考古学
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考古学(こうこがく、英語:archaeology)は、人類が残した物質文化の痕跡(例えば、遺跡から出土した遺物、遺構などの考古資料)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。
Contents
概要
文字による記録以前(有史以前)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時期(有史以後)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。
考古学は、遺物の型式学的変化と、遺構の切り合い関係や土層(遺物包含層)の上下関係といった層位学的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「編年」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば土器の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。
考古学の位置付け
アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流であるが、日本では従前より歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。
名称
考古学という名称は、古典ギリシャ語の ἀρχαιολογία (ἀρχαιο [古い] + λογία [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)から生まれ、英語でアーケオロジー(archaeology)といい、それを訳して「考古学」とした。
日本では、考古学という言葉自体は明治初期に古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている[1]。
佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがシーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという説もある[2]。
考古学の歴史
考古学は比較的新しい学問であり、18世紀末から19世紀にかけて地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ[3]やウイリアム・フリンダース・ペトリ[4]らによって組織的な研究が始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて物理学や数学などの純粋科学を考古学に取り入れたニューアーケオロジー[5]がアメリカを中心として一世を風靡した[6]。
日本の考古学
日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法[7]を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである[8][7]。
日本では、動物学者であったエドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある[9]。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した「考古説略」によってなされた。
考古学は皇国史観歴史や日本歴史とはまったく別個の存在であったために、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧の中に「自由」を享受した。
それに対して、アジア各地へ出て行く日本人学者の考古学研究はどうであったか。そこには、興亜院・外務省・朝鮮総督府・当時の満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、また、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの解放を願い、進んで大陸に出かけていった[10]。
宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都大学に考古学講座がおかれた。浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。考古学における大正時代は、古墳研究の基礎資料の集積時代であった。
20世紀の間に、都市考古学や考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。
2000年に、日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。
現代考古学の特徴
現代考古学の特徴としては、
- 他の学問分野(原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学、認知科学など)との連携がいっそう進んでいること
- 考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていること
があげられる。
考古学の諸分野
- プロセス考古学/ニューアーケオロジー
- 60年代にアメリカの考古学者ルイス・ビンフォードが確立させた考古学的方法論。従来の伝播主義的考古学に反論し、社会内部あるいは社会間で働いている多様なプロセスを抽出し分析する事を目指している。そこでは、社会と自然環境の関係、生業や経済活動、集団内での社会関係、これらに影響を与えるイデオロギーや信仰、さらには社会単位間の相互交流の効果などが重要視されている。プロセス考古学の発展の中で、考古資料と過去に関する見解の橋渡しを行うための中範囲理論(Middle Range Theory)が登場し、その理論を実践するために実験考古学、民族考古学、歴史考古学が派生した。
- 実験考古学
- 過去の遺構・遺物を模式的に製作・使用・破棄する事によって、現在の遺構・遺物がどのような工程を経て現状に至ったのか考察する研究領域。例えば、原石から石器を製作して使用したり、粘土から土器を製作して調理を行ったりして使用痕を分析する。また、住居を建築した後、放火などの破棄を行ってその後の層位の堆積状況を観察する事もある。
- 民族考古学
- 現存する伝統的文化を保持する小規模な民族集団を調査し、そこで得られた知見に基づいて、過去の考古学上のデータから様々な人間の活動パターンを復元する際の比較資料やモデルを作り出そうとしたり、ある考古学上の仮説を検討する基礎にしようと試みるものである。
- 歴史考古学
- 考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。これにより文献資料では空白部分であった情報が、考古学資料によって補完されるようになった。日本では主に奈良時代以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例(法隆寺再建論争などが顕著な例)もある。
- ポストプロセス考古学
- 70年代、イギリスの考古学者イアン・ホダーとアメリカの考古学者マーク・レオーネを中心にプロセス考古学への批判から形成された。解釈学的考古学とも呼称される。構造主義・批判理論・新マルクス主義的思考に影響を受けつつ、一般化を避け「個別的説明」を行う傾向がある・
- 認知考古学
- 1990年代からよく使われるようになった。認知科学[11][12]、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。過去に生きた人々の心の研究(推測や復元)は、検証可能性や実証性を保とうとすることが大変難しい[12]。
- 産業考古学
- 戦跡考古学
- 近現代における国内の戦争の痕跡(戦争遺跡)を扱う我が国の近現代考古学の一分野。対象となる戦争遺跡は単に戦闘の跡に留まらず、師団司令部や航空機の墜落跡、水没艦船、防空壕、軍需工場、さらには現存する当時の精神的支柱(八紘一宇の塔・忠魂碑)などと、非常に多岐にわたる。1984年に沖縄県の當眞嗣一が提唱した。激戦地であった沖縄では、盛んに調査が行われている[13]。戦跡考古学に対しては、民俗学や建築学など様々な方面からのアプローチが可能である。一部では外国の戦跡の研究(中国の虎頭要塞・731部隊施設の研究、南洋諸島に点在する旧日本軍の軍事兵器など)も行われている。研究者として、坂誥秀一らがあげられる。
- 水中考古学、海洋考古学
- 水中にある遺跡や遺物などを調査する考古学。19世紀スイスの杭上家屋跡[14]の確認を契機に、フランスのクストーが世界各地の海底遺跡の調査を開始したのが始まりである。日本でも、地すべりで琵琶湖湖底に沈んだ古代の集落や、長崎県鷹島沖の元寇の際の沈没船などの研究が行なわれている。
- 宇宙考古学(衛星考古学)
- 1972年にランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測の技術は、気象、災害、環境、海洋、資源など、さまざまな分野の調査や研究に応用され、これまでに多くの成果をあげてきた。衛星に搭載されるセンサの解像力が高度化し、マイクロ波センサや赤外線により地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきた。この宇宙からの情報技術を考古学研究に応用したのが宇宙考古学である。坂田俊文は、この方法によってエジプトの未知のピラミッドを発見している。
- なお、疑似科学の古代宇宙飛行士説も「宇宙考古学」と称することがあるが、これとは完全に別物である。
- 環境考古学
- 文明や歴史を、その自然環境との関係を重視して研究する分野。1980年に安田喜憲が提唱した。1999年刊行の『新編高等世界史B』[15]には、環境考古学の成果が採用された。2003年に入って、安田以外の研究者による環境考古学と題する本[16]が刊行された。考古遺跡から出土する遺物の中でも、特に動植物遺体などの分析から、当時の食生活や漁獲対象、ひいては周辺の気候・植生を復元する考古学。分析する遺体は、貝殻・獣骨(動物考古学と限定することもある)などの比較的大きなものから、土壌を選別(篩掛け)することによって得られる花粉・寄生虫卵などがある。1980年代以降、考古学における理化学研究の進展に伴い提唱された。渡辺誠・松井章らによる研究が詳しい。
- 地震考古学
- 地震の痕跡を遺跡からさぐる学問。1980年代に寒川旭らの研究者により提唱された新しい研究領域である。
- 第2考古学
- 五十嵐彰が提唱する方法論上のカテゴリー。従来の考古学で主流をなしている編年研究、過去についての知識ではなく、考古学独自の思考方法を探ろうという観点に立つ。名称の適切さを含めて批判もあり、研究領域としての認知度は低い。
考古学の方法
- データの収集
- 年代の決定
- 総合的解釈
考古学の資料
収集するデータは、人類の過去の活動や行為を示す物的証拠を収集すること。具体的には、①人類がある目的を持って製作・加工したもの、②人類によって利用された自然界の物質、③人類の活動や行為によって自然界に生じた変化を示す物的証拠があげられる。
考古学の成果
世界の古代文明・先史文化
考古学からみた日本
日本列島の北と南
トピック
文化財の保護と活用
脚注
- ↑ 泉森皎編『日本考古学を学ぶ人のために』世界思想社 2004年
- ↑ 佐原真「考古学史を語る」金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事1 考古学への案内』岩波書店 2005年
- ↑ (1827-1901) 組織的な計画と方法、記録を伴う発掘を実施、世界初の実験考古学も試みた。
- ↑ (1853-1942) エジプト土器編年の体系をうち立てた。
- ↑ 理化学的年代測定法・コンピュータと統計学・システム論・生態学の応用
- ↑ 安斎正人『KASHIWA学術ライブラリー06 理論考古学入門』柏書房 2004年
- ↑ 7.0 7.1 デンマーク国立博物館に民族学部門を開設したときに三時代区分法を適用したクリスチャン・トムセンが1839年にオランダのライデンにシーボルトを訪ねている。その時、『北欧古代学入門』(独文版1837年)をシーボルトに献呈した可能性もある。佐原真「日本近代考古学の始まるころ -モールス、シーボルト、佐々木忠二郎資料によせて-」(金関恕・春成秀爾編集『佐原真の仕事1 考古学への案内』岩波書店 2005年)235ページ
- ↑ その著『日本』(1832~1858のころ)
- ↑ 大森貝塚の項目参照
- ↑ 「戦後日本考古学の反省と課題」近藤義郎 考古学研究会編『日本考古学の諸問題』1964年
- ↑ cognitive science 人間の認知(知的営み)にかかわる学問領域の総称
- ↑ 12.0 12.1 松本直子・中園聡・時津裕子編『認知考古学』青木書店 2003年
- ↑ 瀬戸 哲也他『沖縄県の戦争遺跡 平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書75』沖縄県立埋蔵文化財センター 2015年
- ↑ 1853年~1854年にかけてフェルナンド・ケラーによる調査とその報告、ロバート・マンローによるスコットランドなど「湖上住居」の報告、名高いのは19世紀末のフロリダ州南西部キー・マルコの「杭上住居民」をフランク・カッシングが発掘したハリケーンによって倒壊した集落跡、アーサー・ブライドが1893年から1907年にかけて発掘したグラストンベリー湖の柵杭で囲まれた紀元前200年の集落跡
- ↑ 川北稔ほか帝国書院、時代区分は、1)自然に適応しながら生きていた時代、2)自然環境への挑戦の時代、3)環境問題の出現と社会の調和の時代。
- ↑ 高橋学『平野の考古学』古今書院 2003年、松井章編『環境考古学マニュアル』同友社 2003年
- ↑ 原子力環境整備促進・資金管理センター 「地層処分にかかわる記録保存の研究」
参考文献
- 『考古学ハンドブック』小林達雄編 新書館 2007年 ISBN 978-4-403-25088-0
- 『考古学―理論・方法・実践』コリン・レンフルー ポール・バーン(2007) 東洋書林
- 『考古学入門』鈴木公雄 (2005) 東京大学出版会
- 文化庁 『定本 発掘調査のてびき』 同成社、2016-10-30。ISBN 9784886217424。
関連項目
資料
年代
方法
文化財の保護と活用
周辺領域
関連団体
その他
- 旧石器捏造事件
- 藤村新一(旧石器捏造事件の首謀者)
- 考古調査士
- 考現学(対義語)
- オムニバス映画「非女子図鑑」(2009年5月30日公開)の中の「B(ビー)」は実際の遺跡発掘現場で撮影されており、テーマ曲に「考古学エレジー」が採用されている。