日本銀行
日本銀行(にっぽんぎんこう、にほんぎんこう、英語: Bank of Japan)は[注釈 1]、日本銀行法(平成9年法律第89号)に基づく財務省所管の認可法人(財務省設置法4条59号)であり、日本国の中央銀行である。
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概要
日本銀行は、日本国政府から独立した法人とされ、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円で、そのうち政府が55 % の5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を政府以外の者が出資する。出資者には一般の株式会社の株式に相当する出資口数を証した「出資証券」が発行されるが、出資証券はジャスダックに上場され、株式に準じて取引されている(ただし、一般の上場株式とは違い、一部の証券会社では日銀出資証券を取り扱っていない場合がある)。証券コードは8301。取引の1単元は100株[注釈 2]。
2015年(平成27年)3月末日時点における政府以外の出資者の内訳は、個人40.1%、金融機関2.2%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.5%となっている[3]。株式会社と異なり、出資者は経営に関与することはできず、役員選任権等の共益権はない。剰余金の配当は、払込出資金額(1株の額面金額に相当、1口あたり100円)に対して年5分(5 %)以内に制限されている。もし、日本銀行が解散を決議した場合でも残余財産の分配は出資者にはなく、日本銀行法によりすべての財産は国に帰属することになっている(第9章 第60条2項)。
国の行政機関ではないものの金融政策は行政の範疇に属すると考えられ、独立行政委員会に準じる存在と位置づけられている。第二次世界大戦の財政を支援させられた過去を戒めて自主性・独立性が認められているが三権分立上の問題が残っている。
出身者についてはCategory:日本銀行の人物を参照されたい。
沿革
- 1872年(明治5年) - 国立銀行条例が制定された。
- 1876年(明治9年) - 国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレーションが進行。
- 1881年(明治14年) - 三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
準備金の充実と外債
- 1882年(明治15年) - 6月、ベルギー国立銀行をモデルとした日本銀行条例が公布された[4]。10月10日に開業。
- 1884年(明治16年) - 兌換銀行券条例制定、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀行紙幣を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
- 1885年(明治17年) - 5月、日本銀行兌換銀券を発行して銀本位制を確立する。12月19日、松方正義の稟議を三条実美太政大臣が令達により宮内省へ取り計らい、半額未払いである政府所有の日銀株500万円分を横浜正金銀行株100万円分とあわせて皇室財産へ移管することとなったが、1888年4月には政府保有の日本郵船株260万円分も、1889-1891年にかけては佐渡金山、生野銀山、国有地も編入された[5]。
- 1891年(明治23年) - 恐慌を受けて見返り担保制度を採用(日本銀行条例第12条の脱法行為)。
- 1897年(明治30年) - 貨幣法で金本位制を採用した。
- 1898年(明治31年) - 下関条約賠償金(約3.1億円)の受け入れが終わって、そのうち2000万円が皇室財産となり、それは国債の形で交付されたので、御資材本の2/3を国債が占めることとなった[6]。
- 1905年(明治38年) - 日露戦争中であるこの年12月4日から翌年4月2日にかけて、しめて1160万ポンドをイングランド銀行へ貸し付けた[7]。この後も貸付は続き、1907年まで毎回50万ポンド単位で行われていた。
- 1910年(明治43年) - 借換公債1億円発行に際して日銀が2500万円引き受け、残額はシ団引き受け。政府は資金が全く足りず英仏外債に依存した。この調達に高橋是清が奔走し、パリ証券取引所での発行を可能にした。
無担保社債時代
- 1913年(大正2年) - 6-8月、日本興業銀行の整理資金を横浜正金銀行と融通。
- 1914年(大正3年) - 4月、ビルブローカー銀行に対する手形割引業務開始を決定。11月台湾銀行に軍需特融。
- 1916年(大正5年) - 12月、第一次世界大戦の休戦をドイツ帝国が申し入れたという情報が東京株式市場を立会い停止へ追い込んだ。日銀は日本興業銀行を通じて仲買人シンジケートへ資金を供給した。
- 1917年(大正6年)12月 - ニューヨーク連邦準備銀行と協力関係樹立。
- 1919年(大正8年) - 8月2日、大蔵省とのトップ会談により国庫預金制度採用に関する基本方針を決定。
- 1920年(大正9年)3月 - 市場大暴落、特融の連続。ニューヨーク連邦準備銀行と相互預金契約。翌年に限度額倍化。
- 1922年(大正11年) - 3月末から朝鮮銀行に特融。4月から台湾銀行にも[注釈 3]。
- 1923年(大正12年) - 6月、ニューヨーク連邦準備銀行との相互預金取引を廃止、新たにコルレス契約を締結。7月、ライヒスバンクとも。9月、関東大震災。いわゆる震災手形割引損失補償令による特融実施。被災地に営業所を保有する会社が発行した手形を買い取った。震災直前に5.5億円あった在外正貨が年末2億円足らずとなる。
- 1924年(大正14年) - 4月、ドイツ金割引銀行(Golddiskontbank)の設立を支援するためイングランド銀行に預け入れ。
- 1927年(昭和2年) - 4月、十五銀行が事実上破綻(翌年特融)。5月、日本銀行特別融通及損失補償法が成立。
- 1929年(昭和4年)10月30日 - 国際決済銀行設立にともなう本邦出資金800万ドルをシ団引き受け(現物は日銀保管)。
外国為替の統制
- 1931年(昭和6年)- 金輸出再禁止にともない管理通貨制度を確立した。再禁止直前に国際決済銀行が本邦出資金を引揚げようと打電してきたが、事務確認遅滞で引き揚げが間に合わず国際決済銀行は為替差損を被り、損失補償をめぐって日銀と国際司法裁判所で争いうるまでに対立、最終的に田中鉄三郎の仲介で損失を折半することになった[8]。
- 1932年(昭和7年)11月25日 - 新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受、12月24日から売りオペ[9]。
- 1933年(昭和8年) - 前年制定の資本逃避防止法廃止、外国為替管理法施行(円ブロック法整備)。
- 1934年(昭和9年) - 政府別口預金の地金3465万円を日銀金買入法によって日銀へ移管。
- 1935年(昭和10年) - 8月、カナダ銀行とコルレス協定。
- 1936年(昭和11年) - 2月、藤本ビルブローカーと兵庫県農工銀行に特融実施。
- 1937年(昭和12年) - 5月、大蔵省外国為替管理部は為替局となり、外国為替管理法の施行だけでなく、対外金融に関するあらゆる統制、為替市場の統制等を管掌。8月、日銀所有金地金の英米向け現送を開始。8月中4回合計19トン。
- 1938年(昭和13年) - 2月、満州重工業開発の資金として、同社の社債を担保に満州中央銀行へ特融(限度1億円)。
- 1939年(昭和14年) - 5月、在外正貨設定のため、日銀保有地金4914キログラムをアメリカへ現送。
- 1940年(昭和15年) - 5月、朝鮮銀行に対して日銀の保有する国債の売却を委託。
- 1941年(昭和16年) - 11月、日・仏印決済協定にもとづく横浜正金銀行に対する金資金特別会計保有金地金の払下げを開始。
- 1942年(昭和17年) - 1月6日、政府が南方開発金庫法案要綱を閣議決定。2月24日、日本銀行法(昭和17年法律第67号、以下「旧法」)公布。4月、金融団体統制令により全国金融統制会が発足し、会長と副会長には日銀総裁と副総裁をあてた。5月1日、旧法に基づく法人に改組[注釈 4]。日本銀行条例、兌換銀行条例の廃止。6月、日本銀行とタイ大蔵省間に、特別円決済に関する協定ならびに2億円の借款供与協定が成立。10月、ベルリン駐在参事設置。
財閥解体と外銀
- 1945年(昭和20年) - 5月、日銀が8割を出資して資金統合銀行を設立。この普通銀行は日銀を中心とした特殊銀行・都市銀行・有力地方銀行を一体化した資金プール機関であった。6-10月、各地銀行協会から手形交換業務を吸収(業務返還過程は1945年11月から翌年4月1日まで)。ポツダム宣言受諾後も日銀は紙幣を増発して、財閥解体に貢献した。10月、ケミカルバンクが日本の対外決済資金を受託。12月27日、日銀はインドシナ銀行東京支店の業務・財産の管理人となる[注釈 5]。
- 1946年(昭和21年)2月 - ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に続く預金封鎖が実施された。
- 1946年(昭和21年)7月 - 17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQ から日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた管理権を日銀が継承した[10]。
- 1947年(昭和22年)3月15日 - 農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に関する件公布施行。
- 1948年(昭和23年)12月20日 - 閉鎖機関処理部廃止。
- 1949年(昭和24年) - 5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部にも上場。11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する計算登記および報告事務を引継いだ。また、3年前から置いていた山口事務所を大晦日に廃止。なお、同年から社債担保金融制度(いわゆる日銀適格担保社債制度)がスタートした。
- 1950年(昭和25年)6月7日 - 外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行。
- 1952年(昭和27年)6月16日 - 国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
- 1953年(昭和28年)- 3月、スターリン暴落。シャウプ勧告の富裕税廃止。7月15日、金管理法[注釈 6]。10月8日、世界銀行債200万ドルを買い入れ。12月18日、連邦準備制度に口座開設。
投信とクレジット再編
昭和30年代、投資信託が運用額を膨張させ[注釈 7]、インフラ用に公社債が増え、民間企業にはオーバーローンが行われた。
- 1955年(昭和30年)4月15日 - イングランド銀行に口座開設。
- 1956年(昭和31年)7月 - 国際金融公社の加盟にともない同公社が保有する円の寄託所となった。
- 1957年(昭和32年) - 国際収支悪化のため上半期に公定歩合が二度引き上げられ、夏にコールレートが一時的に18%を記録した。極端に相場を下げる公社債の場外取引が政策相場として黙認されるようになった。
- 1958年(昭和33年) - 5月、横井英樹が東洋精糖の過半数を買収。6月、手形交換制度の大部分が都市銀行へ移管された。
- 1959年(昭和34年) - 4月、大蔵省が証券機構改革をスタート。顧客を害する証券会社をしばしば審問し、登録を取り消したり、営業を停止させたりした。9月11日、普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度はじまる[注釈 8]。
- 1960年(昭和35年) - 5月、東証・大証・名証から上場廃止。12月、信用金庫と取引開始(城南信用金庫)。
- 1961年(昭和36年) - 1月、公社債投資信託発足。11月24日、外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した。
- 1962年(昭和37年) - 2-3月、1400億円の政保債買いオペ。10月1日、世銀債500万ドルを引受け[注釈 9]。同月、オーバーローン解消と債券市場テコ入れのため新金融調節方式を採用(買いオペと日銀貸出限度額設定)。
- 1963年(昭和38年) - 2月、店頭登録(現ジャスダック市場に公開)。7月、坂野通達。
- 1964年(昭和39年) - 11月25日、主要11中銀・国際決済銀行・合衆国輸出入銀行との間に30億ドルのクレジット設定[注釈 10]。12月4日、日本共同証券に特融。翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
証券決済制度の模索
- 1965年(昭和40年)6月 - 7日、山一証券に対する日銀特融第一回。同月中に5回追加された。18日、日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付を決定。25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
- 1965年(昭和40年)9-10月 - ルワンダ中央銀行総裁服部正也がランベール銀行の現地輸入業独占を規制すべく、バンカメとBNPとコメルツ銀行の後押しを受けて新しい規制を説得した[11]。
- 1968年(昭和43年)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加[注釈 11]。
- 1971年(昭和46年)6月 - 1日、外国為替資金特別会計から外国為替銀行に対し外貨預託により輸入関係資金を供給していたのを日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。16日、大蔵省が対外証券投資のできる市場として、ルクセンブルク証券取引所(Luxembourg Stock Exchange)とアメリカン証券取引所を追加した[注釈 12]。
- 1973年(昭和48年)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
- 1975年(昭和50年)11月1日 - 日本証券金融を通じる公社債流通金触を拡充。
- 1979年(昭和54年) - 5月14日、国債買いオペの機動化について発表[注釈 13]。10月20日、公社債流通金融担保登録公社債代用証書制度を採用、公社債の担保としての通用力を大胆に確保した。
- 1982年(昭和57年)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組。
- 1985年(昭和60年) - 1月25日、シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結。10月24日から高目放置。
- 1986年(昭和61年)12月1日 - 東京オフショア市場が発足。以降、日本企業はドル建てワラントユーロ債発行高を増やす。
- 1988年(昭和63年)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動[注釈 14]。
大蔵よりも機関投資家
オーバーローンがもたらした株式の持ち合いを解消するため、日銀は海外の機関投資家と固定株式を買い取り、東証全体の銀行・生命保険の保有比率を下げた[12]。主な買い手はユーロ円債で資金を調達した機関投資家であった。
- 1992年(平成4年)4月1日 - 歳入等光学文字認識システムの処理対象官庁を拡大。同年外貨準備700億ドル。
- 1994年(平成6年)11月4日 - 東京証券取引所と当座預金取引を開始。
- 1995年(平成7年)1月13日 - 東京共同銀行の設立に参加。同年、外貨準備が2000億ドルの大台に乗り安定。
- 1996年(平成8年) - 4月、債券レポ市場創設。6月、住専処理法成立。11月1日、国際決済銀行の株式8000株を引き受け。
- 1997年(平成9年)6月18日 - 旧法の全部を改正する日本銀行法(平成9年法律89号)公布。翌年4月1日に施行。
- 1997年(平成9年)11月 - 日銀出身者が社長を務める徳陽シティ銀行が破綻。レポオペ実施(レポ市場残高30兆円に迫る)。
- 1998年(平成10年) - 大蔵省接待汚職事件が発覚。金融監督庁発足。日銀法改正。
- 1999年(平成11年) - 4月1日、有価証券取引税を廃止。レポ市場の活性化と国債価格の上昇につながった。
- 2001年(平成13年) - 1月4日、当座預金決済および国債決済を即時グロス決済化。同年、量的金融緩和政策。
- 2002年(平成14年) - ペイオフ (預金保護)解禁。金融機関保有株式の買入れ[13][14]。外貨準備、約5000億ドル。
- 2003年(平成15年) - 自己資本比率8%割れ。史上2度目の赤字決算となる。外貨準備8千億ドル超え[注釈 15]。
- 2004年(平成16年) - 4月、主催していた証券化市場フォーラムから報告書を発表。
- 2006年(平成18年) - 福井俊彦総裁が村上ファンドに蓄財、経営諮問委員会に参加していたことが発覚。
- 2008年(平成20年) - 3月18日、世界金融危機への認識をめぐり、総裁が戦後初の空席となった。
ユーロクリアと仲間たち
海外の機関投資家は、日本経済の機関化を果たしてなお、巨額の日本円を吸い上げ短期国債として保有する。自転車操業のために短期国債を山積させたロシアは1998年に財政危機に陥り、短期国債をユーロ債に借換え対外債務を増やした[15]。
- 2009年(平成21年) - 外貨建て証券を担保とする日銀貸出をスタート。一方で「国債売り現先オペ」を実施。
- 2010年(平成22年)11月 - コマーシャルペーパーや上場投資信託(ETF)を買い入れるための特別基金を日銀バランスシート上に創設(資産買入等の基金)[16]。これを使った量的緩和がシャドー・バンキング・システムへ流動性を供給した。
- 2011年(平成23年) - 東北地方太平洋沖地震による投機的な円買いを受けてG7が10年半ぶりに協調介入、日銀も即座に円売りを実施した。政府・日銀としては6年半ぶりの為替介入となった。
- 2012年(平成24年)12月3日 - 白川方明総裁がフランスのレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。
- 2013年(平成25年) - 9月に提出された野村証券とユーロクリアの主張を踏まえ[17]、10月にクリアストリームやゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェース、バークレイズ、シティバンク、および国内のメガバンクと、日本国債の流動化を協議[18]。協議は同年8月9日の初回から2016年3月18日時点で第14回を数える[19]。
- 2013年から2016年まで - 量的金融緩和政策「異次元の金融緩和」で株価指数連動型上場投資信託を累計10兆円も購入[20]。
- 2016年(平成28年) - 3月17-18日「決済システムフォーラム」を開催。ブロックチェーンの可能性について説明と議論が行われた。参加者にはNTTデータ、国際銀行間通信協会、経済産業省、IBM、農林中央金庫、野村総合研究所、ユーロクリア、国内のメガバンク、さらに翌月立ち上がったブロックチェーン推進協会や日本ブロックチェーン協会のメンバーもいくつか含む[21][22][23]。
- 2017年(平成29年) - 3月24日、約8年ぶりに国債売り現先オペを実施、およそ1兆円もの国債をレポ市場に供給した[24]。9月6日、欧州中央銀行と共同調査している分散型台帳技術を適用した資金決済システム(原題:Project Stella)に関する共同調査報告を発表した[25]。このころから日銀のETF購入は活況を呈しているが(7月で6兆円)、中央銀行による「株式投資」は欧米でも例がない[26]。12月、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、運用難で膨らんだ預金の預け先である銀行が日銀に支払うマイナス金利分を、GPIFで負担する方針を固めた。GPIFの負担を軽減するために国債売り現先オペを再び実施すると、ブロックチェーンを整備して国債レポ市場を拡大しようとしている海外クリアリング勢の計算に沿う形となる。
役割
1998年(平成10年)、日本銀行法の全面改正によって、「物価の安定」と「金融システムの安定」という二つの日本銀行の目的が明確に示された[27]。政府からは独立して運営されるようになって戦前の国家総動員・戦時立法色は払拭されたが、日本国憲法第65条に反するのではないかという問題がしばしば論じられるようになった[注釈 16]。また、円を基礎とした国民経済の発展に資する機関として経営政策全般の透明化が求められるようになった。
統制の問題はあるが、政府とは取引関係がある。日銀が保有する長期国債の買戻し条件付売却、政府短期証券の引受、償還期限の到来した国債等の借換のための引受である[28]。本来、借換は累積債務を減らすために行うものであるが(預金供託金庫を参照)、実態として借換が債務を増加させている。
機能
日銀の公表文や会見は難解かつ曖昧で独特の言葉遣いである上に、微細な言葉の違いに大きな判断の変更が含まれていることが多々あるため、それを解読しようとする市場関係者を悩ませ、俗に「日銀文学」と呼ばれている[29][30][31][32]。
- 発券銀行として日本銀行券の発行および管理を行う。
- 政策金利(旧・公定歩合)操作、公開市場操作、支払準備率操作等の手法により金融政策を実施し、通貨流通量を調整することで物価と国民経済を安定させる。
- 日本銀行の当座預金を使って銀行などの金融機関同士の取引の決済を行う。つまり銀行の銀行である。
- 国庫金の出納を行う政府の銀行である。
- 内国為替業務による円滑な資金決済や、日銀特融などの制度担保(「最後の貸し手」)により金融秩序の安定を図る「銀行の銀行」としての役割を果たす(取引の相手方は、日本銀行法に基づき指定された金融機関等に限られる)。
- 各国中央銀行や公的機関との間の国際関係業務(外国為替市場への介入を含む)を行う。
- 金融経済情報の収集および研究を行う。
経済統計の作成および公表も行う。マネーストック統計(旧マネーサプライ統計)は#量的金融緩和政策を参照されたい。
- 全国企業短期経済観測調査(日銀短観)
- 企業物価指数、企業向けサービス価格指数
- 資金循環統計
- 国際収支統計(統計作成は日銀、統計公表は財務省)
- 貸出約定平均金利
- 預金店頭表示金利
- 日本銀行国際商品指数
- 実質輸出入
- 外国為替相場状況
- 実質実効為替レート
通常業務
- 商業手形その他の手形の割引。
- 手形、国債その他の有価証券を担保とする貸付け。
- 商業手形その他の手形[注釈 17]又は国債その他の債券の売買。
- 金銭を担保とする国債その他の債券の貸借。
- 預金契約に基づいて行う預金の受入れ。
- 内国為替取引。
- 有価証券その他の財産権に係る証券又は証書の保護預り。
- 地金銀の売買その他前各号の業務に付随する業務。
政策決定
- 参照: 日本銀行政策委員会
- 政策委員会の設置
- 日本銀行には政策委員会が置かれている(日本銀行法14条)。この政策委員会は日本銀行の最高意思決定機関であり、その権限は多岐にわたるが、通貨および金融の調節に関する事項(金融調節事項)の方針決定、その他の業務の方針の決定、役員(監事及び参与を除く)の職務の執行の監督を主な任務としている。
- 政策委員会の組織
- 政策委員会は9人の委員(総裁・2人の副総裁と6人の審議委員)からなる(日本銀行法16条1項・2項)。政策委員会の長は議長であり委員の互選によって選ばれる(日本銀行法16条3項)。また、あらかじめ議長の職務代理者も定められる(日本銀行法16条5項)。
- 2017年10月現在の委員は、総裁黒田東彦、副総裁岩田規久男・中曽宏、審議委員原田泰・桜井真・政井貴子・片岡剛士・鈴木人司・布野幸利である。
- 政策委員会の議事
- 委員会の会議の開催と議決には、議長が出席し、かつ、現に在任する委員の総数の3分の2以上の出席を要する(日本銀行法18条2項)。
- 委員会の議事は出席した委員の過半数で決し、可否同数であれば議長が決する(日本銀行法18条2項)。
- 政策委員会には、政府から財務大臣と経済財政政策担当大臣(またはその指名する財務省と内閣府の職員)が適宜出席する。この政府からの出席者は、意見を述べることができ、また、金融調節事項に関する議案を提出し、その議決の延期を求める事ができる。ただし、これらの者に議決権はなく、延期の求めも委員の議決によってその採否が決められる。
量的金融緩和政策
日銀は欧州にならい量的金融緩和政策を窓口規制で実施している。日銀は日本国債を買い支えてきたのであるが、いまや通貨供給量はGPIFに運用圧力をかけるまでに膨張している。
長年、日本銀行を批判してきた黒田東彦総裁は、15年にわたる日本のデフレーションの「責務は日銀にある」と明言しており[33]、2013年4月、年2%のインフレターゲットを2年程度で実現するために、日本銀行が供給するマネタリーベースを2年間で2倍にするなど大胆な量的金融緩和に踏み切った[34]。実際の推移は右のグラフ参照。黒田総裁の就任後からマネタリーベースが急増している。
日本銀行の量的金融緩和は黒田総裁以前にも、金融政策決定会合の審議委員であった中原伸之によって提案され、2001年3月から実施された[35]。実際の推移は右のグラフ参照。
これについてベン・バーナンキFRB議長は「不十分で中途半端である」と評し、当人はアメリカのマネタリーベースを約5倍にした。イングランド銀行のマーク・カーニー総裁は、日本が2006年に早すぎる緩和解除を行ったとして、その誤りをイギリスが繰り返さないことが重要だと指摘した[36]。
量的金融緩和政策は昭和恐慌と世界恐慌のとき高橋是清が実施しており、そのデフレ脱却は政策実績として多くの書籍で引き合いに出される。
構成
役員
日本銀行には役員として、総裁(1人)、副総裁(2人)、監事(3人以内)、理事(6人以内)、参与(若干名)、審議委員(6人)が置かれる。審議委員とそれ以外の役員とで日本銀行法での規定に差異があるため、辞令上の正式表記では審議委員のみ「日本銀行政策委員会審議委員」のように「政策委員会」が冠される(その他の役員は「日本銀行総裁」のように表記)。
総裁、副総裁、審議委員は、衆参両議院の同意を得て内閣が任命する(いわゆる国会同意人事の一つ)。監事は内閣が任命する。理事、参与は政策委員会の推薦に基づいて財務大臣が任命する。
総裁、副総裁、審議委員の任期は5年、監事、理事の任期は4年、参与の任期は2年である。
理事を除く役員は、法に列挙された事由に該当する場合(破産手続開始の決定を受けた時、禁錮以上の刑に処せられた時など)を除き、在任中、その意に反して解任されることがない。
- 総裁:日本銀行を代表し、政策委員会の定めるところに従い、日本銀行の業務を総理する。
- 副総裁:総裁の定めるところにより、日本銀行を代表し、総裁を補佐して日本銀行の業務を掌理し、総裁に事故がある時はその職務を代理し、総裁が欠員の時はその職務を行う。
- 監事:日本銀行の業務を監査する。監査の結果に基づき必要があると認める時は、財務大臣、内閣総理大臣又は政策委員会に意見を提出することができる。
- 理事:総裁の定めるところにより、総裁および副総裁を補佐して日本銀行の業務を掌理し、総裁及び副総裁に事故がある時は総裁の職務を代理し、総裁及び副総裁が欠員の時は総裁の職務を行う。
- 参与:日本銀行の業務運営に関する重要事項について、政策委員会の諮問に応じ、または必要があると認める時は、委員会に意見を述べることができる。民間から、金融界を中心とする財界人と学者が充てられる。
- 審議委員:経済又は金融に関して高い識見を有する者等の中から、衆参両議院の同意を得て、内閣に任命され、総裁、副総裁とともに政策委員会を構成する。
日本銀行の職員数は2008年3月末現在4,853人。職員は総裁が任命し、「みなし公務員」とされる。
日本銀行の統一金融機関コードは、0000。SWIFTコード(国際送金用の電信コード)は、BOJPJPJT。
歴代日本銀行総裁
- 退任日に付した(満)は任期満了、(願)は依願退任、(亡)は在職中死亡、(不)は退任理由不詳を表す。
- 依願退任の場合は、前任者の退任日と後任者の就任日が重複する場合がある。
- 旧日本銀行法に基づく辞令は「日本銀行総裁を命ずる」(またはその文語体)、1998年4月1日施行の現日本銀行法に基づく辞令は「日本銀行総裁に任命する」となっている。
代 | 氏名 | 在職期間 | 出身地 | 出身校 | 前職・備考など | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 60px | 吉原重俊 | 1882年10月6日 - 1887年12月19日(亡) | 鹿児島県 | イェール大学 | 大蔵少輔(次官) |
2 | 60px | 富田鐵之助 | 1888年2月22日 - 1889年9月3日(不) | 宮城県 | ニューアーク商業学校 | 大蔵大書記官 |
3 | 60px | 川田小一郎 | 1889年9月3日 - 1896年11月7日(亡) | 高知県 | 土佐藩 | 三菱事務総監 |
4 | 60px | 岩崎弥之助 | 1896年11月11日 - 1898年10月20日(願) | 高知県 | 致道館 成達書院 |
三菱財閥総帥 |
5 | 60px | 山本達雄 | 1898年10月20日 - 1903年10月19日(満) | 大分県 | 慶應義塾 三菱商業学校 |
郵便汽船三菱会社(現日本郵船) |
6 | 60px | 松尾臣善 | 1903年10月20日 - 1911年6月1日(願) | 兵庫県 | 宇和島藩 | 大蔵省主計局長、大蔵省理財局長 |
7 | 60px | 高橋是清 | 1911年6月1日 - 1913年2月20日(不) | 東京都 | ヘボン塾 | 特許局初代長官
第20代内閣総理大臣 |
8 | 60px | 三島彌太郎 | 1913年2月28日 - 1919年3月7日(亡) | 鹿児島県 | 駒場農学校 マサチューセッツ農科大学 |
横浜正金銀行頭取 |
9 | 60px | 井上準之助 (1期目) | 1919年3月13日 - 1923年9月2日(不) | 大分県 | 東京帝国大学 | 日本銀行はえぬき第1号、横浜正金銀行頭取 |
10 | 60px | 市来乙彦 | 1923年9月5日 - 1927年5月9日(不) | 鹿児島県 | 東京帝国大学 | 大蔵次官、大蔵大臣 |
11 | 60px | 井上準之助 (2期目) | 1927年5月10日 - 1928年6月12日(不) | 大分県 | 前掲 | 貴族院議員、東洋文庫初代理事長 |
12 | 60px | 土方久徴 | 1928年6月12日 - 1935年6月4日(不) | 三重県 | 東京帝国大学 | 日本銀行、日本興業銀行総裁 |
13 | 60px | 深井英五 | 1935年6月4日 - 1937年2月9日(不) | 群馬県 | 同志社英学校 | 國民新聞社外報部長、松方正義蔵相秘書官 |
14 | 60px | 池田成彬 | 1937年2月9日 - 1937年7月27日(不) | 山形県 | 慶應義塾大学 | 三井銀行筆頭常務取締役、三井合名会社筆頭常務理事 |
15 | 60px | 結城豊太郎 | 1937年7月27日 - 1944年3月18日(不) | 山形県 | 東京帝国大学 | 日本銀行、日本興業銀行総裁、商工組合中央金庫初代理事長 |
16 | 60px | 渋沢敬三 | 1944年3月18日 - 1945年10月9日(不) | 東京都 | 東京帝国大学 | 第一銀行副頭取 |
17 | 60px | 新木榮吉 (1期目) | 1945年10月9日 - 1946年6月1日(不) | 石川県 | 東京帝国大学 | 日本銀行理事 |
18 | 60px | 一万田尚登 | 1946年6月1日 - 1951年5月31日(満) | 大分県 | 東京帝国大学 | 日本銀行最長在職。「法王」と呼ばれる。 |
1951年6月1日 - 1954年12月10日(願) | ||||||
19 | 60px | 新木榮吉 (2期目) | 1954年12月11日 - 1956年11月30日(願) | 石川県 | 前掲 | 東京電力会長、駐米大使 |
20 | 60px | 山際正道 | 1956年11月30日 - 1961年11月29日(満) | 東京都 | 東京帝国大学 | 大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁 |
1961年11月30日 - 1964年12月17日(願) | ||||||
21 | 60px | 宇佐美洵 | 1964年12月17日 - 1969年12月16日(満) | 山形県 | 慶應義塾大学 | 三菱銀行頭取 |
22 | 60px | 佐々木直 | 1969年12月17日 - 1974年12月16日(満) | 山口県 | 東京帝国大学 | 日本銀行副総裁 |
23 | 60px | 森永貞一郎 | 1974年12月17日 - 1979年12月16日(満) | 宮崎県 | 東京帝国大学 | 大蔵事務次官、東京証券取引所理事長 |
24 | 60px | 前川春雄 | 1979年12月17日 - 1984年12月16日(満) | 東京都 | 東京帝国大学 | 日本銀行副総裁 |
25 | 60px | 澄田智 | 1984年12月17日 - 1989年12月16日(満) | 群馬県 | 東京帝国大学 | 大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁、日本銀行副総裁 |
26 | 60px | 三重野康 | 1989年12月17日 - 1994年12月16日(満) | 大分県 | 東京帝国大学 | 日本銀行副総裁 |
27 | 60px | 松下康雄 | 1994年12月17日 - 1998年3月20日(願) | 兵庫県 | 東京大学 | 大蔵事務次官、太陽神戸銀行頭取、さくら銀行会長 |
28 | 60px | 速水優 | 1998年3月20日 - 2003年3月19日(満) | 兵庫県 | 東京商科大学 | 日本銀行理事、日商岩井会長、経済同友会代表幹事 |
29 | 60px | 福井俊彦 | 2003年3月20日 - 2008年3月19日(満) | 大阪府 | 東京大学 | 日本銀行副総裁、富士通総研理事長、経済同友会副代表幹事 |
30 | 60px | 白川方明 | (2008年3月20日 - 2008年4月9日)[37] | 福岡県 | 東京大学 | 日本銀行理事、京都大学教授 |
2008年4月9日 - 2013年3月19日(願) | 副総裁(総裁代行)から昇格[38] | |||||
31 | 60px | 黒田東彦 | 2013年3月20日 - 2013年4月8日(満) | 福岡県 | 東京大学 | 財務官、一橋大学教授、アジア開発銀行総裁 |
2013年4月9日 - |
本支店
- 本店 - 1店
- 内部組織として、15の局室研究所(2室12局1研究所)が置かれている。
- 本店本館は、建築家・辰野金吾の設計で、柱やドーム<丸屋根>などのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス建築様式を取り入れた「ネオバロック建築」で、ベルギー中央銀行を手本にしたとされている、明治時代の近代洋風建築を代表する建築作品である。
- 上空から見ると『円』に見えることで有名。建築当時『円』の正字は『圓』であるが、『圓』の略字(手書き文字)として『円』の字は昔から使われている[注釈 18]。1896年、日本で初めてのエレベータ(オーチス製)が取り付けられた。1974年(昭和49年)に国の重要文化財に指定された。
- 支店 - 32店
- 国内事務所 - 14か所
- 海外事務所 - 7か所
業務統括 | 店名 | 位置 | 開設日[注釈 19] | 管轄地域 |
---|---|---|---|---|
札幌支店 | 釧路支店 | 地図 | 1952年(昭和27年)10月01日 | 道東3局(釧路・十勝・根室) |
*帯広事務所 | 地図 | 1946年(昭和21年)08月 | (十勝総合振興局) | |
札幌支店 | 地図 | 1942年(昭和17年)01月06日 | 釧路・函館両支店管轄外の道内9局 | |
*旭川事務所 | 地図 | 1946年(昭和21年)08月01日 | (道北3局(上川・宗谷・オホーツク)) | |
函館支店 | 地図 | 1893年(明治26年)04月01日 | 道南2局(渡島・檜山) | |
仙台支店 | 青森支店 | 地図 | 1945年(昭和20年)05月 | 青森県 |
秋田支店 | 地図 | 1917年(大正6年)08月01日 | 秋田県 | |
仙台支店 | 地図 | 1941年(昭和16年)10月10日 | 宮城県・岩手県・山形県 | |
*盛岡事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)08月10日 | (岩手県) | |
*山形事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)08月 | (山形県) | |
福島支店 | 地図 | 1899年(明治32年)07月15日 | 福島県 | |
本店調査統計局 | 前橋支店 | 地図 | 1944年(昭和19年)12月11日 | 群馬県 |
本店 | 地図 | 1882年(明治15年)10月10日 | 東京都・埼玉県・千葉県・栃木県・茨城県 | |
*水戸事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)08月 | (茨城県) | |
横浜支店 | 地図 | 1945年(昭和20年)08月 | 神奈川県 | |
新潟支店 | 地図 | 1914年(大正3年)07月01日 | 新潟県 | |
甲府支店 | 地図 | 1945年(昭和20年)07月23日 | 山梨県 | |
松本支店 | 地図 | 1914年(大正3年)07月01日 | 長野県 | |
*長野事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)07月 | ||
金沢支店 | 金沢支店 | 地図 | 1909年(明治42年)03月15日 | 石川県・富山県・福井県 |
*富山事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)08月01日 | (富山県) | |
*福井事務所 | 地図 | 1946年(昭和21年)02月15日 | (福井県) | |
名古屋支店 | 静岡支店 | 地図 | 1943年(昭和18年)06月01日 | 静岡県 |
名古屋支店 | 地図 | 1897年(明治30年)03月 | 愛知県・岐阜県・三重県 | |
大阪支店 | 京都支店 | 地図 | 1894年(明治27年)04月01日 | 京都府・滋賀県 |
大阪支店 | 地図 | 1882年(明治15年)12月15日 | 大阪府・奈良県・和歌山県 | |
神戸支店 | 地図 | 1927年(昭和2年)06月01日 | 兵庫県 | |
広島支店 | 松江支店 | 地図 | 1918年(大正7年)03月 | 島根県・鳥取県 |
*鳥取事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)10月15日 | (鳥取県) | |
岡山支店 | 地図 | 1922年(大正11年)04月01日 | 岡山県 | |
広島支店 | 地図 | 1905年(明治38年)09月 | 広島県 | |
下関支店 | 地図 | 1947年(昭和22年)12月01日 | 山口県 | |
高松支店 | 高松支店 | 地図 | 1942年(昭和17年)02月02日 | 香川県・徳島県 |
*徳島事務所 | 地図 | 1945年(昭和20年)04月 | (徳島県) | |
松山支店 | 地図 | 1932年(昭和7年)11月01日 | 愛媛県 | |
高知支店 | 地図 | 1943年(昭和18年)11月10日 | 高知県 | |
福岡支店 | 北九州支店 | 地図 | 1893年(明治26年)10月01日 | 北九州市1政令市および京築地方2市5町 |
福岡支店 | 地図 | 1941年(昭和16年)12月01日 | 北九州支店管轄外の福岡県・佐賀県 | |
*佐賀事務所 | 地図 | 1946年(昭和21年)02月 | (佐賀県) | |
大分支店 | 地図 | 1945年(昭和20年)07月 | 大分県 | |
長崎支店 | 地図 | 1945年(昭和20年)04月02日 | 長崎県 | |
熊本支店 | 地図 | 1917年(大正6年)08月 | 熊本県 | |
鹿児島支店 | 地図 | 1943年(昭和18年)04月01日 | 鹿児島県・宮崎県 | |
*宮崎事務所 | 地図 | 1946年(昭和21年)02月 | (宮崎県) | |
那覇支店 | 地図 | 1972年(昭和47年)05月15日 | 沖縄県 |
- 「*」:事務所
不祥事
- 1998年(平成10年)3月11日 - 日本興業銀行と三和銀行からの高額の接待の見返りに、金融動向に絡む日銀の機密情報を公表前に流したり、新しい資金取引への入札参加を認めたりするなどの便宜を図っていた疑いで、吉澤保幸営業局証券課長が逮捕された(接待汚職事件)。この事件に伴い、松下康雄総裁と、当時その後継と目されていた福井俊彦副総裁(その後、富士通総研理事長を経て、2003年日銀総裁に就任)が責任を取って辞任し、日商岩井相談役の速水優が総裁に、時事通信社の藤原作弥と日銀理事の山口泰が副総裁に就任した。
- 2004年(平成16年)11月25日 - 前橋支店の職員数名が、上司等の管理者の離席の際に、同年11月1日に新しく発行された紙幣のうち、希少価値があるとされるいわゆるゾロ目の紙幣(4枚)を抜き出し、自分らの所有するゾロ目でない紙幣と無断で交換していたことが一般人からの通報に基づく内部調査により判明。当該職員らに最高で1週間の休職処分などの懲戒が科され、日本銀行も組織として謝罪した。
- 2004年(平成16年)12月16日 - 前橋支店での不祥事に続き、神戸支店でも同様の不祥事が発生していたことを発表。さらに前橋支店の不祥事の後、特別調査が行われたが、その際「行っていない」と虚偽の申告をしていた、とのこと[40]。
- 2006年(平成18年)4月20日 - 日本銀行は職員2,150人を調査したところ、半数に航空機を利用した出張でごまかし精算があったことを発表した。
- 2006年(平成18年)12月26日 - 日本銀行は国内の本支店、事務所に勤務する職員全員4,858人を調査したところ、約半数の2,368名に対し、合計約1億6800万円の残業代未払いがあったことを発表した[41]。
- 2008年(平成20年)3月22日 - 日本銀行松江支店における内部資料が「インターネットに流出している」という報告があり調査したところ、支店職員が無断で資料を持ち帰り、自宅の私物パソコンにて作業していた事が判明した[42][43]。職員は停職1か月の懲戒処分を受けると同時に、退職を申し出て受理された[44]。
脚注
注釈
- ↑ 日本銀行内では「にっぽんぎんこう」と呼ぶ事とされており、日本銀行券でのローマ字表記も"NIPPON GINKO"となっている[1][2]。なお、国会では「にほんぎんこう」が使用されている。
- ↑ 便宜上の呼称で、正しくは100口。売買単位は100口ではあるが、100口券を1口券100枚に分割可能であること及び、100口未満(1 - 99口)の買取請求ができない。
- ↑ 台湾銀行については鈴木商店関係手形を担保として受け入れ。
- ↑ 「国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ルタメ国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調節及ビ信用制度ノ保持育成ニ任ズル」、「専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラシムル」機関とされていた。皇室財産の代表であった日銀株は政府が必要分を買収し巨額の国債で補償した。
- ↑ 以後、同様措置の対象先は拡大した。
- ↑ 粗金取得者が地金に精製して一定期間内に政府に売却することが義務づけられた。目的は対外支払準備および市場調査。国産金の一部は自由販売が認められ、その割合は当初の67%から1954年に73%、1955年95%と拡大し、1968年以降は全量自由販売となった。1967年からは貴金属特別会計法に基づき、政府が不足分を輸入し民間に払い下げる仕組みができた。1グラム405円で買い付けて国内統制価格660円で払い下げた。この差額は貴金属特別会計に積み立てられた。1978年3月30日、翌日の同会計廃止を控えて日銀は同会計保有の金地金を買い入れた。
- ↑ 本来大量売りで市価を下げないための私募取引制度が1951年に買い付けにも拡大されていた。さらにさかのぼり、財産税法で物納された皇室・財閥の有価証券は財閥解体で個人投資家に分散されたが、その後の緊縮政策により放出され、投信と旧財閥グループがそれを買っていた。昭和29-30年の間に投信等の場外取引は市場売買高の3-4割にも達し、公正な価格形成を阻害したので昭和31年1月に大蔵省からさらに規制された。
- ↑ 預金残高により①200億円超②200億円以下に区分し、準備率は定期性預金①0.5%②0.25%、その他預金①1.5%②0.75%を適用
- ↑ 1964年同月同日にも同額引受け。
- ↑ 同年、日銀は国際決済銀行で開催される中央銀行の会合への定期的な参加が認められるようになった。
- ↑ 1973年7月10日、倍の20億ドルとなる。1978年11月1日には50億ドルに達した。
- ↑ 投信協会は投信組み入れ可能証券に両証券取引所の上場銘柄を同日に決定、即日実施した。
- ↑ オファー当日中に申込締切り、落札決定、6月15日第1回(約1000億円)実施
- ↑ 1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。1992年5月26日に払込みオンライン化。1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。
- ↑ ここまで増加したのは、ユーロ円債を消化する国内機関投資家に巨額の日本円を供給したからであった。
- ↑ 容認する立場には諸説がある。(1) 行政控除説に立って日銀を独立行政委員会と同様に考える説、(2) 限定的行政控除説に基づいて、金融政策は行政の中心をなすものではないと解した上で高度の立法裁量が認められるとする説、(3) 政府の指揮監督は必要でないとする説、など。
- ↑ 日本銀行の振出しに係るものを含む
- ↑ 但し、建設当時に用いられていた略字体は下の横棒がかなり下のほうにあり『円』とはあまり似ていない
- ↑ 前身と現行との間に歴史的に断絶期間がある場合は現行の開設日とする。
出典
- ↑ 日本銀行の呼称はどのように読むのですか? :日本銀行 Bank of Japan
- ↑ 小・中学生向け広報用パンフレット「おしえて!日本銀行」 [PDF 2,324KB]
- ↑ 平成26年度業務概況書 (PDF)
- ↑ 吉野俊彦 『日本銀行史』 第1巻 春秋社 1975年 125-130頁
- ↑ 黒田久太 『天皇家の財産』 三一書房 1996年 27-29頁
- ↑ 『天皇家の財産』 61-63、66-67頁
- ↑ R. S. Sayers, The Bank of England, 1891-1944, vol.1, Cambridge University Press, 1976, Research Papers by B/E Staff, 21-24, M124.21, Bank of England, ADM33/11, 23A, pp.1-2.
- ↑ 日本銀行史料調査室 『日本銀行八十年史』 1962年10月 185-186頁
- ↑ 永廣顕 1932年の日銀引受国債発行 2013年2月
- ↑ 昭和21年大蔵省告示第605号
- ↑ 服部正也 『ルワンダ中央銀行総裁日記』 中央公論社 1972年 97-122頁
- ↑ 1996年度の30.4%から2006年度に9.7%まで。宮島英昭・保田隆明 「株式所有構造と企業統治 機関投資家の増加は企業パフォーマンスを改善したのか」 財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成27年第1号(通巻第121号)2015年3月 9頁
- ↑ 日本銀行による金融機関保有株式の買入れとは何ですか? 2016年5月26日閲覧
- ↑ 齊藤壽彦 日本銀行の銀行保有株式買入 千葉商大論叢 40(4) 2003年3月
- ↑ 小崎晃義 「ロシア金融危機の影響と課題」 創価大学外国語学科紀要 10, 63-76, 2000-03
- ↑ 「資産買入等の基金」
- ↑ 日銀決済機構局 「新日銀ネットの有効活用に向けた協議会」第2回会合の議事概要について 2013年10月24日
- ↑ 日銀決済機構局 「新日銀ネットの有効活用に向けた協議会」第3回会合の議事概要について 2013年11月29日
- ↑ 日銀 日銀ネットの有効活用に向けた協議会 2013-2016年の議事概要一覧
- 3月18日は協議の新規メンバーを公募することまで決定されており、今後の動向が注目される。
- ↑ しんぶん赤旗 年金と日銀 株に19兆円 2017年1月28日
- ↑ 日銀決済機構局 「決済システムフォーラム」(3月17日、18日)の議事概要 2016年4月
- ↑ ビットコインニュース 日本最大級34社のブロックチェーン推進協会BCCCが発足、年内100社目指す 2016年4月25日
- ↑ テッククランチ 仮想通貨とブロックチェーンで政策提言、日本ブロックチェーン協会を旗揚げ 2016年4月28日
- ↑ 日経新聞電子版 干上がる国債市場に異例の一手 日銀、8年ぶり供給 2017/3/24
- ↑ Project Stella:日本銀行・欧州中央銀行による分散型台帳技術に関する共同調査報告書 日本銀行決済機構局 2017年9月6日
- ↑ NIKKEI STYLE 日銀の「株式投資」 今こそ出口の議論を(加藤出) 2017年11月20日
- ↑ 日本銀行の目的は何ですか?
- ↑ 日銀企画室 「日本銀行の対政府取引」について 2004年5月12日
- ↑ 景気は本当に拡大? 日銀文学を見つめる|NHK NEWS WEB
- ↑ 「基調としては」「弱含んでいる」が意味するものは?:イザ!
- ↑ 日銀のメッセージを読む プロはサイン逃さず|マネー研究所|NIKKEI STYLE
- ↑ 【新・兜町INSIDE】ETF買い減額示唆? 悩ましい「日銀文学」 - 経済・マネー - ZAKZAK
- ↑ 無期限緩和、前倒し 脱デフレ「何でもやる」 - 日本経済新聞 2013年3月5日
- ↑ 黒田日銀「量的緩和」でマネー供給倍増へ、2%達成へ戦力集中投下 - ロイター 2013年4月4日
- ↑ 田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、31頁。
- ↑ 早すぎる緩和解除行った日本の過去の誤りは繰り返さず=英中銀総裁Reuters 2013年8月8日
- ↑ 白川副総裁を総裁代行に指名 決着は4月にずれ込む公算 (福井俊彦の任期満了までに後任総裁人事の両院同意が得られず内閣が任命発令できず総裁が空席となったため、当時の副総裁である白川が総裁の職務を代行した。)
- ↑ 日銀総裁に「白川氏」同意 参院は渡辺副総裁案を不同意 (2008年4月7日提出の総裁人事案が両院で同意を得たことに因る。)
- ↑ 新聞集成明治編年史. 第十卷、林泉社、1936-1940
- ↑ 日銀課長ら新札すり替え
- ↑ 労働時間管理に関する調査結果等について
- ↑ 日本銀行松江支店における内部情報流出について
- ↑ 日銀の内部資料がネット流出 Winny経由か
- ↑ 日本銀行、松江支店の情報流出問題について調査報告書を公表 2008年4月15日
参考文献
- 戦後の日本銀行歴代総裁 - nippon.com 2013年3月19日
- 日銀の独立性 - 北海道新聞
関連項目
- 日銀考査
- 日本銀行政策委員会
- 日本銀行旧小樽支店金融資料館
- 旧日本銀行広島支店
- カラコロ工房
- 秋田市立赤れんが郷土館
- 城山三郎 『小説日本銀行』
- 1963年、新潮社〈ポケット・ライブラリ〉/1971年、角川文庫/1977年、新潮文庫
外部リンク
- 日本銀行 (日本語) Bank of Japan (英語)
- 日本銀行大阪支店 Bank of Japan Osaka Branch
- (日本語)
- (英語)