が出演した、高校サッカーへのエールを送るオリジナルCM(トヨタ・ウィッシュとのコラボCM)が放映された。
    また、第90~95回大会では各都道府県大会決勝からベスト4の歩みまでの提供時は「(Tのマーク)TOYOTA」の表示だったが、準決勝以後は「FUN TO DRIVE, AGAIN. (Tのマーク)」と表示していた。第96回大会(2018年)からは、提供表示が「Start Your Impossible (Tのマーク)」に変更している。
    トヨタ自動車は2014年まで、FIFAクラブワールドカップの協賛会社として大会運営した。
  • プーマ(プーマジャパン)
    この中継で放送されるCMはオリジナル。高校サッカー経験のある同社契約のプロサッカー選手が、ハイライト映像&思い出とともに語るというもの。CMの最後は、高校サッカーにエールを送る。
    例外として、第93回大会では無名の高校生プレイヤーを160人起用した迫力あるプレーを前面に出した内容を放映している。
    第87・91回大会の三浦知良(高校を早くに中退しブラジルへ渡る)や第89回大会の駒野友一(Jリーグのユースチーム出身)のような高校サッカー未経験選手が起用される場合は、内容が異なる。
  • 明治:第89回大会までは明治製菓(第87回大会までは「Meiji」名義、第88・89回大会は「meiji明治製菓」名義)
    旧明治製菓時代より、同社の菓子類や、サプリメント「ザバス」のCMが放送されている。また都道府県予選から決勝にかけての時期が、秋から冬と風邪の流行期に差し掛かることも関係してか、うがい薬「イソジン」[127]→「明治うがい薬」のCMも放送されている。
    第87回大会(2009年)では、同根の明治乳業との経営統合が決定していたこともあり、明治乳業が発売していたスポーツ飲料のVAAM(ヴァーム)のCMが放送された。2009年4月に同社は、明治乳業とともに明治ホールディングスに経営統合された[128] ことで、88回(2010年)・89回(2011年)は名義表記も、統合後の「meiji明治製菓」に変更された。
    2011年4月1日付で、明治ホールデイングス傘下各社の事業再編が行われ、菓子・食品・一般用医薬品事業を担当する「株式会社明治」(旧明治乳業を存続会社とし、旧明治製菓の菓子・食品・一般用医薬品事業を移管)が発足したことで[129]、第90回大会(2012年)より名義表記は「meiji」へ変更された。
  • 富士ゼロックス(1970年から参加)
    同社の「社会貢献活動」のページでは、「日本に『サポーター』と言う言葉が生まれる前から、サッカーを支援しています。」として、同大会への協賛の事例が紹介されている。同大会においては資金協賛や、複写機ファクシミリプリンターなどを提供する、といった支援活動を行っている。
  • アットホーム(第95回大会から参加)

なお、上記6社はすべて30秒CMを4回ずつ流す。主に試合開始前に1回、ハーフタイム中に2回、後半終了後に1回1社ずつ流す。後半の提供クレジットは、4回目のCMが放送された順番に表示される(なお、前半のものは1回目のCMが放送される順番に表示される)。各スタジアムでも協賛会社の看板が1つずつ(開会式・開幕戦及びファイナルフォー会場のみ各会社の看板は2つずつ)表示している。

また、応援リーダー・応援マネージャーの人選に対する協賛社の縛りは緩い方で、応援リーダーは協賛社契約選手と限らず[130]、応援マネージャーは競合他社CM出演者でも起用されている[131]

過去の協賛社

クレジット表示の映像

  • 冒頭に大会題名(選手の蹴り上げるイメージを描いたロゴ入り)を出した後、主催・後援・協賛の一覧を表示し、その後改めて協賛スポンサー紹介がアナウンサーの読み上げとともに行われる。スポンサー読み上げは過去は準々決勝まで共同制作参加各放送局ごとに、全国共通ネットとなる準決勝以後は日本テレビからそれぞれ行っていたが、後述の共通オープニング映像が採用されてからは全て日本テレビの若手男性アナウンサーの読み上げになった。
  • 当初はブルーバックだったが、1980年代には中継映像を編集したイメージ映像とテロップという形式になり、1990年代に入ってから準決勝・決勝以外は著名プロ選手の本大会出場時(オープニング)および前回大会(エンディング)の名シーンを集めた映像で構成するようになった(準決勝と決勝は生中継の映像、および当該試合のダイジェスト映像で、先述したとおり白じゅうたん・カラー表示)。
  • 2試合連続で放送される準々決勝(NNSマストバイ局の一部のみ)・準決勝については、高校野球高校ラグビーの中継のようにタイトル・クレジットを1日のプログラム全体の開始・終了(第1試合開始時と最終試合終了時)だけ流すのではなく、1試合ごとの開始・終了時に表示している。したがって番組表の扱いも第1試合と第2試合を別番組扱いとしている(但し、独立県域放送など、一部放送局のEPGなどでは、特に準決勝で2試合を一つの番組として一括表示する例もある)。
  • なおこれは地上波・BSのみで、CS放送(大会終了後に全試合を再放映)については協賛社のCMが放送されていないため割愛されている。

試合中継

テレビ中継

民間放送43社(地上波)での放送

  • 原則として各都道府県の主としてNNS系列29社[132]、および東京メトロポリタンテレビを除く全国独立放送協議会12社・宮崎放送JNN)・沖縄テレビFNS)が都道府県の地方大会決勝や全国大会における当該地域の試合(一部地域を除き独立系地上波局などでは地元代表校の勝敗を問わず放送)また全国大会の開会式・準決勝及び決勝を放送する。
  • 全国大会では製作・著作の表記を「日テレ」単独とはせず、「民間放送43社共同制作」と表記している。
  • 基本的に各本社所在都道府県のみ担当となるが、日本テレビは東京都茨城県[133]日本海テレビ鳥取県島根県西日本放送香川県岡山県福岡放送福岡県佐賀県を担当する。
    • 1都道府県1代表校制度の実施以前、当時民間放送テレビが存在しない栃木県の場合は群馬県との北関東ブロック大会の試合や全国大会の一回戦などの試合は群馬テレビのみで放送。日本テレビでの中継がなかったため栃木県では地域により視聴できない状況[134] であった。ただし同じく民間放送テレビが現在でも存在しない茨城県[135] の場合は、古河第一水戸商など全国大会でも好成績を残す学校があったことと早くから1県1代表校となった県であったために、日本テレビによる決勝戦の中継が行われていた。
    • 地方大会に関しては参加社により都道府県の地方大会準決勝ハイライトから放送するところもあるなど、まちまちである。
    • オープニング[136]・エンディングともに、全国共通のものを地方大会から使用する社もあれば、独自制作のものを使用する社[137] もあり、やはりまちまちである。オープニング・エンディングVTRが同じであるが、提供クレジットが独自の局もある。汎用VTRは基本的に日テレの若手男性アナが提供読みをしたものを放送しているが、1990年代初期までは同時ネットとなる準決勝以後を除き、ブルーバックの字幕を各参加局から出し、提供読みも各放送局のアナウンサーが読み上げていた局と、日本テレビからオープニング映像の提供を受けて自社で送り出した局とに分かれていた。
    • 日本テレビが中継を開始してから1993年までは、準決勝・決勝を除いては前半戦の途中から(だいたい20分前後のあたりから)放送を開始することが多かった。Jリーグ開幕後の1994年以降は、現行の前後半完全中継という形になった。
    • PK戦が長引いた場合は、放送局によっては番組終了後に予定されている番組の都合上、PK戦途中で放送終了することが多々ある。
      • 2004年12月31日は各会場で雪に見舞われて放送が中断したり、試合途中に除雪作業をしたために、PK戦の途中で終了した局もあった。
      • 2005年1月8日の準決勝第2試合において、PK戦5人目終了時点で成功同数であった状況で放送終了した。その後、番組終了から2時間で、約200件に及ぶ抗議電話が、放送された日本テレビへかかってきたという(なお、翌年から準決勝の延長時間が5分拡大されている)。遅れネット社はこの試合のスコア表示およびPK戦を最後まで放送する対応がなされた。
      • 2011年1月8日の準決勝第2試合においてでも、PK戦が長く縺れ、番組終了時の提供クレジットが終わるまで実況中継したが、決着の瞬間は生中継されなかった(日テレ他一部地域では直後のハイライト番組で決着の瞬間が録画で放送された)。遅れネット社は2005年の時同様、PK戦の始めの部分をカットし決着まで放送(千葉テレビ放送・テレビ埼玉等)したり、テロップにて結果を表示(群馬テレビ等)したりした。
    • 2013年1月14日に予定されていた決勝が大雪のため19日に順延された。14日当日および順延された19日は、いずれもイレギュラー対応となった。
      • 14日における中継番組の放送そのものは実施し、日本テレビ報道フロアからの大雪関連のニュース・天気予報を挟みながら、国立競技場の放送席から準決勝の振り返りや両校の情報、決勝の展望を送ったり、そのほかに今大会で既に敗退したチームのドキュメント映像を流すなどして凌いだ。なお、報道フロアからの放送の間、独立局各局やJNN単独加盟の宮崎放送[138]FNN単独加盟の沖縄テレビに配慮して、「NNN」の表記を出さない配慮がなされていた。遅れネット(当日夜に録画中継)の局は、それぞれ対応が分かれており、テレビ埼玉では2012年12月31日開催の地元代表の1回戦「正智深谷 vs 京都橘」の再放送に差し替えたが、その一方で千葉テレビ放送・とちぎテレビ・KBS京都・サンテレビジョン・奈良テレビでは日本テレビの放送を大雪のニュースや天気予報も含めそのまま放送した。特にニュースや天気予報では情報の混乱が生じるため、各局独自で「この番組は、きょう午後○時頃制作・放送されたものです。」(○には2,3,4のいずれかの時刻)などといった断りの字幕を入れて対応した[139]
      • 19日に行われた決勝戦は、テレビ神奈川と宮崎放送では生中継された一方、日本テレビと系列局の多くおよび一部独立局では編成の都合上、13:45 - 15:25の時間差録画放送となり[140]、編成の都合で当日もしくは翌日に日本テレビより遅れネットとする系列局・独立局もある[141]。なお、読売テレビを除く日本テレビ系列局および前述のテレビ神奈川・宮崎放送(生中継)、KBS京都(遅れネット)以外の独立局は日本テレビと同じ100分編集版を放送することになった一方、読売テレビは85分編集版を日本テレビより当日夕方に遅れネットで放送することになった。また、どのケースも協賛社提供は冒頭と最後で表示されたものの、CM自体は前半開始前と延長前半終了後(当日生放送版は後半終了後)の2回が協賛社のCMで、それ以外は各局別のスポット扱いでの対応になった。
    • 中継では各参加社からアナウンサーが派遣され、実況の他、ベンチ・応援席リポート(同一アナウンサーが担当するのではなくベンチと応援席それぞれにアナウンサーを配置)、サブ(実況者のサポート)も担当する。アナウンサーは長年大会にかかわりのあるメイングループとそれ以外のご当地アナウンサーの二つに分かれており、メイングループは地元校が敗退しても決勝戦まで主に応援席リポート、サブの仕事がある。2009年度より全参加社から派遣されるが2008年度までは派遣しない局もあった(ただし局の事情により、局アナではなく当該局に出演頻度の高いフリーアナウンサーを派遣するケースもある)。[142]
    • 実況は初戦(1回戦と2回戦の一部)をご当地アナウンサーが、開会式と2戦目以降は決勝までメイングループのアナウンサーが担当する。初戦は東西対決のため奇数回大会を東日本のアナウンサーが担当し、偶数回大会は西日本のアナウンサーが担当する。局の事情(主に関東の独立局)で実況経験のないアナウンサーが派遣された場合は、もう一方のアナウンサーが担当する。どちらもいない場合はメイングループのアナウンサーが担当となる。1回戦・2回戦(2回戦でいずれかの相手が初戦となる場合でも、対戦両校とも放送する)の場合は、ハーフタイムの時間にチーム紹介VTRを流す。また3回戦はスタンドからリポートが入る。
    • 原則として、全試合とも勝利チームヒーローインタビューは試合終了後に場内公開で行われ、1回戦-準決勝まではその試合の勝利チーム側ベンチサイドレポートを担当したアナウンサーが、決勝についてはベンチ・応援席レポーターとは別のアナウンサーが進行を担当する。但し録画中継となった試合でPK戦にもつれ込んだものについては、編集の都合でインタビューの箇所を放送で割愛する場合もある
      日本テレビ・及び一部のNNS系列局のアナウンサー・スタッフは年度により箱根駅伝実況などに携わる者も若干名いる(年度により担当する大会を変えるシフト勤務であったり、双方兼務のアナも若干名いる。<例・河村亮他>ただし、駅伝の実況に登場するアナは日テレのみで、地方系列局は技術・サブスタッフなど裏方での参加が主である)。
    • 準決勝の実況は、日本テレビ以外の系列局や独立局にも参加社枠があり、過去には、ミヤギテレビの三雲茂晴、青森放送の大竹辰也(現:フリー、ローカル局で初めて全国大会開会式実況を担当)、読売テレビの小城敏牧野誠三等が担当。近年では読売テレビの小澤昭博(2007・2008・2011年度大会)、テレビ大分の小笠原正典(2009年度大会)、三重テレビの平田雅輝(2010年度大会)、静岡第一テレビの伊藤久朗(2012年度大会)、サンテレビジョンの湯浅明彦(2014年度大会)、福岡放送松井礼明福岡竜馬などが担当した。なお、準決勝の実況担当者は決勝戦の優勝校インタビュアーも務めることが多い。決勝戦は日本テレビのアナウンサーが担当し、かつては鈴木健藤井貴彦が担当、近年は田辺研一郎田中毅が担当している。
    • 最近では珍しくはないが女性アナウンサーもリポーターや実況を務めており、実況者としては今までに日本テレビの鈴江奈々、宮城テレビの岩瀬裕子(退職)、テレビ神奈川の三崎幸恵佐藤亜樹、テレビ和歌山の山田みゆきの4人が務めている(三崎は佐藤に、山田は上枝俊也に引き継いでいる)。2011年度大会は長崎国際テレビ千北英倫子が実況。また85回大会(2006年)では日本テレビ系列外の平田雅輝(三重テレビ)が、開会式の進行と優勝インタビュアーを担当した。
    • メイングループの実況は、監督・周辺(近所)エピソード(特に決勝は中継時間の半分以上を費やす)に終始しピッチ上の展開を疎かにしていることがあり(解説者に「チャンスですよ」と指摘されることもある)、特に解説者がその監督に師事していた場合、完全に話が試合から脱線する傾向があり、これを非難する声も大きい。またご当地アナウンサーは地元校に肩入れする場合がある。
    • 解説者については、全国高等学校体育連盟サッカー部、日本サッカー協会理事などを務めるサッカー指導者(セルジオ越後藤田一郎松本育夫ら)のほか、Jリーグ発足後は、風間八宏中山雅史武田修宏ら、Jリーグ選手経験者(年により現役選手も若干名)も多数出場している。
    • 決勝戦のハーフタイムの応援歌ライブ中[143] には、参加全アナウンサー(アナウンサーの所属社クレジットはなし)と全ディレクターならびに技術プロダクションと各競技場における責任者名が競技場ごとに表示される。また日本テレビ所属の者のみではあるが、制作スタッフや事務局担当者も表示される。
    • 試合中のテロップ表示は得点表示は、1990年代初め頃までは地元校代表試合を中継する各局または対戦相手の地元局側で送り出していた。1990年代中頃からスコアテロップ込みの映像(2015年現在は日本テレビと同一仕様のテロップだが準決勝・決勝よりも動画を簡略化[144])で配信される様になったが、1回戦〜準々決勝の中継冒頭に出る対戦カード、競技場名、解説・実況・リポーター。「民間放送43社共同制作」のクレジットや、右上の煽りテロップ(局により表示がない場合あり)、ハーフタイムのCM前の番組名テロップは各社で送出しているため、デザインが異なる場合がある(日本テレビで放送されるカードをそのままネット受けする場合は日本テレビが送出)。準決勝・決勝は全て日本テレビのテロップを使う。
    • 地上デジタル放送では、2009年度より全試合(2008年度は開会式と3回戦から決勝まで、2007年度は準々決勝から決勝まで、2006年度までは準決勝・決勝のみ)をハイビジョン制作、準決勝・決勝は5.1chサラウンド放送と連動データ放送を実施。また2009年度からは決勝のみリアルタイム字幕放送も実施される(NNS系列以外では実施していない局もある)。
    • 第85回(2006年)の幹事社は、日本テレビ・読売テレビ・テレビ岩手・テレビ神奈川・静岡第一テレビ・福井放送・びわ湖放送・山口放送・くまもと県民テレビである。
    • 第85回以降の準決勝・決勝の大会協賛スポンサーによる提供クレジットは、日本テレビ系列番組の『世界一受けたい授業』『世界の果てまでイッテQ!』などと同じカラーテロップ、全社じゅうたん付きで表示している。
  • 2回戦は平年1月2日に開催されているが、岐阜放送・びわ湖放送・テレビ和歌山・奈良テレビでは新春ワイド時代劇1981年開始当初-2000年は12時から24時→2001年-2009年は14時から24時)と重なったため社により、以下のパターンに分かれた。
    • 夕方16時ごろで一旦飛び降りて中継を実施し、以後の時代劇はテレビ東京系列から2時間程度遅らせて放送。
    • 時代劇は全部テレビ東京からの同時ネットとし、第1試合に当たる場合は生中継、第2試合に当たる場合は時代劇終了後の当日深夜から翌日未明にかけて(以前は翌日未明に)録画放送(ディレード)。[145]
    しかし、2010年以後は時代劇の放送が16時から23時[146] に更に短縮されたため、各社とも生中継と、時代劇の全編同時ネットが可能となった。
  • 3回戦は平年1月3日に開催されているが、NNS系列局はその日の14:18まで[147]箱根駅伝の中継を行うため試合に関係なく録画での中継となる。近年、日テレでの放送では2-3試合を編集して放送している。
    • 1月2日に行われる2回戦もNNS系列局の場合、第2試合に該当する学校の担当局は生放送で行うが第1試合の場合は録画中継となる。
  • 準々決勝までは地元の学校を優先するが、地元校が敗退した場合は、近接地域の代表校(主に広域放送地域)の試合、または日テレが自社で放送する注目校の試合全編とその他の試合のダイジェストをネット受けするか、サンテレビジョンのようにサッカー中継自体を行わない局もある。また日テレ系マストバイ局では準々決勝は2試合放送する局と、広島テレビ放送のように1試合のみ放送し、もう1試合の枠で穴埋め番組を放送する局とがある。
  • 地元校の試合が日テレが放送する試合と重複した場合、通常の地元校出場試合と同様に個別の素材送りを受けて地元局側で番組として送り出すか、地元校敗退後と同様に日テレから番組としてネット受けとするかの対応は局により異なる。
  • 開会式(及び開幕戦ハイライト)の放送では各社放送分数が20分編集版(日テレ同時ネット・提供クレジットは日テレ出し)と30分編集版(日テレ裏送り・提供クレジットは全社共通)に分かれており、開幕翌日未明に放送する社(主に20分編集版)と、翌日朝または地元校の初戦の前に放送する社(主に30分編集版)がある。なお20分編集版は一部出場校の入場行進が割愛される。
  • その他関連番組として準決勝直前にベスト4進出チームの紹介や敗退チームのロッカールーム風景等を放送する55分番組「準決勝直前SP(タイトルは年によって異なる)」(一部地域を除く)[148][149] と当日の試合を振り返る「全国高等学校サッカーハイライト・"サッカー魂"」(一部地域のみ)が放送される。
  • 全国大会の予選〜準々決勝まで各地で開催される試合の放送は、NiTRo(この他、大会全体の制作・技術協力も担当するほか、他の協力会社とは異なり、2〜3会場を担当する)・クロステレビエキスプレステレテックといった制作プロダクションが、参加社各社と共同で制作を担当している。
  • ハーフタイム前後の協賛社CMに入る前には、アナウンサーが「この放送は民間放送43社の共同制作で、(試合会場のスタジアム名。例・「千葉市フクダ電子アリーナ」。まれに「埼玉会場=この場合は埼玉スタジアム」と地名だけでアナウンスする場合もある)からお送りしております」とコメントしてCMに入る。
  • 以前は国立競技場で行われる試合のみステレオ放送だった。

衛星放送

  • 日テレG+では、12月に地方大会の決勝戦を、1月末からは全国大会の全試合(47試合)をノーカット録画放送している(ノーカット版以外に「総集編」と題したダイジェスト版も放送されている)。なお2015年度の大会は、準々決勝・準決勝についてはそれぞれ直近の全国大会期間中(準々決勝1月8日、準決勝1月10日)[150] に先行放送された。過去にはBS日テレで、2009年までは準々決勝から決勝、2010年は準決勝・決勝、2011年は決勝を録画で放送していた。なお開会式の生放送およびノーカット録画放送は行われない。

動画配信

  • 日テレオンデマンド ゼロ(2011年度まで第2日本テレビ)では、地方大会の決勝戦と全国大会の全試合をダイジェストで、また後述の学校紹介を配信している(2006年度から、但し2010年度を除く)。過去にはテレビドガッチでも配信された(2012年度まで)。2017年度は番組公式twitter上で組み合わせ抽選後に行われた主将のインタビューも配信する。

ハーフタイムの企画

  • 1・2回戦は多くの学校が初戦となるため、ハーフタイムには各校の地元局が製作した学校紹介を放送する。同様のコーナーがあるNHKの高校野球中継とは違い、単にその学校の地元自治体や校風、練習風景を紹介するだけでなく、サッカー部員自らがパフォーマンスを見せたりするものもある。
  • 3回戦以後はハーフタイムの応援席の表情(注目選手の保護者、あるいは郷土芸能などを応援に取り入れている生徒らへのインタビューなど、ご当地色の強い内容が多い)を紹介する他、準決勝・決勝の日にはゴール集などのミニ特集や決勝戦にはテーマソングを歌う歌手のミニライブ(収録は試合前。これをバックに名シーンを再生する)が行われたりする。

関連テレビ番組

以下の特別番組が日本テレビ系列局で放送されている。

  • 高校サッカー春夏秋冬
    地方予選出場校2〜3校に密着。全国大会に向けて揺れる想いや成長する過程を伝える。
  • 背番号12の選手たち
    寮母や家族、応援団や吹奏楽部などチームを支える人々を紹介する。
  • 最後のロッカールーム
    全国大会のハイライトとともに敗れたチームの試合後のロッカールームを取材。監督やメンバーの最後の言葉を伝える。「人生が変わる1分間の深イイ話」(日本テレビ系)でもその内容を紹介したことがある。
    この番組を収録したDVDも発売されている他、2012年には日テレBOOKSから同題名の書籍 ISBN 4820301136 が発売された。また日テレBOOKS版のほかに以下の作品もある。
    • 「最後のロッカールーム 完全燃焼 全国高校サッカー選手権大会敗戦直後に監督から選手たちに贈られた言葉」(2014年 高校サッカー年間編集部編 講談社 ISBN 4062998114 )
    • 「最後のロッカールーム 魂の言葉」(2015年 世界文化社 ISBN 4418152601 )
    • 「監督たちの高校サッカー」(2015年 青柳愛笠井さやか著 東洋館出版社 ISBN 449103169X )

ラジオ中継

テレビと違い、読売グループがキーとなるラジオを持っていないため、中継の扱いは社によってまちまちである。

マスコット

1980年代はビーグル犬を擬人化したマスコットキャラクター「シュウタロウ」が、1990年代から第80回大会(2001年度)まではサッカーボールをモチーフとしたマスコットキャラクター「ケレくん」が存在していた。ケレくんは1994年に14461通の一般公募の中から選ばれ、ボールに手足と頭がついており、両手でピースサインをして「Get 2002!」のメッセージを上に表示していた。

なおケレくんは、後に登場する日本テレビサッカー中継マスコット「サッカーモンスター」とは似ているものの別物である。

イメージソング(応援歌)

第73回大会(1994年度)からは、レコード会社の高校生年代へのプロモーション戦略の一環により、回ごとのイメージソングが設けられている。これらの曲はテレビ中継のエンディングで流れるほか、決勝戦の試合前にライブパフォーマンスを披露されることもある。基本的に各地区の予選中継のエンディングから使われるが、2014年の「瞳」(大原櫻子)は発表と製作が予選に間に合わず、全国大会から使用された。

年度 楽曲名/歌手名
73 1994 Melodies & Memories」/TUBE
74 1995 風になって」/TOKIO
75 1996 「この地球が果てるまで」/佳苗
76 1997 「sparkle」/奥居香
77 1998 「祈り」/CURIO
78 1999 「Sign of Love」/S.E.S
79 2000 「約束」/中武佳奈子
80 2001 Yourself」/dream
81 2002 理由なきNew Days」/SOPHIA
82 2003 Golden Age 〜黄金世代〜」/ゴスペラーズ
83 2004 夢の場所へ」/w-inds.
84 2005 Starting Line」/コブクロ
85 2006 Start to 0(Love)」/絢香
86 2007 Remember」/RIP SLYME with MONGOL800
87 2008 心の花を咲かせよう」/いきものがかり
88 2009 明日へ」/FUNKY MONKEY BABYS
89 2010 キミノトモダチ」/WEAVER
90 2011 Message」/ナオト・インティライミ
91 2012 ホイッスル〜君と過ごした日々〜」/miwa
92 2013 「僕らの物語」「僕らは物語」/GReeeeN
93 2014 」/大原櫻子
94 2015 「はじまり」/BLUE ENCOUNT
95 2016 「それぞれの明日へ」/家入レオ
96 2017 「いつかこの涙が」/Little Glee Monster

第82回大会(2003年度)を前に、大会歌「ふり向くな君は美しい」も含め第82回大会までのイメージソングが収録されている「Golden Age 〜黄金世代〜 全国高校サッカー選手権大会イメージソングコンピレーション」がキューンレコード(第82回大会のゴスペラーズが所属するレーベル)から発売された(第74回大会の「風になって」は収録されていない)。

イメージキャラクター(応援リーダー)

第81回大会(2002年度)より、高校サッカー経験を持つ日本の現役プロサッカー選手(平山相太は起用当時筑波大学蹴球部所属のアマチュア選手[151])がイメージキャラクターとして、大会ポスターのモデルに起用されている(出身校名の後の※は、在学中に本大会進出経験なし)。第86回(2007年度)からは「応援リーダー」と呼ばれている。

イメージガール(応援マネージャー)

第62回大会(1983年度)より、一般公募のオーディションによりイメージガール「ときめきの少女」が毎年2名選ばれ、関連番組への出演や出場チームへのインタビューなどを行ってきたが、第84回大会(2005年度)より高校在学中[152] の女性タレントが起用される「応援マネージャー」に変更された。

基本的に紺色ブレザーの学生服[153] を着用し、主にテレビの中継や関連番組「(応援マネージャー名)の高校サッカー魂」への出演、開会式においての入場行進の先導役を務める[154]。それから全国高等学校野球選手権大会開会式の先導役とは異なり「選手の先導役」ではなく「大会旗の先導役」(場内アナウンスより)であることから、一斉前進の先導は行なわずに行進の途中で退場する[155]。また、お披露目会見の席や番組内でボールリフティングに挑戦することが定例となっている(下記は、歴代応援マネージャーの氏名とリフティングの回数)。

全国大会の組み合わせ抽選の手順(現在)

基本的に予備抽選を経て本抽選となる。抽選会は2003年(第82回大会実施分)から、東京都港区の日本テレビ本社日テレホールで行われている。2002年には六本木のディスコ「ヴェルファーレ」で、またそれ以前は東京都立日比谷高等学校で行われた。

予備抽選

全国大会の抽選会場に来たチームから、順にくじを引き、その番号が小さい順に本抽せんを行なう。

本抽選

トーナメント表の番号(1番から48番)に各校が振り分けられる。原則として、初戦で同じ地区が対戦しないように東西(福井、岐阜、愛知までが東ブロック。京都、滋賀、三重から西ブロック)に分けられている。抽選の際、東ブロックは奇数の番号札、西ブロックは偶数の番号札を引く(ただし、第79回大会は出場校が49校だった関係で、トーナメント番号38番以降が入れ替わっていた)。ただし事前の制約があるチームから抽選する。

シード校

シード校は、前年度の成績でベスト4以上だった都道府県に割り当てられる。出場校が異なっていてもシード権は引き継がれる。シード校のトーナメント表における番号が決まっている。前年度優勝の都道府県のチームは1番、準優勝の都道府県のチームは48番、3位の2校は24番と25番(この2つの番号は、前年度大会の準決勝で対戦した都道府県が、決勝まで対戦しないように分けられる)にまず入る。この4校は抽選する必要がない。この際に、西ブロックのチームが1番か25番に、あるいは東ブロックのチームが24番か48番に入った場合は、東ブロックの他のチームが偶数の番号札(2番か26番)、西ブロックの他のチームが奇数の番号札(23番か47番)を引くことになる。シード校は、全チーム2回戦が初戦になる。他には、シード校の初戦の対戦相手やそれ以外のチームでも8校(トーナメント番号11番から14番、35番から38番を引いたチーム)も2回戦からとなる。

開催地区の抽選

開催地である東京都A、神奈川県、埼玉県、千葉県の4校。これらのチームは、開催地区が重ならないように準決勝まで対戦しないように分けられる。まず、トーナメント表の4つのゾーンの中のどこに入るか、ゾーン抽選をする(Aゾーンが1番から12番、Bゾーンは13番から24番、Cゾーンが25番から36番、Dゾーンが37番から48番)。その後に、決まったゾーンの中のどこに入るかを決める本抽選をする。ただし、半分は西ブロックに割り当てる番号なので、本抽選の箱にある5枚または6枚の抽選札から選択する(ちなみに第84回大会までは、ゾーン抽せんは8つのゾーンに分かれていた)。4校の抽選が終了すると、東京都Bのチームの抽選をする。東京は2チームが出場するので、この2校が決勝まで対戦しないように分けられ、すでに決まっている東京都Aのチームと反対側に入る。なお東京都Bは、1回戦に決まると無条件に開幕カードとなる(86回大会より)。また、抽選の際に2回戦か3回戦に開催地区と当たる可能性のある番号に決まると、東京以外の会場になる。

なお、東京都にはA,B2つの代表枠があるが、都予選のA,B各ブロックの代表がそのまま東京都A,東京都Bとして決まるのではない。東京都の代表校2校が決定した後に抽選を行ない、どちらが東京都A(又はB)になるのかを決定している。

東海地区の抽選

東海地区は静岡県、岐阜県、愛知県、三重県の4校だが、三重県は西ブロック、他3県は東ブロックのため、初戦で対戦しないように分けられる。まず三重県のチームが抽選する。このとき、すでにシード校の中に東の東海地区のチームがある場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を事前に抜き取ってから抽選する。また三重県のチームが抽選した時点で初戦の対戦相手が決まらなかった場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を一時的に抽選箱から抜き取ってから、残り3県のチームが抽選をする。抜き取った番号札がある場合、この抽選が終わった後に抽選箱に戻される。

これですべての制約のある抽選が終わる。後は残りの高校が1校ずつくじを引いていき、すべての組み合わせが決定する。これらすべての抽選は制約のあるチーム、ないチームすべて範囲内で予備抽せんの番号の小さい順に行なわれる。組み合わせ決定後に開幕戦のカードを決める抽選をして(開幕戦の項を参照)、さらに選手宣誓の抽選も行なう。選手宣誓は、開幕戦を戦う2チーム以外の46チームの中から選ばれる。

その他、備考

同じ抽選箱に入る可能性はないが、混同しやすい6番と9番の番号札に関しては、アラビア数字算用数字)は用いないで、漢数字を使用する。よって6は「六」、9は「九」と書かれている。

もし、抽選会までに代表校が決まらなかった場合は、抽選日には都道府県代表の番号だけ決めておき、代表校が決まるとその番号に入る。これまでに代表校が決まらない事例としては、災害により地区予選の開催が遅れること(最近では第83回大会の新潟県予選が、新潟県中越地震の影響で、抽選会の時点で準々決勝以降が残っていた)や、地区予選開催時期に、U-18など年齢制限のある日本代表に招集される選手がいる、またはその可能性がある場合、そのチームの主力選手の欠場による戦力的な不利をなくすため(第86回大会の予選では、この理由で6県が抽選会までに予選が終了しなかった)などがあった。なお、第69回大会で採られた措置(レギュレーションの項を参照)もあった。

このようなケースでは、対戦相手が抽選会で決まらないことで、すぐに相手の分析ができないが、その地区の予選会場で相手をある程度しぼりこんで分析できるなどのメリット・デメリットが、対戦相手には生じるといえる。

主催者の不手際

第80回大会(2001年度)で起きた。予備抽選の後、主催者が14番目の長野県代表の松商学園高校を富山県代表(この大会の富山県代表はシード校だったため、予備抽選はあまり意味がなかったための不注意と思われる)と記してしまい、14番目以降がすべて抽選順が1つずつ間違ったまま、あと2校というところまで気付かれなかった。このため、14番目以降の抽選がすべてやり直された。このため、対戦相手も大きく変わってしまった。なかでもシード校は、前回準優勝の滋賀県代表の草津東高校は群馬県代表の前橋育英高校、前回3位の青森県代表の青森山田高校は鹿児島実業高校との強豪との初戦に変わってしまい、共に初戦で敗退している。ちなみに間違えられた松商学園高校の初戦は、前回優勝校の長崎県代表の国見高校だった。

その他特記事項

  • この大会の発祥は豊中グラウンドであるが、同様のルーツを持つ高校野球、高校ラグビーのように、豊中を聖地化するような動きは無い。これには、上記の理由と豊中グラウンドイコール高校野球の聖地とイメージが強すぎる事と、当時の主催が毎日新聞社(現在は日本テレビ)だった点があげられる。
  • 草創期に7連覇した御影師範をはじめ、戦前まで参加していた師範学校は、現在の学制では大学に相当する。また、実際に関西大学や関西学院高等部、神戸高商などの現在の大学そのものも参加していた。
  • 高校野球や高校ラグビーと異なり、学校の改組(合併など)が行われ新設校扱いになると前身校時代からの出場回数がリセットされてしまう(第88回出場校では東京A代表東久留米総合、兵庫代表神戸科学技術[156]、大分代表中津工中津東)。一方で北海道大谷室蘭は2012年に室蘭大谷から校名を変更後、2013年に登別大谷第72回大会出場)を統合したが、旧室蘭大谷が存続校とされたため、2014年度の第93回大会では旧室蘭大谷の出場回数のみを引き継ぎ4年ぶり30回目の出場として扱われた。第93回東京B代表の三鷹(同大会で2回目の出場)は、1・2年生(相当)が後身である三鷹中等教育学校の生徒であったが、新旧両校の合同チームという形態は取らなかった。
  • 開会式では西武台千葉中学校・高等学校吹奏楽部が、入場行進前のパフォーマンス[157] や入場行進[158]・式典[159] の演奏を担当している(担当開始時期不詳)。
  • 開会式の入場行進は、通常、マラソンゲートからトラックに入りメインスタンド前を通って(その際、選手達は、メインスタンドの観客に向かって手を振ったり地元の名産品を掲げるなど、挨拶を兼ねたパフォーマンス行うことが多い)バックスタンド前で一旦整列した後、一斉にメインスタンド前まで行進して式典に移行するが、雨天の場合は4コーナー側からメインスタンド前を通って1コーナーゲートへ退場する(その後キャプテンがメインスタンドに集まり式典が行われる)。選手宣誓後は筒状の中にテープが入った機械式クラッカー(キャノン砲)が発射されるが、これは雨天でも実施される。
  • 2011年2010年度)より全日本バレーボール高等学校選手権大会(通称「春の高校バレー」)が高校サッカーとほぼ重複する日程で開催する事になり、競合を避ける観点からコカ・コーラボトラーズは前身大会・全国高等学校バレーボール選抜優勝大会時代から続けた協賛杯の「コカ・コーラ杯」の贈呈を中止(協賛杯は通販・ジャパネットたかた提供に変更)したが、引き続きコカ・コーラ、アクエリアスを公式飲料として提供するなど大会協賛は第65回(2013年)まで継続していた(現在、公式飲料は大塚製薬ポカリスエットに変更)。

出典

参考文献

  • 『高校サッカー60年史』 全国高等学校体育連盟サッカー部、講談社、1983年。ISBN 40620005980 ref=CITEREF『高校サッカー60年史』。
  • 『高校サッカー90年史』 全国高等学校体育連盟サッカー部、講談社、2012年。ISBN 978-4-06-217780-1 ref=CITEREF『高校サッカー90年史』。

脚注

  1. [1] JFA.jp英語版
  2. JFA・Jリーグ サッカー用語集 日本サッカー協会
  3. 3.0 3.1 1918年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  4. 1912年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  5. 1914年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 『関西サッカーのあゆみ』、関西サッカーのあゆみ編集委員会編、関西サッカー協会発行、2006年、25、26、30、31、146、264-288頁
  7. 代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表| 日本サッカー協会
  8. 初の国際試合 ~第3回極東選手権大会 - サッカー オンラインマガジン
  9. 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 9.11 サロン2002 公開シンポジウム 『高校サッカー90年史』を語ろう! -戦前の中学サッカーから未来へ-特定非営利活動法人サロン2002(NPOサロン)
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 10.8 10.9 2011年1月例会報告 戦前のサッカー育成 -神戸一中を中心に
  11. 『高校サッカー60年史』, p. 21.
  12. 12.0 12.1 後藤健生著・『日本サッカー史・代表篇 日本代表の85年』22-23頁
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 『東蹴六十年史草稿』、東京蹴球団、1977年、2-6、10-23頁
  14. 東京・大阪両都市の新聞社による野球(スポーツ)イベントの展開過程
  15. わが国のプロ野球におけるマネジメントの特徴とその成立要因の研究
  16. 第三高等学校同志社京都三高(『日本サッカーのあゆみ』46頁)。
  17. 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』、講談社、1974年、45、46頁
  18. 18.0 18.1 18.2 日本サッカーの歴史 第007回 全国高校サッカー選手権の始まり
  19. 1922年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  20. 1927年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  21. ラ式は結局2試合しかなかった(『日本サッカーのあゆみ』46頁)。
  22. 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)|賀川サッカーライブラリー
  23. 23.0 23.1 『高校サッカー60年史』178-179頁
  24. 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』160頁では「当時は高専チームも含んでいた」と記述(『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、兵庫県サッカー協会70年史編集委員会、兵庫県サッカー協会、1997年、160頁。)
  25. 『関西サッカーのあゆみ』30頁に「関西学院高等部は旧制高等学校」と記述。
  26. 第8回大会に中学の部と分かれた旧制専門学校の部に出場。他の出場チームは早稲田高等学院松山高等学校関西大学関西学院。『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』43頁では関西大学早稲田大学慶應義塾大学などと試合を行ったという記述がされている。カテゴリーでは旧制高校大学か? 対戦相手が少ない時代でどちらのチームとも対戦したのかも知れない(『高校サッカー60年史』、30、45頁、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、43頁)。
  27. 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』185頁に、第1回大会に参加した8チームに関して「当時はこれらの学校しかサッカーが普及していなかったことを示している」と記述。
  28. 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 2)兵庫サッカー黄金時代 | 兵庫県サッカー史ウェブサイト
  29. 『高校サッカー60年史』178頁
  30. 『東蹴六十年史草稿』1、5、9頁
  31. 31.0 31.1 31.2 賀川サッカーライブラリー『大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺』
  32. 賀川サッカーライブラリー第1回日本フートボール大会「高校選手権の起源は大正7年に」
    日本サッカーの歴史 第009回 各地区で高まるサッカー熱
  33. 33.0 33.1 33.2 33.3 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト
  34. 34.00 34.01 34.02 34.03 34.04 34.05 34.06 34.07 34.08 34.09 34.10 34.11 『高校サッカー40年史』、毎日新聞大阪本社、1962年、220-222頁
  35. 35.0 35.1 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
  36. 朝日新聞社編『運動年鑑 第3巻(大正7年)』日本図書センター、1984年、242-248頁
  37. 37.0 37.1 37.2 大日本體育協會編『大日本體育協會史』下巻、1937年(復刻版、1983年、1012-1148頁)。
  38. 竹内至『日本蹴球外史』 1991年、215-221頁
  39. 『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』大修館書店、1988年、376頁
  40. 新田純興福島玄一多和健雄村岡博人『図説サッカー事典』、講談社、1971年、57頁
  41. 41.0 41.1 『東蹴六十年史草稿』、1-23、81頁
  42. 大日本蹴球協会の設立 ~それは勘違いから始まった
    日本サッカー人物史 - 日本サッカーアーカイブ
  43. 43.0 43.1 『神戸一中蹴球史』の史料的価値: 蹴球本日誌
  44. 44.0 44.1 蹴球本日誌: August 2005
  45. 45.0 45.1 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』広島サッカー85年史編纂委員会 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、27頁
  46. 東京蹴球団の歴史
  47. 『高校サッカー60年史』32頁
  48. 48.0 48.1 48.2 48.3 48.4 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、兵庫県サッカー協会70年史編集委員会、兵庫県サッカー協会、1997年、109、115、116頁
  49. 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、186頁
  50. 50.0 50.1 『運動年鑑 第5巻(大正9年)』、222-250頁
  51. 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』、24、25頁
  52. 52.0 52.1 この「全国中等学校蹴球大会」は、第1回(1918年)、第2回大会(1919年)は、新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」の名前で行われ、第3回大会(1920年)は、名古屋蹴球団主催となり「関西中等学校ア式蹴球大会」という名前で行われた。第4回大会(1921年)からは「全国中等学校蹴球大会」と名称が変更される。第7回大会(1924年)では「全国ア式蹴球大会」となり、これ以降の開催は不明(『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、8-60頁)。
  53. 53.0 53.1 『日本サッカーのあゆみ』、68頁
  54. 54.0 54.1 『岐阜のサッカー史』、岐阜県サッカー協会編、岐阜県サッカー協会、1980年、3頁
  55. 55.0 55.1 55.2 55.3 55.4 55.5 高橋正五郎他『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、1979年、10、21、22、25、27-31頁
  56. 56.0 56.1 56.2 56.3 56.4 東京高等師範学校(東京文理科大学)主催全国中等学校蹴球大会はなぜ消滅したか
  57. 57.0 57.1 57.2 山田午郎『蹴球のコーチと練習の秘訣』、目黒書店、1932年、62-66頁
  58. 大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響
  59. 59.0 59.1 59.2 59.3 1932年頃の各種中等蹴球大会: 蹴球本日誌
  60. 60.0 60.1 「高校選手権」の源流 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
  61. 蹴球年鑑 昭和7-8年度 大日本蹴球協会/編
  62. 河野徳男『広島スポーツ史』、財団法人広島県体育協会、1984年、311頁
  63. 『広島スポーツ史』、309頁
  64. 『明星サッカー60年史』明星サッカー60年史編集委員会編、明星サッカー部創立60周年記念事業準備委員会、1973年、44頁
  65. 『高校サッカー60年史』、59、181頁
    『関西サッカーのあゆみ』、47頁
    『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、166頁
    『運動年鑑 第6巻(大正10年)』、257頁
  66. 66.0 66.1 『東蹴六十年史草稿』、22頁
  67. 文部省局課変遷・学校系統等図表
    もうひとつの高校サッカー選手権 ~全国高等学校ア式蹴球大会
    『関西サッカーのあゆみ』、36頁
  68. 財団法人 日本高等学校野球連盟 出場校一覧
  69. 『東蹴六十年史草稿』1頁
  70. 全国中等学校蹴球大会の年齢制限: 蹴球本日誌
  71. 『愛蹴 滋賀大学サッカー部創設70周年記念誌』滋賀大学教育学部体育研究室、1975年、35頁
  72. 第3回ア式蹴球全国優勝大会
    1927年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  73. 『日本サッカーのあゆみ』、139頁
    『東蹴六十年史草稿』、23-29頁
    『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、31-41頁
  74. 『高校サッカー60年史』21、37頁
  75. 75.0 75.1 75.2 75.3 高校サッカーの歴史 - 日本テレビ
  76. 『高校サッカー60年史』30、31頁
  77. 『ボールを蹴って50年』神戸一中・神戸高校サッカー部史、1966年
  78. 『広島一中国泰寺高百年史』広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会、1977年
  79. 『ボールを蹴って50年』90頁、『広島一中国泰寺高百年史』295、296、339頁
    金枡晴海『広島スポーツ100年〜広島県のスポーツ史』、中国新聞社、1979年、47、63、64頁
    『栄光の足跡 広島サッカー85年史』、116頁
    『広島一中国泰寺高百年史』より(2): 蹴球本日誌
    『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、161頁
    1920年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
    1922年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
  80. 80.0 80.1 『高校サッカー60年史』、179頁、裏表紙年表
    スポーツ報知、2011年1月9日3面、1月11日2面
    日刊スポーツ、2011年1月9日2面
    滝川二PK戦つかんだ初の決勝切符…全国高校選手権:その他:サッカー
    『関西サッカーのあゆみ』: 蹴球本日誌
    日本サッカー・ブックガイド
  81. 81.0 81.1 日本サッカーの歴史 第008回 日本フートボール大会から全国高校サッカー選手権への変遷
  82. 『運動年鑑 第6巻(大正10年)』、258-259頁
  83. 週刊サッカーマガジン』2010年10月19日号、67頁
    『週刊サッカーマガジン』2010年12月7日号、63頁
  84. 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』静岡県立藤枝東高等学校編 静岡県立藤枝東高等学校、1982年
  85. 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』、発刊にあたって、6、146頁
  86. 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』静岡県立藤枝東高等学校編、150頁
  87. 毎日新聞関係者と明星商業OBが中心であったという(『関西サッカーのあゆみ』、32頁)。
  88. 『東蹴六十年史草稿』、13頁
  89. 『高校サッカー60年史』、30、45頁
  90. 『輝く埼玉サッカー75年の歩み』、埼玉県サッカー協会、1983年、1082頁
  91. 『全国高校サッカー40年史』、42頁
  92. 蹴球本日誌: February 2007
    戦前の全国中等学校蹴球大会の年齢制限に関する『蹴球』誌記事: 蹴球本日誌『東蹴六十年史草稿』、22頁
  93. 第四回 「春は選抜から」野球シーズン到来 : Japan Senior Online
  94. 『図説サッカー事典』56頁
  95. 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、51頁
  96. 『高校サッカー60年史』, p. 135.
  97. 『高校サッカー60年史』, p. 28.
  98. 『高校サッカー90年史』, p. 28.
  99. 『スポーツ中継 知られざるテレビマンの矜恃』 (梅田明宏著、現代書館2008年) pp.98 - 101
  100. 当時(第50回大会(1971年度)当時)、NNSは未発足(1972年6月14日発足)であったが、当時NNN1966年4月1日発足)加盟局は長野県石川県静岡県島根県(後にNKT放送対象地域となる。)、岡山県(後にRNC放送対象地域となる。)、佐賀県宮崎県(後にUMKNNNに加盟(それ以降も含めNNS、本大会は不参加。)。)沖縄県には無かった。(1972年6月14日発足のNNSを含めると(NNS発足直後(1972年6月14日)は)さらに長崎県も含まれる。)
  101. 当時(第50回大会(1971年度)当時)NNN加盟局が無かった地域のJNN加盟局の本大会参加局は、SBCMROSBSBSSRSKMRT1972年6月14日発足当時のNNS空白地域を含めると、NBCも含まれる。)が該当する。(BSNRKKMBCIBCOBSも参加したが、こちらは当時NNN/NNSに加盟していたNSTTKUKTSが(NNS加盟期間中も含め)一度も参加せず、またTVIも独占中継化当初から1982年度迄、TOS1999年度迄参加していなかった。尚、FTVも独占化当初参加していた。)
  102. 梅田 pp.102 - 104
  103. 第50回大会直後の1972年6月14日NNSが発足した。しかしNNS発足時からのNNS加盟局のうち、新潟総合テレビテレビ熊本鹿児島テレビ放送の3局は、NNS加盟期間中も一度も本大会に参加しなかった(現在はNNS脱退)。現在はすべてのNNS加盟局が参加している。
  104. 104.0 104.1 『関西サッカーのあゆみ』52-68頁
  105. 『高校サッカー90年史』, p. 146.
  106. 『高校サッカー90年史』, pp. 148-158.
  107. 梅田 pp.104 - 106
  108. 108.0 108.1 【重要】1/14(月・祝)の高校サッカー決勝戦は1/19(土)に延期となりました - 大会オフィシャルサイト・2013年1月14日
  109. 高校サッカー決勝 雪で延期 76年度以降初めて 19日仕切り直し - 東京新聞・2013年1月15日
  110. 春の高校バレー北海道大会も1組のトーナメントで全国大会出場を競うが、男子・女子とも決勝進出の2校が出場権を得られる。
  111. 111.0 111.1 “第93回全国高等学校サッカー選手権大会(次回大会) 開会式・開幕戦/準決勝/決勝 試合会場決定のお知らせ” (プレスリリース), 日本サッカー協会, (2014年1月5日), http://www.jfa.or.jp/match/topics/2014/12.html . 2014閲覧. 
  112. 第92回全国高校サッカー選手権大会 OFFICIAL PROGRAM, 81-84. 
  113. 佐賀県宮崎県沖縄県にはNNS加盟局が無い(過去には長野県静岡県石川県島根県岡山県熊本県長崎県はNNS加盟局は無かった。また、新潟県鹿児島県は当時のNNS加盟局(それぞれ新潟総合テレビ鹿児島テレビ放送)が参加しなかった)。
  114. 全日本バレーボール高等学校選手権大会決勝戦が当大会決勝と放送日時(バレーボールは録画中継)が重なる場合、当大会の生中継を優先する。
  115. 全国高等学校ラグビーフットボール大会決勝戦が当大会決勝や準決勝と開催日時が重なる場合でも、当大会の生中継を優先する(特に2015年度以降)。
  116. 1981年3月NNSに加盟していた新潟総合テレビは本大会は不参加。
  117. 相互乗り入れ後も1983 - 84年時点ではまだ放送していた(山陽新聞、1984年1月1日、67ページ、テレビ欄。遠野対作陽戦を1月2日に放送。一方で西日本放送が同日に開会式を放送)。
  118. 1994年3月NNSに加盟していた鹿児島テレビ放送は本大会は不参加。
  119. 但し、新潟総合テレビ鹿児島テレビ放送を除く(いずれも現在はNNS脱退)。
  120. 静岡第一テレビ社史編纂室 編纂 『静岡第一テレビ十年史』 静岡第一テレビ、1991年、204頁。 
  121. 信越放送50年史編纂委員会 編 『信越放送の50年』 信越放送、2001年、67-68頁。 
  122. JNN加盟局の本大会参加局のうち、信越放送北陸放送静岡放送山陰放送山陽放送熊本放送宮崎放送長崎放送は当時NNS空白地域、新潟放送南日本放送はそれぞれ当時のNNS加盟局の新潟総合テレビ鹿児島テレビが参加していない地域、またIBC岩手放送大分放送もそれぞれNNSに加盟しているテレビ岩手テレビ大分が独占中継化当初は参加しなかった地域の局であった(テレビ岩手1983年度テレビ大分2000年度より参加)。また福島テレビも独占化当初参加していた。
  123. 沖縄県にはNNS加盟局は無い。
  124. 返還時に贈られるレプリカは、額縁に収められた小さな旗。
  125. 返還時に贈られるレプリカは、クリスタルトロフィー。
  126. 返還時にレプリカは贈られない。
  127. 「イソジン」は2016年4月からシオノギヘルスケアが販売することになったため、明治での放送は第94回大会が最後となった。
  128. グループの統一CI(社章・商標(企業ブランド))導入もこのためである。
  129. 同時に、旧明治製菓に残った医療用医薬品事業については、同社を商号変更した「Meiji Seika ファルマ株式会社」が継承した。
  130. 直近の例はアディダス契約選手の柴崎岳、ミズノ契約選手の岡崎慎司、アシックス契約選手の大迫勇也。
  131. 広瀬すずは起用時点で大塚食品(清涼飲料水「マッチ」)、ロッテのCMに出演。
  132. 現在はすべてのNNS加盟局が参加(過去にNNSに加盟していた新潟総合テレビテレビ熊本鹿児島テレビ放送はNNS加盟期間中も一度も参加しなかった。
  133. 日本テレビは関東広域圏放送であるが、それ以外の関東各県は各独立系地上波局の担当。日本テレビと同じく広域放送の中京テレビ・読売テレビでもそれぞれの本社所在府県(中京テレビ:愛知県、読売テレビ:大阪府)のみ担当となる。
  134. 県境付近では直接受信できるところもあったほか、ケーブルテレビ再配信を利用して受信した場合もある。
  135. 隣の千葉県にある千葉テレビ放送を受信する世帯も多い
  136. 高校サッカーの映像をバックに、大会スポンサー(主催・後援・協賛団体の字幕。協賛社は一括表示後改めて1社ずつアナウンサーの読み上げで表示する)がテロップで表示されている。
  137. 広島テレビでは、広島県予選ではオープニングムービーを使用せず中継映像に白テロップで番組名・主催・後援・協賛団体・提供スポンサーを表示し、大会歌のインストバージョンを流し、全国大会では各社共通の素材を使用している。
  138. 正式なNNN加盟局であるテレビ宮崎NNSに加盟せず、本大会も参加していない。
  139. これに加え、大雪の最中であった千葉テレビ放送・とちぎテレビではL字型画面で、放送時点での実際の積雪・ライフライン・交通情報などを流し対応した(地元代表の試合に差し替えたテレビ埼玉も同様の対応をした)。テレビ埼玉・KBS京都は順延の旨を、EPGに表示した。
  140. 日本テレビ及び同時ネット局は一部地域を除き、13:35 - 13:45に『決勝戦のみどころ』も別途放送。
  141. これらの局でも『決勝戦のみどころ』も別途放送する局が一部にある。
  142. 千葉テレビ放送はアナウンサーが不在だった2005年度から2008年度までは派遣しなかった、(2004年度までは、当時局アナの石井力が全国・県大会の実況・リポートを担当していたが、フリーになってからは県大会のみ担当。年度によっては千葉大会の実況を千葉テレビ制作ながら日本テレビのアナウンサーが実況した)。2013年度は局アナが2名とも報道番組専任のため、同じく元局アナで当時フリーの笠井さやかがリポートを担当した)。他にとちぎテレビ・奈良テレビ・テレビ埼玉も2008年度まで派遣しなかった。 ちなみに3回戦までは参加全アナウンサーで行うが、準々決勝以降はメイングループと勝ち上がり校担当アナウンサーが中継に関わる。
  143. 2013年度までは決勝戦のエンディングのときに表示された。
  144. 広島テレビ・読売テレビ・福岡放送等プロ野球中継を制作している系列局では、県大会決勝でも日本テレビと同一仕様のテロップを使用している。
  145. 2000年までは12時開始であるため、第1試合に当たる場合でも、翌日未明に録画放送になる場合もあった。
  146. 2013年は17時から24時、2014年・2015年は18時から23時。2016年は21時から24時。2017年以降は時代劇は放送せず。
  147. 日本テレビなど基幹局を中心とした数局はさらに14:18-15:00に「続報!!箱根駅伝」を放送。
  148. 2009年以前は準々決勝および準決勝直前に「ベスト8への歩み」「ベスト4への歩み」という各30分番組が放送されていた。
  149. 準決勝当日に放送する日本テレビや同時ネット局では番組中に試合会場からの生中継部分があるが、事前に放送する一部の裏送り局ではその部分は本大会中のゴールシーン等を放送。
  150. 日テレジータス「第94回全国高等学校サッカー選手権大会」
  151. 第88回大会のデータ放送「今大会の応援リーダー」欄では過去の起用選手に平山の名があり、肩書は「FC東京(当時・ヘラクレス/オランダ)」となっていたが、平山がヘラクレスと契約したのは2005年8月なので、誤り。
  152. 3年生の起用は新垣結衣のみ。
  153. 新垣結衣は白い上着のセーラー服。北乃きい、大友花恋は灰色ブレザーの学生服だった。
  154. 選手とは異なりコート(主にダッフルコート)を着用して行進することが多いが、気候によっては着用しない場合もある(例:永野芽郁、髙橋ひかる)。また雨天の場合はビニール傘を差して行進(例:大野いと)。
  155. 駒沢陸上競技場を例に取ると、メインスタンド左手のAゲート前から行進を始め、コーナーの部分はゴール裏に沿って歩き、永野はバックスタンド右手のDゲートから退場。大友は引き続きトラックのコーナーを歩いてAゲートから退場。
  156. バスケットボールでは全国高校総体選抜大会ともに旧御影工の成績を引き継いでいる。
  157. メインスタンド前で披露した後、4コーナー付近へ移動。
  158. 1曲目は『ふり向くな君は美しい』で、その後は『コパカバーナ』などを演奏。出場全校がバックスタンド前に整列するとドラムロールに切り替え、プラカード嬢がプラカードを掲げると再度『ふり向くな君は美しい』を演奏して一斉前進に入る。
  159. 優勝旗などの返還時は『威風堂々』を演奏(閉会式では同曲の音源を流す)。

関連項目

外部リンク

  • テンプレート:日本のサッカー

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