竪穴式住居
竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ、英: pit-house, pit-dwelling)は、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。なお、「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)と表記することもある。[1]
概要
縦穴・竪穴という用語は、横穴という表現の対照として生まれた。英語表記の一つ「pit-house」は、厳密には、竪穴式住居のうちで、屋根以外は、竪穴自体で構成されている、つまり竪穴に屋根を被せた形の家屋ないしは住居のことをいうが、竪穴自体が浅く、地上部分のある竪穴式住居についてもこのように呼ぶ研究者がいるので日本語の『竪穴式住居』と、ある程度置き換えが可能である。
ヨーロッパでは、中石器時代からこの住居の形態が出現している。やがて、世界各地で、新石器時代に盛行するようになる。中国では、仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか)の代表的遺跡である西安の半坡遺跡(はんばいせき、バンホーいせき)で発掘されたものがよく知られている。これは、南側に階段のある出入り口を持つ約5メートル×4メートル、深さ80センチメートルの隅丸方形のもので内部に炉が見られるものである。また、アメリカ南西部のモゴヨン(Mogollon)文化やホホカム(Hohokam)文化の人々は、9世紀頃まで、入り口部分を張り出し状にした竪穴住居に住んでいたことが知られている。日本では、後期旧石器時代ごろから造られたと考えられており、北海道から九州にかけて18カ所の遺跡で確認され、特に伏屋A式竪穴住居と見られている建物跡がはさみ山遺跡(〈梨田地点〉大阪府藤井寺市)から出土した例がある[2]。
日本
日本の旧石器時代の人々は、台地上に住むことが多かった。しかし、岩陰や洞窟に住むことも特殊な場合としてあった。岩陰や洞窟遺跡に対して、開けた場所での遺跡を「開地遺跡」と読んでいる。 北海道標津(しべつ)町に一辺長さが4~10メートルもある汁鉢状の大きな窪みが数え切れないくらい密集している。この窪みが大昔の「穴居」(けっきょ)の跡である。深さが2.5メートルもあり、掘った土を周りに盛り上げてある。考古学では、地面を掘り下げて造った住居を「竪穴住居」という。普通の竪穴住居の深さはせいぜい70~80センチだから、穴とは言え、わざわざ「竪」を付けることはないが、北海道の穴居で竪穴と呼ぶ由縁が分かる。[3]
歴史
日本の竪穴住居は後期旧石器時代から造られ始めたと考えられており、縄文時代には盛んに造られるようになり、弥生時代以降にも引き継がれた。伏屋式と壁立式があり、そのうち伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。そして、日本の農家や民家のもととなっていった。竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた。特に近畿地方では平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる[4]。
構造
地面を掘り下げた底の深さも、地域や時期で異なる。知床半島に近い標津町の伊茶仁(いちゃに)カリカリウスの住居は、竪穴の周りに掘りあげた土から底まで、2メートルから2.5メートルもの深さがあり、天井から出入りしたものと推測される。床の中央か一方に片寄って炉がある場合が普通であり、古墳時代以降は壁際にカマドを設ける事例が一般化する。排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多い。竪穴(縦穴)建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったと推測され、外からは屋根しか見えなかったものと考えられる。屋根はアシやカヤなどの茎で葺いたことが多かったと思われるが、土葺、草葺の屋根も多かった。
学校教科書などには、茅などで葺いた想像図が多く載るが、1990年代以降は樹皮を敷いて土をかぶせた土葺(土屋根)で復元された竪穴住居遺跡も多い。これは発掘時の土壌・遺物分析で茅由来の物質が見つからなかったり、当時の地形・植生では茅の採取が難しいと推測されたりしたことによる。例としては入江・高砂貝塚(北海道)、三内丸山遺跡(青森県)、御所野遺跡(岩手県)、北代遺跡(富山県)、梅之木遺跡(山梨県)、勝坂遺跡(神奈川県)などが挙げられる[5]。
日本においては、地面を掘り窪めた穴の平面形状は、時代と地域によって異なっている。縄文時代前期では、概ね方形、台形、楕円形で、6本の主柱をもち、壁面周辺に支柱穴とも推察されるピットが並んでいる状況が見られる。また、前期には東北・北陸地方を中心に超大型住居が現れる。
炉は、地床炉(ぢしょうろ)が多いが石組炉もあり、保有率は時代が下るに従って増加する傾向にある。中期では円形および楕円形が多く、4本から5本の柱をもつものが主流であり、地床炉や石囲炉、また炉体土器を伴う炉が見られ、中期後葉の東北地方南部では複式炉をともなう住居が現れ、中部地方とくに長野県などでは石敷の住居も現れる。後期になると、地域によっては「柄鏡型」とよばれる入り口部分を外側に張り出した住居が出現する。円形のものも続き、方形に近い住居跡も復活する。晩期になると、柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。
弥生時代については、初期段階で東日本と西日本で大きく異なるが、後期には全体的に同形式に収まる傾向を示す。円形のものが主流であるが、弥生時代の後期(2世紀から3世紀頃)頃から隅が丸い四角い形をした竪穴式住居(隅丸方形・長方形住居)が現われ始めている。埼玉県熊谷市と行田市にまたがる池守・池上遺跡は、弥生時代中期初頭の遺跡で、住居の平面形状は隅丸方形か隅丸長方形である。最大の大きさのものは長軸10.6メートル×短軸7.2メートルで、面積は約72平方メートルで、他の住居の約2倍ないし4倍の大きさである。神奈川県横浜市都筑区大棚町大塚遺跡(おおつかいせき)の住居は、弥生時代後期の竪穴住居で隅丸長方形(すみまるちょうほうけい)である。住居の大きさは最大9.4メートル×6.7メートルで、面積62.98平方メートルあり、多くの例が20平方メートルから30平方メートル前後の規模であるので、その2倍の大きさである。このように、弥生時代後期の東国では全般的に住居が小型化し、著しい規模の差が認められなくなる。
炉は、古墳時代前期まで続くが、古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現する。カマドは時代が下るごとに発達し、「壁」の外へ向かって張り出していくようになるが、実際には竪穴住居の掘り窪めた部分が狭まって、その分、カマドが発達していると考えられている。このような住居は関東・中部地方以北では平安時代まで続くが、東海地方では一部残しつつも、近畿においては飛鳥時代から掘立柱建物に移行していった。鎌倉時代以降は、関東で竪穴状遺構として一部名残をのこすものの全面的に消失する。
トイチセ
江戸時代の樺太島や千島列島のアイヌは、トイチセと呼ばれる竪穴式住居を利用していた。酷寒地域である樺太や千島のアイヌは、夏用と冬用の集落(コタン)を分けており、冬用の集落の住居(チセ)は、防寒・防風対策として敢えて竪穴式とし、床部の土を壁へ盛り上げる構造としていた。樺太の住居の記録として松田伝十郎の「北夷談」(1822年)、間宮林蔵の「北蝦夷図説」(1855年)が、択捉島の住居の記録として山崎半蔵の「毛夷東環記」が残る[6]。
脚注
- ↑ 『社会科 中学生の歴史 初訂版』(株式会社 帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。文部科学省検定済教科書 中学校 社会科用。教科書番号 46 帝国 歴史ー713)p 24に、「人々は地面に穴を掘り屋根をつける竪穴住居に住みました。」と記載されている。
- ↑ 太田博太郎監修執筆、藤井恵介ほか執筆『【カラー版】日本建築様式史』美術出版 1999年
- ↑ 佐原真「縄文・弥生時代の住まいと村」金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事5 衣食住の考古学』岩波書店 2005年
- ↑ 平井聖著『対訳 日本人の住まい』市ヶ谷出版社 1998年
- ↑ 「縄文の竪穴住居 実は土屋根?岩手や青森で復元/茅葺き 根拠乏しく」『読売新聞』朝刊2018年6月13日(文化面)。
- ↑ 苫小牧市史・上巻p332(苫小牧市1975年)
参考文献
- 石野博信『日本原始・古代住居の研究』吉川弘文館,1990年(日本全国の竪穴住居の形態についての一覧表が折り込まれている)
- 大林太良編『家』(日本古代文化の探求)社会思想社,1976年
関連項目
外部リンク
- Hohokam Pithouse 3D
- 竪穴住居ってどんな家?(群馬県埋蔵文化財調査事業団)
- 竪穴住居跡-三内丸山遺跡(青森県教育庁文化財保護課)