サッカー日本代表
| |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
国または地域 | 日本 | ||||||||
協会 | 日本サッカー協会 | ||||||||
FIFAコード | JPN | ||||||||
愛称 | SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー) | ||||||||
監督 | 森保一[1] | ||||||||
最多出場選手 | 遠藤保仁(152試合) | ||||||||
最多得点選手 | 釜本邦茂[2](75得点) | ||||||||
| |||||||||
初の国際試合 | |||||||||
テンプレート:Fb 0-5 テンプレート:CHN1912f2 (東京市, 1917年5月9日)[3] | |||||||||
最大差勝利試合 | |||||||||
テンプレート:Fb 15-0 テンプレート:Fb-rt (東京, 1967年9月27日)[4] | |||||||||
最大差敗戦試合 | |||||||||
テンプレート:Fb 2-15 テンプレート:Fb-rt (東京, 1917年5月10日)[4][5][6] | |||||||||
FIFAワールドカップ | |||||||||
出場回数 | 6回(初出場は1998) | ||||||||
最高成績 | ベスト16(2002, 2010, 2018) | ||||||||
AFCアジアカップ | |||||||||
出場回数 | 7回 | ||||||||
最高成績 | 優勝(1992, 2000, 2004, 2011) | ||||||||
| |||||||||
表示 |
サッカー日本代表(サッカーにほんだいひょう、サッカーにっぽんだいひょう)は、公益財団法人日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本のサッカーの年齢制限のないナショナルチーム。
FIFAワールドカップには6度出場しており、最高成績はベスト16。AFCアジアカップでは最多となる4度の優勝を記録している。
Contents
概要と特徴
チームカラー
現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明で採用時の正確な理由は、日本サッカー協会に資料が現存せず不明である(日本サッカー協会公式見解)[7]。
日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(現:筑波大学)が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した[8]。1930年の極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学は淡青(ライトブルー)のシャツであった[9][8]。1936年ベルリン五輪に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表は1930年の極東選手権の代表チームと同じ淡青のシャツを採用し、それ以降もチームカラーとして青が定着することになった[9][8]。
1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸(1980年代半ばからは右下に青字の「J.F.A.」の文字が入る)ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山が監督を更迭され、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され現在も続いている[8][10]。
歴代ユニフォーム
ホーム
1979-80
|
1980-83
|
1984-85
|
1985
|
1983-86
|
1986-87
|
1988-92
|
1992
|
1992-95
|
1996–98
|
1998–99
|
1999-2000
|
2001
|
2002-03
|
2004-05
|
2005-07
|
2008-09
|
2009-11
|
2012-13
|
2013-15
|
2015-2017
|
2017.06.07
|
2017-
|
アウェー
1998–99
|
1999-2000
|
2001
|
2002-03
|
2004-05
|
2006-07
|
2008-09
|
2010-11
|
2012-13
|
2014-15
|
2015-17
|
2018-
|
愛称
2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けた愛称にすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式のペットネームとすると定められた[11]。
マスメディアでは横山が代表監督となった際に「横山ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられている。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた[12][13][14][15]。
海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」、「ブルーズ」という愛称もある[16]。
マスコット
三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。
日本代表グッズ
大日本蹴球協會は、1936年ベルリンオリンピック(「ベルリンの奇跡」の大会)へ日本代表を派遣する費用のうち、大日本體育協會から支給される旅費以外の経費3万円を調達するため、浴衣地や手拭の販売など積極的に募金活動をした[17]。これを端緒にのちの「日本代表グッズ」へつながり[8]、現在はレプリカユニフォームやタオルマフラーなどが販売されている。
プレースタイル
最初期の日本のプレースタイルであったショートパス戦法は、1920(大正9)年頃から日本国内で指導し、1923(大正12)年8月には『How to play association football』という日本語版の指導書を出版したチョウ・ディンによりもたらされた[8][18]。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった[19]。
1960年代から1970年代の代表チームのFWであった釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある[20]。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される[20]。
悪質なファウルなどが他のナショナルチームと比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。
ワールドカップにおいては初出場以来連続全21試合でレッドカード0という歴代世界最高連続記録を持っており、FIFAも公式HP内で紹介している[21](2018年ロシアワールドカップ決勝トーナメント1回戦ベルギー戦終了時現在。FIFAワールドカップにおける記録も参照)。
待遇
プロ化前後から現在まで、日本代表監督を含めた日本代表スタッフ及び日本代表選手に対しては様々な給料や手当を、日本サッカー協会(JFA)がその予算の中から支払っている。プロ化後はJFAは独立採算制となっており、国の税金は一切入っていない。現在、サッカーくじtoto(正式名:スポーツ振興くじ)から3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下である(2010年度)(サッカーくじtotoの売上金は、全て運営元の独立行政法人日本スポーツ振興センターに入り、売上金から当選払戻と経費等を除いた収益の4分の1が国庫納付金になり、4分の3がスポーツ振興費として各スポーツ団体等や地方公共団体に助成金として更に分配される)[22]。JFA予算及び収入の詳細は、日本サッカー協会#JFA財務内容参照。
日本代表監督
プロ化前
ハンス・オフトより前の歴代日本代表監督は、JSLからの出向だったので、その給料は所属企業が全て支払っており、JFAからは給料も手当も受け取らなかった。従って、JFAは日本代表監督候補者に就任する前に「代表監督を辞めた後、企業に戻れる確約を得てから就任するよう」求めていた[23]。JFAに選手待遇改善要求を行い、実現させた(後述)森孝慈ら日本代表コーチ陣に対しては、日本体育協会からコーチング料月額数十万円が支払われたが、JFAからの報酬は一切なかった[23]。
プロ化後
初のプロ監督で初の外国人日本代表監督(注:クラマーはコーチ)のハンス・オフトの年俸は約7000万円であった[23]。オフトはドーハの悲劇後、辞任した。ドーハの悲劇後、ファルカンが日本代表監督に年俸約1億2000万円で就任した。ファルカンの解任後、日本代表監督に就任した加茂周の年俸は約7000万円だった。加茂監督は1998年仏W杯アジア予選途中で解任され、岡田武史(第1期1997-98)が年俸約5000万円で日本代表監督に就任し1998年仏W杯まで指揮した[23]。
1998年仏W杯後、日本代表監督に就任し日韓W杯まで指揮を執ったフィリップ・トルシエの年俸は約9000万円で、日本代表初のW杯ベスト16(=決勝トーナメント進出)の快挙を成し遂げた。日韓W杯後、2006年ドイツW杯まで指揮したジーコの年俸は約2億2000万円だった[23]。
2006年ドイツW杯後、日本代表監督に就任したイビチャ・オシムの年俸は約9000万円だった。しかし、オシムが2007年11月16日に脳梗塞で倒れたため(後に回復)退任し、急遽岡田(第2期2007-10)が年俸約8000万円で二度目の日本代表監督に就任、2010年南アフリカW杯まで指揮し日本代表二度目のW杯ベスト16(=決勝トーナメント進出)の成績を収めた[23]。
2010年南アフリカW杯後、アルベルト・ザッケローニが年俸約2億5000万円で日本代表監督に就任し、2014年ブラジルW杯まで指揮を執った[23]。ブラジルW杯後、ハビエル・アギーレが年俸約2億円で日本代表監督に就任したが、スペインのクラブ監督時代の八百長疑惑により2015年2月3日契約解除となった。同年3月12日、ヴァヒド・ハリルホジッチが年俸200万ドル(約2億7000万円)で日本代表監督に就任した[23]。ハリルホジッチは、2018年ロシアW杯まで指揮する予定であったが2018年4月7日に解任され、同年4月9日に西野朗JFA前技術委員長が日本代表監督に年俸約1億2500万円[24]で就任した(同年4月7日までに西野はJFA理事、JFA技術委員長、Jリーグの理事を辞任)。任期はロシアW杯後の7月31日まで[25]で、ロシアW杯ベスト16の成績を残した。任期満了で退任する[26]。在任期間はわずか3カ月23日(114日)間で、日本代表選手との帯同期間は5月21日の合宿から7月5日の帰国会見までのわずか46日間であった。なお、U-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保一は、西野朗日本代表監督就任に伴い、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯まで日本代表コーチを務めていた。
2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保一が、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に年棒約1億5000万円[27]で4年契約で就任した[28](なお、東京五輪男子代表監督就任時の年棒は4800万円だった[29])。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、トルシエに次いで2人目で、日本人監督としては初めてである。また、初の外国人日本代表監督のオフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである[30]。
日本代表選手
プロ化前
プロ化される以前の日本代表選手は、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。アマチュア全国リーグJSL所属の選手がほとんどで、所属企業での給料以外受け取っておらず、有給休暇を使って日本代表活動をこなし[8]、その諸費用も自費で賄っていた[23]。1970年メキシコW杯アジア・オセアニア予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(当時)のデットマール・クラマーが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある[8]。
1972年5月、ペレが所属するブラジルのサントスFCが来日し日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた[8]。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3000円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった[8]。同時に宿泊施設についても改善された[31]。1993年5月15日のJリーグ開幕より以前に、ブラジルから帰国した三浦知良、日本に帰化したラモス瑠偉ら当時の日本代表選手たちがJFAに待遇改善を訴え、日当と勝利給が支給されるようになったが出場給は存在しなかった。
プロ化後
日本プロ化後は、当時の日本代表メンバーの武田修宏によると1993年10月28日のドーハの悲劇(1994年アメリカW杯アジア最終予選)の頃の日当は9000円だったという[32]。日本は、1994年アメリカW杯アジア最終予選第2戦イラン戦で1-2で敗戦し、最下位に転落した。そこで第3戦から川淵三郎強化委員長(当時。現JFA技術委員会)が、独断で勝利ボーナスとして50万円を支払うこととし、第4戦終了後に日本は1位となるなど一時は持ち直した(結局、日本は第5戦イラク戦の2-2の引き分けで、最終順位は3位)。以後は日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。
日本代表選手への報酬総額は年々アップしている。1994年米W杯アジア予選の際には、JFAは2億円を用意していた。JFAは米W杯アジア予選の2倍の4億円(出場時間に応じて配分。1人最高1000万円)を仏W杯アジア予選で計上し、日本代表W杯初出場を果たした。
開催国だったため、アジア予選に出場しなかった2002年日韓W杯ではJFAは本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。
2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、FIFAワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった[33]。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。AFCアジアカップ2004で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。
2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた[34]。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会が200万円、W杯アジア予選・アジアカップ本大会・コンフェデ杯が30万円(2012年11月16日から50万円)、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧東アジアカップ)・アジアカップ予選・キリンカップ・FIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円(2012年11月16日からFIFAランクに関係なく親善試合は一律20万円)、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスもW杯本大会は優勝5000万円が最高額で、2位3000万円、3位2000万円、4位1000万円、ベスト8で800万円、ベスト16(=ノックアウトステージ進出)で600万円、コンフェデ杯は優勝300万円、2位150万円、3位100万円、アジアカップ本大会は優勝200万円、2位100万円、3位50万円、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧東アジアカップ)は優勝100万円、2位50万円、3位25万円というように、各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上の大会ボーナスを出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている[34][35][36]。
日本代表選手の給料の支給方法については、JFA技術委員会(旧強化委員会)で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。2010 FIFAワールドカップ・アジア予選では出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた[37]。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて犬飼基昭JFA会長(当時)は、「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。2010 FIFAワールドカップでは「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた[34]。
大会ボーナスなど日本代表選手に支払われる賞金(報奨金)には、税金がかかる。海外リーグ所属の選手はその国の税法に基づき税金をその国に納める。Jリーグ所属選手の場合、例えば、賞金平均額の約1304万円を獲得した選手は、獲得した賞金は全て「一時所得」となり、得た金額から特別控除額50万円を差し引いた額の50%の約627万円が課税対象となる[38]。
なお、オリンピック(男子本大会はU-23+オーバーエイジ3人迄、女子は年齢制限なし女子A代表)の賞金は、成績に応じてJFA及び日本オリンピック委員会(JOC)の2団体からそれぞれ支払われ、所得税法9条1項14号の規定[39]及び2010年の税法改正により、それぞれの五輪の賞金については非課税である(JOC加盟のJFA及びJOCからの五輪賞金の為。但し、設定された非課税枠を超えた分は、課税)。JOCがメダリストに支払う報奨金は、2016年リオ五輪で金メダル500万円(2012年ロンドン五輪300万円)、銀メダル200万円、銅メダル100万円であり、個人競技、団体競技に関係なく1人あたりに支払われる。東京五輪ではさらに増額する予定である。JOC加盟団体であるJFAからの日本五輪代表(男女とも)に対する賞金は、金メダル150万円、銀メダル100万円、銅メダル50万円で、勝利給が30万円、優勝ボーナスは1人500万円である[40]。
2010年12月17日、日本プロサッカー選手会 (JPFA) が日本代表の親善試合の勝利給は20万円程度とJ1各クラブの勝利給の半分以下で、ハードな日程の中で招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した[41]。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日の2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選のB組第7節ヨルダン戦から実施された[35][36]。
W杯出場日本代表選手対象年金
2018年2月2日、田嶋幸三JFA会長がW杯出場日本代表選手対象の年金制度を創設すると発表した。日本代表等JFAの放映権料を原資とし、毎年3 - 5%を積み立てる案がある。日本プロサッカー選手会とも話し合い、早ければ2019年度の予算から組み込む予定である[42]。
日本代表戦放映権料及び親善試合等の費用
2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円[43]。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である[44]。なお、ワールドカップアジア最終予選の放送権やマーケティング権がJFAにないため(つまり、JFAにW杯アジア最終予選放映権収入なし)、ワールドカップ本大会前年のJFA収益は下がる傾向にある[45]。
2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際に、JFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2-3億円で、移動費(飛行機代含め)、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年のFIFAランク1位のドイツや同年のFIFAランク9位のスペインなどFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかるという[46]。
歴史
太平洋戦争以前
大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は、1921年9月10日に設立され、1929年5月17日の第18回FIFAバルセロナ総会で国際サッカー連盟(FIFA)加盟が承認された。
最初の国際試合は、1917年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会の中華民国戦(5月9日)で、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、2-15と大敗した[47]。これは現在も、日本代表における対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合である(FIFA加盟協会同士の代表間の最大差試合は、日韓W杯オセアニア予選オーストラリア 31-0 アメリカ領サモア)。
1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年の第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された[48]。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。
1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。
1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている[49][50]。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合である。
1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。
戦中
1913年から開催され、サッカー日本代表も1917年の第3回から参加した極東選手権競技大会は大会を主催する極東体育協会に満州国を参加させようとした日本と拒否する中華民国の対立により1934年の第10回大会を最後に幕を閉じた。そのため日本は新たに東洋体育協会を設立し「東洋選手権競技大会」を開催しようとしたが、各国の思惑等により進展せず、1937年の日中戦争開戦によりご破算となった。
その後は1939年に日本・満州・中華民国臨時政府の参加により開催された日満華交歓競技大会や、開催権を返上した東京五輪に代わり開催された東亜競技大会(1940年・1942年の2回開催)で実施されたサッカーに日本代表も出場している。
戦後から1990年代まで
第二次世界大戦後の1945年11月13日に、大日本蹴球協會は会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた[51][52][53]。
1947年4月1日に、大日本蹴球協會から日本蹴球協会へと名称を変更し[8][54]、1950年9月23日にFIFAに再加盟した[55][54]。
1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、大韓民国大統領の李承晩の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催であったが2戦2敗となり出場を逃した。
1950年代から60年代の日本は、アマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手(現日本代表選手)であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという[8]。また、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。しかしその後、ワールドカップはおろかオリンピックの予選突破もままならない状態が続く。
1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した[56][54]。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)[57]。
1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが、先立つ1983年にプロリーグを発足させていた韓国に敗れたことによりアマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。ソウルオリンピックサッカーアジア予選では、韓国が開催国として予選に出ないという最大のチャンスで、守備的戦術により最終戦を前に予選グループ首位に立ち、1987年10月26日、ホーム国立競技場で中国に引き分ければ20年ぶりのオリンピック出場を決められる試合で、何も出来ず0-2で敗戦、中国にオリンピック初出場を許したが、これがきっかけとなり、日本サッカーリーグの中に「リーグ活性化委員会」が設置された[58]。また、JFAの最大の目標だったオリンピックサッカー競技が1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていた為、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった[8]。
1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任。この頃から、1930年第9回極東選手権競技大会以降の「全日本」の呼称から現在の「日本代表」と呼称するようになった。1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では最終予選に進出したが、最終戦のイラク戦で後半のアディショナルタイムに同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した(ドーハの悲劇)。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選ではプレーオフでイランを破り、初めてのW杯出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。
FIFAワールドカップ
詳細については、各大会の記事を参照。
- 1998年大会
- 初出場となったこの大会はグループリーグでアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3戦全敗し、グループリーグ最下位で終えた。なお、ジャマイカ戦で中山雅史がW杯初得点を決めた。
- 2002年大会
- 開催国のため、予選免除での出場となった。グループリーグ第1戦のベルギー戦を2-2で引き分けてW杯初の勝ち点を得ると、続く第2戦のロシアを1-0で降しW杯初勝利を挙げた。続くチュニジア戦も2-0勝利し、2勝1分でグループリーグを首位で通過し初の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦でトルコに0-1で敗れたもののベスト16の成績を残した。
- 2006年大会
- 2大会ぶりに予選に参加しアジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選でも5勝1敗の成績で1位で通過、3大会連続の本大会出場を果たすと共に時差の関係でワールドカップ地区予選突破第1号となった。前回大会で活躍した中田英寿や黄金世代の選手達が20代後半〜30代前半と円熟期を迎え、更に前回大会には出場の叶わなかった中村俊輔や高原直泰が加わったチームは「史上最強」と謳われ、最終予選では視聴率が40%を超える試合が続出する等日本サッカーファンの期待はかつて無い程大きく高まっていた。しかし、初戦のオーストラリア戦では中村が代表の大会初得点を挙げるも、後半に長身選手を投入したオーストラリアに押し込まれ、ティム・ケーヒルの同点弾、逆転弾を浴び、大黒将志を投入したが前掛かりになった所をカウンターで突かれ、残り時間6分から3失点し1-3と逆転負けした。続くクロアチア戦では2試合連続の酷暑の中、前半21分にダド・プルソを宮本恒靖が倒して献上したPKを川口能活がセーブする活躍を見せるが、後半6分に加地亮のオーバーラップからの決定機をフリーだった柳沢敦が外すなどして無得点のまま引き分ける。3戦目のブラジル戦では玉田圭司のゴールで先制するも、ワールドカップの通算得点でゲルト・ミュラーの記録越えがかかったロナウド(当時12ゴール)から2ゴールを奪われるなど1-4で敗れ、グループリーグ最下位で大会を終えた。なお、この大会をもって中田が現役を引退した。サッカーダイジェストによると、ドイツ大会不振の原因の一つに、ジーコが守備の約束事を示さなかった事で大会直前に選手間で話し合った所、プレスの掛け所を巡って意見が割れた事でチームワークに亀裂が入ったまま本大会に入ったことがあるとされる[59]。
- 2010年大会
- ドイツ大会終了後、ジェフユナイテッド千葉の監督であったイビチャ・オシムが監督に招聘された。だが、2007年11月にオシムが脳梗塞で倒れたことで岡田武史が1998年以来となる監督に就任した。2009年6月6日のアジア最終予選においてウズベキスタンに勝利して4大会連続4度目の本大会出場を決めた。一方で、本大会直前期の試合の成績がふるわなかったことから岡田の解任論が噴出するなど過去にないほど世論の代表チームへの期待が低かった。本大会では予選からフォーメーションや戦術を大幅に変更し、グループリーグ初戦のカメルーン戦は本田圭佑のゴールで1-0で勝利した。この勝利は、海外開催でのワールドカップ初勝利となった。続くオランダ戦との第2戦では0-1で敗れるも、第3戦のデンマーク戦では本田と遠藤保仁のフリーキックに岡崎慎司のゴールで3-1で勝利しオランダに次ぐグループ2位で2大会ぶりにグループリーグを突破した。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦しスコアレスのままPK戦となり3-5で敗れ、ベスト16で敗退した。
- 2014年大会
- 南アフリカ大会終了後、アルベルト・ザッケローニが監督に就任。2013年6月4日、埼玉スタジアム2002でのアジア最終予選第7戦(第8節)においてオーストラリアと引き分け、5大会連続5度目の本大会出場が決定した。初出場から5大会以上連続出場はブラジル、イングランドに次いで史上3か国目となり、2006年・2010年大会に続き3大会連続で予選突破第1号となった。
- 前回大会で活躍した本田や新たに台頭した香川真司等、過去最多の海外組が名を連ねる攻撃サッカーを掲げたチームの前評判は非常に高かった。しかし、コートジボワールとのグループリーグ初戦は前半に本田のゴールで先制しながらも、後半途中にディディエ・ドログバが投入されると空気が一変して立て続けに2失点し逆転負けを喫すると、続く2戦目のギリシャ戦では前半38分に長谷部誠を倒したギリシャのコンスタンティノス・カツラニスが退場するも、数的優位を活かせずスコアレスドローとなった。コロンビアとの最終戦では控え中心だった相手にシュート数とボール支配率は上回りながら前半ラストプレーになった岡崎の同点ゴールも空しく1-4の大敗と、1勝も挙げる事なくグループ最下位で敗退となった。ザッケローニ就任以降、不安視された守備が最後まで改善されなかった事や、6人交代枠のある親善試合においても新戦力のテストを全くと言って良い程せずに固定したメンバーで戦ったこと、3試合とも高温多湿の会場で試合を行うにも関わらずグループリーグの抽選前に寒冷地のイトゥをキャンプ地として決めたまま変更しなかったこと[60]、ザッケローニが代表メンバー発表の場で「日本に空中戦の文化はない」と断言し、それまで何度も代表に召集されていた空中戦に強いFW豊田陽平をメンバーから外しておきながら、第1戦と第2戦で吉田麻也を前線に上げてロングボールの放り込みを強行するという戦術の矛盾が生じた事、練習や親善試合で見せなかった[61]にも関わらず後のなくなった第2戦に岡崎を左サイドハーフでスタメン出場させ、香川の投入後は岡崎を前線に配置する等、ザッケローニの言行不一致な采配が不振の原因とされた。
- 2018年大会
- ブラジル大会後、元メキシコ代表監督のハビエル・アギーレが新監督に就任した。しかし、アギーレに過去の八百長疑惑と訴追の可能性が浮上したことで2015年2月にアギーレを解任した。同年3月、元アルジェリア代表監督のヴァヒド・ハリルホジッチが新監督に就任した。アジア最終予選は初戦のホームUAE戦で敗戦、3か国以上が予選で対戦する方式となった1990 FIFAワールドカップ・アジア予選以来、日本代表がワールドカップ予選初戦で敗れたのは初めてで、この時点で予選突破確率0%とまで報じられる厳しいスタートとなるも、その後は負けることなく、2017年8月31日、オーストラリアにワールドカップ予選で初勝利し6大会連続6度目の本大会出場が決定した[62]。ところが、大会直前の2018年4月9日にハリルホジッチが解任されると、前JFA技術委員長の西野朗が新監督に就任した(西野は同年4月7日までにJFA理事、JFA技術委員長、Jリーグの理事を辞任し、JFA技術委員長後任は関塚隆が就任した。)。解任の理由について田嶋幸三JFA会長は「ワールドカップで1%でも勝つ確率を上げたい」と述べたものの、ワールドカップ直前のガーナ戦で無得点のまま0-2で敗れ、本大会間際での監督交代に改めて批判を浴びることになった[63]。
- 本大会ではグループHに入り、初戦で前回大会グループリーグ最終戦で1-4と惨敗したコロンビアと対戦、試合開始早々にカルロス・サンチェスがゴール前でのハンドで退場し、与えられたPKを香川が決めて先制。前半のうちに同点に追いつかれるものの、後半に大迫勇也が決勝ゴールを決め2-1で勝利。2戦目のセネガル戦は二度相手にリードを許しながらも乾貴士と本田のゴールで追い付き2-2の引き分け。3戦目のポーランド戦は0-1で敗れ、特に最後の数分間は負けているにもかかわらず他会場のスコア状況から敢えて攻めの姿勢を見せなかったことが物議を醸したものの、第3戦を終えた時点で順位、得失点差、総得点全てが並んでいたセネガルをフェアプレーポイントで上回ったことで2大会ぶりの決勝トーナメント進出(ベスト16)を決めた。なお、同大会の出場チームでは唯一の第4ポットからの決勝トーナメント進出チームとなった。決勝トーナメントラウンド16(1回戦)では大会直前のFIFAランキング3位のベルギーと対戦し、後半に原口元気と乾が得点を挙げベルギーから2点を先行。だが、ベルギーが選手を2人同時に交代させたすぐ後の69分に1点を返されると、74分には同点に追いつかれ、試合終了間際の後半アディショナルタイムにカウンターからの逆転ゴールを許し2-3で敗戦し初のベスト8入りを後一歩で逃した。なお、ワールドカップ決勝トーナメントにおける2点以上のリードからの逆転負けは、延長の末2-3で逆転負けした1970年大会のイングランド以来48年ぶりであった[64]。
FIFAコンフェデレーションズカップ
- 1995年大会(第2回、当時の大会名はキング・ファハド・カップ)
- アジアカップを初制覇して初出場した大会であったが、2試合2敗・得点1失点8のグループリーグ最下位と惨敗に終わった。
- 2001年大会(第5回)
- 地元開催となった当大会では、初戦で北中米カリブ王者カナダを破りコンフェデレーションズカップ初勝利を上げると、第2戦でアフリカ王者カメルーンを撃破しグループリーグ突破を決めた。第3戦では南米王者ブラジル相手に善戦して引き分け、グループリーグ1位となった。準決勝では大雨の中、オーストラリアと対戦、中田のFKが決勝点となり1-0で勝利し決勝進出。決勝ではフランスに0-1で惜敗したものの、男子日本代表がA代表に於けるFIFA主催の大会で決勝に進んだのは史上唯一の快挙である(2018年現在)。
- 2003年大会(第6回)
- 初戦でオセアニア王者ニュージーランドに大勝するも、欧州王者フランス、南米王者コロンビアに連敗。グループリーグ3位となり、2大会連続のノックアウトステージ進出はならなかった。
- 2005年大会(第7回)
- 欧州王者ギリシャに勝利し、南米王者ブラジルと引き分けるも初戦で北中米カリブ王者メキシコに敗戦したことが響き、得失点差でグループリーグ3位となりノックアウトステージ進出ならず。
- 2013年大会(第9回)
- アジアカップ2011を制し、2大会振りの出場となったが同組にブラジル、欧州王者イタリア、北中米カリブ王者メキシコとワールドカップ優勝経験国2ヶ国が入る「死の組」に入り、3戦全敗のグループリーグ最下位。攻撃的サッカーを標榜して来た日本代表であったが、失点数は3試合で9点に及び、守備力不足が露呈した。
アジアカップ
アジアにおいてはアジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、アジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代で、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年イラン大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2002年に準優勝、2010年に優勝を果たしている)。
1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決める為に行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4))、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。
前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。
1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという[8](ただし、このB代表からはいずれも1969年8月1日生以降という年齢制限のため五輪予選には参加していない)。
JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督ハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。
1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが[65]、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた[8]。
広島県各地で開催された日本大会では、初戦のUAE、2戦目の北朝鮮といずれも引き分け、3戦目の前にUAEが北朝鮮に勝利したため[66]暫定3位となり、それまで1勝1分のイランに勝たなければグループリーグ敗退となる状況で、53分に相手FWが退場になり人数的に有利になりながらもなかなか得点を挙げられなかったが、87分に井原正巳のパスから三浦知良のゴールで先制し、その後アディショナルタイムにイランにさらに2人の退場者が出る荒れた試合になったものの1-0で辛勝、決勝トーナメント進出を決めた。準決勝の中国戦では開始早々に失点、その後後半に2点を入れ逆転したものの、60分にGK松永成立が相手を蹴ったとしてレッドカードで退場、1人少ない状態から一旦は追いつかれたが、84分の中山雅史のヘディングゴールで3-2で辛勝。決勝では、サウジアラビアに対し、36分の高木琢也のゴールを守り切り1-0で勝利、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した[8]。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。
1996年の第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ連覇ならず。
2000年の第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り、2大会ぶり2度目の優勝を果たした。
2004年の第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元中国との対戦のみならず全ての試合で、プレー中のみならず国家斉唱の際にまで中国人サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、ノックアウトステージでは初戦のヨルダン戦ではPK戦にもつれ込み、1-3の絶体絶命の場面からGK川口能活の2つのセーブを含む相手の4本連続失敗で逆転勝利[67]、準決勝では0-1から39分に遠藤保仁が退場処分となり不利になりながら後半に一旦逆転、その後再逆転を許すも終了間際に中澤佑二のゴールで同点に追いつき、延長に入り玉田圭司の決勝ゴールを守り切り4-3で決勝進出、決勝戦では地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。
2007年の第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国相手にPK戦を制することが出来ず4位に終わった[68]。
2011年の第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。
2015年の第16回オーストラリア大会ではグループリーグを3戦全勝、無失点で1位通過。準々決勝のUAE戦では開始早々にこの大会初失点を喫するも、終盤に柴崎岳のゴールで追いつき延長戦に突入。ボール支配率・シュート数では相手を圧倒し、決定機を悉く作りながらそれらを全て逃し続け、延長戦でも勝負を決められずPK戦の末1番手の本田と6番手の香川という2大エースが失敗し無敗(3勝1分)のままベスト8で敗退。準々決勝敗退は加茂周監督が日本代表を率いた19年前の1996年大会以来5大会ぶりとなり、Jリーグ発足後に参加したアジアカップとしても同大会と並び過去最低タイ記録となった[69]。
コパ・アメリカ
日本代表はアメリカ州外からコパ・アメリカに参加した唯一のチームで、これまでに1999年大会に出場した。
2011年大会にも招待を受け出場予定であったが[70]、同年3月に発生した東日本大震災に伴うJリーグの日程変更により、主力となるはずの国内クラブ所属選手の招集が難しくなり、また欧州クラブ所属選手の招集も困難であった(アジア大陸の選手権ではないので代表拘束権がない)ことなどから、参加を断念。 2015年および2016年もスケジュール調整の関係で参加を辞退した。
南米サッカー連盟(CONMEBOL)は、2019年6月にブラジルで開催されるコパ・アメリカに、日本代表を招待すると発表した。
成績
FIFAワールドカップの成績
FIFAワールドカップ | FIFAワールドカップ・予選 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 本大会成績 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |||||||
最終成績 | グループリーグ | 試合数 | 勝 | 分 [注1 1] |
負 | 得点 | 失点 | |||||||||
1930 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||||
1934 | ||||||||||||||||
1938 | ||||||||||||||||
1950[注1 2] | ||||||||||||||||
1954 | 予選敗退 | 敗退 | 2 | 0 | 1 | 1 | 3 | 7 | ||||||||
1958 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||||
1962 | 予選敗退 | 敗退 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4 | ||||||||
1966 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||||
1970 | 予選敗退 | 1次予選敗退(3位) | 4 | 0 | 2 | 2 | 4 | 8 | ||||||||
1974 | 1次予選敗退(ゾーンA準決勝) | 4 | 1 | 0 | 3 | 5 | 4 | |||||||||
1978 | 1次予選敗退(2組3位) | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 5 | |||||||||
1982 | 1次予選敗退(4組準決勝) | 4 | 2 | 0 | 2 | 4 | 2 | |||||||||
1986 | 最終予選敗退(ゾーンB2位) | 8 | 5 | 1 | 2 | 15 | 5 | |||||||||
1990 | 1次予選敗退(6組2位) | 6 | 2 | 3 | 1 | 7 | 3 | |||||||||
1994 | 最終予選敗退(3位) | 13 | 9 | 3 | 1 | 35 | 6 | |||||||||
1998 | グループリーグ敗退 | 4位敗退(勝点0) | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 最終予選(B組2位) AFCプレーオフ勝利 |
15 | 9 | 5 | 1 | 51 | 12 | |
2002 | ベスト16 | 1位通過(勝点7) | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | 免除(開催国) | |||||||
2006 | グループリーグ敗退 | 4位敗退(勝点1) | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 7 | 最終予選通過(B組1位) | 12 | 11 | 0 | 1 | 25 | 5 | |
2010 | ベスト16 | 2位通過(勝点6) | 4 | 2 | 1 | 1 | 4 | 2 | 最終予選通過(A組2位) | 14 | 8 | 4 | 2 | 23 | 9 | |
2014 | グループリーグ敗退 | 4位敗退(勝点1) | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 6 | 最終予選通過(B組1位) | 14 | 8 | 3 | 3 | 30 | 8 | |
2018 | ベスト16 | 2位通過(勝点4) | 4 | 1 | 1 | 2 | 6 | 7 | 最終予選通過(B組1位) | 18 | 13 | 3 | 2 | 44 | 7 | |
合計 | 最高成績:ベスト16 (3回) 21大会中/6大会出場 | 21 | 5 | 5 | 11 | 20 | 29 | 120 | 68 | 26 | 26 | 247 | 85 |
FIFAワールドカップでの全試合結果
FIFAコンフェデレーションズカップの成績
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
最終成積 | グループリーグ | |||||||
キング・ファハド・カップ(サウジアラビア開催・運営) | ||||||||
1992 | アジア予選敗退 | |||||||
1995 | グループリーグ敗退 | 3位敗退(勝点0) | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 8 |
FIFAコンフェデレーションズカップ(FIFA管轄) | ||||||||
1997 | アジア予選敗退 | |||||||
1999 | ||||||||
2001 | 準優勝 | 1位通過(勝点7) | 5 | 3 | 1 | 1 | 6 | 1 |
2003 | グループリーグ敗退 | 3位敗退(勝点3) | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 3 |
2005 | グループリーグ敗退 | 3位敗退(勝点4) | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 |
2009 | アジア予選敗退 | |||||||
2013 | グループリーグ敗退 | 4位敗退(勝点0) | 3 | 0 | 0 | 3 | 4 | 9 |
2017 | アジア予選敗退 | |||||||
合計 | 最高成績:準優勝 10大会中/5大会出場 | 16 | 5 | 2 | 9 | 19 | 25 |
AFCアジアカップの成績
AFCアジアカップ | AFCアジアカップ・予選 | ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 本大会成績 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |||||||
最終成積 | グループリーグ | 試合数 | 勝 | 分 [注2 1] |
負 | 得点 | 失点 | ||||||||
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias HKG1910|border|25x20px|テンプレート:Country alias HKG1910の旗]] 1956 | 不参加 | 不参加 | |||||||||||||
1960 | |||||||||||||||
1964 | |||||||||||||||
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias IRN1964|border|25x20px|テンプレート:Country alias IRN1964の旗]] 1968 | 予選敗退 | 4 | 3 | 1 | 0 | 8 | 4 | ||||||||
1972 | 不参加 | 不参加 | |||||||||||||
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias IRN1964|border|25x20px|テンプレート:Country alias IRN1964の旗]] 1976 | 予選敗退 | 4 | 1 | 1 | 2 | 3 | 4 | ||||||||
1980 | 不参加 | 不参加 | |||||||||||||
1984 | |||||||||||||||
1988 | グループリーグ敗退[注2 2] | 5位敗退(勝点1) | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 6 | 4 | 2 | 1 | 1 | 6 | 3 | |
1992 | 優勝 | 2位通過(勝点4) | 5 | 3 | 2 | 0 | 6 | 3 | 免除(開催国) | ||||||
1996 | ベスト8 | 1位通過(勝点9) | 4 | 3 | 0 | 1 | 7 | 3 | 免除(前回優勝) | ||||||
2000 | 優勝 | 1位通過(勝点7) | 6 | 5 | 1 | 0 | 21 | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 15 | 0 | |
2004 | 優勝 | 1位通過(勝点7) | 6 | 4 | 2 | 0 | 13 | 6 | 免除(前回優勝) | ||||||
2007 | 4位 | 1位通過(勝点7) | 6 | 2 | 3 | 1 | 11 | 7 | 6[71] | 5 | 0 | 1 | 15 | 2 | |
2011 | 優勝 | 1位通過(勝点7) | 6 | 4 | 2 | 0 | 14 | 6 | 6 | 5 | 0 | 1 | 17 | 4 | |
2015 | ベスト8 | 1位通過(勝点9) | 4 | 3 | 1 | 0 | 8 | 1 | 免除(前回優勝) | ||||||
2019 | 出場権獲得 | - | - | - | - | - | - | 8 | 7 | 1 | 0 | 27 | 0 | ||
合計 | 最高成績:優勝(4回) 16大会中/8大会出場 | 41 | 24 | 12 | 5 | 80 | 38 | 35 | 26 | 4 | 5 | 91 | 17 |
コパ・アメリカの成績
出場した大会のみ記載。
ダイナスティカップの成績EAFF E-1フットボールチャンピオンシップの成績
オリンピックの成績オリンピックサッカー日本代表選手も参照。1992年大会以降の成績はU-23サッカー日本代表#オリンピックの成績を参照。
|