セルジオ越後

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{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} セルジオ越後(セルジオ えちご、Sergio Echigo、1945年7月28日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元プロサッカー選手。ポジションは右ウイング日系ブラジル人二世。サンパウロのコリンチャンスでプレイしていて、日系人として初めてブラジル代表候補として名が挙がったが、一身上の都合で23歳の時一度引退し[1]、その後1972年に来日。現在はサッカー評論家・指導者。株式会社栃木ユナイテッド(HC日光アイスバックスの運営会社)代表取締役。日本アンプティサッカー協会(JAFA)最高顧問[2]

略歴

ブラジル時代

ブラジルサンパウロ州サンパウロで日本からの移民の両親の元に生まれる。17歳のときにサンパウロの名門コリンチャンスのジュニオール(ユース)のテストに合格する[3]。本人によれば、テストを受けた際に皆がミッドフィルダーに手を挙げたため、気圧されてつい手を挙げそびれた結果、あまった右ウイングとしてプレーすることになった[3]。しかしライバルが少なかったのが功を奏し、ミッドフィルダー志望者が5分ごとに交代させられる一方、セルジオは20分間もプレーすることができた[3]。同期は元ブラジル代表のロベルト・リベリーノで、今でもブラジルに帰った際は旧交を暖めている。

しかし1年で契約を解除されその後は、鉄骨関係の会社でセールスマンとして2年ほど働いた。元コリンチャンスの肩書きは大きく、商談相手とサッカーの話をしたり、草サッカーをするだけで物が売れていったという[4]。その後、ブラジルの2部チームを渡り歩いた後、日本の社会人チームからアマチュアサッカー選手としてのオファーが彼の元へ届いた。当時の職場の上司に相談したところ、「お前は馬鹿か。仕事をおぼえられてサッカーができる上に金までもらえる。もしお前が断るなら代わりに俺の息子を行かせる。」と言われ、日本へ渡ることを決意した[4]

JSL時代

1972年日本サッカーリーグ(JSL)1部藤和不動産サッカー部湘南ベルマーレの前身)に入り、1974年までプレー。セルジオは当初、あくまでもアマチュア選手として仕事の余暇にサッカーをプレーするものだと考えていたが、実際には藤和不動産はほぼ一年中合宿生活を送っており[5]、プロ時代以上の練習量に驚かされることになる[6]。日本人の監督・コーチの非合理的な指導に対し、セルジオが戸惑うこともしばしばあった[7][8]

JSL初の「元プロ選手」の加入は大きな話題となり、日本デビュー戦となった1972年開幕戦の三菱重工戦には、同年のJSLの1試合平均観客動員数の4倍となる2万人の観客が国立競技場に集まった[9]日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き[10]、その後、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな制限が設けられた[11]

1974年に藤和不動産の新外国人選手としてセルジオ自らブラジルで探し当てたカルバリオは、その後2度のJSL1部得点王に輝いた[12]

引退後

引退後は一旦ブラジルに帰国したが、1975年からは新興チームの永大産業サッカー部でコーチになった[13]。しかし永大産業は本業の不振の煽りで1977年シーズンを前に活動を停止してしまう[14]1978年からはコカ・コーラの後援のもと、日本サッカー協会公認の「FIFAさわやかサッカー教室」(後の「アクエリアス・サッカークリニック」)を開き[14][15]平田生雄とともに北は北海道から南は沖縄まで全国津々浦々を回り少年サッカーの指導普及に努めセルジオ越後杯を開催。延べ50万人以上の少年少女を直接指導する[11]。これが評価され、2006年に文部科学省の2006年生涯スポーツ功労者表彰、2013年には外務大臣表彰を受けた[16]。2017年4月、旭日双光章を受章。

日本サッカー協会の強化委員会で委員をやった時期があり、ハンス・オフトを続投させようと思っていた川淵三郎に反対し、実績のある監督を呼ぶべきだと言った[17]。その後、ファルカンが日本代表監督を務めた時に代表スタッフの一員となっている。

2006年8月よりアジアリーグアイスホッケーチームH.C.栃木日光アイスバックス(当時は、日光神戸アイスバックス)のシニアディレクターに就任。まったく畑違いの競技であるが、「選手たちにプロの心構えを教えてやってほしい」の一言がきっかけだった。試合では自身もベンチに入り、ハーフタイムに選手たちを鼓舞するほか、TV出演の際にはアイスバックスの宣伝を欠かさないなど精力的に活動している[18]

エピソード

戸籍には含まれていないが、親からは「ヨシオ」という日本名で呼ばれていた。現役当時、他のブラジル人選手同様、帰化して日本代表になってくれるよう頼まれたが、「自分は中身はブラジル人だから」と取り合わなかった。

ロナウジーニョリベリーノがドリブル時に使い有名な「エラシコ (エラッスチコ、Elástico)」という、外に行く振りをして内に進み相手を置き去りにする(ボールを素早く外に叩く振りをし、内に叩き進む)フェイントを考案し、リベリーノに伝授した[19][20]。本人によれば、ペレガリンシャの技を真似して、自分流にアレンジしてやっていたところ、当時のチームメートであったリベリーノが面白がって自分でもやるようになったということである。リベリーノによれば、あるテストマッチのときに、越後がエラシコをし、フルバックのエドアルドがピッチ外に出されそうになるほどのフェイントになった。リベリーノは自分の見たものが信じられず、越後に何をしたか問うと、越後はやり方を教えてみせた。越後はリベリーノに「僕が発明し、君が完璧なものにした」と言っている。[19]

来日当時日本サッカーの故郷ブラジルとのレベルの差とサッカー人気の低さに大きな失望と戸惑いを感じたが、サッカー教室を清水で開いた際子供たちのレベルの高さとサッカー熱を見て「日本にもブラジルがあった」と感激したと語っている。

娘のエチゴ由衣はタレントとして活動していた。

その他の活動

辛口批評家

イビチャ・オシムフィリップ・トルシエ同様に、日本のマスメディアのあり方には苦言を呈している[21]。辛辣なコメントをする姿勢について「厳しく言うのは、日本サッカー界に良くなって欲しいから。サッカー人気とメディア露出が落ちていけば、スポンサーも減少する。そうなると自分達の仕事も少なくなる」と理解を求めている[21]

コーチ

セルジオサッカークリニックを毎年開催(大陽日酸の社会貢献活動の一環として、セルジオ越後をはじめとする講師による実技指導と交歓試合を小学生など向けに行っている)[22]。 この他サッカー日本代表のレベルを上げるための施策として、Jリーグの外国人枠の撤廃もしくは拡大、アジア人枠の設置、海外組ブランド選手の見直しを提唱している。

個人成績

日本サッカーリーグ成績 テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1972||藤和||||JSL1部||||||colspan="2"|-|||||||| |- |1973||藤和||||JSL1部|||||||||||||||| |- |1974||藤和||||JSL1部||||||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始40||6|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終40||6|||||||||||| |}

脚注

出典

  1. 加部、104頁。
  2. 協会概要”. 日本アンプティサッカー協会. . 2017閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 加部、100頁。
  4. 4.0 4.1 加部、106-107頁。
  5. 加部、96頁。
  6. 加部、107頁。
  7. 加部、107-109頁。
  8. 賀川浩. “第10回 セルジオ越後(2)リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露” (日本語). 賀川サッカーライブラリー. . 2012閲覧.
  9. 加部、96-97頁。
  10. 加部、97頁。
  11. 11.0 11.1 加部、109頁。
  12. 加部、116頁。
  13. 加部、111頁。
  14. 14.0 14.1 賀川浩. “第11回 セルジオ越後(3)遊びの中でヒントを出し、手本を示す日本の隅々まで広めたセルジオ流” (日本語). 賀川サッカーライブラリー. . 2012閲覧.
  15. 賀川浩. “第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸” (日本語). 賀川サッカーライブラリー. . 2012閲覧.
  16. “平成25年度外務大臣表彰” (プレスリリース), 外務省, (2013年7月25日), http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_000467.html . 2013閲覧. 
  17. 武智幸徳. “川淵三郎 「いつも強行突破。だから変えられた」” (日本語). . 2017閲覧.
  18. 日光バックスに賭けるセルジオ越後氏の決意 - Number Web
  19. 19.0 19.1 Japan's home away from home” (英語). FIFA.com. . 2014閲覧. '"Though the popular belief is that Ronaldinho inherited the trick from the one and only Roberto Rivellino, the fact is that it was patented by Sergio Echigo, a nisei – a child of Japanese immigrants – who played for Corinthians in the 1960s. Years later Rivellino, a FIFA World Cup™ winner with Brazil at Mexico 1950, recalled the first time he saw Echigo perform the move: “He was playing in a trial match when the ball came to him out wide and he just did it. Our full-back Eduardo just about ran off the pitch.” Explaining what happened next, Rivellino said: “I couldn’t believe it. I looked over to him and said: ‘Hey, Japanese guy. What did you do there?’ And he showed me how to do it. All Echigo says is that he invented it and I perfected it.”"'
  20. RIVELINO Rivelino: A very special left foot” (英語). FIFA.com. . 2012閲覧. '"Rivelino has been attributed with inventing the elástico, although he has always maintained that he learned the dribbling trick from Sergio Echigo, a midfielder of Japanese descent who was a youth-team colleague of his at Corinthians."'
  21. 21.0 21.1 セルジオ越後氏 日本サッカーに対し辛口批評する理由を語る - NEWSポストセブン
  22. 大陽日酸セルジオサッカークリニック

参考文献

  • 加部究 『サッカー移民-王国から来た伝道師たち』(双葉社、2003年) ISBN 4575296023

関連項目

外部リンク