横浜正金銀行
株式会社横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、英称:Yokohama Specie Bank, Ltd.)は、かつて存在した日本の特殊銀行。通称・正金、YSB。1880年(明治13年)に開設された国立銀行条例準拠の銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた[1]。その名の通り神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)の前身とされる。
貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行[2]、チャータード・マーカンタイル銀行[3]と並ぶ外国為替銀行へと発展していった。また、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受けながら、緊縮政策を前提とする金解禁に加担した。
第二次世界大戦においては日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関とみなされたために、敗戦後の1946年(昭和21年)にGHQの指令によって解体・清算され、外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事になった。それでも、頭取職は日銀総裁への登竜門であった。
設立の経緯
広業商会の業務を引き受ける形で設立した。 日米修好通商条約締結により、横浜は下田に代わる形で1859年に開港した。事実上の首都である江戸(1862年外国人に開放)に近い事も手伝い、瞬く間に国際貿易都市として急成長を遂げていった。
1871年に新貨条例が制定され、これに基づいて鋳造された1円銀貨(純度90%)が正貨となり、海外貿易に使用されていた。しかし1877年に勃発した西南戦争はインフレを引き起こし、また輸入増による銀貨の海外流出も重なって、政府紙幣と正貨との間には大きな差価が生じていた。これは横浜に集う商人の悩みの種となり、安定した正貨を供給する貿易金融機関の必要性が叫ばれるようになった。
1879年、丸屋商社(現丸善雄松堂)の元社長で、第八国立銀行(愛知県豊橋市)の設立にも関わった中村道太を代表とする22人は、福澤諭吉や井上馨らの支援の下、貿易の振興と取引の円滑化、そして堅実な現金(当時の言葉で「正金」)金融を趣旨に、国立銀行条例に基づく新銀行を設立。翌1880年2月28日、中村を頭取とし、資本金300万円で横浜正金銀行は営業を開始した[4]。資本金のうち100万円は大蔵省が銀貨で出資し、民間側出資の200万円は銀貨40万円、紙幣160万円という内訳であった。
設立に当っては、1円銀貨の導入を支援するなど当時の日本の海外貿易・外国為替に大きな影響力を持っていたHSBCを模範とし、HSBCも横浜正金銀行に協力を惜しまなかった。運営に際しては小泉信吉をはじめとする慶應義塾門下生が多く関わった。
沿革
本邦人の手で、正銀取引の一大銀行を設立し、正銀の供給運転に便し、務めて内外商人の間に介在して金融の円滑を図り、夫の外国銀行の向ふを張って大に彼らに制肘を加へ、漸次我商権を回復しなければならん。 — 『横浜正金銀行史』 西田書店 1920,1976年 pp.5-6.
- 1883年(明治15年)3月 - 初期の経営混乱を収拾するため、政府より原六郎が第4代頭取として送り込まれる。
- 1887年(明治20年)4月 - 資本金を600万円に増資。
- 1887年(明治20年)7月6日 - 横浜正金銀行条例公布。「内外国において貿易上要用なる地に支店又は出張所を設置し、また他の銀行と『コルレスポンデンス』を締約することができる」旨が規定された[5]。また同条例は同年に「大蔵大臣は横浜正金銀行諸般の事務を管理官を派遣して監視する」旨の改正が行われた。
- 1889年(明治22年)- 横浜正金銀行条例の改正。「条例定款に背戻する所為あるとき、または危険なる所為と認められる事件があるときは、大蔵大臣はこれを制止し、又は取締役の改選を命ずることができる」旨等が規定された[5]。
- 1892年 小泉信吉が本店支配人に就任。
- 1897年(明治30年)相馬永胤が第6代頭取に就任。
- 1906年(明治39年)3月 - 高橋是清が第7代頭取に就任。9月 - 関東州(=遼東半島。当時日本租借地)・中国における銀行券(横浜正金銀行券)の発行を許可される。(最終的に9支店93種類の銀行券が発行された[6]。)
- 1906年(明治39年)7月20日 - 日本初の専用線電話が日本銀行と横浜正金銀行本店間で開通。
- 1911年(明治44年)6月 - 三島弥太郎が第8代頭取に就任。
- 1913年(大正2年)9月 - 井上準之助が第10代頭取に就任[7]。
- 1932年(昭和7年) - 本店機能を東京に移す。
- 1936年(昭和11年)9月 - 大久保利賢が第13代頭取に就任。
- 1938年(昭和13年)5月 - 香港上海銀行を傘下に収め、中国における徴税権を得る[8]。
- 1941年(昭和16年)12月23日 - 敵産管理法により、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行について、政府が横浜正金銀行に財産管理を命ずる。
- 1946年(昭和21年) - 閉鎖機関に指定される。株式会社東京銀行を設立し、同行に業務を引き継いで解散。
- 1957年(昭和32年) - 旧仏領インドシナを占領中の日本軍がその軍費を調達するため、日仏政府間および旧正金銀行・インドシナ銀行間でそれぞれ協定を締結していたが、二協定による終戦時の日本側債務残高とフランス側特別円勘定を最終的に解決すべく、両国政府間で議定書を作り清算した。後に国会で問題化するが、特別円勘定についてあたかも円建てであったかのような言及がなされている点について、実際はスターリング・ポンドで支払われた。[9][10]
- 1963年(昭和38年) - 清算結了。保有不動産をもって日本中央地所株式会社設立。
歴代頭取
- 初代 (1879年12月〜1882年7月)中村道太
- 2代目 (1882年7月〜1883年1月) 小野光景
- 3代目 (1883年1月〜1883年3月) 白洲退蔵
- 4代目 (1883年3月〜1890年3月) 原六郎
- 5代目 (1890年3月〜1897年4月) 園田孝吉
- 6代目 (1897年3月〜1906年3月) 相馬永胤
- 7代目 (1906年3月〜1911年6月) 高橋是清
- 8代目 (1911年3月〜1913年2月) 三島弥太郎
- 9代目 (1913年2月28日〜1913年9月13日) 水町袈裟六
- 10代目(1913年9月〜1919年3月) 井上準之助
- 11代目(1919年3月〜1922年3月) 梶原仲治
- 12代目(1922年3月〜1936年9月) 児玉謙次
- 13代目(1936年9月〜1943年3月) 大久保利賢
- 14代目(1943年3月〜1945年6月) 柏木秀茂
- 15代目(1945年6月〜1946年7月) 荒川昌二
- 16代目(1946年6月〜1946年12月)高田逸喜
本支店(旧跡)
本店
妻木頼黄の設計になる横浜正金銀行本店建物は1904年に落成。東京銀行横浜支店としても使われた後、現在は神奈川県立歴史博物館となっている。
国内支店
- 京都支店(現三菱UFJ銀行京都中央支店) - 1925年 桜井小太郎
- 門司支店(現北九州銀行門司支店) - 1934年 桜井小太郎
- 神戸支店(現神戸市立博物館) - 1935年 桜井小太郎
- 長崎支店
- 小樽出張所(現三立機電本社) - 1936年
海外支店
- 大連支店(現中国銀行大連分行) - 1909年 妻木頼黄・大田毅
- 北京支店(現中融集団) - 1910年 妻木頼黄
- ハルビン支店(現黒竜江省美術館) - 1912年 不詳
- 青島支店(現青島銀行館陶路支行) - 1919年 長野宇平治
- 漢口支店(現湖北省国際信託投資公司) - 1921年 Hemmings & Berkeley
- 上海支店(現中国工商銀行上海分行) - 1924年 Palmer & Turner
- 奉天支店(現中国工商銀行中山広場支行) - 1925年 宗像主一
- 天津支店(現中国銀行天津分行) - 1926年 Hemmings & Berkeley
- 済南支店(現山東民生銀行)
- ハワイ支店 - 1909年 Harry Livingston Kerr
脚注
- ↑ 注釈『ふらんす物語』 : 遊歩者荷風のリヨン加太宏邦 法政大学紀要
- ↑ 現HSBC
- ↑ 1959年《昭和34年》HSBC傘下に入り、1982年《昭和57年》HSBCに吸収
- ↑ 荒井泰治 『銀行誌』 青梅堂、1888年 近代デジタルライブラリー
- ↑ 5.0 5.1 横浜正金銀行条例(明治20年7月勅令第29号)。法規提要明治22年編中巻(1903年)。法制局。コルレスポンデンス(Correspondence)は「通信、外交」等の意。
- ↑ 『横浜正金銀行-世界三大為替銀行への道ー』神奈川県立歴史博物館、2004年
- ↑ 大分県人士録、大分県人士録発行所、1914年。
- ↑ 萧一平、郭德宏等、1993年。「中国抗日战争全史」、第87章・日本的殖民经济掠夺与殖民文化。
- ↑ 岸信介と駐日仏大使アルマン・ベラールが署名 インドシナ銀行名義で横浜正金銀行に開設された諸勘定に関する問題の解決に関する日本国政府とフランス共和国政府との間の議定書 昭和32年3月27日
- ↑ 第33回国会 外務委員会 第20号 昭和34年12月17日
- 「まず特別円という問題につきましては、戦時中当時の旧仏領インドシナを占領中の日本軍が、その軍の軍費を調達」「いたしまするために、日仏政府間で協定をいたしました。また旧正金銀行とインドシナ銀行との間に、これに基いて金融協定というものを締結いたしました。」「その結果、終戦の当時に」━━よくここのところを聞いておいていただきたいんです━━「その結果、終戦の当時にわが方の債務として残りましたものは、米ドル勘定で四十七万九千六百五十一ドル十九セントでございます。また特別円勘定といたしまして残りましたものが、十三億千五百二十七万五千八百十八円三銭、かくのごとく相なっております。」「米ドル勘定の債務の決済残り、特別円の債務の決済残り、これらはいろいろと勘考いたしまして、あらためてフランス側との間の話し合いによりまして、三十二年の三月二十七日に円貨十五億円とドル貨四十八万ドルをもってこれの決済をいたしたわけでございますから、」「戦時中、」━━ここも重要だと思う━━「戦時中、戦争以前からのいわゆる仏印の特別円問題というものは全部片がついた、こういうことに相なるわけでございます。それから三十三トンの金の価格がどうであるか、これの見合いのものは何の決済であったかというお尋ねがございましたが、」「これは、」「戦争前からの協定によりまして、こういう軍のピアストル貨の調達については、金で支払うという条項に基きまして、一九四一年の十一月六日以来、」「約十回にわたりまして軍費の調達」「それから」「ゴムの輸入代金」「そのほかに、昭和十七年末に、一般勘定と称するものがございまして、その残高も金で決済しなければならなかったわけであります。これらを合計いたしますると、」「三十三トンに相なるわけでございます。」と、こういう答弁なんでございます。これは日仏特別円決済に関する政府のわざわざ閣議を開いて統一した見解であります。」
参考文献
- 土方晋 『横浜正金銀行』 教育社歴史新書、1980年。著者は東京銀行に勤務
関連項目
- 永井荷風 - 小説家。外遊のため父親のコネで、1905年から1年半、横浜正金銀行の ニューヨーク支店に、1907年からの8か月間、リヨン支店に勤務。
- 小島烏水 - 登山家、随筆家、評論家。定年まで横浜正金銀行に勤め、シアトル支店長などを歴任。
- 武蔵小杉駅 - 旧称のグラウンド前停留場は、駅前にあった横浜正金銀行のグラウンドに由来。
外部リンク