御堂筋
御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する街路。国道25号および国道176号の各一部に指定されている。現代の大阪市における南北幹線の基軸である。
Contents
概要
名前は北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の2つの寺院が沿道にあることに由来する[1]。
大阪市の北方の玄関口梅田と南方の玄関口難波を船場・島之内経由で結ぶ、全長4,027メートル (m)、幅43.6メートル(24間)、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつ[2]。交通量が増加したため1970年(昭和45年)、大阪万博の開催を機に国道1号・国道2号と交差する梅田新道交差点より南の全車線が南行きの一方通行となる[1]。平日の昼12時間の交通量は、自動車28,000 - 38,000台、歩行者10,000 - 26,000人となっている[3]。
沿道は銀行や企業の本支店が集中するビジネスの中枢で[1]、両側には約970本のイチョウが植えられている[2]。読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」(1994年)のひとつにも選定されており[4]、大阪市のシンボルとなっている[1]。11月中旬から12月末まで全区間が御堂筋イルミネーションとして木々が電球で彩られる。
毎年10月には、1983年から2007年まで御堂筋パレードが開催されていたが、代替イベントとして2008年から2013年まで御堂筋kappo、2014年は御堂筋ジョイふるが開催された。2015年からは御堂筋オータムパーティーが開催されている。
最高速度は平日8 - 20時が50 km/h、休日と平日の20 - 翌8時が60 km/hである[5]。
大阪国際女子マラソンや大阪マラソンなど、大規模なマラソン大会でのコースとして使用されることがある。
路線データ
- 起点: 阪神前交点(北区)
- 終点: 難波西口交点(中央区)
- 主な経由地:
- 路線延長: 4,027 m
- 幅員: 43.6 m(6車線)[1]。
- 路線番号
- 指定区間: なし(梅田新道 - 難波西口は2012年4月1日に指定解除)
歴史
中世から江戸時代
記録上、御堂筋では無く大坂御堂筋と名が初めて現れるのは1615年(元和元年)、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初であるが、本来、名前は御堂筋であり大坂御堂筋では無い。
江戸時代以来、正式に御堂筋と呼ばれた区間は船場のうち淡路町通以南に過ぎず、淡路町通以北は淀屋橋筋と呼ばれていた。これは、淀屋橋から南下した淀屋橋筋が淡路町通で終わり、西へ少しずれて御堂筋が始まるため、別の道路とみなされていたことによる。淀屋橋筋は淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出ることができ、現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆橋(曽根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。一方の御堂筋は長堀川への架橋はなく島之内へ出ることができず、堺筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。
都市計画街路の完成
大阪 - 神戸間を結んでいた蒸気機関車は、1889年(明治22年)には東京(新橋駅)まで結ばれるようになり、大阪駅は次第に大阪の玄関口として重要視されるようになった[2]。1908年(明治41年)には現在の四つ橋筋が梅田 - 難波間を結ぶ最初の南北幹線(道頓堀川以南の経路は現在と異なる)として竣工したものの、下船場・堀江経由となり、基本的に大阪市電のために敷設された道路で、幅員も狭かった。かつては道幅6 mの一般的な道路であったが[1]、船場・島之内を経由する南北交通路の必要が叫ばれるようになったことから、1919年(大正8年)に第6代大阪市長であった池上四郎は、梅田 - 難波間の梅田新道・淀屋橋筋・御堂筋を第一次都市計画事業の都市計画街路第1号線として、延長4 km、幅員44 m(24間)へ拡幅する事業計画を発表した[2]。
その後、東京高商(現一橋大学)教授を経て、1923年(大正12年)に大阪市助役から池上の後任として第7代大阪市長に就任した都市計画学者・關一は、この計画を池上から引き継ぐとともに、将来を考えた都市政策を着々と進め、都市計画により、1926年(大正15年)から地下鉄御堂筋線建設と合わせて総工費約3,375万円をかけて24間幅へ拡幅する工事が行われた[2]。
梅田新道が母体となる淀屋橋交差点以北は、1911年(明治44年)の大阪市電敷設の際に12間幅に拡幅されていたこともあって、大江橋北詰交差点以北の拡幅工事は1927年(昭和2年)に早々と竣工。大江橋以北の街路樹はプラタナスで、淀屋橋交差点以北には大阪市電の軌道も残された。
一方、淀屋橋交差点以南は近世依然の3.3間幅からの拡幅工事となり、用地買収に時間がかかって1929年(昭和4年)にようやく着工し[注釈 1]、1937年(昭和12年)5月11日に竣工[2]。地下には電線を埋設し、大阪市初の市営地下鉄御堂筋線も開通して[1]、大江橋と淀屋橋は現在の橋に架け替えられ、新橋(長堀川)と道頓堀橋(道頓堀川)が初めて架橋された。淀屋橋以南の街路樹はイチョウで、軌道がない一直線の目抜き通りとなった。そして、以前の淡路町通の屈折も無くなり、梅田新道・淀屋橋筋を合わせて全線御堂筋となった。
竣工後から現代まで
このように、竣工当初は中之島の南北で趣が相当異なっていたが、後年になって大阪市電は廃止され、大江橋以北のプラタナスもイチョウに植え替えられた。なお、大江橋以北にはイチョウとは別にクスノキも植えられている。
御堂筋周辺の建物は、1920年(大正9年)12月1日施行の市街地建築物法に基く百尺規制によりその高さが揃っている。1969年の建築基準法改正で規制が容積制になったため、以降は大阪市が高さを指導してきた。1995年から御堂筋に面する外壁の高さが50 m、10 m後方部分が60 mと指導される。2007年(平成19年)2月から一部の地区で1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さ制限が140 mに緩和されている。
1970年(昭和45年)より梅田新道交差点以南で南行き一方通行を実施。2006年(平成18年)6月の改正道路交通法により導入された民間駐車監視員制度・放置違反金制度で、全線が最重要路線に指定された結果、沿線の放置車両が劇的に減少した。また大阪市が2007年(平成19年)4月に路上喫煙禁止条例を施行したのに伴い、7月に過料1,000円を徴収する喫煙禁止区域に御堂筋の車道と歩道が指定されることが正式決定され、10月より施行された。
2012年(平成24年)4月1日、国道25号(国道25号と国道165号との重複区間)の梅田新道 - 難波西口間約3.7 kmが指定区間から除外され、国土交通省から大阪市に移管された[6][7]。
2018年(平成30年)3月30日、大阪市も参画する『御堂筋完成80周年記念事業推進委員会』は、2037年までに淀屋橋 - 難波間約3キロメートルを完全歩道化を目指す提言案をとりまとめた。計画では、2020年、2025年を節目として側道の廃止や渋滞への影響調査をしながら段階的に歩道化範囲を拡大していく見込み[8][9][10]。
路線状況
道幅が43.6メートルと幅広で、全線が南行きの一方通行であり、日本の道路としては他では見られない特徴となっている[1]。 街路樹は、イチョウ・クスノキのほかにケヤキ、プラタナスがある[2]。地下空間には、地下道や地下鉄が走る。淀屋橋から長堀通り(本町)までの区間の歩道脇に、著名彫刻家のブロンズ像が建つ。旧淀川(堂島川・土佐堀川)には、全国橋梁設計公募1等の作品によってつくられた大江橋、淀屋橋が架かる[2]。
道路施設
交通量
調査地点 | 平日昼間 | 休日昼間 | 平日24時間 | 休日24時間 |
---|---|---|---|---|
瓦町 | 37,623 | 25,199 | 55,615 | 38,642 |
周防町 | 27,415 | 22,339 | 40,574 | 34,179 |
新歌舞伎座前 | 22,254 | 19,923 | 32,936 | 30,482 |
※調査日: 2005/10/16(休日)、2005/10/19(平日)[11] ※昼間は7時から19時 |
公共交通機関
地理
沿道の中之島に大阪市庁舎と、日本銀行大阪支店があり、淀屋橋から本町にかけて、高さ31mに統一したビル群が立ち並ぶビジネス街となっている[2]。
交差する道路
交差する道路 西←テンプレート:Color box2→東 |
交差点 | |||
---|---|---|---|---|
(東側起点) テンプレート:Color box2 市道大阪環状線 (天六方面) | ||||
テンプレート:Color box2 市道大阪環状線 |
テンプレート:Color box2 市道扇町公園南通線 |
阪急前 | 北 区 | |
(西側起点) 国道176号 (十三方面) | ||||
市道南北線 | テンプレート:Color box2[13] 市道大阪環状線 |
阪神前 | 北 区 | |
テンプレート:Color box2 国道2号 |
テンプレート:Color box2 国道1号 (重複:国道163号) |
梅田新道 | ||
N/A | テンプレート:Color box2 国道423号 |
梅新南 | ||
テンプレート:Color box2 | 大江橋南詰 | |||
テンプレート:Color box2 市道江戸堀線 |
テンプレート:Color box2 府道168号石切大阪線 |
淀屋橋 | 中 央 区 | |
テンプレート:Color box2 国道172号 |
テンプレート:Color box2 市道本町左専道線 |
本町3 | ||
テンプレート:Color box2 市道築港深江線 |
船場中央3 久太郎町3 | |||
テンプレート:Color box2 府道173号大阪八尾線 |
テンプレート:Color box2 国道308号 (重複:府道173号) |
新橋 | ||
テンプレート:Color box2 市道難波境川線 |
テンプレート:Color box2 府道702号大阪枚岡奈良線 |
難波 | ||
国道25号 (重複:国道26号・165号、大国方面) |
沿線
- 北区
- 日本銀行大阪支店旧館(設計:辰野金吾、葛西万司、長野宇平治)
- 淀屋橋(設計:大谷龍雄(原案)、武田五一・元良勲)
- 中央区
地域
- キタ:阪神前(梅田駅・阪神百貨店梅田本店・阪急百貨店うめだ本店)→梅田新道(梅新)→梅新南(北新地)→
- 堂島・中之島:大江橋北詰→大阪市役所・日銀大阪支店→淀屋橋北詰→
- 船場:淀屋橋(南詰)→道修町→本町(北御堂)→船場中央(船場センタービル)→南御堂→南船場→新橋→
- ミナミ:大丸前(大丸心斎橋店)→道頓堀橋南詰(道頓堀)→難波(大阪難波駅)→難波西口(南海難波駅・高島屋大阪店)
御堂筋を舞台とする歌曲
- 雨の御堂筋 - 欧陽菲菲のデビュー曲。御堂筋を舞台に、本町・梅田新道・心斎橋などの地名も登場する[14]。
- 梅田からナンバまで - 上田正樹と有山淳司
- 大阪エレジー - シャ乱Q
- 大阪LOVER - DREAMS COME TRUE
- 大阪ラプソディー - 海原千里・万里
- 大阪ロマネスク - 関ジャニ∞
- 銀杏並木 - デューク・エイセス(にほんのうた「大阪」)
- 恋する御堂筋 - 江本孟紀・入江マチ子
- たそがれの御堂筋 - 坂本スミ子
- 御堂筋PLANET - 矢井田瞳(2006年)
- 御堂筋BLUE - 松本孝弘
- 御堂筋を歩こう - ssllee(スリー)[15]
- 夜霧のハウスマヌカン - やや
- 42.195km - コブクロ
その他
- 「御堂筋」とつく銀行支店は以下である
- 1959年に南海ホークスが日本一を達成した時に御堂筋でパレードを行ったが、その時の見物客は40万人といわれている。また、2003年11月3日に阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝した時の優勝パレードの動員数も、雨にもかかわらず40万人に達した(同日午後に開催された神戸では25万人)。その2年後の2005年11月6日に行われた阪神タイガースの優勝パレードの動員数は18万人だった。
- 2006年9月3日から9日、大阪フィルハーモニー交響楽団の大植英次音楽監督のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と大阪市の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演が展開された。期間中、御堂筋沿線の18の会場において、大阪フィルハーモニー交響楽団の団員による室内楽など計50公演が行われた。大植音楽監督によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。大阪を象徴する御堂筋で、1週間にわたってクラシック音楽の本格的な公演が行われたことは、しばしば叫ばれている「大阪市の都市格向上」にも大いに貢献した。大阪クラシックは、2009年現在、その後も毎年開催され、晩夏の大阪の文化イベントとして定着している。
- 島之内では、交差する道路名(旧町名)と併せた、いわゆる京都方式の交差点名が見られるが、「御堂筋大丸前」は例外である。原則に従えば「御堂筋大宝寺町」となるところだが、大丸とそごうという老舗百貨店が位置していたことから「大丸そごう前」だった。そごうの閉店と大丸への売却に伴い、2009年10月に現在の交差点名に変更されている。なお、当地の大丸は御堂筋竣工以前から心斎橋筋に面して位置していることから心斎橋店である。
- 2011年7月に、御堂筋沿いに設置されたブロンズの彫刻像のうち19体に、赤い服のようなものが着せ掛けられているのが見付かった。当初は悪質な悪戯と見られていたが[16]、彫刻の損壊が無く、また、サイズも相当に上手くフィットしていたため、アートセンスを評価する意見が多くなっている[17]。
ギャラリー
- Mido-suji Osaka01s4s3200.jpg
阪神前・阪急前のロータリー北に位置する梅田阪急ビル
- Mido-suji from Umeda-Hankyu-BLDG Office Tower in 201411.JPG
起点から望む
- Umeda-Shimmichi Intersection in 201409.JPG
- Kilometre-Zero Osaka Japan.jpg
大阪市道路元標
- Phoenix tower02 2048.jpg
梅田新道交差点東南角のフェニックスタワー
- Midosuji01 2816.jpg
北浜3交差点、日本生命本社ビル前
- Osaka Gas Building in 201411.JPG
- Hommachi3 on Mido-suji in 201411.JPG
本町3交差点
- Shimbashi on Mido-suji in 201411 002.JPG
新橋交差点
- DAIMARU Shinsaibashi store Osaka Japan01-r.jpg
大丸心斎橋店本館・南館
- Namba on mido-suji in 201406 002.jpg
難波交差点
- Namba Station.JPG
脚注
注釈
- ↑ 当時としてはあまりにも幅がありすぎる道路形成になったため、一部から「街の真ん中に飛行場でも作る気か?」などと言われた。しかし、こういう意見に対し關一は「将来必ず役に立つことだから」と、工事を断行し、そのような意見には耳を貸さなかった。また、工事の莫大な費用を賄うため受益者負担金制度をとり、周辺住民・商店との摩擦もあった。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 ロム・インターナショナル編 2005, pp. 21-22
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 132-133.
- ↑ 御堂筋の交通量の情報 (大阪国道事務所)
- ↑ 浅井建爾 『道と路がわかる辞典』 日本実業出版社、2001-11-10、初版。ISBN 4-534-03315-X。
- ↑ 大阪国道事務所 御堂筋の規制速度
- ↑ “一般国道の指定区間を指定する政令の一部を改正する政令について”. 国土交通省 (2012年3月16日). . 2012閲覧.
- ↑ “御堂筋の国から大阪市への移管に向けた協議状況について”. 大阪市 (2011年11月21日). . 2012閲覧.
- ↑ “大阪・御堂筋:完全歩道化へ 37年の100周年向け - 毎日新聞” (ja-JP). 毎日新聞 . 2018閲覧.
- ↑ “大阪の中心・御堂筋「車道なくし全て歩道化」案” (日本語). YOMIURI ONLINE(読売新聞). (2018年3月31日) . 2018閲覧.
- ↑ “大阪・御堂筋:歩道化 側道閉鎖、来年度実験 渋滞・荷さばき影響調査 - 毎日新聞” (ja-JP). 毎日新聞 . 2018閲覧.
- ↑ 大阪市内の道路の交通量について 大阪市
- ↑ 運転開始当初は3A・3B号系統、のちに103号系統を経て2014年4月以降は8号系統。
- ↑ 御堂筋からは右折禁止のため、進入は不可。
- ↑ 佐藤健太郎 2014, p. 237.
- ↑ ssllee
- ↑ “アート集団いたずら?彫刻19体に真っ赤なドレス 御堂筋”. 産経新聞 (2011年7月26日). . 2011閲覧.
- ↑ “いたずら転じて「御堂筋コレクション」? 大阪・赤いミステリーの顛末”. 産経新聞 (2011年7月26日). . 2011閲覧.
参考文献
- 神戸大学附属図書館 戦前期新聞記事文庫
- 大阪市の交通難 いたるところに親不知の難所(大阪毎日新聞 1927.6.28(昭和2))
- 大阪市高速度鉄道愈々今月から起工(大阪毎日新聞 1930.3.1(昭和5))
- デパートと地下鉄の紛糾オッぱじまる(大阪朝日新聞 1933.10.2(昭和8))
- 佐藤健太郎 『ふしぎな国道』 講談社〈講談社現代新書〉、2014-10-20。ISBN 978-4-06-288282-8。
- 「日本の道100選」研究会 『日本の道100選〈新版〉』 国土交通省道路局(監修)、ぎょうせい、2002-06-20。ISBN 4-324-06810-0。
- ロム・インターナショナル(編) 『道路地図 びっくり!博学知識』 河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005-02-01、21-22。ISBN 4-309-49566-4。