清原氏
舎人親王にはじまる皇別氏族であり、平安時代は中級貴族(地下家)であった。特に清原深養父、清少納言などが有名。中原氏・菅原氏(土師姓)などと同様、平安時代急速に台頭した氏である。
概要
天武天皇の皇子舎人親王を祖とする[1]。その四世であった小倉王の子・夏野が、小倉王の弟・石浦王の子長谷ともども臣籍降下して清原真人の姓を賜った(『日本後紀』)[注釈 1]。
また新撰姓氏録によれば、「百済親王之後也」とあり、「桑田真人同祖」とあり、桑田氏は大原真人と同祖とある[3]。そして、大原氏の項には、出自謚敏達孫百済王也とある。なお、これは大原氏が皇族の百済王の子孫ということで、いわゆる渡来人としての亡命百済人という意味ではない[4]。
以来、中堅貴族として活躍する。清原深養父は歌人としても名を残す。清原元輔の娘、清少納言は『枕草子』を著したことでも有名である。後世、清原姓を称する氏族は出羽(出羽清原氏)、下野・紀伊・筑前などに分布している。
この他、神別の海氏(凡海氏)の中からも清原姓を賜った者がおり(舎人親王の子孫であるように記す系図が多いが、これは明らかな仮冒である。下の系図が業恒の流れがそれに当たる)、その子孫は公家の舟橋家をはじめ、庶家を多数輩出した。清原家は漢文の注釈などを家業にする文章の家で、現在京都大学に所蔵されている清家文庫はかつてこの清原家が所持していたものである。
室町時代の清原宣賢は、吉田神社詞官神道家吉田兼倶の3男だったが、明経博士だった清原家に養子として入った。宣賢は宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して多くの国学、儒学の論文著作をおこなった。 享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作がある。彼の著作物は現在も多く残されており、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は4代後の秀賢から舟橋家を称したため、清原宣賢を「船橋大外記宣賢」と記した史料もある。
系譜
脚注
- ↑ 「散位正五位下小倉王上表して曰く、臣聞く、上天・象を開き、両曜をもって盈虚す。聖人・基を肇め、九族・其れに由りて差降す。このゆえに尊卑・序あり、星辰を仰ぎて知るべし。親疎・替なく、氏姓を命じて教を立つ。伏して惟みるに、陛下、品彙を彫鎪し、生霊を陶冶す。人にはその名を正し、物にはその性を安んず。小倉・幸に淳和に属し、謬りて霈澤に霑ふ。■乾■弘、大造無謝。ただし愚息内舎人繁野、および小倉の兄別王の孫内舎人山河らの款を得るには称はく、臣等智効・施す罕く、器識・庸微なり、天潰の末流を忝うし、瓊枝を仰いで悚懼す。伏して請う、去る延暦十七年十二月二十四日・友上王が姓を賜うの故事により、同じく清原眞人の姓を賜らん。また繁野の名は語・皇子に觸る、繁を改め、夏と曰はんと。小倉不忘■犢、聞ままに斯れ行はんや。特に天恩を望み、伏して進止を聽く、その姓を賜うべき人等に、具に目して別の如し。懇迫の至に任へず、謹んでもって申聞すと。これを許す。」 — 『日本後紀』延暦23年(804年)6月21日、[2]
参考文献
- 太田亮、国立国会図書館デジタルコレクション 「清原 キヨハラ」 『姓氏家系大辞典』第2巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1980-1989頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編) ISBN 4642003622
- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編) ISBN 4642003630
- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編) ISBN 4642003649
- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編) ISBN 4642003657