佐渡金山
佐渡金山(さどきんざん)は、新潟県佐渡市にある金山である。鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。金山遺跡のうち相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」として国の史跡に指定されている。
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概要
よく誤解されるが、戦国時代には佐渡金山と称される金脈は未発見であり、戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はないが、山の反対側では鶴子銀山が採掘されている。小説『武田信玄』において新田次郎は佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、戦国時代の佐渡は本間氏の領国であり上杉氏は領有しておらず、その意味からも上杉謙信が佐渡金山を保有していたということはありえない。ただ、『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れるという点に言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。
天正17年(1589年)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。
慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。
江戸時代初期すなわち慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘される、当時としては世界最大級[1]の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。
鉱山の労働者の給与水準も高く、周辺の町は大変栄えたという。江戸時代後期には江戸から約1,800人の無宿人(浮浪者)・罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたという金山側の事情もある。
現在は金の値段と労働賃金がつりあわず、採算が取れないため、採掘を中止して観光施設となっている。坑道の総延長は実に約400kmに及ぶが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されており、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。
沿革
- 1601年(慶長6年) - 鶴子銀山の山師3人により発見。
- 1603年(慶長8年) - 佐渡奉行大久保長安の管轄となる。
- 1868年(明治元年) - 工部省に所属。
- 1889年(明治22年) - 宮内省御料局に所属。
- 1896年(明治29年) - 三菱合資会社に払い下げられる。
- 1918年(大正7年) - 三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル)に引き継がれる。
- 1967年(昭和42年) - 佐渡鉱山のうち、相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」として国の史跡に指定された。
- 1973年(昭和48年) - 佐渡金山株式会社として独立する。
- 1989年(平成元年)3月31日 - 鉱量枯渇のため採掘中止。三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡に経営が引き継がれる。
- 2007年(平成19年) - 日本の地質百選に選定。
- 2008年(平成20年) - 大立竪坑櫓、大立捲揚室、道遊坑、間ノ山上アーチ橋および間ノ山下アーチ橋が登録有形文化財となる。なお、これらの物件が2012年(平成24年)に重要文化財に指定されたことに伴い、登録有形文化財としての登録は抹消されている[2]。
- 2012年(平成24年) - 建造物3基4棟1所が「旧佐渡鉱山採鉱施設」として国の重要文化財に指定される。
文化財
重要文化財
- 旧佐渡鉱山採鉱施設 3基4棟1所[3]
- 大立竪坑櫓(おおだてたてこうやぐら)1基
- 大立竪坑捲揚機室(- まきあげきしつ)1棟
- 道遊坑及び高任坑(どうゆうこうおよびたかとうこう)1所
- 高任粗砕場(たかとうそさいば)1棟
- 高任貯鉱舎及びベルトコンベアヤード 1棟
- 電車車庫(機械工場)1棟
- 間ノ山上橋(まのやまかみばし)1基
- 間ノ山下橋 1基
史跡
国の史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定されているのは、「道遊の割戸」(どうゆうのわりと)、「宗大夫間歩」(そうだゆうまぶ)、南沢疏水、大立竪坑櫓、間ノ山搗鉱場(あいのやまとうこうば)などの採鉱関係の遺構・遺跡、佐渡奉行所跡、旧時報鐘楼、旧御料局佐渡支庁庁舎などの経営関係遺跡、また、佐渡鉱山の開発に功のあった佐渡奉行大久保長安の建てた大安寺である。2011年(平成23年)には鶴子(つるし)銀山跡を追加して「佐渡金銀山遺跡」の名称に変更された。
重要文化的景観
- 江戸時代の採掘中心地で佐渡奉行所が置かれた相川地区と、明治の近代化以降に中核となった北沢地区の施設(大間港含む)と京町通りの景観。
観光スポット
- 史跡佐渡金山(入館は有料)
- 坑道
- 資料館
- 入館時間(年中無休)
- 4月〜10月(8:00 - 17:00)
- 11月〜3月(8:30 - 16:30)
- 道遊の割戸(どうゆうのわれと)
- 南沢疏水坑
- 大久保長安墓
スタッフとしてチャールズ・ジェンキンスが勤務[4]していた時期もあった。
イベント
世界遺産登録への動き
佐渡市と新潟県は、相川金銀山・西三川砂金山・鶴子銀山・新穂銀山の4つの金銀山を「佐渡金銀山遺跡」とし、世界遺産への登録を目指すようになった。県と市は、2007年(平成19年)に文化庁へ「金と銀の島、佐渡-鉱山とその文化-」の仮称で世界遺産暫定リスト入りを提案。2008年(平成20年)9月26日の世界文化遺産特別委員会の審査結果では、すでに世界遺産登録されている石見銀山遺跡との「拡大・統合を図るべき」との意見とともに暫定リスト記載文化遺産と評価された。しかし、石見銀山との統合は断念され、2010年(平成22年)6月の同委員会では、「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群(The Sado Complex of Heritage Mines, Primarily Gold Mines)」として暫定リストへ単独記載していくことが了承された。
世界遺産に求められる「顕著な普遍的価値」の位置づけを、「江戸時代に鎖国という世界でも特異な状況下において、手工業による鉱山開発と貴金属生産を継続。そこで培われた技術や組織体制(管理体系・鉱山集落等)の継承が、明治の近代化産業革命による機械工業化を円滑かつ短期間で成し遂げた。佐渡は機械化以前と以降をまたいで長期間持続した鉱山で、金銀生産技術とそれに適応した組織の展開を示す物証が島という限られた範囲内で見ることができる世界的にも稀有(東アジアで唯一)な遺産である」とする。
ただし、世界遺産登録条件に
- 「現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」
との条項があり、既に石見銀山が世界遺産登録していることから、佐渡金銀山の世界遺産登録実現に向けて影響が出てくる可能性もある。
世界遺産構成資産候補としては、早々に新穂銀山を除外し、相川金銀山、西三川砂金山、鶴子銀山に加え、吹上海岸石切場跡(国指定史跡)、片辺・鹿野浦海岸石切場跡(国指定史跡)、大間港(1892年(明治25年)完成)、戸地川第二発電所(国指定史跡・1919年(大正8年)完成)の4ヶ所を含む7件とした。2015年(平成27年)より毎年文化審議会に推薦書原案を提出し正式推薦を望んできたが選に漏れてきたこともあり、海外を含む他の鉱山遺産との差別化を図るべく、佐渡の独自性(手工業)を明確に紹介できる相川金銀山、西三川砂金山、鶴子銀山の3件に構成資産候補を絞り込むこととなった。
海外の視点
- 江戸時代の囚人労働を含め、「魅力的ではない”暗い遺産”あるいは”恥の遺産”で、ダーク産業遺産である」[5]
- 韓国首相所属の対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会は、「佐渡鉱山に動員された朝鮮人労働者が少なくとも1400人に達する」と推定した[6]
脚注
- ↑ “活気づくニッポンの鉱山 本当に「資源小国」なのか”. 日本経済新聞. (2012年1月29日) . 2012年10月11日閲覧.
- ↑ 登録の抹消について(文化庁サイト)
- ↑ 平成24年12月28日文部科学省告示第178号
- ↑ ジェンキンスは既に退職し、現在ゴールデン佐渡には在籍していない。
- ↑ Japan’s Dark Industrial Heritage: An Introduction Asia Pacific Journal 2017.1.1
- ↑ 軍艦島に続き…日本、強制労役現場「佐渡鉱山」世界遺産登録を推進 中央日報 2018.7.19
参考文献
- 江戸時代の随筆。佐渡金山についての逸話を収録。
- 『佐渡金銀山の史的研究』田中圭一著 刀水書房 1986年
関連項目
外部リンク