盛岡市
盛岡市(もりおかし)は岩手県の県庁所在地。中核市に指定されている。
Contents
概要
平安時代、桓武天皇の命により志波城が置かれ、律令制下となる。安土桃山時代に勢力を広げた南部氏が盛岡城を築いて以後、城下町として発達。明治以後は岩手県の県庁所在地となる。
地理
岩手県の内陸部、北上盆地のほぼ中央部に位置し、市内中心部で主流北上川に雫石川、中津川が合流する。中心市街地からは奥羽山脈に属する岩手山(北西)、駒ケ岳(西)北上高地に属する早池峰山(東)のほか、独立峰の姫神山(北)、南昌山・東根山(南)などを望み、これらは市域の内外にありながら総じて街のランドマークとなっている。市域面積は東京23区の約1.4倍に相当し、豊かな自然環境に恵まれ美しい景観を形成している。
- 山 : 姫神山 - 岩山 - 愛宕山 - 鑪山 - 蝶ヶ森 - 飯岡山 - 黒石山 - 神庭山 - 寒風山など
- 河川
- 湖沼 : 四十四田ダム - 御所ダム - 綱取ダム - 高松の池 - 岩洞ダムほか
- 主な都市の降雪量・積雪量(平年値)
広袤(こうぼう)
国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、盛岡市の面積は886.47平方キロメートルである[1]。
国土地理院によると盛岡市の東西南北それぞれの端は以下の位置[2][3]。東端は早坂峠の南南東約4.2キロメートル (km) 、西端は御所湖畔、南端は毛無森、北端は送仙山である。 [4]。
人口
盛岡市(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
気候
全般に北上盆地の中に位置するため内陸性気候であり、盛岡地方気象台の過去最高気温は37.2℃(1924年7月12日)、過去最低気温は-20.6℃(1945年1月26日)となり、夏と冬、昼と夜とで寒暖差が大きい。市内にある気象庁による観測地点は、中心部にある官署の盛岡地方気象台、市北部の玉山区にあるアメダスの好摩と藪川の計3か所設置されている。ケッペンの気候区分によると、盛岡中心街から南部の北上盆地は温暖湿潤気候、一方市の北部の滝沢市に隣接する地区や北上盆地周辺の標高の高い地域などは亜寒帯湿潤気候に属する。
藪川(盛岡市) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
盛岡市街地(盛岡地方気象台)の気候は次の通りである。本州の中では最も年平均気温の低い県庁所在地であり、桜の開花は東京に1か月程度遅れ、満開時期がゴールデンウィークに重なる傾向がある。なお、1970年代(1941~1970年平均値)まで使われていた盛岡地方気象台の最寒月(1月)の平均気温は-3.0℃であり、亜寒帯湿潤気候に属していた。
夏季は、真夏日となる日もみられるものの[5]、やませの影響を強く受ける[6] 年があるほか、フェーン現象が発生することもあるため、年によって夏日は41 - 94日、真夏日も1 - 48日と変動する。熱帯夜となることは稀(1931年 - 2012年の82年間で1994年(平成6年)8月11日[7] や1999年(平成11年)8月6日[8] や2012年(平成24年)9月18日[9]や2014年(平成26年)8月6日[10]4夜のみ[11])であるため、朝晩は特に過ごしやすい。
冬季は、本州の県庁所在地では最も寒いとされ、30年平均(1976年 - 2005年)で冬日が124.6日(97 - 147日)、真冬日が16.6日(1 - 40日)となっている。年間平均降雪量は以下の都市別比較表にある1971~2000年平年値の351cmより大幅に減少し272cm、過去最深積雪は81cm( 1938年2月19日) 程度と、毎年必ず積もるとはいえ雪は極端に多くはない一方で、冬季の日照時間が長いために、よく晴れた深夜・早朝に放射冷却現象が起き路面が凍結し、雪害以上の課題となっている。ただし、近年、盛岡市中心部は年々冷え込みが弱くなり、マイナス10度以下まで冷え込むことは少なく、盛岡地方気象台(標高155.2m)の1月の平均気温の-1.9℃は1970年代の-3.0℃と比べると1.1℃も上昇した。しかし、郊外は氷点下15度を下回る気温も観測されるなど朝晩の冷え込みは非常に厳しく、市北部のアメダス好摩(標高205m)では1月の平均気温が-3.1℃、平均最低気温は-8.1℃になる他、隣接する雫石町(標高195m)では2018年2月2日に-20.8℃、南部の紫波町のアメダス(標高125m)でも2013年1月18日には-16.9℃まで下がっているなど、中心部と郊外では朝晩は夏季よりも年々気温差が大きくなる傾向にある。
藪川の寒冷な気候
市北東部の藪川は観測点の標高が680mとアメダス観測点の中で取り立てて高いほうではないが、周囲を山に囲まれ岩洞湖に冷気がたまりやすいという地理的条件のため、非常に寒冷な土地である。2月の平均最低気温は-13.8度と、標高1200m台の群馬県草津や長野県菅平アメダスをも下回り、本州の全てのアメダスで最も低い。放射冷却によって零下20℃を下回ることも珍しくないほか、岩手県宮古市区界、岐阜県高山市六厩、長野県上田市菅平、長野県南牧村野辺山 と並んで、初秋や晩春にも氷点下の厳しい冷え込みを観測することがあり、本州で最も寒冷な土地の一つとされる。現在のアメダス地点(標高680m)とは違う場所で、非公式(アメダス以前の気象観測所のため非公式扱いとされる)ながら1945年1月26日には-35℃[12][13] という北海道内陸部並みの冷え込みを記録している。寒冷な気候を生かして蕎麦の栽培が行われ、藪川そばという特産品となっている。
- 最高気温極値(1976/11 - )31.5℃(2007年8月14日)
- 最低気温極値(1976/11 - )-27.6℃(1988年2月17日)[14]。
盛岡地方気象台(1981-2010)の気候資料 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 13.2(55.8) | 14.4(57.9) | 20.9(69.6) | 28.1(82.6) | 32.9(91.2) | 33.7(92.7) | 37.2(99) | 36.6(97.9) | 33.8(92.8) | 27.5(81.5) | 21.3(70.3) | 17.9(64.2) | 37.2(99) |
平均最高気温 °C (°F) | 1.8(35.2) | 2.9(37.2) | 7.0(44.6) | 14.4(57.9) | 19.7(67.5) | 23.5(74.3) | 26.4(79.5) | 28.3(82.9) | 23.6(74.5) | 17.6(63.7) | 10.6(51.1) | 4.6(40.3) | 15.0(59) |
日平均気温 °C (°F) | -1.9(28.6) | -1.2(29.8) | 2.2(36) | 8.6(47.5) | 14.0(57.2) | 18.3(64.9) | 21.8(71.2) | 23.4(74.1) | 18.7(65.7) | 12.1(53.8) | 5.9(42.6) | 1.0(33.8) | 10.2(50.4) |
平均最低気温 °C (°F) | -5.6(21.9) | -5.2(22.6) | -2.2(28) | 3.0(37.4) | 8.5(47.3) | 13.8(56.8) | 18.1(64.6) | 19.6(67.3) | 14.6(58.3) | 7.3(45.1) | 1.5(34.7) | -2.4(27.7) | 5.9(42.6) |
最低気温記録 °C (°F) | -20.6(-5.1) | -17.7(0.1) | -17.1(1.2) | -7.8(18) | -2.0(28.4) | 1.3(34.3) | 4.3(39.7) | 7.4(45.3) | 2.5(36.5) | -3.4(25.9) | -8.6(16.5) | -17.7(0.1) | -20.6(-5.1) |
降水量 mm (inches) | 53.1(2.091) | 48.7(1.917) | 80.5(3.169) | 87.5(3.445) | 102.7(4.043) | 110.1(4.335) | 185.5(7.303) | 183.8(7.236) | 160.3(6.311) | 93.0(3.661) | 90.2(3.551) | 70.8(2.787) | 1,266.0(49.843) |
降雪量 cm (inches) | 85(33.5) | 74(29.1) | 46(18.1) | 4(1.6) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 0(0) | 10(3.9) | 53(20.9) | 272(107.1) |
日照時間 | 116.9 | 127.5 | 160.4 | 173.7 | 185.4 | 154.7 | 128.5 | 149.1 | 123.7 | 145.8 | 116.9 | 101.6 | 1,684.1 |
出典: 気象庁[15] |
盛岡(盛岡地方気象台・1961 - 1990年平均)の気候資料 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 1.4(34.5) | 2.3(36.1) | 6.4(43.5) | 14.2(57.6) | 20.1(68.2) | 23.2(73.8) | 26.4(79.5) | 28.1(82.6) | 23.1(73.6) | 17.2(63) | 10.6(51.1) | 4.4(39.9) | 14.8(58.6) |
日平均気温 °C (°F) | -2.5(27.5) | -1.9(28.6) | 1.5(34.7) | 8.4(47.1) | 13.9(57) | 18.0(64.4) | 21.7(71.1) | 23.2(73.8) | 18.1(64.6) | 11.4(52.5) | 5.6(42.1) | 0.5(32.9) | 9.8(49.6) |
平均最低気温 °C (°F) | -6.5(20.3) | -6.1(21) | -2.8(27) | 2.8(37) | 7.9(46.2) | 13.4(56.1) | 17.8(64) | 19.2(66.6) | 13.8(56.8) | 6.3(43.3) | 1.1(34) | -3.1(26.4) | 5.3(41.5) |
出典: 理科年表 |
好摩 (1981-2010)の気候資料 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 12.9(55.2) | 12.8(55) | 19.2(66.6) | 29.4(84.9) | 31.6(88.9) | 32.2(90) | 36.0(96.8) | 35.3(95.5) | 32.7(90.9) | 27.0(80.6) | 21.0(69.8) | 15.7(60.3) | 36.0(96.8) |
平均最高気温 °C (°F) | 1.2(34.2) | 2.1(35.8) | 6.1(43) | 13.9(57) | 19.2(66.6) | 23.0(73.4) | 25.8(78.4) | 27.6(81.7) | 23.1(73.6) | 17.2(63) | 10.2(50.4) | 4.0(39.2) | 14.4(57.9) |
日平均気温 °C (°F) | -3.1(26.4) | -2.5(27.5) | 1.3(34.3) | 7.9(46.2) | 13.5(56.3) | 17.8(64) | 21.2(70.2) | 22.6(72.7) | 17.8(64) | 11.2(52.2) | 5.1(41.2) | 0.0(32) | 9.4(48.9) |
平均最低気温 °C (°F) | -8.1(17.4) | -7.8(18) | -3.6(25.5) | 1.8(35.2) | 7.7(45.9) | 13.0(55.4) | 17.4(63.3) | 18.7(65.7) | 13.3(55.9) | 5.6(42.1) | 0.1(32.2) | -4.1(24.6) | 4.5(40.1) |
最低気温記録 °C (°F) | -21.6(-6.9) | -21.3(-6.3) | -16.3(2.7) | -9.6(14.7) | -2.3(27.9) | 1.8(35.2) | 7.9(46.2) | 7.7(45.9) | 1.5(34.7) | -4.2(24.4) | -9.5(14.9) | -18.6(-1.5) | -21.6(-6.9) |
降水量 mm (inches) | 37.0(1.457) | 35.6(1.402) | 67.4(2.654) | 77.4(3.047) | 91.5(3.602) | 101.6(4) | 176.3(6.941) | 165.4(6.512) | 157.0(6.181) | 88.2(3.472) | 86.4(3.402) | 62.3(2.453) | 1,145.9(45.114) |
出典: 気象庁[16] |
藪川 (1981-2010)の気候資料 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 7.7(45.9) | 12.6(54.7) | 13.7(56.7) | 24.8(76.6) | 27.9(82.2) | 28.9(84) | 30.9(87.6) | 31.5(88.7) | 29.2(84.6) | 23.4(74.1) | 19.4(66.9) | 12.9(55.2) | 31.5(88.7) |
平均最高気温 °C (°F) | -2.4(27.7) | -1.7(28.9) | 2.0(35.6) | 10.0(50) | 16.0(60.8) | 19.8(67.6) | 22.8(73) | 24.4(75.9) | 19.8(67.6) | 13.8(56.8) | 6.9(44.4) | 0.6(33.1) | 11.0(51.8) |
日平均気温 °C (°F) | -6.9(19.6) | -6.5(20.3) | -2.6(27.3) | 4.3(39.7) | 9.9(49.8) | 14.5(58.1) | 18.3(64.9) | 19.6(67.3) | 14.8(58.6) | 8.0(46.4) | 2.0(35.6) | -3.3(26.1) | 6.0(42.8) |
平均最低気温 °C (°F) | -13.7(7.3) | -13.8(7.2) | -9.1(15.6) | -2.2(28) | 3.0(37.4) | 8.8(47.8) | 14.1(57.4) | 15.1(59.2) | 9.6(49.3) | 1.8(35.2) | -3.8(25.2) | -8.8(16.2) | 0.1(32.2) |
最低気温記録 °C (°F) | -26.6(-15.9) | -27.6(-17.7) | -24.8(-12.6) | -15.5(4.1) | -7.5(18.5) | -2.4(27.7) | 3.1(37.6) | 3.1(37.6) | -1.6(29.1) | -8.1(17.4) | -14.8(5.4) | -24.3(-11.7) | -27.6(-17.7) |
降水量 mm (inches) | 62.3(2.453) | 48.9(1.925) | 83.9(3.303) | 95.2(3.748) | 113.0(4.449) | 109.1(4.295) | 199.7(7.862) | 184.6(7.268) | 165.7(6.524) | 110.7(4.358) | 114.3(4.5) | 87.8(3.457) | 1,366.6(53.803) |
出典: 気象庁[17] |
都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 最寒月気温 | 都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 最寒月気温 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
旭川 | 743 cm | 94 cm | -7.5°C | 東京 | 11 cm | 6 cm | 6.1°C |
札幌 | 597 cm | 100 cm | -3.6°C | 富山 | 383 cm | 62 cm | 2.7°C |
函館 | 381 cm | 45 cm | -2.6°C | 金沢 | 281 cm | 44 cm | 3.8°C |
青森 | 669 cm | 111 cm | -1.2°C | 福井 | 286 cm | 55 cm | 3.0°C |
秋田 | 377 cm | 38 cm | 0.1°C | 名古屋 | 16 cm | 8 cm | 4.5°C |
山形 | 426 cm | 50 cm | -0.4°C | 岐阜 | 47 cm | 17 cm | 4.4°C |
盛岡 | 272 cm | 39 cm | -1.9°C | 彦根 | 104 cm | 26 cm | 3.7°C |
仙台 | 71 cm | 17 cm | 1.6°C | 京都 | 19 cm | 6 cm | 4.6°C |
石巻 | 54 cm | 17 cm | 0.7°C | 大阪 | 3 cm | 2 cm | 6.0°C |
福島 | 189 cm | 25 cm | 1.6°C | 鳥取 | 214 cm | 46 cm | 4.0°C |
新潟 | 217 cm | 36 cm | 2.8°C | 松江 | 89 cm | 20 cm | 4.3°C |
高田 | 635 cm | 122 cm | 2.5°C | 広島 | 12 cm | 6 cm | 5.2°C |
長野 | 263 cm | 31 cm | -0.6°C | 福岡 | 4 cm | 3 cm | 6.6°C |
NYCp | 57 cm | - cm | -0.6°C | シカゴ | 97 cm | - cm | -5.6°C |
- ※降雪量累計:気象庁の統計データ でいう「降雪の深さ合計」のこと。日ごとの降雪量を積算(平年値)
- ※最深積雪:一度に降る最も多い積雪量(平年値)
- ※最寒月気温:1月の平均気温(平年値)
- (参考):アメリカ合衆国のニューヨーク市 (NYC) とシカゴ市を併記(数値は National Weather Service による)。
隣接地
名称とシンボル
- 「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山」
「盛岡」の名は、1691年に、当時の藩主南部重信と、盛岡城鬼門鎮護の寺院として置かれた真言宗豊山派永福寺第42世・清珊法印との間で交わされた連歌に由来する瑞祥地名である。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つとされ、のちに藩名も「南部」から「盛岡」へと改められた。版籍奉還直後は一時「盛岡県」が存在したが、盛岡城の存在した旧郡の名にちなみ岩手県へ改められたと言われている(諸説あり)。現代では一般的呼称ではないが、中世には「盛府」とも記された。
盛岡市中心部は、かつての「巖手郡仁王郷不来方」に相当し、不来方(こずかた)または「古志方(こじかた)」と呼ばれていたと考えられている。盛岡はこれに代わる「美名」として名付けられたが、今日ではむしろ「不来方」が雅称として用いられる傾向にある。また、「杜陵」「杜稜」と書いて「もりおか」あるいは「とりょう」と読み[18]、雅号とすることもある。盛岡市出身の石川啄木は、その作品の中で「美しい追憶の都」、盛岡市ゆかりの宮沢賢治はエスペラント風に「モリーオ市」と記した。「みちのくの小京都」とも称される。
「盛岡」を連想させるものとして、市内のあらゆる地域から望まれる岩手山が多くの学校の校歌に謳われるほか、市の中心部で合流する中津川・北上川・雫石川の三大河川、国の史跡に指定されている盛岡城石垣、国の天然記念物に指定されている石割桜、国の重要美術品の上ノ橋擬宝珠、旧盛岡藩主南部氏の家紋「向鶴(双鶴)」「武田菱」が、盛岡を表す端的なモチーフとして用いられることが多い。
歴史
- 旧石器時代 - 縄文時代
- 「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に13000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。
- 岩手県指定遺跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴式住居跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における爪形文土器他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「翡翠」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、もっぱら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、縄文土器が発掘されている一方、弥生土器の発掘例はほとんどない。また古墳文化と続縄文文化の境界上にあって、両文化の交わる点にあった。
- 弥生時代 - 奈良時代
- 南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にもあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。ヤマト王権の東北地方における勢力拠点となった仙台平野に比して、北上盆地にはその影響が弱く、盛岡周辺では地元小豪族が半ば独立した自治を行っていたと見られる。市内では開墾等によって「古墳」が失われているが、石室・土師器・須恵器や鉄製馬具が出土しており、有力な支配者層は、陵墓をもってその権威を示したと見られる。「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。
- 平安時代
- 平安時代の盛岡は、当時の律令支配から独立した土豪勢力がおり、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族蔑視されていた。「上田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」や、全国でも岩手県での出土が最も多い「蕨手刀」からは、古くから一帯に高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測され、また錫製品・琥珀の出土により、当時から交易ルートが存在したと見られている。また「太田蝦夷森古墳群」からは「勾玉」「ガラス玉」ほか、ヤマト政権との関わりを示す「和同開珎」等が出土しており、志波城造営との関わりを示唆している。
- 平安京造営と並ぶ桓武天皇の陸奥進攻政策により、延暦21年(802年)、アテルイが都へ連行されると、翌年の延暦22年(803年)、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂が「志波城」(現在の「志波城古代公園」、盛岡市中太田方八丁附近)を造営した。これは陸奥国最北の城柵であったが、河川の氾濫により10年で徳丹城へ移転した。一帯は律令体制下に置かれ、上総(千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。のちに朝廷の財政難による拡大政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。
- 安倍頼時・安倍貞任父子は、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源頼義の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、頼義の説得で出羽の俘囚長清原氏が頼義に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、この頃不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。源頼義の子で前九年の役にも従軍した源義家が陸奥守として赴任して来て、清原武貞の死後の清原氏跡目相続の内紛に介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定される。現在の盛岡市域は、清原氏を名乗るも実父藤原氏の血統にあり、安倍氏出身の実母を持つ清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなり実父の姓藤原に復す。平泉の奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。
- 鎌倉時代
- 奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権の確立を目指す源頼朝および鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破った。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。
- 源頼義から数えて5代目の後裔となる源頼朝は、文治5(1189)年9月11日、厨川に到着し「厨川館」を定める。前九年の役における父祖の故事にならい、頼義が厨川で安倍氏に行なったのと同様、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。この戦いを奥州合戦と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭の工藤氏が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光(奥州工藤氏)は前九年合戦の古戦場跡に「厨川館」を定め、安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現・曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。のち、岩手郡一帯は「北条得宗家」の、斯波郡は「足利宗家」の大きな影響の下に置かれた。
- この頃は「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器や常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測され、大荘厳寺も高水寺同様、後に南部氏の宗教政策によって盛岡へ移転した。後の盛岡藩主となる南部氏の伝承によると、始祖南部光行公は、1180年、石橋山の戦いの功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たした。
- 室町時代
- 南北朝動乱期、現在の盛岡周辺では有力氏族が割拠し、北朝の斯波氏・稗貫氏に対し南朝の北畠氏(浪岡氏)・葛西氏・南部氏が対立する。建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により北畠顕家が国府多賀城に赴任。これに従って甲州から奥州へ進出したのが南部師行(根城南部氏、のちの遠野南部氏の祖)であった。建武2年(1335年)、中先代の乱の後、足利尊氏は陸奥国府と南部氏を制するため、独自に奥州総大将として斯波家長を下向させた。これが「奥州斯波氏」である。将軍家と同格のため、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏と並ぶ一族であった。三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)はこの頃、対立していた厨川工藤氏(元の奥州工藤氏)が領有してきた岩手郡三十三郷を取り込んでいた。「岩手郡における南部氏」、「紫波郡における斯波氏」の台頭はここに始まり、そのまま南朝対北朝の構図となって、以後16世紀までその対立は続く。この斯波氏とは、北条氏の血を引く足利宗家の足利家氏が斯波郡(紫波郡)を領有したことに発する一族で、当地で前九年の役を戦った源義家の末裔に当たる。
- 岩手郡では、正平元年(1346年)、南朝の陸奥介鎮守府将軍の北畠顕信が滴石庄に進出、北畠少弐が居館「滴石御所」を営んだと伝えられ、現在の「御所湖」に名を残す。北朝の斯波氏は後に戸澤氏を退け、滴石においても優勢に傾き、分家を同様に「滴石(雫石)御所」と称した。斯波郡(紫波郡)では、高水寺斯波氏が、高水寺城(現在の城山公園)を拠点に中央からは「奥の斯波殿」、奥州でも「斯波御所」の尊称で呼ばれ、また、その分家も「猪去御所」など「御所」の尊称で呼ばれた。
- 安土桃山時代
- 浅野長政と蒲生氏郷の推挙により、領地のほぼ中央部に位置する岩手郡仁王郷不来方を新たな本拠に決定する。
- 南部氏は「福士氏」を目代とし、不来方(現在の盛岡)を支配する。福士伊勢入道慶善淡路と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。南部氏は、奥州斯波氏の本拠地であった日詰高水寺城を「郡山城」へ改めて居を構え、信直、利直、重直の三代にわたり「不来方城」の旧地に盛岡城を築く。
- 1588年、南部氏は現在の盛岡市の元となる岩手郡と斯波郡(紫波郡)を完全に支配下に置く。大浦為信(津軽氏の祖)は、小田原征伐に際して羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得る。これにより南部氏は、津軽地方を失う。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。天正20年(1592年)、鎌倉時代以来400年間の統治拠点「厨川城」が廃され、不来方城(後の盛岡城)を中心とした城下町建設が始動した。これが「都市としての盛岡」の発祥である。以後、工藤氏は「栗谷川氏」を名乗り、福士氏をはじめ周囲の有力武門斯波氏・葛西氏とも縁戚関係を組みながら南部家家臣となった。「盛岡開府」以後の三戸南部氏は「盛岡南部氏」と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(「波木井南部氏」とも称する)を配下に収めて遠野へ移封(後の「遠野南部氏」)、中世的同族連合であった南部氏を脱却し、南部家一党の宗家として大名となった。慶長4年(1599年)、「盛岡城」が一応の体裁を整え藩主入部を見たこの年、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米は悉く御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受けて今日に至る。この頃既に南部領には、盛岡領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、日詰郡山駅を拠点として城下町盛岡進出への足がかりとしていた。
- 江戸時代
- 明治維新以降
- 戊辰戦争で藩政が幕府側に与したことから、今の盛岡市域は政府直轄地となり、岩手郡は松代藩、紫波郡は松本藩の取締を受けるなど、薩長側に与した旧藩に支配された。この動乱の中、秩禄を失った武家の間では、新天地を求める必然から、北海道開拓へ旅立つものも少なくなかった。この年、五稜郭で箱館戦争が終結。-->
- 1870年 ‐ 「盛岡藩」が廃され「盛岡県」が成立。1872年には岩手県に。
- 1874年 ‐ 盛岡城取り壊し
- 1875年 ‐ 旧盛岡藩主南部氏が、旧藩士授産のための開墾事業を開始
- 1876年 ‐ 明治天皇行幸。盛岡師範学校開校
- 1889年 ‐ 市制施行。初代盛岡市長に旧盛岡藩士の目時敬之就任
- 1890年 ‐ 東北本線盛岡駅開通
盛岡への鉄道敷設まで、主な物流は盛岡から石巻に到る定期船を「北上回漕会社」が担い、藩政以来の「舟運」を近江商人を中心とする財閥が継承していた。この一派は北上派と呼ばれ、経済・文化ともに盛岡の一大主流を成す商業集団となった。しかし、鉄道敷設による北上川舟運の衰退は、盛岡の経済界へ多大な影響を及ぼし、「鉄道・電気」といった新たな時代の要請に応え、花巻温泉・花巻電鉄の整備ほかインフラを束ねた「金田一家」の台頭を見た。この頃、江戸時代から紫根染を商ってきた豪商「糸屋(糸治)中村家」の中村治兵衛は、北上回漕会社・盛岡銀行・盛岡電気の役員を務め、盛岡工業高校の設立にも寄与した。*明治24年(1891年) 小岩井農場(小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道の小野義真、鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。この開業は、井上の鉄道敷設への深い思いがあると伝えられている。
第九十国立銀行は経営不振に陥っており、洋物商「永卯」の佐々木卯太郎が頭取として再建に乗り出すも、渋沢栄一は、自らが設立に関与した仙台の「第七十七国立銀行(現七十七銀行)」を斡旋して盛岡支店を開き、岩手県公金取扱業務を同行へ譲渡させた。-->
- 1922年 ‐ 原敬の寄付により、岩手県立図書館開館(原は前年に死去)
- 1923年 ‐ 石割桜、国の天然記念物に指定
- 1927年 ‐ 菜園街区、大通都市開発開始。岩手県公会堂竣工。
- 1939年 ‐ 盛岡陸軍予備士官学校設立。
- 1945年 ‐ 盛岡駅前空襲
- 戦後
平安時代の延暦年間、征夷大将軍・坂上田村麻呂により志波城が築かれた。続いて豪族安倍氏により「厨川柵・嫗戸柵」が置かれて事実上の自治を果たすが、安倍氏が源氏からの侵攻を受けると、代わって出羽国から清原氏が進出した(前九年の役)。清原氏が内紛で滅亡すると(後三年の役)、現在の盛岡市(当時の岩手郡・斯波郡)は平泉を拠点とする藤原清衡ら(奥州藤原氏)の勢力圏となる。平泉が源頼朝に攻略され再び源氏が統治すると(鎌倉幕府の成立)、「厨川城」を拠点に御家人「奥州工藤氏」が治め、のちに岩手郡は北条氏・斯波郡は足利氏の影響下に置かれる。南北朝時代には両統が割拠する中、甲斐源氏を祖とする南部氏が三戸からの南進を果たす。工藤氏らを配下として岩手郡を領有、南部氏家臣福士氏が「不来方城(慶善館・淡路館)」を置く。南部氏は斯波氏を滅ぼし「斯波郡(紫波郡)」を領有すると不来方城を礎に盛岡城を築き、城下町を整備。これが盛岡の現代に至る始まりである。盛岡藩(旧南部藩)は盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となる。紫波・岩手両郡の中核となり、古代以来の統治拠点「志波城」「厨川城」「盛岡城」を包含する地域として、現在の盛岡市が形成される。
ギャラリー
|
行政
ナンバープレート
盛岡市はこれまで「岩手」ナンバー(岩手運輸支局)が割り当てられていた。
- 岩手ナンバー割り当て地域(~2014年11月16日)
- 岩手県内全域
- 盛岡ナンバー割り当て地域(2014年11月17日~)
おもな行政課題
- 財政再建
- 都市基盤の整備
耐震性に問題のある市庁舎の問題に加えて、火葬場や下水道改修問題(合流式下水道問題)など、高度経済成長期に整備した社会資本を更新する必要に迫られている。
- 渋滞問題
盛岡は、市街地は小さく狭い市街地の至るところ中心部にまで道幅狭い細路地があり、交通渋滞が慢性化している。市は、マイカー利用を抑える対策としてバス利用の促進を図る。
都市外交
- 国際姉妹都市
-
- ビクトリア市(カナダ ブリティッシュコロンビア州)1985年姉妹都市提携
予算規模
行政区域の変遷
- 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制が施行される。
- 仁王村、志家村、東中野村の一部、新庄村の一部、加賀野村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部、上田村の一部、仙北町村の一部が合併して市制施行し、盛岡市となる。
- 上米内村、下米内村、上田村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部が合併し、南岩手郡米内村が成立。
- 下厨川村、上厨川村、土淵村、平賀新田が合併し、南岩手郡厨川村が成立。
- 旧・浅岸村、加賀野村の一部、新庄村の一部が合併し、南岩手郡浅岸村が成立。
- 門村、東安庭村、東中野村の一部が合併し、南岩手郡中野村が成立。
- 旧・本宮村、向中野村、下鹿妻村、仙北町村の一部が合併し、南岩手郡本宮村が成立。
- 旧・梁川村、川目村、砂子沢村、根田茂村が合併し、南岩手郡梁川村が成立。
- 上太田村、中太田村、下太田村、上鹿妻村、猪去村が合併し、南岩手郡太田村が成立。
- 上飯岡村、下飯岡村、飯岡新田、永井村、湯沢村、羽場村が合併し、紫波郡飯岡村が成立。
- 東見前村、西見前村、三本柳村、津志田村が合併し、紫波郡見前村が成立。
- 旧・乙部村、黒川村、手代森村、大ヶ生村が合併し、紫波郡乙部村が成立。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 南岩手郡と北岩手郡が合併し、岩手郡となる。
- 1913年(大正2年)6月10日 - 厨川村の一部を編入する。
- 1928年(昭和3年)4月1日 - 米内村を編入する。
- 1940年(昭和15年)1月1日 - 厨川村を編入する。
- 1941年(昭和16年)4月10日 - 浅岸村、中野村、本宮村を編入する。
- 1955年(昭和30年)
- 1961年(昭和36年)2月1日 - 盛岡市の一部が玉山村へ編入される。
- 1992年(平成4年)4月1日 - 都南村を編入する。
- 2006年(平成18年)1月10日 - 玉山村を編入する。
旧玉山村の沿革は「玉山区」の項を参照のこと。
議会
選挙は統一地方選挙として実施。
会派名 | 議員数 | 備考 |
---|---|---|
盛友会 | 17 | |
日本共産党盛岡市議会議員団 | 5 | 日本共産党 |
創盛会 | 5 | |
市民連合 | 4 | |
絆の会 | 4 | |
公明党 | 2 | 公明党 |
無所属 | 1 | |
欠員 | 0 | |
定数 | 38 |
国政・県政
岩手県議会(盛岡市選出)
- 定数:10名
- 任期:2015年(平成27年)10月2日~2019年(平成31年)10月1日
議員名 | 会派名 | 備考 |
---|---|---|
千葉絢子 | 岩手県民クラブ | |
小西和子 | 社民党 | |
斉藤信 | 日本共産党 | |
吉田敬子 | 無所属 | |
髙橋但馬 | 改革岩手 | 党籍は国民民主党 |
福井せいじ | 自由民主クラブ | |
樋下正信 | 自由民主クラブ | |
小野寺好 | 公明党 | |
軽石義則 | 改革岩手 | 党籍は国民民主党 |
佐々木博 | 改革岩手 | 党籍は生活の党 |
衆議院
- 任期 : 2017年(平成29年)10月22日 - 2021年10月21日(「第48回衆議院議員総選挙」参照)
選挙区 | 議員名 | 党派名 | 当選回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
岩手県第1区(盛岡市、紫波郡) | 階猛 | 国民民主党 | 5 | 選挙区 |
高橋比奈子 | 自由民主党 | 3 | 比例復活 |
経済
伝統産業
業務・流通
地域別の平均所得ランキングでは、当市は1人当たりの所得が332万円である[19]。また、年間商品販売額は約1兆3559億円(2004年)である。高度経済成長期には、仙台市が広域中心都市として、盛岡市は岩手県域中心都市としての地位を確立した。高度経済成長後は、東北新幹線開業(1982年)、東北自動車道全通(1987年)、八戸自動車道接続(1989年)など、1980年代に高速交通インフラが一気に整備された。秋田新幹線開通や東北新幹線新青森駅延伸など高速交通インフラが更に拡充された。
商業地
近年、地方部の中心市街地における商店街は、小売の多くが郊外型大規模小売店舗に代わる傾向が見られ[20]、中心市街地の路線価が下がりつづけており、盛岡市中心部でもピーク時1992年の3分の1以下まで下落した。中心商店街は小売店の入れ替わりが激しい。物販の郊外化と中心部の賃料の低廉化から、中心部における物販の衰退が一層進んでいる。
消費動向
総務省家計費調査によると、世帯あたりの豆腐の消費量が全国の県庁所在都市で第一位[21]。物販の郊外化および流通の寡占化によって商品の多様性は以前と比べて低下しており、ファッション関連品目などの高級品を中心に多様性の維持・拡充が続く仙台市や東京への流出が顕著である。
小売店
主な百貨店、商業施設
- フェザン(盛岡駅ビル)
- 川徳(百貨店:パルクアベニューカワトク、郊外型複合店舗:アネックスカワトク)
- ななっく(百貨店)
- サンビル(岩手産業会館ビル)
- MOSSビル
- クロステラス盛岡
- 盛岡南ショッピングセンター サンサ(核店舗:ユニバース盛岡南店)
- ショッピングコートみたけ(核店舗:マルイチみたけ店)
- マイヤグランタウン(核店舗:マイヤ仙北店)
- B.H.Aoyama Town(核店舗:ビッグハウス青山店)
- アスライフ(核店舗:ユニバース青山店)
- アクロスプラザ盛南(核店舗:ジョイス盛岡西バイパス店)
スーパーマーケット
トライアル(市内2店舗)
いわて生活協同組合(市内5店舗)
マイヤ(市内2店舗)
- Aコープ(市内2店舗)
その他
- たもり 乙部店
- 大善ストア 東仙北店
- スーパーかわてつ(川鉄商店)
- じゃんまる 津志田店
- 好摩ショッピングプラザたますえ
家電量販店
ホームセンター
書籍・CD・DVD・文具
- エムズエクスポ(書店・CD・DVD・文具)[31]
- 東山堂(書店、イオンモール盛岡・盛岡南や川徳など6店舗)
- さわや書店(書店、フェザンや大通など4店舗)
- MORIOKA TSUTAYA(書店、1店舗のみ)[32]
- 伊吉書院(書店、盛岡南ショッピングセンター・サンサのみ)
- 宮脇書店(書店、イオン盛岡渋民ショッピングセンターのみ)
- ジュンク堂書店(書店、MOSSビルのみ)
- 平金商店(文具、ななっくのみ)
- タワーレコード(CD・DVD、イオンモール盛岡)
盛岡市に拠点を置く主要企業
- 本社を置く企業
- 出先を盛岡市に置く企業
|
- 盛岡に工場・事業所のある企業
|
|
- 盛岡市の金融機関
- 本店・本所を置くもの
- 岩手銀行
- 北日本銀行
- 東北銀行
- 盛岡信用金庫
- 杜陵信用組合
- 岩手県医師信用組合
- 岩手県信用農業協同組合連合会
- 岩手中央酪農業協同組合(JA岩中酪、専門農協だが、信用事業も手がけている)
- 岩手県信用漁業協同組合連合会
- 支店・支所・有人出張所を置くもの
郵便
- 盛岡中央郵便局(〒020-8799 集配局。盛岡市内は〒020-00xx・020-02xx・020-03xx・020-08xx地域を管轄)
- 盛岡北郵便局(〒020-0199 集配局。〒020-01xx・020-06xx・020-07xx地域を管轄[34]→滝沢市全域を含む)。
- 乙部郵便局(〒020-0499 集配局。〒020-04xx地域を管轄)
- 好摩郵便局(〒028-4199 集配局。玉山区の一部→〒028-41xx地域を管轄)
- 藪川郵便局(〒028-2799 集配局。玉山区藪川地区→〒028-27xx地域を管轄)
- 盛岡米内郵便局
- 盛岡山岸郵便局
- 盛岡三ツ割郵便局
- 盛岡本町郵便局
- 盛岡内丸郵便局
- 岩手県庁内郵便局
- 盛岡大通郵便局
- 盛岡夕顔瀬郵便局
- 盛岡駅前郵便局
- 盛岡マリオス郵便局
- 盛岡太田郵便局
- 繋温泉郵便局
- 盛岡材木町郵便局
- 盛岡上田郵便局
- 盛岡サンタウン郵便局
- 盛岡松園郵便局
- 盛岡高松郵便局
- 盛岡緑が丘郵便局
- 盛岡月が丘郵便局
- 盛岡北厨川郵便局
- 盛岡厨川郵便局
- 盛岡上堂郵便局
- 盛岡前九年郵便局
- 盛岡青山町郵便局
- 盛岡中屋敷郵便局
- 玉山郵便局
- 簗川郵便局
- 盛岡中野郵便局
- 盛岡茶畑郵便局
- 盛岡東安庭郵便局
- 盛岡見前郵便局
- 盛岡永井郵便局
- 盛岡津志田郵便局
- 盛岡飯岡郵便局
- 盛岡仙北町郵便局
- 盛岡向中野郵便局
- 盛岡八幡郵便局
- 盛岡南大通郵便局
- 盛岡ホットライン肴町郵便局
- 盛岡住吉郵便局
- 盛岡加賀野郵便局
- 渋民郵便局
- 下太田簡易郵便局
- 手代森簡易郵便局
- 巻堀簡易郵便局
国の行政機関
地域
市内の各地域の特徴・町並み
昭文社発行の「都市地図シリーズ(1枚シートタイプ)」では盛岡市+紫波町・矢巾町・滝沢村を収録したタイプが「岩手県1」として発行されており、バリアフリー設備付き主要施設が書かれた「バリアフリー情報付き盛岡市中心部詳細マップ」付属(盛岡都心循環バス「でんでんむし」情報も掲載)。なおこのシリーズに雫石町と玉山区中心部(渋民・好摩地区)拡大図は非掲載である(「県別マップル3 岩手県道路地図」にも玉山区中心部と雫石町中心部の拡大図は非掲載。なお雫石町中心部&紫波町中心部拡大図は「スーパーマップル東北道路地図」に掲載されているが、玉山区中心部拡大図は非掲載)。
またゼンリン発行の盛岡市住宅地図は「盛岡市北部&滝沢村版」・「同・南部版」・「同・玉山区版」の3種類が発行されている。
中心部
中津川の北にあるため藩政時代より「河北」とも呼ばれるこの地域は、かつて「仁王郷」(南岩手郡仁王村)と称した。現在も当地では中津川、北上川、雫石川の三大河川が交差するが、安土桃山時代までは湿地帯で河川の氾濫が見られた。後にそれを自然の要塞とし盛岡築城が進められ、現在の盛岡市要部となった。幕末まで藩の重臣屋敷が立ち並んだ盛岡城内丸跡には、明治になって、県庁など官公庁施設や金融機関、マスコミ、医療機関などが集中する。慶長年間の盛岡開府に際しては、南部氏の旧城下町三戸から住人の移転が図られ「三戸町」が開かれたほか、京都からの移住した豪商の街「京町(本町)」、商人・職人町として「花屋町」、「材木町」などがある。大通・菜園地区は、城内の食膳に野菜を供するための「盛岡城御菜園」の名が住居表示に採用されたもので、近代には菜園競馬場、盛岡青果市場、盛岡農学校が置かれた。
東部
「河南」と呼ばれるこの地域は、かつては「中野郷」とも呼ばれた。「中ノ橋」たもとに藩の「高札場」が置かれ、近世に到っても「小野組」「盛岡銀行」「盛岡貯蓄銀行」「第九十国立銀行」「岩手銀行」が置かれ、商業街として発達した。八幡町(盛岡八幡宮の門前町)、江戸時代には舟運による物流拠点「新山河岸(現・明治橋際)」と最寄の「新穀町惣門」などを中心に賑わう。
北部
藩政時代に「上田通」に属したこの地域には、岩手県立博物館、盛岡市立図書館、岩手大学が連なる。かつては盛岡藩の宗教政策により、領内の重要寺院が集められ、北山寺院群が形発生。盛岡ドミニカン修道院、日本ハリストス正教会盛岡教会などの歴史あるキリスト教会も点在(上田・高松・山岸)する。奥州街道の面影を残す「一里塚」跡や、三陸海岸から城下へ塩を運ぶ「塩の道」と呼ばれる野田街道がある。
かつては競馬場があり、閑院宮載仁親王は、近隣の黄金清水に因んで「黄金競馬場」と命名。移転した現在の「盛岡競馬場」は、これに因んで「ORO PARK(黄金の公園)」を愛称とする。
西部
藩政時代に「厨川通」、近代には厨川村に属したこの地域は、平安時代に安倍氏、鎌倉時代に奥州工藤氏が拠点とした地域で、安倍館遺跡、里館遺跡、大館町遺跡、大新町遺跡などが幅広く存在する。厨川柵及び嫗戸柵の擬定地ともなっている。
盛岡駅の開通により、従来の舟運に替わって交流拠点となり、市街地と駅とを結ぶ開運橋が設けられた。
昭和初期まで「観武ヶ原練兵場」が知られ、陸軍予備士官学校が置かれたほか、近代化遺産として注目を集める煉瓦造の「覆馬場」など、往時の建造物が多く残されていたが、平成に入って急速に失われている。
戦後は「観武ヶ原開拓農協」が置かれ農地開拓が進んだが、1970年にみちのく国体が開催された際、「岩手県営運動公園」が整備され、碁盤目状の住宅街が形成された。
南部
藩政時代に「飯岡通」「向中野通」に属したこの地域は、盛岡開府に先立って開削された「鹿妻穴堰」の水利によって穀倉地帯として知られた。
平安時代には、坂上田村麻呂によって志波城、大宮神社などが開かれた地域で、台太郎遺跡に代表される竪穴式住居などの埋蔵文化財が多い。
「仙北町」は、江戸時代に秋田仙北地方から移住した人々によって生まれた町で、肥沃な土地を背景に「青物・種苗」を扱い、豪商が軒を連ねた。本宮地区には「平民宰相」で知られる「原敬」の生家がある。
旧玉山区
旧玉山村との合併に伴う地域自治区として、盛岡市の北部一帯に特例として「玉山区」が設定されていた(市町村の合併の特例等に関する法律第五条の五第1項を適用した「合併関係市町村の区域による地域自治区」、同法第五条の八の定める合併特例区ではない。設置期間は、2006年1月10日から2016年3月31日までの10年間[35])。石川啄木の生地「旧渋民村」を含む。
土地利用
城下町開府以来の区画が残されている。中心部は狭く道路も狭いので、交通渋滞が起こりやすい区画となっており、現在の市域の可住地に比して山林など宅地開発に不向きな地域の比率が高い。市街地東端に位置する河川である中津川の上流地区は山林が占める農村地域となりJR山田線の大志田駅、浅岸駅という秘境駅が存在する地区である。多くの都市が駅を中心に開発が進むのと対照的に、盛岡市は盛岡城を中心に西へ中心市街地の範囲を広げていった。現在の中心市街地は、中津川・北上川・雫石川を跨ぐ盛岡バスセンター周辺 - 内丸・大通・菜園 - 盛岡駅周辺である。
- 下水道普及率 83.4%(2007年度)[36]
市外局番
盛岡市の電話番号(市外局番)は市内全域「019」である。かつては「0196」だったが、固定電話加入世帯の増加により番号不足が生じる恐れが出たため、桁ずらし(市外局番の末尾「6」を市内局番の最初に移す形)により旧「0196」地域(盛岡市・滝沢市・岩手郡雫石町・紫波郡紫波町と矢巾町)は1996年10月1日より現在の「019」に変更され(市内局番の頭に「6」が冠される形となってい)た。その後、桁ずれで使用可能となった60X~61X番台が枯渇したため、90X~92Xの市内局番が割り当てられ、現在に至る。 電話帳は「岩手県中央版」としてタウンページとハローページが別々に発行されており、県央版は盛岡都市圏の市町村(盛岡市・雫石町・滝沢村・紫波町・矢巾町・八幡平市・岩手町・葛巻町)を収録(以前は「岩手県北版」として二戸地域の自治体も収録されていたが、現在は二戸地区と分離発行)。「テレパル50」は盛岡市内全域版ではなく各地域毎(松園・玉山区・市内中心部等)に分けて発行されている。
管轄警察署および消防署
警察署
- 盛岡東警察署(北上川以東および雫石川以南の地区=盛岡市のうち旧都南村域・ゆいとぴあ盛南地区北部および仙北地区・玉山区を管轄)
- 盛岡西警察署(北上川以西および雫石川以北の地区・繋・滝沢市・岩手郡雫石町を管轄)
- 盛岡駅前交番
- 前九年交番
- 三ツ家駐在所
- みたけ駐在所
- 厨川駐在所
- 過去に管轄していた警察署
消防
- 盛岡地区消防本部
- 盛岡中央消防署
- 松園出張所
- 上田出張所
- 玉山分署
- 盛岡西消防署
- 城西出張所
- 厨川出張所
- 盛岡南消防署
- 仙北出張所
- 盛岡中央消防署
教育
教育史
- 寛永13年(1636年)、南部藩第3代藩主重直が盛岡城への「御新丸(現・岩手県警察本部)」建設に着手。
- 寛永18年(1641年)、盛岡城御新丸完成。
- 寛文8年(1668年)、南部藩第5代藩主行信が御新丸に「御稽古場」開設。武道の礎とする。
- 明和8年(1771年)、南部藩第9代藩主智之、御稽古場を「武芸稽古場」として日影門外小路(現・日影門緑地)に移設。
- 天保11年(1840年)、南部藩第13代藩主利済が武芸稽古場を基に藩校「明義堂」開校。儒学者・下田三蔵を招聘。
- 安政元年(1854年)、南部家御薬園(現・盛岡市中央公民館)を明義堂の医学・経学教場とする。
- 慶応2年(1866年)、南部藩第15代藩主利剛が明義堂を「作人館」と改称。修文所、昭武場、医学所に再編。
- 明治元年(1868年)、作人館が戊辰戦争により休校。
- 明治3年(1870年)、作人館に洋学所「日新堂」を加えて再開。「盛岡県学校」に再編。
- 明治5年(1872年)、学制発布により一時閉鎖を余儀なくされる。
- 明治6年(1873年)、修文所跡地に「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」(現・仁王小学校)開校。「第七大学区第十八番中学区第十九番小学校」(現・厨川小学校)。「盛岡小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
- 明治7年(1874年)、「鍛冶町小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
- 明治8年(1875年)、「仁王小学」、「公立仁王学校」と相次いで改称。
- 明治9年(1876年)、「盛岡師範学校」(現・岩手大学教育学部)設立。仁王学校にて「天覧授業」が行われ、明治天皇以下、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信をはじめ文武百官が来盛。
- 明治10年(1877年)、「盛岡師範学校附属小学校」設立。
- 明治12年(1879年)、外山牧場獣医学舎(現・岩手県立盛岡農業高等学校)設立。
- 明治13年(1880年)、内丸に「公立岩手中学校」(現岩手県立盛岡第一高等学校)設立
- 明治20年(1887年)、「公立仁王学校」が「仁王尋常小学校」と改称。
- 明治26年(1893年)、「盛岡第二尋常小学校(旧盛岡小)」と「盛岡第三尋常小学校(旧鍛冶町小)」を統合して、「城南尋常小学校」が現在の「盛岡市立杜陵小学校」の地に開校。
- 明治30年(1897年)、内丸に「岩手県実業学校」(現・岩手県立盛岡工業高等学校)開校。「岩手県尋常中学校」が「岩手県立盛岡尋常中学校」へ改称。「旧鍛冶町小学校」校舎にて「私立盛岡商業学校」(現・岩手県立盛岡商業高等学校)開校。盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)内に「盛岡市立高等女学校」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)開校。
- 明治32年(1899年)、「岩手県立盛岡尋常中学校」が「岩手県盛岡中学校」へ改称。
- 明治34年(1901年)、「岩手県盛岡中学校」が「岩手県立盛岡中学校」と改称。「外山牧場獣医学舎」が「岩手県立農学校」へ改組。
- 明治35年(1902年)、「盛岡市立高等女学校」が「岩手県立高等女学校」へ再編。
- 明治36年(1903年)、上田三小路に「盛岡高等農林学校」(現・岩手大学農学部)開校。
- 明治39年(1906年)、仁王尋常小学校に高等科を併置し、仁王尋常高等小学校と改称。
- 明治41年(1908年)、工兵大隊・騎兵旅団の盛岡移転、盛岡停車場設立による人口増に対応するため「桜城尋常小学校」設立。「仁王尋常小学校」他から分離。内丸に「武徳殿」建設。
- 明治44年(1911年)、「岩手県立高等女学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」と改称。
- 大正2年(1913年)、「仁王尋常小学校」跡地が「盛岡市立商業学校」校舎となる。
- 大正9年(1920年)、「盛岡実践女学校」(現・盛岡市立高等学校のルーツ)、盛岡尋常高等小学校分教場(現・杜陵小)にて開校。
- 大正12年(1923年)、「岩手県女子師範学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」に併設開校。
- 大正13年(1924年)、「私立盛岡夜間中学」(現・岩手県立杜陵高等学校)、岩手県立図書館で授業開始、同年設置認可。
- 大正14年(1925年)、「盛岡実践女学校」が「盛岡女子商業学校」と改称。
- 大正15年(1926年)、盛岡城御新丸跡に「岩手県女子師範学校附属小学校」(現岩手大学教育学部附属小学校)が開校。師範学校の上田移転により「仁王尋常高等小学校」が「盛岡師範学校附属小学校」の看板を併立する状態が昭和前期まで続く。
- 昭和15年(1940年)、「盛岡市立第一高等女学校」、「盛岡国民学校」内に創設。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業学校」と改称。
- 昭和21年(1946年)、「岩手県立盛岡高等女学校」」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)に「岩手県立女子専門学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)が併設開校。
- 昭和22年(1947年)、仁王小学校に「仁王中学校」併設。
- 昭和23年(1948年)、学制改革。「盛岡市立第一高等女学校」が「盛岡市立女子高等学校」と改称。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業高等学校」と改称。「岩手県立盛岡高等女学校」が「岩手県立盛岡第二高等学校」へ改称。「盛岡第一高等学校夜間定時制雫石分校」(現・岩手県立雫石高等学校)が開校。「岩手県立美術工芸学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)開校。
- 昭和24年(1949年)、「盛岡市立女子高等学校」と「盛岡市立女子商業高等学校」が統合し、「盛岡市立高等学校」が成立。「盛岡第一・盛岡第二・盛岡商業」の高等学校が統合し、「岩手県立盛岡高等学校」となる。新制大学制度により「岩手県女子師範附属小学校」が「岩手大学学芸学部附属小学校」として成立。
- 昭和26年(1951年)、「岩手県立盛岡高等学校」の再分離。「岩手県立女子専門学校」が「岩手県立盛岡短期大学」となる。
- 昭和28年(1953年)、御新丸跡の岩手県女子師範学校校舎に「岩手県消防学校」設立。(後の盛岡消防本部・岩手県警察本部)
- 昭和29年(1954年)、「盛岡市立河北小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和31年(1956年)、「盛岡市立上田小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和33年(1958年)、「盛岡市立山王小学校」設立に伴い城南小学校より分離。
- 昭和37年(1962年)、「岩手県立盛岡第三高等学校」、岩手大学学芸学部校舎にて開校。
- 昭和39年(1964年)、「岩手県立盛岡第四高等学校」、盛岡商業高等学校校舎にて開校。
- 昭和41年(1966年)、「岩手大学学芸学部附属小学校」が「岩手大学教育学部附属小学校」に改称。
- 昭和44年(1969年)、岩手県立盛岡短期大学に「附属こまくさ幼稚園」設置。
- 昭和48年(1973年)、仁王小学校に「盛岡市立中津川小学校」を統合。
- 昭和49年(1974年)、「岩手県立盛岡北高等学校」、杜陵高等学校校舎にて開校。
- 昭和55年(1980年)、「盛岡市立高松小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和56年(1981年)、「盛岡市立武道館」建造。
- 昭和57年(1982年)、内丸の「武徳殿」解体。体育科を伴う「岩手県立盛岡南高等学校」開校。
- 昭和63年(1988年)、岩手県初の学系制高校「岩手県立不来方高等学校」開校。
- 平成2年(1990年)、「岩手県営武道館」創立。
- 平成7年(1995年)、「盛岡市弓道場」建造。
- 平成9年(1997年)、岩手県立大学設置に先立ち、盛岡短期大学の発展的解消に伴う募集停止。
- 平成10年(1998年)、「岩手県立大学」開学。岩手県立盛岡短期大学を「岩手県立大学盛岡短期大学部」とし、滝沢キャンパスへ移転。附属こまくさ幼稚園は、「岩手県立大学附属こまくさ幼稚園」となる。
- 平成11年(1999年)、「岩手県立盛岡短期大学」跡(住吉町)を、盛岡東警察署が建替間の仮庁舎として使用(2002年(平成14年)11月まで)。「こまくさ幼稚園」が盛岡教育事務所へ移管され、「岩手県立こまくさ幼稚園」となる。
- 平成16年(2004年)、「岩手県立紫波高等学校」が、「岩手県立紫波総合高等学校」へ移行。
- 平成21年(2009年)、岩手県立の特別支援学校の大再編を実施。
- 岩手県立盛岡養護学校と同都南校が統合し岩手県立盛岡となん支援学校に改称。
- 併せて、岩手県立療育センター内に岩手県立盛岡となん支援学校分教室を新設(院内学級扱い)。
- 岩手県立松園養護学校が、同青山養護学校を統合のうえ、岩手県立盛岡青松支援学校に改称。
- 併せて、もりおかこども病院内に岩手県立盛岡青松支援学校もりおかこども分教室を設置(院内学級扱い)。
- 旧青山養護学校跡地に、岩手県立みたけ養護学校(滝沢村)から改称した岩手県立盛岡みたけ支援学校の高等部を新設。
- 岩手県立盛岡高等養護学校が普通科部門と専門学科部分を分割の上閉校し、普通科部門は前述の盛岡みたけ支援学校へ移管し、専門学科部門は新設の岩手県立盛岡峰南高等支援学校へ移管。
- 岩手県立盛岡聾学校が岩手県立盛岡聴覚支援学校に改称(併せて、閉校された岩手県立一関聾学校の高等部[37]の移管を受ける)。
- 岩手県立盛岡盲学校が岩手県立盛岡視覚支援学校に改称。
- 岩手県立盛岡養護学校と同都南校が統合し岩手県立盛岡となん支援学校に改称。
- 明治25年(1892年)、育英学舎(現・江南義塾盛岡高等学校)設立。盛岡女学校(現・盛岡白百合学園中学校・高等学校)設立。
- 明治34年(1901年)、「私立岩手医学校」(現・「岩手医科大学」)設立。
- 明治42年(1909年)、岩手県初の幼稚園「盛岡幼稚園」設立。
- 大正10年(1921年)、盛岡市内丸の作人館中学校校舎跡に「盛岡実科高等学校」(現・岩手女子高等学校)設立。
- 大正15年(1926年)、盛岡市大沢川原に旧制「岩手中学校」(現・岩手中学校・高等学校)設立。
- 昭和2年(1927年)、盛岡市紙町に「盛岡裁縫普及会」(現・盛岡誠桜高等学校)設立。
- 昭和8年(1933年)、盛岡市菜園に「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校)設立。
- 昭和25年(1950年)、盛岡市菜園に「生活研究所」(現・学校法人「盛岡大学」)設立。
- 昭和38年(1963年)、盛岡市みたけに「龍澤高等学校」(現・盛岡中央高等学校)設立。
- 平成2年(1990年)、岩手女子看護短期大学(現・岩手看護短期大学)設立。
高等教育
- 大学
後期中等教育
- 県立高校
- 市立高校
- 私立高校
- 岩手高等学校
- 岩手女子高等学校
- 鹿島学園高等学校いわてイーハトーヴキャンパス
- 鹿島学園高等学校盛岡キャンパス
- 江南義塾盛岡高等学校
- 第一学院高等学校盛岡キャンパス
- 盛岡白百合学園高等学校
- 盛岡スコーレ高等学校
- 盛岡誠桜高等学校
- 盛岡大学附属高等学校
- 盛岡中央高等学校
初等教育
- 国立
- 私立
特別支援教育
盛岡市内には、知的障害に対応する小学部・中学部を有する特別支援学校は県立学校では所在せず、岩手大学教育学部附属特別支援学校のみとなっている(知的障害に対応する高等部を有する学校および他の4教育領域にそれぞれ対応する学校はすべて1校以上は所在する)。
2009年に、県立の特別支援学校全体で再編が実施され、従来の「盲学校」・「聾学校」・「養護学校」の名称が、これに併せて「支援学校」の名称に統一された。
情緒障害児短期治療施設としてことりさわ学園がある。
- 公立
- 岩手県立盛岡視覚支援学校
- 岩手県立盛岡聴覚支援学校
- 岩手県立盛岡みたけ支援学校(盛岡市には、高等部のみ設置。本部機構及び小学部・中学部は滝沢市に所在)
- 岩手県立盛岡峰南高等支援学校
- 岩手県立盛岡となん支援学校
- 岩手県立盛岡となん支援学校分教室(岩手県立療育センター内に設置された、院内学級扱いおよび訪問指導先扱い)
- 岩手県立盛岡青松支援学校
- 岩手県立盛岡青松支援学校もりおかこども分教室(もりおかこども病院内に設置された、院内学級扱いおよび訪問指導先扱い)
交通
狭い市街地の渋滞緩和を図るため、路線バスの利用促進を図る。国からオムニバスタウンに指定されており、ゾーンバスシステムを軸に、路線バスの高度利用を進めている。
市中心部まで
市内を通る鉄道は、JR線と第3セクターIGRいわて銀河鉄道線である。盛岡 - 東京間は、最寄のいわて花巻空港(花巻市)に東京便がないこと、空港から盛岡市までのアクセスの問題から、空路より東北新幹線が圧倒的に優位である。
市内路線バス
市内の公共輸送は、路線バスが主力。運行地域は市内のほぼ全域で、「支線バス」と「基幹バス」をバスセンターなどを通じて交通網を敷いている。
- バス運行事業者
高速バス・特急バス
盛岡市以北の都市との間の高速バスは、東北新幹線に接続する路線として発達したが、東北新幹線が新青森駅まで延伸(2010年(平成22年)12月4日)したことで利用客が大幅に減少している[38]。ただし「大館線」は大きな影響を受けていない。「仙台線」も東北新幹線と競合するが、新幹線の半額に運賃が設定されているため利用客は多い。
※2007年度の利用客数も付記 [1]。
- 昼行便
-
- 盛岡市 - 仙台市:25.7万人(アーバン号)
- 盛岡市 - 大館市:20.9万人(みちのく号)
- 盛岡市 - 弘前市:16.5万人(ヨーデル号)
- 盛岡市 - 青森市:5.1万人(あすなろ号)
- 盛岡市 - 一関市:2.4万人(室根 - 盛岡線)
- 盛岡市 - 二戸市:2.2万人(すーぱー湯〜遊)
- 盛岡市 - 久慈市:1.2万人(久慈こはく号)+1.0万人(スーパー久慈)
- 盛岡市 - 八戸市:1.8万人(八盛号)
- 盛岡市 - 軽米町:1.9万人(ウィンディ)
- 盛岡市 - 十和田湖:0.2万人(とわだこ号)- 季節運行
- 盛岡市 - 宮古市:(106急行バス)-高速道路区間なし
- 盛岡市 - 大船渡市:(急行盛岡大船渡線)
- 夜行便
-
- 盛岡市 - 東京駅:5.5万人(ドリーム盛岡 (らくちん) 号)
- 盛岡市 - 厚木市:1.2万人(盛岡 - 横浜線)
鉄道
- ■ 東北新幹線 (盛岡駅)
- ■ 東北本線(岩手飯岡駅 - 仙北町駅 - 盛岡駅)
- ■ 田沢湖線(■秋田新幹線)(盛岡駅)
- ■ 山田線(盛岡駅 - 上盛岡駅 - 山岸駅 - 上米内駅)
- ■ 花輪線(盛岡駅 - 好摩駅)
- ■ いわて銀河鉄道線(盛岡駅 - 青山駅 - 厨川駅 - (巣子駅、滝沢駅は滝沢市域) - 渋民駅 - 好摩駅)
道路
高速道路
地域高規格道路
一般国道
主要地方道
一般県道
- 岩手県道119号仙北町停車場線
- 岩手県道120号不動盛岡線
- 岩手県道128号厨川停車場線
- 岩手県道129号好摩停車場線
- 岩手県道132号上盛岡停車場線
- 岩手県道158号藪川川口線
- 岩手県道169号渋民川又線
- 岩手県道172号盛岡鶯宿温泉線
- 岩手県道204号大志田停車場線
- 岩手県道208号大ケ生徳田線
- 岩手県道220号氏子橋夕顔瀬線
- 岩手県道223号盛岡滝沢線
- 岩手県道258号繋温泉線
- 岩手県道293号本宮長田町線
- 岩手県道301号渋民田頭線
- 岩手県道502号盛岡矢巾自転車道線
市道
- 寺町通り
- 北山地区の中心を南北に通る幹線通りで、北は県沿岸北部へと通じるその道は、過去には国道455号の一部にも指定されていた[39]。1987年(昭和62年)8月10日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」に選ばれている[40]。沿道には報恩寺、龍谷寺、本誓寺などの寺院が数多くあり、市の環境保護地区「北山寺院群地区」に指定されている[39]。都市計画街路事業で古都盛岡のイメージを損なわず、落ち着いた環境にあった道づくりが行われ、長さ400メートル、幅16メートルの築地塀に囲まれた寺町として再整備され、石畳のような白い歩道、ナツツバキなどの街路樹はそのときに整備されたものである[39]。
マスコミ
岩手県は、情報格差の解消が遅れた地域で、在盛TV局のうち、フジテレビ系列の岩手めんこいテレビ、テレビ朝日系列の岩手朝日テレビは平成期の開局である
新聞社
- 全国紙・広域紙
- 地方紙
放送局
県域放送
- NHK盛岡放送局(ラジオは第1放送531kHz・第2放送1386kHz・FM放送83.1MHz)
- IBC岩手放送(IBC。テレビはTBS(JNN)系列、ラジオはJRN/NRN系列・周波数684kHz)
- テレビ岩手(TVI。日本テレビ系列)
- 岩手めんこいテレビ(MIT。フジテレビ系列)
- 岩手朝日テレビ(IAT。テレビ朝日系列)
- エフエム岩手(FMI。エフエム東京系/JFN系列)
文化財
国の指定・登録等に係るものは、重要文化財が14件、重要美術品が5件、重要無形民俗文化財が1件、選択無形民俗文化財が1件、史跡が2件、天然記念物が3件(地域を定めず指定されたものを除く)、登録有形文化財が2箇所(9件)である。盛岡市教育委員会歴史文化課ウェブページ を参照(指定等の件数については数え方の違いがあり、必ずしも上述の件数と一致しない)。
文化施設
観光・文化・名産・施設・スポーツ
観光
平安時代以後の城柵・城館跡や、盛岡開府以来の城下町成立に伴う神社・仏閣がある。
- 盛岡八幡宮
- 盛岡天満宮
- 三ツ石神社
- 報恩寺・五百羅漢
- 十六羅漢
- 大慈寺
- 寺町通り(日本の道百選)
- もりおか啄木・賢治青春館(旧国立第九十銀行本店本館)(国の重要文化財)
- 大慈清水・青龍水
- 龍谷寺のモリオカシダレ(国の天然記念物)
- 岩手大学農学部付属農業教育資料館 - 旧盛岡高等農林学校(国の重要文化財)
- 盛岡市保護庭園
- 旧南部氏別邸庭園(現・盛岡市盛岡中央公民館、国の登録記念物)
- 東楽寺(十一面観音)
- カキツバタ群落
- 石割桜
- 米内浄水場
- 岩手公園(国の史跡・盛岡城址)
- 志波城(国の史跡)
- 石川啄木記念館
- 上ノ橋擬宝珠
- 岩手銀行赤レンガ館(国の重要文化財)
- 盛岡信用金庫本店
- 酒買地蔵尊
- 豆腐買地蔵尊
- おもかげ地蔵尊
- 盛岡市先人記念館
- 手代森遺跡
- もりおか歴史文化館
- 茣蓙九(森九商店、国の重要文化財)
- 旧石井県令私邸
祭事・催事
名産品・味覚
南部杜氏の本場である。海から遠い内陸部にある地理的条件などから寿司、海鮮料理の食文化が発達していない。「べんじぇもの(弁財物)」と呼ばれるこの地域独特な餅菓子類が多く見られ、この盛岡でよく食される特徴的な料理方法、食材、呼び方などは以下のとおりである。
- 郷土料理
- 菓子
-
- 醤油だんご:みたらし団子とは異なり、古い団子の製法によって作られ、醤油のみを使用する串団子。全国的に見て、盛岡市近辺にのみ作られている。
- ゆべし:北陸・九州で知られる「柚子釜ゆべし」と異なる。
- きりせんしょ:ゆべしと同一視されることがある。関東以南で知られる「きりせんしょ」同様、山椒を加えることが稀にある。
- お茶餅:「うちわもち」とも。胡桃味噌を塗して焼いた餅。
- 鎌焼:「鎌」の歯に見立てた呼び名。胡桃餡や味噌餡などを包む。「味噌っぱさみ」とも。生地が白の場合、シソの葉で巻くことがある。
- 花饅頭:うるち米と餅米をまぜ、ふかして作った菓子。桃の節句に食する。
- 黄精飴:江戸時代に方長老が漢方薬として伝えたという「黄精(アマドコロ)」を使った菓子。
- 葡萄飴:山葡萄の甘味を生かした餅菓子。
- 豆銀糖:江戸時代の豆銀に見立てた青豆菓子。
- からめ餅:盛岡藩の「金山からめ節」に因んだとも、携行食ともいわれる。
- 南部煎餅:小麦をベースに胡麻・胡桃・落花生などをあしらった焼菓子。
- ぶぢょほ団子:黒蜜を包んだ一口餅。噛むと黒蜜が飛び出すため一口で食べねばならず、「不調法(行儀が悪いこと)」に見えることからその名が着いた。
- 豆しとぎ:枝豆で製する蒸し菓子。
- 雁月(がんづき):小麦粉と胡桃・胡麻を混ぜ蒸した菓子。まぶした胡桃が月を渡る雁に見えることから。
- へっちょこ団子:一口大の白玉団子をへこませて茹で、汁粉に入れて食す。「へっちょこ」とは、臍のこと。
- 小麦餅:小麦粉を練って焼いた自家製菓子。
- 蕎麦餅:蕎麦粉を練って焼いた自家製菓子。
- 干し餅:餅を薄く切って乾燥させたもの。揚げたり湯に浸し崩して食べる。
- 薄焼き:主に祭礼の出店で売られる、小麦粉を伸ばして焼いたクレープ状の菓子。
- 盛岡駄菓子:元来、保存食として生まれ、祭事に用いられ子どもの菓子として定着した。石衣(兎玉)、青柳、丹切、茶玉、肉桂玉、薄荷糖(薄荷の香りのついた砂糖菓子[42])、生姜糖、焼酎糖、黄粉ねじり、ラッキョウ飴など。正月に限り、相撲力士を象った小麦菓子を売る習慣がある。
- ロシアビスケット:ロシアから伝わった非常に硬い胡桃のビスケット。現在は盛岡市内正食普及会より販売。
- 食材の呼び方・食習慣
- 地ビール
スポーツチーム
盛岡を舞台とした作品
盛岡市出身者
政財界・法曹界・学界
|
作家・芸術家・漫画家
俳優・芸能界・アナウンサー・スポーツ選手
|
|
盛岡市にゆかりのある有名人
この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(「里見弴」の弴は弓偏に享)が含まれています(詳細)。 |
脚注
- ↑ 国土地理院. “全国都道府県市区町村別面積調”. . 2014/6/6閲覧.
- ↑ “日本の東西南北端点の経度緯度”. 国土地理院ホームページ. . 2014閲覧.
- ↑ “岩手県 市区町村の役所・役場及び東西南北端点の経度緯度(世界測地系)”. 国土地理院ホームページ. . 2014閲覧.
- ↑ “我が国の人口重心 -平成22年国勢調査結果から-”. 総務省統計局ホームページ. . 2014閲覧.
- ↑ 30年平均(1976年 - 2005年)で夏日が68.6日、真夏日が17.7日ある。
- ↑ http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/inasaku/jittai/nogyo.html
- ↑ http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/hourly_s1.php?prec_no=33&prec_ch=%8A%E2%8E%E8%8C%A7&block_no=47584&block_ch=%90%B7%89%AA&year=1994&month=8&day=11&elm=hourly&view= 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 1994年(平成6年)8月11日・1時間ごとの値]
- ↑ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 1999年(平成11年)8月6日・1時間ごとの値
- ↑ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 2012年(平成24年)9月18日・1時間ごとの値
- ↑ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 2014年(平成26年)8月6日・1時間ごとの値
- ↑ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 年ごとの値 各階級の日数(最低)・≧25℃の項目を参照
- ↑ 基礎2: 気温・地温と局地循環「近藤純正ホームページ」
- ↑ M29. 放射冷却「近藤純正ホームページ」
- ↑ 気象庁(藪川の観測史上1 - 10位の値
- ↑ “盛岡 19801-2010年”. 気象庁. . 2011閲覧.
- ↑ “好摩 19801-2010年”. 気象庁. . 2011閲覧.
- ↑ “藪川 19801-2010年”. 気象庁. . 2011閲覧.
- ↑ レファレンスコーナー (PDF) (岩手県立図書館『としょかん いわて No.164』 2008年10月発行)
- ↑ 毎日新聞集計、2005年(平成17年)7月1日時点、全国2375市区町村
- ↑ 中心市街地の活性化について 岩手県商工労働観光部
- ↑ 平成18年度盛岡地区広域消費購買動向調査の結果【概要】 岩手県産業振興課 平成18年12月
- ↑ マルイチのフランチャイズ。
- ↑ 城西店以外はマルイチ及び業務スーパーに併設。
- ↑ マルイチのフランチャイズ。ベルジョイス運営の『ビッグハウス』とは異なる。
- ↑ 元は、旧東北ケーズ店舗・「盛岡本店」だが、運営主体がデンコードーへ移管されたことに伴い、「盛岡北本店」に改称。後に本店が取れて、現在の「盛岡北店」となっている。
- ↑ 旧MAX Denkodo盛岡西店からケーズブランドに転換したケーズデンキ盛岡西本店となったが、その後本店が取れた店舗。
- ↑ 初代は、東北ケーズデンキが運営していたものをデンコードーが継承したもの。2代目は、初代店舗を閉鎖する形でデンコードー盛岡南店を「ケーズデンキ」に転換した店舗、3代目は、旧盛岡南サティ(初代・三本柳)の跡地に開業した現行の店舗。
- ↑ 同市茶畑店と西仙北店を統合した店舗。『コジマ盛岡店』として開業後、『コジマ×ビックカメラ盛岡店』となり、看板が太陽のロゴから赤地に白字で大きく上に『コジマ』、白地に赤字で下に小さく『ビックカメラ』に変更。
- ↑ ベスト電器からの業績転換
- ↑ 初代は、南イオンの向かい、現在のMORIOKA TSUTAYAの建物に入居していた
- ↑ 旧・アルテマルカン盛岡店。
- ↑ DCMホーマックスーパーデポ盛南店(初代)の跡地に開店。
- ↑ 岩手県庁が登記上の名目的な本店なので、実質的な本社機能は宮古駅(宮古市)。
- ↑ ただし020-01xx地域のうち盛岡市緑が丘・高松地区には盛岡中央郵便局が回収担当となっている郵便ポストが一部存在する(ただしそちらへの郵便物配達はすべて盛岡北郵便局の担当)。
- ↑ ウェブもりおか:市のしくみと施策:玉山区地域協議会
- ↑ 盛岡市の下水道 盛岡市下水道部
- ↑ 小学部・中学部は、一関市に新設された統合校・岩手県立一関清明支援学校へ移管している。
- ↑ この影響で、減便を強いられた路線(ヨーデル号など)がある。
- ↑ 39.0 39.1 39.2 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 30-31.
- ↑ 「日本の道100選」研究会 2002, p. 8.
- ↑ いわての文化情報大事典
- ↑ コトバンク
- ↑ “盛岡の先人たち 第67回:山田美妙(やまだびみょう)”. 盛岡市公式ホームページ. . 2014/07/21閲覧.
参考文献
- 佐藤優 『脈脈 盛岡の街づくり』(在研究所 1984)
- 佐藤優 『「五感」性のある景観創造〜盛岡市の都市景観行政と地区計画〜』(北土社 1991)
- 「日本の道100選」研究会 『日本の道100選〈新版〉』 国土交通省道路局(監修)、ぎょうせい、2002-06-20、30-31。ISBN 4-324-06810-0。
関連文献
- 梅林巌、阿部隆「旧城下町盛岡の市街地形態の変化と都心地区の形成」、『東北地理』第33巻第3号、東北地理学会、1981年、 160-170頁、 doi:10.5190/tga1948.33.160。
関連項目
外部リンク
- 行政
- 観光