小田原征伐

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小田原征伐
戦争: 安土桃山時代
年月日: 天正18年(1590年)2月 - 7月
場所: 相模国小田原、関東一帯
結果: 豊臣軍の勝利 後北条氏の降伏。
交戦勢力
豊臣軍20px 北条軍20px
戦力
本隊 161,135
九鬼・毛利勢(水軍)20,630
前田・上杉勢 35,000
(諸説あり)
82,000(諸説あり)
損害
不明 不明

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉後北条氏征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの[1]、遠征を前に秀吉に節刀を授けており[2]関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ[3]。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。

小田原合戦小田原攻め小田原の役北条征伐小田原の戦い小田原の陣小田原城の戦い(天正18年)[4]とも呼ばれた。

北条氏康から氏政の時代へ

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏などを排除し、甲斐武田信玄駿河今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580年)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した[5][6]。氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。

武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正10年(1582年)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの戦後の恩賞は皆無であり、。

しかし、同年末の本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃した直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。織田氏家臣の滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦いを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱が勃発した[7]。この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重が援軍として甲斐に出兵していた[8]。また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された[9]。家康は北関東の佐竹義重結城晴朝皆川広照水谷正村らと連携しながら北条氏打倒を目指した[10][11]。北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、真田昌幸が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、10月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ[12][13]、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。

後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見氏を事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。

北条氏は翌天正11年(1583年)1月に早速前橋城を攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ[14]

6月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた[15][16]。秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの[17]、政権内での東国についての関心は低く[18]、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった[19]。そしてそれさえも翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが始まると無化してしまった。

天正11年11月末、沼尻の合戦が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した[20]。天正12年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。両者は4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した[21]

天正13年(1585年)から15年(1587年)にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。北条氏は天正13年1月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。また同月までに館林城長尾顕長を服属させた。館林は南関東と北関東の結節点に当たり[22]、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。9月には真田領・沼田に侵攻し[23]、14年4月にも再度侵攻した[24]。北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正15年に講和し北条氏の支配下にはいった[25]。また、天正13年閏8月には家康が真田を攻撃し、翌14年(1586年)にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった[26]

天正15年12月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し[27]、現状を追認することを明らかにした。天正16年(1588年)2月、北条氏直は笠原康明を上洛させ沼田領の引き渡しを条件に[28]豊臣政権に従属を申し入れた[29]

「五畿内同前」と重要視していた[30]九州の平定を天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月、後陽成天皇聚楽第行幸を行った。この後陽成帝の行幸は秀吉が創り上げた新秩序承認の場として重要な意味を持っており[31]、東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった[32]

5月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め[33]、8月には氏政の弟の氏規が上洛し、12月に氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えた[34]がこの約束は履行されなかった。

宇都宮周辺部では壬生城および鹿沼城壬生義雄がもともと親北条であり、宇都宮家の重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年(1589年)終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。さらに常陸南部にも進出し、奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。しかし、追い詰められた義重、国綱、佐野房綱らは秀吉に近づくこととなる。。

天正17年7月、秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田領の割譲について裁定を行った。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものと裁定した。秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことは天皇の意思に背くことを意味した[35]。しかし、北条氏は11月に沼田の内、真田領となった名胡桃に侵攻しこの裁定を覆したのであった。秀吉は11月24日付けに5ヶ条からなる朱印状を発給し最後通牒を行った[36]。秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した[37]

秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し[38]、天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした、と述べている。

11月、秀吉は関東の領主たちに、氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行うことを通知した[39][40]。また、家康に対しても北条討伐の意向を言明し、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛して秀吉に同意の意向を伝えるとともに対北条戦の準備を開始した[41]。天正18年(1590年)1月、北条氏は小田原で籠城することを決定した[42]。また、家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた[41]

開戦までの経過

、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城山中城韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親宇喜多秀家九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送に宛がわせた。毛利輝元には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である[43]。これに秀吉に恭順した佐竹氏小田氏大掾氏真壁氏結城氏宇都宮氏那須氏里見氏の関東勢1万8千が加わった[43]

豊臣側の主だった大名は以下の通り。

推定総計約21万。

後北条側の主だった諸将

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集め、して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。

小田原城包囲

北条支城攻略

ファイル:Odawara Castle and Odawara City 01.JPG
石垣山城より小田原城(中央)を望む。

天正18年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着し29日に進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。

山中城

秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた[45]。山中城では間宮康俊勢により攻め手の一柳直末討死したものの、小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの城は豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城し、主将の松田康長は北条氏勝兄弟を逃したのち、手勢を率いて玉砕した。間宮康俊ら多くの将兵が討ち取られた。

その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に鷹之巣城を落とした。足柄城佐野氏忠(北条氏忠)が守備していたが、山中城の陥落を知ると氏忠は主な兵を率いて城を退出して小田原城に合流したため、翌日に徳川麾下の井伊直政隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城した。経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。

韮山城

天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いた。

韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康[46]を交渉役として派遣し、領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。

下田城

清水康英は手兵600余で約50日に渡って籠城抵抗した後、開城した。 後北条氏配下の伊豆水軍の最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上を封鎖した。

玉縄城

先に山中城の落城の際に脱出し、落ち延びた北条氏勝はこれを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重繁広らに説得され、手勢700騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。この際に小田原城の北を迂回し玉縄に戻り、すなわち小田原籠城軍に加わらなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、4月21日に降伏開城。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。

小田原城

小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山城を築いた。また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。

北方軍(北国勢・信州勢など)

北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木常林(相木昌朝の子)、伴野信番(元・佐久野沢城主)を信濃国に潜入させ、佐久軍の白岩城で挙兵させたが、これは松平康国が派遣され即座に鎮圧されている。また碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。

前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻した。松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、先方の真田勢(真田信幸)と激戦になり、総じて兵力で圧倒的に劣勢であったため、松井田城に退却し籠城した。

松井田城

天正18年(1590年)3月28日から4月20日まで続いた。

北方隊は松井田城攻略に取り掛かった。3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。焦った北方軍は攻城を続けるが、守将の政繁は嫡子を脱出させ[47]、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。

前後して北方隊は4月17日頃に国峰城、宮崎城[48]の諸城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)、松山城(5月22日)、その他西牧城、石倉城など上野の各城を攻め落とした。各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。この間に石倉城で松平康国が戦死している。

南方からの加勢

一方、秀吉は小田原包囲勢から主に徳川勢を主力として兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。前出の玉縄城(4月21日)や江戸城(4月27日)などの武蔵の諸城を次々に陥落させた。次にその戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政や徳川家臣の内藤家長らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とした。このあまりの急進撃に秀吉からは浅野に対して、敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で、房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであった(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方の軍は武蔵国方面に侵攻し要衝である河越城を攻めたが、河越城の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は大道寺氏の軍と政繁の子(養子)の直英(大道寺隼人)が守備していたため、政繁の降伏を受けて河越城も降伏開城した。以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。後述の岩付城5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。

これら房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、各城の兵力のほとんどは小田原城の籠城戦のために引き抜かれ、当主や城主自身も小田原城籠城に参加したために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。例えば、小金城の高城氏の軍事力は豊臣側が作成した「関東八州諸城覚書」では700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されたのは200騎と軽卒300名であったという(「小金城主高城家之由来」 )。箕輪城などは北条氏としては失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていた鉢形城館林城、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、そこでは進撃の速度は大幅に落ちている。

また、先に降伏した北条氏勝山中城を脱出し、玉縄城で降伏)や大道寺政繁ら元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。

岩槻城(岩付城)

天正18年(1590年)5月19日から22日まで続いた。

城方は城主の氏房が小田原城に籠城したため主力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが衆寡敵せず、籠城側は兵のほぼ半数である1000余人の死傷者を出したのち降伏した。

鉢形城

天正18年(1590年)5月14日から6月14日まで続いた。

城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立、氏邦は大規模な野戦を主張したが容れられず、自城に帰還して籠城した。彼我の差は10倍以上であったが家臣らと籠城戦を戦った。約1か月の戦いの末、開城した。鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許され、利家の領国内の能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。

忍城の戦い

天正18年(1590年)6月5日から7月17日まで続いた。

忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。秀吉は三成に対し、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であったため、水攻めの効果は薄かった。その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城開城により降伏した氏長の説得により、開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

八王子城の戦い

天正18年(1590年)6月23日。

  • 八王子城守備軍(北条氏照の配下) 総勢3,000人

八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵中山家範近藤綱秀ら約3,000人が立てこもっていたとされる。先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。 詳しくは八王子城も参照。

小田原開城へ

5月9日には後北条氏と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請に応じて本拠から小田原へと向かった[49]。開城への勧告は5月下旬頃から始められており[49]、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた[50]。6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条氏側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、

そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。4月8日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し[51]、さらに一門で玉縄城主の北条氏勝も弟(繁広氏成)らと共に秀吉方へ「走入」って降伏した[52]。6月初旬には家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している[50]6月16日には、松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを政晴の弟の松田直秀が氏直に報告して発覚、政晴は氏直により成敗された[50]。また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている[50]。さらに6月23日に北方隊が落とした八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条氏側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことも後北条氏側に打撃をもたらした。このとき、後北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月2回ほど行われていた後北条氏における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

6月に入ると、氏房、氏規、氏直側近が家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた[49]。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講話交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、この頃には後北条領は家康に与えられることになっており、伊豆は4月中旬には家康の領国化が始まっていた[53]。鉢形城は6月14日に氏邦が出家する形で開城となり、韮山城も6月24日に開城した。八王子城の落城に続いて鉢形城・韮山城と津久井城も開城し、氏規が秀吉の元に出仕したため、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした[50]7月5日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた[53]

この小田原征伐に関して、豊臣氏と北条氏との間では、戦いについての認識で大きなズレがあった。「関八州の太守」を自称する北条氏にとって、この戦いは「天下」を賭けた「公儀」と「公儀」の戦いであった。しかし、天皇を推戴し、「天道」に従い、「日本国」の唯一の「公儀」として政治を執り行っている豊臣政権にとって、この戦いは「西国征伐」と同じ「征伐」であり、「公儀」を蔑み、「天道」に背き、「勅命」に従わないものを処罰する「成敗」に過ぎなかった[54]

戦後処理

戦後、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして切腹を命じた[53]7月7日から9日にかけて片桐且元脇坂安治榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。その氏規と当主・氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。

一方、小田原城開城後、忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られ7月16日に開城した。これにより、戦国大名としての後北条氏は滅亡した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。

脚注

注釈

出典

  1. 岡本良一、「天下人」 『国民の歴史』第12巻 文英堂、1969年、。 全国書誌番号:73001143
  2. 長谷川成一、「奥羽仕置と東北の大名たち」、『白い国の詩』 569、東北電力株式会社広報・地域交流部、2004年、p.4。[1]
  3. 下山(1996) pp.91-96。
  4. 『戦国合戦史事典』小和田秦経(新紀元社、2010年4月)、『戦国合戦大事典(二)』戦国合戦研究会(池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六)(新人物往来社、1989年)
  5. 黒田基樹「織田政権と関東」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館、pp005-016、2013年。
  6. 原田正記、「織田権力の到達 : 天正十年「上様御礼之儀」をめぐって」、史苑 51(1)、立教大学、1991年、p.47 [2]
  7. 宮川展夫、『天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に 』、「 駒沢史学78 」、駒沢史学会、2012年、p.23。[3]
  8. 谷口央、『小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係』、「人文学報 (445)」、 東京都立大学人文学部 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 、谷口、2011年、p.4。
  9. 丸島和洋、「戦国大名の「外交」」、講談社、2013年、p.244。
  10. 宮川、2012、p.24。
  11. 谷口、2011年、p.8。
  12. 谷口、2011、p.9。
  13. 丸島和洋、『北条・徳川間外交の意思伝達構造』、国文学研究資料館紀要11、国文学研究資料館 、2015年、p.46。[4]
  14. 谷口、2011、p.10。
  15. 宮川、2012、p.31。
  16. 谷口、2011、p.15-18。
  17. 谷口、2011、p.20。
  18. 宮川、2012、p.34。
  19. 谷口、2011、p.7-8。
  20. 谷口、2011、p.22。
  21. 粟野俊之、『天徳寺宝衍考 : 戦国後期の関東と織田・豊臣政権』、駒澤史学 39/40、駒澤大学、1988年、p.106。[5]
  22. 田中信司 、「中世後期上武国境の「みち」 : 後北条氏の架橋」、青山史学 28、2010年、p.44。
  23. 富澤 一弘、佐藤 雄太『『加沢記』からみた真田氏の自立 : 外交政策・家臣統制を中心に』、「高崎経済大学論集」54 、高崎経済大学経済学会 、2012年、p.42。[6]
  24. 富澤、佐藤、2012年、p.43。
  25. 高橋博、『天生十年代の東国情勢をめぐる一考察 : 下野皆川氏を中心に』、「弘前大学國史研究 93」、弘前大学、1992年、p.30-31。
  26. 富澤 、砂糖、2012、p.37-38。
  27. 粟野、1988、p.109
  28. 丸島和洋、「戦国大名の「外交」」、講談社、2013年、p.250。
  29. 中野等、『豊臣政権の関東・奥羽仕置(続論』、「九州文化史研究所紀要 (58)」、九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門 、2015年。p.139。[7]
  30. 小竹文生、「豊臣政権の九州国分に関する一考察 - 羽柴秀長の動向を中心に -」、駒沢史学55、2000年、p.123。
  31. 大上幹広、郜宇浩、下岸廉、檎垣翔、山崎達哉、『軍事商業政権としての織豊政権』、「大阪大学歴史教育研究会 成果報告書シリーズ 11」、大阪大学歴史教育研究会、2015年、p.9。[8]
  32. 中野、2015、p.140。
  33. 中野、2015、p.144。
  34. 中野、2015、p.140。
  35. 中野、2015、p.154。
  36. 粟野、1988、p.110。
  37. 中野、2015、p.156。
  38. 桑田忠親(編)、「豊臣秀吉のすべて」、新人物往来社、1981年、p.191。
  39. 宮川、2012、p.110。
  40. 中野、2015、p.157。
  41. 41.0 41.1 片山正彦「豊臣政権の対北条政策と家康」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年) ISBN 978-4-7842-1875-2 p38-69。
  42. 粟野、1988、p.110。
  43. 43.0 43.1 kuroda(2013)pp150-163。
  44. 44.0 44.1 44.2 44.3 44.4 44.5 44.6 44.7 『小牧・九州・小田原の役』(1965)
  45. 45.0 45.1 45.2 45.3 矢部健太郎「秀吉の小田原出兵と「清華成」大名」(『國學院大学紀要』49号、2011年)
  46. 家康と氏規は幼少時期、共に駿河の大名今川義元の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある
  47. 孫を脱出させた、とも。長男はこの時、小田原城にある。またこの脱出を真田昌幸が見て見ぬふりをした、との話が伝わる。
  48. どちらも小幡氏の城であり、当主の小幡信貞は小田原籠城中。国峰城を落としたのは上杉景勝麾下の藤田信吉
  49. 49.0 49.1 49.2 kuroda(2013)p207。
  50. 50.0 50.1 50.2 50.3 50.4 kuroda(2013)pp208-212。
  51. 高橋、1992、p.22。
  52. 高橋、1992、p.33。
  53. 53.0 53.1 53.2 kuroda(2013)pp213-215。
  54. 鈴木芳道、「後北条氏権力と「国」」、鷹陵史学 21、鷹陵史学会、1995年、p.88-89。[9]


参考文献

  • 下山治久 『小田原合戦-豊臣秀吉の天下統一』 角川書店〈角川選書〉、1996年。ISBN 4047032794。
  • 黒田基樹 『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月。ISBN 978-4-642-06456-9。

関連項目

外部リンク