板垣征四郎
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。
関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にて死刑判決を受け処刑される。元参議院議員の板垣正は次男。
Contents
生涯
出自
岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。
祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争の秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸へ護送され、増上寺に幽閉される。後に釈放されると、岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭[注釈 1]を名乗るようになる。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳[注釈 2]は気仙郡郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。
盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助や及川古志郎、野村胡堂などが、一級下には石川啄木が居た。陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越が日露戦争の奉天会戦で戦死すると、その遺児である大越喜久子と後に結婚することとなる。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山や小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。
満州時代
1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行した[注釈 3]。満州事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握った一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、「関東軍の活動を有利に展開させる」方向で動くこととなる[1]。
1932年(昭和7年)、軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長となる。しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満州組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。熱河作戦では天津特務機関長となり、反蒋介石勢力によるクーデターを起こさせる「北支親日政権」樹立のための調略活動に従事していたが[注釈 4]これに失敗、ヨーロッパ出張を命じられる。しかしその後永田ら統制派が陸軍内部の主導権を奪い返すと満州組も復活し、ヨーロッパから帰国した後は満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)を歴任。
満州国独立
満州事変勃発の前月、大連市 のヤマトホテルにおいて開かれた有力者による会合において板垣は、「将来の世界は、大国だけが存在し、他の小国は経済的に従属の地位に落とされる。確実な資源の供給地と、製品の販路を持たない国は、経済的に独立することができない。日本が満州を失えば、重工業の基礎は破滅だ。満州は戦略的拠点だ。現在の情勢では、日ソ戦争は北満で起きる。大日本建国には満州は絶対に必要な戦略拠点だ。」と語っている[2]。また、関東軍参謀長時代には「満州帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満州国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満州三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満州農業移民百万戸移住計画を推し進めた。
また満州国独立に際し、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)に対し、「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と資金2万円を供与するとともに工作を命じた。第一次上海事変のきっかけとなる上海日本人僧侶襲撃事件である。後に東京裁判において田中は、「板垣閣下は...関東軍がもっておりました内面指導権というものをいかんなく行使せられまして、巧みに満州国をコントロールされました。」と、述べるなど満州国における板垣の影響力の大きさを語っている[3]。
分治合作論
岡田内閣は対中融和的な外相・広田弘毅の「広田三原則」を持って軍部を牽制しようとしたが、対中政策に関わる関東軍ら出先軍部の高級幕僚は「支那は統一せらるべきものに非ざること」と考え華北分離工作を進めていた。満州時代の板垣はいわゆる分治合作論を唱え、対中工作の指針とした。日ソ戦争が起きた場合中国はソ連側に立つ公算が高いと考え、それは蒋介石政権 の思想的基盤は排日にあり、財政的基盤を英米に依存する蒋介石政権が日本と親善関係に入ることはないとして日本のこれまでの対中政策を批判し、以下のような方針を採用すべきとした。「…その要点は支那大陸を人文及び地文上の見地に基づき分立せしめ」、日本は分立した個々の地域と直接提携を結び、日本の国力によって各地域間の対立相克を防ぎ、各地域内の平和の維持と民衆の経済的繁栄をはかり、究極的には日・満・華、三国提携の実績を挙げるべきである、とした[4]。
関東軍による内蒙工作
ソ連・中国の連帯と中国への共産主義の浸透を危惧する板垣ら関東軍の幕僚は内蒙古の工作を進め、内モンゴル独立運動の指導者、デムチュクドンロブ(徳王)を支援して、関東軍参謀長の機密費の流用や冀東防共自治政府による特殊貿易の収入を充てるなどの援助により蒙古軍政府を組織させ、綏遠事件を起こした。こうした関東軍の急進的な活動に批判的でこれを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、武藤章第二課長以下の関東軍幕僚は冷笑的な態度で接し、また工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告も無視したため[5]、陸軍中央による統制の試みは失敗した[6]。
支那事変以降
支那事変(日中戦争)では第5師団師団長として出征する。平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険しい地形を生かした林彪らの八路軍に阻まれ多くの死傷者を出す。1937年11月9日、第20師団の救援により、山西省太原市を占領した。
張作霖爆殺事件・満州事変・支那事変等の重大事件が相次いで発生すると、中国の現地事情に精通した支那通の軍人が求められるようになっていった。また、地方軍閥がなお割拠する中国の戦場では、欧州の近代的軍事技術はあまり役に立たないので、『豪傑型』が多い支那通軍人の陸軍内部でのステータスは相対的に高まっていった[7]。
こうした中、第一次近衛内閣改造で1938年6月3日、陸相兼対満事務局総裁に就任。これには林内閣で組閣工作に失敗した十河信二の近衛への進言があった[8]。日支和平に積極的な満州組の総帥である板垣を牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎(陸士15期で板垣の1期先輩)は統制派の総帥だった東条(17期)を自分の後任次官にさせた。一方政治畑の経験が無い板垣も自ら事務に堪能な東条を次官に求めた経緯があり、奇しくも両者の要求が一致した格好である。のちに戦線の拡大か不拡大かで東条と多田駿参謀次長が争い、板垣は多田と意を通じるも、「喧嘩両成敗」として両者を更迭した[9]。平沼内閣総辞職に伴い陸相を退任する際、自らの後任に推したのは多田であったが、それは叶わず畑俊六が就任することとなった。
陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。
張鼓峰事件とノモンハン事件
張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し武力行使の裁可を求めた。天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政海相も賛成であると答えた。しかし二人とも反対であると知っていた天皇は「自分をだますのか」と怒り、更に柳条湖事件などの陸軍の独断専行に不信を抱いていた天皇は「今後は朕の命令なくして一兵とも動かすことはならん」と、板垣達を叱責した[10]。しかしこの時板垣は連絡不徹底のため、閑院宮参謀総長が奏上を取りやめていたこと、宇垣外相が翻意していたことを聞かされていなかった。平沼内閣でも陸相に留任。ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあいいじゃないか」と黙認した[11]。
防共協定強化問題
1938年8月26日、日独伊防共協定強化問題について五相会議が開かれた。ナチス・ドイツはこの協定を強力な軍事同盟とし、同盟の対象をソ連以外の英・仏等にも拡大しようと提案してきたが、独伊に協調的な板垣と、英米仏等にまで拡大することに否定的な宇垣外相とが対立した。11月11日にも五相会議が開かれ、英仏等のみを対象するものではないと決定されたが、これを受けた大島浩駐独大使が反発。そこで12月初めに五相会議を開いたところ板垣は、5月、11月の五相会議も対象として英仏等を含むという決定をしていたと言い出した。他の大臣はこれを批判したが板垣が反発したため、結局何も決まらないままに終了した[12]。
1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか。この前も軍事参議官の会議で、外務大臣は軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責され、更に天津問題での板垣の返答ぶりに怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている[13]。
桐工作
「桐工作」では板垣は「蒋介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蒋介石政府の合作を日本が仲介する事で蒋介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。板垣は一度は敵対していた蒋介石と和睦を考えたのである。
東亜連盟
独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは1939年9月15日の満州国承認記念日の演説で東亜連盟を強調し、宮崎正義の東亜連盟論と杉浦晴男の東亜連盟建設綱領に題字をおくり、第二次近衛声明(東亜新秩序声明)がこれに沿うものとするなど東亜連盟論者であった。板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。
朝鮮軍司令官から第七方面軍司令官へ
1941年(昭和16年)に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与しており朝鮮の活動家青年達とも接触を持ったが[14]、司令官としては朝鮮総督の小磯国昭や朝鮮総督府政務総監らと共調した内鮮一体の植民政策を押し進めた[15]。後半の1945年(昭和20年)4月、第7方面軍司令官に就任。
戦後
第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。その後連合国によりA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判開廷初日の1946年(昭和21年)5月3日に、空路東京へ移送された。裁判においては確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、訴因1では「1928~1945に於ける戦争に対する共通の計画謀議」を、訴因29、31、32では米・英・蘭に対する太平洋戦争の遂行を、他に中国[注釈 5]、ソ連[注釈 6]、シンガポール[注釈 7]における罪を問われ[16]、死刑判決を受けた。1948年(昭和23年)12月23日、絞首刑に処せられた。
死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して以下語った[17]。
自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである。(略)
今次の世界大戦が起きる前、世界最終戦ということを一部で唱え、私たちもそれを支持してきた。今から二十年以内に世界最終戦がある。日本はその時に備えて準備しなければならない。世界最終戦後に最後の平和が来る。それに日本は備えなければならない。私どもはそれに全力を尽くした。意に反して支那事変が起きた。たいへんと思って早く収拾しようとした。私は陸軍省にいた時だから、全力を尽くしたができなかった。それが今度の第二次世界大戦となり、日本は最終戦の戦力を失うということになった。
もし予言者の云った世界最終戦というものが起れば、その際戦争を放棄した日本としては迷惑千万であるが、日本の理想とする真の平和をそれによって得るものであるならば、しばらく忍ばねばならんと思う。そして真の平和の来る日を待たねばならん。世界平和の来た時はどうなるかと云うに、世界国家的な機構ができて、日本もそれに協力し、各国は自国に適当した文化を取入れて、有形無形の文化国家を形造らねばならぬことになろう。その際、日本としては最高の精神文化と科学を高い水準にまで上らせて行かねばならん。日本の仏教は、その場合非常に重要な役割を持つことになる……
辞世の歌は、
* 「ポツダムの 宣のまにまに とこしえの 平和のために 命捧ぐる」
- 「とこしえの 平和のために 身を捨てて 糞土を黄金に かえる嬉しさ」
- 「大神の 御魂の前に ひれふして ひたすら深き 罪を乞うなり」
- 「今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり」
- 「さすらいの 身の浮き雲も 散りはてて 真如の月を 仰ぐうれしさ」
- 「懐かしき 唐国人よ 今もなほ 東亜のほかに 東亜あるべき」
享年65(満63歳没)。
年譜
- 明治37年(1904年)
- 明治40年(1907年(明治40年)12月 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
- 大正2年(1913年)8月 - 陸軍歩兵大尉に昇進。
- 大正5年(1916年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)。歩兵第4連隊中隊長。
- 大正6年(1917年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。
- 大正8年(1919年)
- 大正9年(1920年)4月 - 陸軍歩兵少佐に昇進。
- 大正10年(1921年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。
- 大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員(支那課)。
- 大正12年(1923年)8月 - 陸軍歩兵中佐に昇進。
- 大正13年(1924年)6月 - 支那公使館附武官補佐官(北平駐在)。
- 昭和2年(1927年)
- 昭和3年(1928年)3月8日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。歩兵第33連隊長。
- 昭和4年(1929年)5月14日 - 関東軍高級参謀。
- 昭和6年(1931年)10月5日 - 関東軍第2課長。
- 昭和7年(1932年)8月8日 - 陸軍少将に昇進。関東軍司令部附(満州国執政顧問)。
- 昭和8年(1933年)2月8日 - ヨーロッパ出張。
- 昭和9年(1934年)
- 8月1日 - 関東軍司令部附(満州国軍政部最高顧問)。
- 12月10日 - 関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。
- 昭和11年(1936年)
- 3月23日 - 関東軍参謀長。
- 4月28日 - 陸軍中将に昇進。
- 昭和12年(1937年)3月1日 - 第5師団長。5月8日 - 勲一等瑞宝章 叙勲
- 昭和13年(1938年)6月3日 - 第46代陸軍大臣兼対満事務局総裁
- 昭和14年(1939年)1月5日 - 第47代陸軍大臣。9月4日 - 支那派遣軍総参謀長。
- 昭和16年(1941年)7月7日 - 陸軍大将に昇進。朝鮮軍司令官。
- 昭和20年(1945年)
- 昭和21年(1946年)
- 4月 - 逮捕令。
- 5月 - 予備役編入。
- 昭和23年(1948年)12月23日 - 巣鴨プリズンにて絞首刑。
系譜
- 家伝によれば、「板垣兼信の三男四郎義之[注釈 8]が南部光行に従い、1191年(建久2年)甲斐国から陸奥国糠部に移った」という。その子孫板垣伴内が南部利直に仕え、政清の代より母方の姓佐々木氏を名乗る。以降代々盛岡藩士で、佐々木氏を称したが、1871年(明治4年)に本姓の板垣に復した。
∴ 板垣伴内(初代) ┃ 板垣伴内(二代目) ┃ 板垣甚内 ┃ 板垣政次(萬右衛門) ┣━━━━━━━━━┓ 佐々木政清(甚内) 佐々木権右衛門(初代) ┃ 佐々木権右衛門(二代目) ┃ 佐々木権右衛門(三代目)※養子(実は蛇口孫四郎の弟、亥四郎) ┃ 佐々木登政(源吉)※養子(実は久保要作の三男、源吉) ┃ 板垣政純(直作、号桑蔭) ┃ 板垣政徳(太郎、郡長、女学校長) ┏━━━━┳━━━━┻━━━┳━━━━━┓ 板垣政一 板垣政参(医師) 板垣征四郎 板垣盛(海軍少将) ┃ ┏━━━┫ 板垣賛造 男 板垣正(国会議員) ┃ 板垣進吾 ┃ 女
栄典
- 50px 勲一等旭日大綬章 - 1937年(昭和12年)7月7日
- 50px 功三級金鵄勲章
- 50px 勲一等瑞宝章 - 1937年(昭和12年)5月8日
- 50px ドイツ鷲勲章大十字章 - 1940年(昭和15年)2月27日[18]
資料
脚注
注釈
- ↑ 苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。
- ↑ 明治・三陸大津波の犠牲者を慰霊する為の慰霊塔が、七回忌にあたる1902年(明治35年)6月15日に建立された。この『大海嘯記念碑』の撰文を、気仙郡郡長であった板垣政徳が揮毫している。
- ↑ 現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。
- ↑ これには当時参謀本部情報部長だった永田鉄山が関与していた。 川田,p270
- ↑ 訴因27 満州事変以後の対中華民国戦争遂行
- ↑ 訴因35 ソビエトに対する張鼓峰事件の遂行 訴因36 ソビエト及び蒙古に対するノモンハン事件の遂行
- ↑ 訴因54 1941/12/7~1945/9/2の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反。 これは自己の管理する地域の収容所内の捕虜や抑留者に、満足な医療や食糧を与えなかったこととされた。極東国際軍事裁判所 『東京裁判判決:極東国際軍事裁判所判決文』参照。
- ↑ 『尊卑分脈』によると、板垣兼信の子は、長男頼時と次男頼重だけで、三男「四郎義之」の名を見ない。長男頼時は「四郎」と称したが、父兼信の罪に連座し、共に隠岐に配流されたため、陸奥には行っていないため別人であろう。
出典
- ↑ 川田稔 『昭和陸軍全史1 満洲事変』p14
- ↑ 岩手日報社 『郷土兵団物語』 昭和38年 p115
- ↑ 児島襄 『東京裁判(上)』p201
- ↑ 戸部良一 『日本陸軍と中国』p189
- ↑ 阪谷芳直 『三代の系譜』p275
- ↑ 森久男 『日本陸軍と内蒙工作』p196
- ↑ 森,p30
- ↑ 秘録板垣征四郎109頁
- ↑ 額田坦回想録79頁
- ↑ 古川隆久 『昭和天皇』p233
- ↑ 『郷土兵団物語』 p220
- ↑ 筒井清忠 『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』p206
- ↑ 古川,p246
- ↑ 白土菊枝 『将軍石原莞爾―その人と信仰に触れて』 329p
- ↑ 『秘録 板垣征四郎』 162-163p
- ↑ 極東国際軍事裁判所 『東京裁判判決:極東国際軍事裁判所判決文』 毎日新聞社 昭和24年
- ↑ 『秘録板垣征四郎』p356、362
- ↑ 『官報』第3946号、昭和15年3月4日
参考文献
- 『秘録 板垣征四郎』、 板垣征四郎刊行会、 芙蓉書房、 1972年発行
- 『官報』1937年07月07日 叙任及辞令 「従四位 勲二等 功三級 板垣征四郎 叙勲一等瑞宝章」
- 『官報』1938年06月03日 叙任及辞令 「従四位 勲一等 功三級 板垣征四郎 任陸軍大臣兼対満事務局総裁」
関連項目
外部リンク
- 『人民中国』 - 中国からみた板垣征四郎像