鎌倉幕府
鎌倉幕府 | |
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創設年 | 1185年 |
解散年 | 1333年 |
代表 |
得宗 執権 征夷大将軍 |
対象国 | 日本 |
前政府 | 18px平氏政権 |
後政府 | 18px建武政権 |
備考 | 幕府発足年について、1185年以外に、1180年、1183年、1190年、1192年など様々な意見が存在する |
鎌倉幕府(かまくらばくふ)
源頼朝によって鎌倉に樹立された武家政権。成立の時期は (1) 頼朝が伊豆に挙兵した治承4 (1180) 年,(2) 頼朝が朝廷から東国行政公権を委譲された寿永2 (83) 年,(3) 幕府の主要政治機関公文所,問注所が設置された同3年,(4)守護,地頭が設置された文治1 (85) 年,(5) 頼朝が右近衛大将に任命された建久1 (90) 年,(6) 頼朝が征夷大将軍に任命された建久3 (92) 年など諸説がある。幕府成立当時の政治機関として,中央に侍所,政所 (初め公文所といった) ,問注所が,地方には京都守護,鎮西奉行,奥州総奉行,各国守護などがおかれた。鎌倉幕府は御恩,奉公の主従関係による御家人制度によって支えられていた。その経済的基盤は将軍家の直轄地である関東御領,朝廷から将軍家に与えられた知行国である関東御分国,関東御公事と称して御家人から徴収する恒例の臨時課役であった。鎌倉幕府は頼朝の代にその基礎が確立したが,正治1 (99) 年頼朝の死後源家将軍は頼家,実朝の3代で滅び,以後摂家 (藤原氏) 将軍2代,親王将軍 (宮将軍) 4代を京都から迎えたが,侍所,政所別当を兼ねた北条氏が実権を握る執権政治であった。承久3 (1221) 年,公家政権による倒幕計画を武力で押しつぶし (承久の乱 ) ,元仁1 (24) 年連署,嘉禄1 (25) 年評定衆,貞永1 (32) 年に御成敗式目を制定して武家政権を確立した。執権北条氏は,宝治1 (47) 年三浦氏を滅ぼして,建長1 (49) 年引付衆を設置し,これに北条一門をあてるなど北条氏嫡流による得宗専制政治を強化していった。それは2度の蒙古襲来 (元寇 ) の非常事態に対処することを理由に,幕府中枢機関はもちろん,地方の支配機構にも及んだ。やがて得宗専制に対する外様御家人層の批判が出て反発が強くなってくると,北条氏一門は強圧的手段に出た。また中期以後になると鎌倉御家人制度にも種々の矛盾が表面化し,御家人の経済的窮乏と相まって,幕府も次第に動揺をみせはじめた。幕府は永仁5 (97) 年,徳政令 (永仁の徳政令 ) を発布して御家人の窮乏を救おうとしたが効果はなかった。このような幕府の動揺に乗じて後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力が台頭し,足利,新田氏などの有力御家人の寝返りもあって,元弘3=正慶2 (1333) 年鎌倉幕府は成立後約 150年にして滅亡した。鎌倉幕府成立の歴史的評価としては,平氏政権とは本質的に異なる点を認めつつも,なお古代的性格を重視する立場と,武士政権としての封建的性格を重視する立場とがある。