一里塚

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一里塚(いちりづか)は、旅行者の目印として大きな道路街道)の側に1(約3.927キロメートル)毎に設置した(土盛り)である。

塚の側になどの木を植えたり標識を立てたりしていた[1]。いわゆる街道マイルストーンキロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する[2]

日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代一休(または一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。

一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日グレゴリオ暦1604年3月4日)、徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである[3]。江戸幕府は江戸の日本橋起点として全国の各街道の1里(約4 km)ごとに一里塚を設置するよう指令を出し[3]、長安の指揮の元に一里塚の設置が行われ、10年ほどで完了した。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた[4]。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ。

一里塚の本来の姿は街道の両側に対で設置されるものである。ただし現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在している事が多い。街道を挟んで一対で現存する一里塚には国の史跡に指定されているものもある。また、都道府県や市町村の史跡に指定されている一里塚や、未指定であっても地域住民の崇敬の対象として守られている塚やその跡地も多い。

一里塚の樹種

一般的に榎を植えた一里塚が多い。19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎が一番多く、過半数を占める。次にが4分の1強、ついでが1割弱で他のは数本程度しか植えられていない。

五街道の一里塚一覧

一里塚のギャラリー

出典

  1. 国土技術政策総合研究所資料 (PDF) - 国土交通省 国土技術政策総合研究所
  2. ただし、当時の中国での1里は約500mであった
  3. 3.0 3.1 ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 61.
  4. ロム・インターナショナル(編) 2005, pp. 60-61.

参考文献

  • ロム・インターナショナル(編) 『道路地図 びっくり!博学知識』 河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005-02-01。ISBN 4-309-49566-4。

関連項目

外部リンク

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