第2次世界大戦
World War II
1939~45年に世界のほとんどを巻き込んだ大規模な国際紛争。1931年に勃発した満州事変以降をいう場合もある。枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)と連合国(フランス,イギリス,アメリカ合衆国,ソビエト連邦,中国)の二つの陣営に分かれて戦われたこの戦争は,第1次世界大戦で解決できなかった根強い対立が,20年間の中断を経て吹き出したものといえる。第1次世界大戦に敗れた苦い思いや,ベルサイユ条約の過酷な賠償,社会不安や政情不安など,ドイツ(ワイマール共和国)をめぐる諸条件は,極端な愛国主義と反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者,アドルフ・ヒトラーの台頭を招いた。1933年,独裁的な権力を得たヒトラーはひそかに再軍備を始めた。イギリス,フランスの宥和政策(アピーズメント・ポリシー)に乗じたヒトラーは,1936年3月ベルサイユ条約に違反して,ラインラントの占領を命じた。すでにエチオピア侵略にとりかかっていたイタリアのファシスト党指導者ベニト・ムッソリーニは,この年ローマ=ベルリン枢軸を宣言した。翌 1937年イタリアは,日本とドイツが 1936年に結んだ日独防共協定に参加した。またドイツとイタリアは反共産主義の名目で,1936年に勃発したスペイン内乱に干渉した。
1938年3月,ヒトラーはオーストリアへ出兵し,これを併合した(→アンシュルス)。さらに 1939年3月には,内外の圧力を巧みに利用してチェコスロバキアの分割にも成功,4月にはイタリアがアルバニアを併合した。8月東ヨーロッパの勢力範囲を定めた独ソ不可侵条約が締結され,これに大きな衝撃を受けた英仏陣営が対策に焦っている間に,9月1日ドイツはポーランド侵攻を決行,9月3日イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。1939年の終わりには,ポーランドがドイツとソ連によって分割され,さらにソ連はエストニア,ラトビア,リトアニアを占領し,フィンランドへ侵攻,1940年3月フィンランドは降伏した。数ヵ月にわたってドイツ軍の主要な活動は海上で行なわれ,特にイギリス行きの商船に対する攻撃は効果的であった。1940年4月,ドイツはノルウェーの港の一部と,デンマークのすべての港を占領した。5月10日,西部戦線のドイツ軍主力部隊は,オランダ,ベルギーを経由してフランスへ向かう電撃作戦を開始した。6月22日にはパリを含むフランス領の 5分の3がドイツに占領され,残りはビシー政府のもとで中立地帯とされた。8月から 9月にかけて,ドイツ空軍はイギリス本土侵攻を目的とする大規模な爆撃を行なった。だが,イギリス本土航空決戦に勝利を収めたのはイギリス空軍で,この結果ヒトラーはイギリス本土への侵攻を無期限延期とした。11月,イタリアのギリシア侵攻が失敗に終わったのち,ヒトラーはハンガリー,ルーマニア,スロバキアを枢軸国に引き入れた。ブルガリアもドイツの説得を受け入れ,1941年3月日独伊三国同盟に加盟した。4月,ドイツはユーゴスラビア,ギリシアへ侵攻し,両国は 1ヵ月足らずで降伏した。6月,ヒトラーは 1939年の独ソ不可侵条約を破棄し,突如としてソ連に対して大規模な電撃作戦を実施した。ドイツ装甲部隊はソ連領内深くまで攻め込み,一時はモスクワの一歩手前まで到達したが,ソ連軍の反撃と冬の厳寒期の到来で,それ以上進めなくなった。
一方,もう一つの枢軸国である日本は,日中戦争が長期間にわたって泥沼化しており,ヨーロッパの混乱に乗じて,極東アジアにあるヨーロッパ諸国の植民地を獲得しようと決意した。戦争が拡大すればアメリカが最大の対抗勢力となるに違いないと考えた日本は,機先を制しようと,1941年12月7日から 8日にかけて,ハワイの真珠湾の軍事施設とそこに停泊するアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。アメリカはすかさず全枢軸国に対して宣戦布告した(→真珠湾攻撃)。日本はフィリピン,ビルマ(ミャンマー),オランダ領東インド(インドネシア)など東南アジアのほとんどと太平洋の島々を占領するなど,迅速な攻撃で初期には大きな戦果を上げたが,1942年6月,ミッドウェー海戦で決定的な敗北を喫した。
北アフリカでは,1940~41年にはるかに優勢なイタリア軍を打ち破ったイギリス軍が,ドイツのアフリカ装甲部隊を相手に,一進一退の膠着状態にあった。1942年11月,英米連合軍の北アフリカ上陸作戦が開始された。ドイツ軍はずるずると撤退し,チュニジアへ追いつめられ,1943年5月,ついに全軍が降伏した。6月,連合軍は北アフリカをたってシチリア島へ上陸し,そこを足場に 9月にはイタリア本土へ侵攻した。ファシスト政権は倒され,10月にはイタリアは連合国側へ入り,この後イタリア領内ではドイツ軍との戦いが終戦まで続いた。
激しい抵抗にあい,結局は失敗に終わったスターリングラードの戦い(1942年8月~1943年2月)ののち,ソ連領内のドイツ軍は勢いを失った。ソ連軍は引き続き兵力を増強し,1943年にはソ連西部からドイツ軍を一掃した。一方西部戦線では,ドイツは連合国の大陸進攻に備えなければならなかった。1944年6月6日,ドワイト・D.アイゼンハワー将軍の指揮のもとイギリス,カナダ,アメリカの連合軍 15万6000人が,北フランスのノルマンディーに上陸した(オーバーロード作戦)。制空権を握った連合軍は,すばやく足場を固めたのち東へ向かい,1945年3~4月にはドイツ本土を占領した。ソ連軍は 1944年には領内から完全にドイツ軍を駆逐したばかりか,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニアにまで進出し,1945年初めにはドイツの東側 3分の1を占領した。ソ連軍がベルリンを包囲するなか,ドイツ崩壊に直面したヒトラーは 1945年4月30日自殺,5月7日ドイツは無条件降伏した。太平洋では,アメリカのダグラス・マッカーサー将軍指揮下,連合軍は 1944年10月フィリピン攻略にとりかかり,日本海軍はレイテ湾海戦で壊滅的な打撃を受けた。激しい戦闘の末 1945年3月に硫黄島(硫黄島の戦い)を,6月に沖縄(沖縄の戦い)を攻略した連合軍は,日本本土への大規模な戦略爆撃と,地上部隊による本土上陸を可能にした。8月6日に広島,9日に長崎に原子爆弾が投下され(原子爆弾投下),9月2日,日本は降伏文書に正式調印,第2次世界大戦は終結した。