三菱銀行

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ファイル:Mitsubishi Bank Head Office Bird.JPG
合併から20年経過する2016年3月現在も残る本店の入口に残るバードマーク
店内側より撮影したため実際は左右逆

株式会社三菱銀行(みつびしぎんこう、英称The Mitsubishi Bank, Ltd.)は、日本都市銀行である。1996年(平成8年)4月1日東京銀行と合併し東京三菱銀行に行名変更し、さらに2006年(平成18年)1月1日にはUFJ銀行と合併し「三菱東京UFJ銀行」(現:三菱UFJ銀行)に行名を変更した。統一金融機関コードは0005。

行章は三菱グループ共通の赤いスリーダイヤであったが、1982年以降、店舗の壁面やキャッシュカードには鳥のマーク(バードマーク)[1]がスリーダイヤとともに付けられた。なお、東京銀行との合併後も、建設時に 三菱銀行 として建設された一部の店舗では、バードマークが残されているものも多かったが、2006年の UFJ銀行 との合併時に、残存していたバードマークのほとんどが撤去された。ただし、本店のリテール営業部門の営業室・ATMコーナーの自動ドアなど、一部の店舗や 三菱銀行 時代から建物を継続使用している一部の店舗では、現在もバードマークが残っている店もある。

概要

1880年(明治13年)に郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分離独立した 三菱為換店 が始まり。この三菱為換店は一度閉鎖されるが、間もなく第百十九国立銀行の経営を承継。その後幾多の変遷を経て、1919年(大正8年)株式会社 三菱銀行 が設立された。戦前は三菱財閥をバックに店舗数よりも取引高の方が遙かに大きかったが、戦時統合で主に東京地区の店舗を拡充。1943年(昭和18年)に第百銀行を吸収合併したことで名実共に大銀行となった。

戦後の財閥解体に伴い、1948年(昭和23年)に 千代田銀行 へ改名するが、1953年(昭和28年)に 三菱銀行 へ戻し、三菱重工業三菱商事とともに再結集した三菱グループの中核企業、都市銀行上位行として発展してきた。行風は官僚主義的で機動力に欠けるという評価がされることが多い。バブル景気の時期にはそれが幸いして他の銀行の様な無理な融資合戦に参入するのが遅かったため、バブル崩壊後の不良債権が少なく済んだといわれている。ただし、バブル時代の経営姿勢に何も問題が無かったわけではなく、下記の様な変額保険問題を起こしている。また、当時の銀行界では珍しく大蔵省の「天下り」役員を受け入れていなかった。

1996年(平成8年)4月1日東京銀行と合併し、株式会社「東京三菱銀行」となった(存続会社はこの三菱銀行)。SWIFTコードは 東京銀行 が使用していたものがそのまま使われた。

変額保険事件

三菱銀行は、バブルからその後にかけて大きく社会的問題となった変額保険を大々的に進めた中心銀行である。当時の取締役三木繁光が、この提案融資の旗振り役であった[2]。変額保険は、地価が異常な値上がりを示した時代情勢につけ込んで拡大したもので、ハイリスク・ハイリターンな投資商品であった。変額保険に加入した結果、土地を失ったり、自殺を迫られる高齢者が多数発生し、金融機関の商品説明責任を問う損害賠償訴訟が相次いで起こされた。

この訴訟において、三菱銀行 の被害者は226名に上り、全金融機関で最悪の人数である。銀行としては2番目に多い横浜銀行の44人の5倍強、都市銀行の中では 富士銀行 の38人の6倍近くと、その加害は群を抜いている[3]

この背景には、もとは米国で開発された変額保険を、アリコジャパンの元 社員が 三菱銀行 に提案した経緯がある。邦銀で最初にこの商品を知った 三菱銀行 は、同じく三菱グループの 明治生命(現在の 明治安田生命保険)と一体となり、販売を押し進めた[4]。事実、明治生命 による被害者数は 三菱銀行 とほぼ同じ224名であり、生保会社では2番目に被害者の多かった生保最大手の日本生命の104人の2倍以上である。

2002年(平成14年)4月23日には東京高裁において、当時の 三菱銀行 の直接の後身にあたる 東京三菱銀行 と 大同生命 らを相手取る訴訟で、7000万円の損害賠償命令が下された。

フジテレビドラマ「ビッグマネー!」における「相続保険」問題の描写は、この 三菱銀行 がモデルとされる。

イメージキャラクター

三菱銀行は、1961年(昭和36年)11月から、他行に先駆けて「ブーチャン貯金箱」の配布を開始した。これは、以前はマッチカレンダーなどに限られていた、金融機関が配布できる景品に、1954年(昭和29年)に「貯金箱」が新たに加えられたのを受けたものである。なお、この「ブーチャン」とは、当時NHK総合で放送されていた人気テレビ番組ブーフーウー」からヒントを得た子ブタのキャラクターであり、1年間で150万個が配布されるなど、人気となった。その後、このブーチャンは三菱銀行の親しみやすさを象徴するキャラクターとして、ポスターチラシなどに採用された。

1962年(昭和37年)8月20日からは、普通預金と積立預金の2種類の通帳で、ブーチャンのイラストを使用した「絵入り通帳」の取り扱いを開始した。これは、現在、全国の銀行のほとんどで取り扱われている「デザイン通帳」の先駆けでもあった。

また、その年の12月1日には、当時三菱地所東映が協力して行っていた、日本へのディズニーランド誘致に呼応する形で、ディズニー・プロダクションズ(当時)と版権契約を結び、ディズニーキャラクターを使用した「絵入り通帳」の取り扱いを開始した。日本へのディズニーランド誘致は、結局三菱地所と競合していた三井不動産京成電鉄連合が権益を獲得したものの、ブーチャンと同様に、ディズニーキャラクターは、三菱銀行の親しみやすさを示す象徴となった。なお、当時は、普通預金と積立預金の2種類の通帳が用意され、普通預金には「ディズニー預金」という名前が付けられた。また、キャラクターは、ドナルドダックバンビシンデレラピノキオなどが採用された。また、1963年(昭和38年)1月からは、「ディズニー貯金箱シリーズ」が始まり、第1号である「ドナルドダック」の貯金箱が配布された。

ちなみに、富士銀行も同時期に採用を図ろうとしたが、ディズニー社側の承諾を得られず断念している。

また、1988年(昭和63年)から一時期、ハローキティのイラストが描かれたデザイン通帳を取り扱っていたこともあったが、ひっそりと姿を消してしまった。その後、ハローキティは1998年(平成10年)から第一勧業銀行がイメージキャラクターとして採用し、みずほフィナンシャルグループの傘下に入ったのち、みずほ銀行になった後も採用が続けられ、みずほコーポレート銀行に吸収合併された現在もイメージキャラクターとして採用されている。

ファイル:三菱銀行 ディズニー30周年記念 三菱鉛筆.jpg
1996年に発足した 東京三菱銀行、そして2006年に発足した 三菱東京UFJ銀行 に至るまで長らく使われてきたディズニーキャラクター (写真の色鉛筆は三菱銀行としては最後に配布された30周年記念の色鉛筆である)

1992年には、ミッキーマウスをはじめとするディズニーキャラクターの採用から30周年を迎えたことから、ノベルティとして利用者に向けてディズニーのキャラクターが描かれた 同じスリーダイヤをシンボルマークとする「三菱鉛筆」が製造した「三菱色鉛筆」が配布された。( なお、三菱銀行を含めた三菱財閥系と三菱鉛筆の関係は一切ない )

なお、40周年を迎えた2002年には東京三菱銀行として、50周年を迎えた2012年には三菱東京UFJ銀行としてそのミレニアムイヤーを迎えているため、三菱銀行としては1992年のミレニアムイヤーを迎えることが最後となった。

沿革

出身者

脚注

関連項目

テンプレート:都市銀行 (1970年) テンプレート:戦前の五大銀行 テンプレート:普通銀行統制会 テンプレート:三菱UFJフィナンシャル・グループ