外交官
外交官(がいこうかん、英語: diplomat)は、外交使節団の長および使節団の職員で外交官の身分を有する外交職員の総称[1]。
Contents
- 1 変遷
- 2 職務
- 3 外交官特権
- 4 日本の外交官制度
- 5 日本の著名な外交官一覧
- 5.1 1600年以前に生誕した者
- 5.2 1601年から1800年に生誕した者
- 5.3 1801年から1820年に生誕した者
- 5.4 1821年から1830年に生誕した者
- 5.5 1831年から1840年に生誕した者
- 5.6 1841年から1850年に生誕した者
- 5.7 1851年から1860年に生誕した者
- 5.8 1861年から1870年に生誕した者
- 5.9 1871年から1880年に生誕した者
- 5.10 1881年から1890年に生誕した者
- 5.11 1891年から1920年に生誕した者
- 5.12 1921年から1940年に生誕した者
- 5.13 1941年から1950年に生誕した者
- 5.14 1951年から1955年に生誕した者
- 5.15 1956年から1960年に生誕した者
- 5.16 1961年以降に生誕した者
- 6 外交官が登場する作品
- 7 関連項目
- 8 脚注
- 9 参考文献
- 10 外部リンク
変遷
臨時の外交使節を派遣・接受することは紀元前の中国やギリシャなど非常に古くから行われ、日本の遣隋使や遣唐使もその例であるが、常駐の外交使節団が初めて置かれたのは13世紀のイタリアであったといわれている[2]。ミラノ公国がジェノヴァ共和国に初めて公使館を設置して以後、イタリアの諸国家間で国家間の交渉に専門的に従事する外交官が相互に派遣されるようになり、またカトリック教会の長であるとともにイタリアの一君主としても位置づけられたローマ教皇も各国に教皇派遣使節を送った。14世紀にはイングランドのジェフリー・チョーサーが外交活動をしており、また1455年にはミラノがフランス宮廷に常駐使節を送り、そのシステムは主権国家が形成されるようになった16世紀以後ヨーロッパ各地に広まるとともに、外交慣行の基礎が形成された。
絶対王政期には、宮廷内部において国家の重要な政策決定が行われることが増加し、そのために君主あるいはその側近との個人的関係が外交交渉の成否に深く関わるようになった。一流の外交官は公式の場ではなく、夜中に接受国の君主の寝室に通されて直接重要交渉を行うものとされていた(閨房外交(Boudoir Diplomacy))。また、接受国における主君の代理として自国の名誉を守る責務も課されており、接受国での宮廷内における外交官同士の序列が時には互いの国家の尊厳に関わるものとして時には激しい議論や決闘にいたる例もあった。そのため、外交官には貴族や軍人などが任命されることが多かった。その後、国民国家の成立とともに宮廷外交・閨房外交の時代は終わり、交渉能力とともに相手国の各種情報を総合的に蒐集・報告する能力が求められるようになった。こうした中で職業外交官も外交専門職任用試験を経た人材が登用されるようになっていった。
常駐使節の制度は1648年のヴェストファーレン条約締結以降一般的な慣行と化したが[3]、一般条約である外交関係に関するウィーン条約が採択されたのは1961年である。
職務
常駐外交使節団を構成する外交官の任務は、接受国で派遣国を代表し、その意思の表明、交渉、条約の締結を行うこと(代表機能)、接受国の事情について適法な手段により一切の情報を収集し派遣国に報告すること(報告機能)、両国間の関係の促進をはかること(推進機能)に大別される [4]。特定の問題の交渉や任務にあたる特別使節団も、実質的に常駐外交使節団と同等の扱いを受ける[5]。
外交官の地位や外交特権などに関する規則は1815年のウィーン規則及び1818年のエクス・ラ・シャペル規則で基礎が定められ、1961年の外交関係に関するウィーン条約及び1963年の領事関係に関するウィーン条約によって修正が加えられて今日に至っている。
外交官特権
外交官には、任務の能率的な遂行を確保するため、国際法によって身体の不可侵(拘束されないこと)や裁判権からの免除などの特権を与えられている。特権の内容は、大使館員であるか、領事館員であるかによって異なる。これを外交官特権という。詳しくは該当項を参照。
外交官は、外交使節団に属する。外交官として認められるためには、派遣する国がその者を外交官として派遣することを接受国(受け入れる国)に打診し、合意(アグレマン)が成立する必要がある。アグレマンが成立した場合に該当者は接受国内において外交官と認められ、派遣した国を代表する交渉相手として扱われるほか、外交特権を享受する。接受国側が、国内法に照らして許されざる非行や国益を害する行為がありその者を外交官として扱うべきではないと判断した場合、ペルソナ・ノン・グラータの通告を行うことで、外交官としての立場を失う。ペルソナ・ノン・グラータの通告は事前(着任前)でも事後(着任中)でも良い。
日本の外交官制度
種類
外交官の種類は慣習国際法上一定の原則があり、日本もこれに則って外交官の名称を「外務省設置法」、「外務公務員法」(昭和27年法律第41号)及び「外務職員の公の名称に関する省令」(昭和27年外務省令第7号)により次の通り定めている。ただし参事官~在外公館警備対策官については、外務大臣が「公の便宜のために必要があると認める場合には、国際慣行に従い、第二条及び第三条に掲げる公の名称の一又は二以上を用いることを命ずることができる」ものであり、戦前は官名であったが現在は正式の官名あるいは職名ではない(正式の官名は外務事務官)。その為、外国に赴任して大使、公使、総領事、参事官などになった者も、国内に戻ると大使、公使、総領事、参事官ではなくなるが、儀礼的にこれらの職名で呼ばれる場合がある。また、外交儀礼上、本来の職位よりも一段上の「公の名称」を名乗ることが許される場合がある(名称大使、ローカルランク)。
- 特命全権大使(Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary)
- 特命全権公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)
- 在外公館たる公使館の公館長。ただし1967年に日本の公使館はすべて大使館に昇格しているので、このような意味での特命全権公使は存在しない。現在は、各国の大使館で特命全権大使に次ぐ次席館員を単に「公使」(Minister) と呼び、そのうち外務省入省年次が一番上の数名に「特命全権公使」の名称を付与しているにすぎない。したがって、特命全権公使が置かれる国は、実は外務省内の人事によって左右され、しかも年々変わる。
- 参事官(Councilor / Councillor)
- 実際には空席の館も多い
- 領事官(Consul)
- 総領事 (Consul-General)
- 領事 (Consul)
- 副領事 (Vice-Consul)
- 領事官補 (Attaché)
- 主に領事事務に従事する職員。このうち「総領事」の名称を用いるのは在外公館たる総領事館の在外公館長だけである。また「領事官補」の名称を用いるのは、領事館などに配属された語学研修を行う若手外交官だけである。
- 書記官(Secretary)
- 一等/二等/三等書記官 (First/Second/Third Secretary)
- 外交官補 (Attaché)
- 主に外交事務に従事する職員。このうち「外交官補」は、大使館などに配属された語学研修を行う若手外交官のみが用いる。
- 理事官
- 一等/二等/三等理事官 (First/Second/Third Attaché)
- 副理事官 (Assistant Attaché)
- 主に外交領事事務に直接関連する業務に従事する職員。ただし現在は、三等理事官以外はほとんど存在しない。
- 外務書記
- 現在は存在しない。
- 電信官
- 一等/二等/三等電信官
- 電信官補
- 現在はインターネット通信等の電気通信事務に従事する職員。現在は電信符号を用いることはない。また「電信官」という公称を用いる外務省職員はなく、電信担当官は他の役職の名称を用いている。
- 通訳官
- 一等/二等/三等通訳官
- 通訳官補
- 現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。通訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。
- 翻訳官
- 一等/二等/三等翻訳官
- 翻訳官補
- 現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。翻訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。
- 防衛駐在官 (Defense Attaché)
- 諸外国の駐在武官に相当。在外公館に勤務し、主に防衛(=軍事)に関する事務に従事する職員。全員が陸・海・空自衛隊から出向している幹部自衛官(主に佐官クラス)であり、自衛官としての身分及び外務事務官としての身分を併有して任命される。自衛官としての階級を公称し、自衛官の制服を着用し、儀礼刀を佩き、飾緒を着用する。この防衛駐在官は全員が自衛官で、外務省出身者や他の省庁からの出向者は一切いないが、法文上は自衛官に限られるものではない。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。
- 医務官 (Medical Attaché)
- 在外公館に勤務し、主に医務に関する事務に従事する職員。
- 主に在外公館の警備に関する事務に従事する職員。自衛官・警察官・海上保安官・入国警備官または公安調査官が出向して任命されることが多い。また、日本の民間警備会社から外務省へ出向して任じられる例もある。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。
任免
外交官の任免は、
- 大使・公使 → 外務大臣の申し出により内閣が行い、天皇がこれを認証する(認証官)。
- 総領事・領事・参事官・書記官・理事官・外務書記などの外交職員 → 外務大臣が行う。
- 外交職員(特別の技術を必要とする外交領事事務などに従事する職員)→ 外務省令で定めるところにより、外務大臣が行う。
採用
大半の外交官は国家公務員I種試験(平成12年までは外務公務員I種試験、公務員試験の項参照)および外務省専門職員試験、国家III種試験等に合格して外務省に入省した職員から選ばれる。前者出身の外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命される。それに対して、後者出身及び同等の経歴の者から任命される外交官を同様に「ノンキャリア外交官」と呼称することがあり、その多くは栄進したとしても本省のごく一部の幹部職や中小国駐在の大使等で外交官としての経歴を終わることになる。1894年(明治27年)以来の試験であるところの、外交官及領事館試験、外務書記生試験、雇員採用は、順にI種、専門職、III種に該当する。
なお、例外的に一部の大使や公使には学識経験者等の民間人や他省庁出身者が任命されることもある。また書記官には各省庁からの出向者が、在外公館警備対策官等には警察庁・防衛省・法務省入国管理局・公安調査庁・海上保安庁からの出向者が、それぞれ任命されることもある。
待遇
日本国の外交官に対しては、在外公館における勤務に必要な経費に充てるために(通常の給与に加えて)在勤手当(非課税)が支払われ、平成17年度において総額256億7188万7000円の予算が計上された。支払対象は約3,000人とされる(一人当たりの単純平均額は約856万円)。
日本の著名な外交官一覧
1600年以前に生誕した者
- 大夫 (たいふ)
- 後漢書東夷伝において、建武中元2年(57年)後漢(en:Eastern Han、 zh:东汉)に朝貢し、光武帝より印綬を賜ったとされる者の「身分」である(「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」)。この印綬が、江戸時代に志賀島で掘り出された「漢委奴國王」の刻印のある金印であると考えられている。
- 漢書(前漢書)地理志に、日本(en:Japan、 fr:Japon、 de:Japan、 es:Japón、 pt:Japão、 it:Giappone 、ru:Япония、 zh:日本・rìběn、 ko:일본、 ar:اليابان、 fa:ژاپن、 tr:Japonya、 vi:Nhật Bản、 id:Jepang、hi:जापान)に関するさらに古い記述がある。「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。)
- 正史ではないが王充の『論衡』にも倭人に関する記述がある。「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八。成王(在位紀元前1021年頃-紀元前1002年頃)の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)。
- 帥升 (すいしょう)
- 難升米 (なしめ)
- 魏志倭人伝において、景初2年(238年)邪馬台国の卑弥呼により帯方郡を経て魏(en:Cao Wei、 zh:曹魏)に使者として派遣されたとされる。魏の皇帝より親魏倭王の称号、金印紫綬、銅鏡100枚を下賜される。
- 小野妹子(おの の いもこ)
- 犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)
- 大伴国麻呂(おおとも の くにまろ)
- 犬養連手纏(いぬかいのむらじ たまき)
- 阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)
- 文武天皇2年(698年)生。養老元年(717年)第9次遣唐使に同行し、唐の都長安に留学。太学(官立高等教育機関)で学び科挙に合格、玄宗に仕える。2度帰国を試みるも遭難。安南(現ベトナム北中部)節度使、潞州(現山西省付近)大都督等を歴任後、客死。和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首に選ばれている。
- 引田虫麻呂(ひけた の むしまろ)
- 祖阿 (そあ)
- 武田信玄 (たけだ しんげん)
- 上杉謙信 (うえすぎ けんしん)
- 享禄3年(1530年)生。越後国を拠点とする戦国大名。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによる駿河の今川義元の死後、永禄11年(1568年)に甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したため(駿河侵攻)、相模の北条氏康は武田と断交し、武田に対抗するため、長年敵対してきた越後の上杉との和睦を望み、永禄12年(1569年)、上杉と北条の間で越相同盟が締結される。
- 織田信長 (おだ のぶなが)
- 景轍玄蘇 (けいてつげんそ)
- 天文6年(1537年)生。対馬宗氏の外交僧。文禄の役の前、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡り「仮途入明」等について交渉も開戦の阻止に失敗。戦役中は小西行長に同行し、朝鮮と和議の交渉に当たる。江戸開幕後、朝鮮修文職として尽力し、慶長12年(1607年)に再開された最初の朝鮮通信使を迎え、慶長14年(1609年)己酉約条を成立させる。
- 支倉常長(はせくら つねなが)
- 元亀2年(1571年)生。慶長18年(1613年)仙台藩主伊達政宗により慶長遣欧使節の正史として、メキシコ(当時スペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ副王領(1519年-1821年、es:Virreinato de Nueva España))を経由してスペイン及びローマに派遣される。元和6年(1620年)に帰国する。
- スペイン帝国(1492年-1975年、es:Imperio español、zh:西班牙帝國)は、当時、中南米とフィリピンの植民地を領有し、また、スペイン王がポルトガル王を兼ね(1580年-1640年)、「太陽の沈まない国」(zh:日不落帝国)と形容される覇権国である。
1601年から1800年に生誕した者
- 大岡清相(おおおか きよすけ)
- 延宝7年(1679年)生。正徳元年(1711年)長崎奉行。1639年にポルトガル王国(pt:Reino de Portugal)からの入船を禁止し完成した鎖国下においても清・オランダとの交易が認められていたが、新井白石等による長崎貿易の制限論に対し、長崎貿易の実情を把握し、輸出銅・来航船数の制限、値組制度、信牌(許可証)制度導入などを進言し、正徳5年(1715年)海舶互市新例の骨子として採用される。
- 清(en:Qing dynasty、zh:清朝)は、1616年後金として成立し、1636年国号を清と改め、1644年明を滅ぼし、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の時代(1661年-1796年)に最盛期を迎え、アジアにおける広範囲の冊封体制を確立する。
- また、鎖国開始当時のオランダは、1623年のアンボイナ事件(en:Amboyna massacre、 nl:Ambonse Moord)によりイングランド王国(927年‐1707年、en:Kingdom of England、 fr:Royaume d'Angleterre、 zh:英格兰王国)を東南アジア貿易から締め出し、台湾・インドネシア・セイロン・南アフリカ・北米・南米等の植民地を支配する世界の覇権国家(en:Hegemon)である。三十年戦争(1618年-1648年)の講和条約であるヴェストファーレン条約(en:Peace of Westphalia、 zh:威斯特伐利亚和约)によりネーデルラント連邦共和国(nl:Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、 zh:尼德蘭七省共和國)としてスペイン帝国(es:Imperio español)からの独立が認められる。
- 久世広民(くぜ ひろたみ)
- 元文2年(1737年)生。安永4年(1775年)長崎奉行。蘭学を手厚く保護した田沼意次に、長崎で入手した海外情報をもたらす。オランダ人の待遇改善も進める。
- なお、鎖国開始(1639年)の直後から、オランダ商館長(カピタン)のオランダ風説書により世界各地の情報が日本にもたらされていた。
- 中川忠英(なかがわ ただてる)
- 宝暦3年(1753年)生。寛政7年(1795年)長崎奉行。唐通事(中国語通訳官)を動員して、清の江南・福建の風俗を図説した『清俗紀聞』を編纂・監修。
- その後、ほぼ同時期に近藤重蔵らにより『安南紀略』(ベトナムの歴史風俗文物を記した書)と『亞媽港紀略』(マカオの歴史風俗文物を記した書)が編纂される。
- 石川忠房(いしかわ ただふさ)
- 宝暦5年(1756年)生。寛政4年(1792年)根室に来航したロシア使節ラクスマン(ru:Лаксман)と、村上義礼とともに宣諭使として交渉し、長崎以外での交易を拒絶するとともに、長崎入港の信牌(許可証)を交付し、大黒屋光太夫の身柄を引き受ける。
- その後、近藤重蔵(最上徳内も随行)、伊能忠敬の蝦夷地探査・測量が行われる。
- ロシア帝国(en:Russian Empire、 ru:Российская империя、 zh:俄罗斯帝国)は、1799年ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、露米会社に勅許を与える。
- 遠山景晋 (とおやま かげくに)
- 宝暦14年(1764年)生。長崎奉行。ラクスマン(ru:Лаксман)に交付された長崎入港の信牌(許可証)を持って、文化元年(1804年)に長崎に来航したロシア使節ニコライ・レザノフ(ru:Резанов)に対し、幕府の代表として通商を拒絶する。
- レザノフはロシアの勅許会社である露米会社の建て直しのため、日本との通商を望んでいた。その後、文化露寇(フヴォストフ事件)が起こり、間宮林蔵による樺太・アムール川(黒竜江)下流域の探査が行われる。
- 松平康英(まつだいらやすひで)
- 明和5年(1768年)生。文化5年(1808年)のフェートン号事件(en:Nagasaki Harbour Incident)当時の長崎奉行。薪水と食料を要求するイギリスの侵入船の脅迫に屈してしまった国辱の責任をとり、切腹して自害する。文久遣欧使節副使の松平康英 とは別人。
- フェートン号事件は、ヨーロッパのナポレオン戦争(1803年-1815年)の余波でイギリス海軍がオランダ船の拿捕を企図したものである。17世紀に世界の覇権国家であったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、数次にわたる英蘭戦争(en:Anglo-Dutch Wars)で疲弊し、1795年にフランス(fr:France、 zh:法国・法兰西)の侵攻により傀儡国家バタヴィア共和国、1806年にフランスの衛星国ホラント王国となった後、1810年にフランスに併合された。1815年のウィーン会議(en:Congress of Vienna、 zh:维也纳会议)・ウィーン議定書により南ネーデルラント(現ベルギー王国)・ルクセンブルクも支配するネーデルラント連合王国(zh:荷蘭聯合王國)として復活する。しかし、産業革命(en:Industrial Revolution)で先行していたイギリスが、オランダからケープ植民地・セイロン島を引継ぎ、世界の覇権国家(en:Hegemon)となる。
- フェートン号事件を受けて幕府は本木正栄(庄左衛門)ら6名の長崎通詞に英学修業を、オランダ語通詞に英語とロシア語の研修を命じ、文化11年(1814年)日本初の本格的な英和辞典「諳厄利亜語林大成」が本木らを中心に編纂される。文化8年(1811年)高橋景保の提唱により蛮書和解御用掛(東京大学の起源の1つ)が開設される。
- フェートン号事件後、イギリスは熱心に開国を試み、日本近海に何度も来航している。しかし、文政7年(1824年)の大津浜事件と宝島事件を受け、翌年異国船打払令が出された。
- 水野忠邦(みずの ただくに)
- 寛政6年(1794年)生。天保10年(1839年)老中首座に就任。アヘン戦争(1840年-1842年、en:First Opium War、 zh:第一次鸦片战争)で清がイギリスに敗れたことを受け、天保の改革の一環として、従来の異国船打払令を改め薪水給与令を発令し、他方で、江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせる。
- イギリス(連合王国、en:United Kingdom、 fr:Royaume-Uni、 de:Vereinigtes Königreich、 es:Reino Unido、zh:英国・大不列颠及爱尔兰联合王国)は、1819年にシンガポール島、1842年に香港、1858年にインド帝国、1874年にマレー半島、1886年までにミャンマーを領有し、ヴィクトリア女王の時代に覇権国家(en:Hegemon)としての頂点を極める。
1801年から1820年に生誕した者
- 林復斎(はやし ふくさい)
- 寛政12年(1801年)生。嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国(en:United States of America、 fr:États-Unis d'Amérique、 de:Vereinigte Staaten von Amerika、 es:Estados Unidos de América、 ru:Соединённые Штаты Америки、 zh:美国・美利堅合眾國、 ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、 fa:ایالات متحده آمریکا、 tr:Amerika Birleşik Devletleri)のペリーの浦賀来航の頃、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。安政元年(1854年)老中阿部正弘により応接掛に任命され、再来日したペリー艦隊と漢文の応酬により交渉し日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan、en:Treaty of Kanagawa)を締結する。
- 川路聖謨(かわじ としあきら)
- 享和元年(1801年)生。嘉永6年(1853年)老中阿部正弘により任命され、長崎に来航したロシアのプチャーチン(ru:Путятин)と交渉し、安政元年(1854年)日露和親条約に調印。海岸防禦御用掛・外国奉行。
- 当時ロシアは、オスマン帝国(en:Ottoman Empire、 tr:Osmanlı İmparatorluğu、 ar:الدولة العثمانية、 zh:奥斯曼帝国)・イギリス・フランス・サルデーニャ王国(en:Kingdom of Sardinia、 it:Regno di Sardegna、 zh:薩丁尼亞王國)とクリミア戦争(1853年-1856年、en:Crimean War、 zh:克里米亚战争)で交戦中であった。
- 竹内保徳(たけうち やすのり)
- 文化4年(1807年)生。嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海岸防禦御用掛(海防掛)。嘉永6年(1853年)の黒船来航後、米使応接係を兼任。文久元年(1861年)文久遣欧使節の正史として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。箱館奉行・外国奉行。
- 井上清直(いのうえ きよなお)
- 文化6年(1809年)生。清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年、en:Second Opium War、 zh:第二次鸦片战争)が行われる中、老中阿部正弘により任命され、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉し、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)に岩瀬忠震と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛・外国奉行・軍艦奉行。
- 岩瀬忠震(いわせ ただなり)
- 文政元年(1818年)生。嘉永7年(1854年)、老中阿部正弘に目付に任じられ講武所・蕃書調所(東京大学の起源の1つ)・長崎海軍伝習所の開設に尽力する。
- 清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年)が行われる中、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約に井上清直と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛・外国奉行。
1821年から1830年に生誕した者
- 岩倉具視(いわくら ともみ)
- 文政8年(1825年)生。慶応3年10月(1867年11月)坂本龍馬の発案による大政奉還を断行した徳川慶喜に対し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令案を奏上、小御所会議において辞官納地させることを主張、戊辰戦争(慶応4年1月2日(1868年1月26日)-明治2年5月18日(1869年6月27日))を誘発する。
- 明治4年(1871年)岩倉使節団正史。全権委任状を得ないまま渡航するというミス等のため、条約改正の予備交渉は失敗に終わる。
- 帰国後、内治優先を唱え征韓論を抑えるが、明治六年政変(西郷隆盛、板垣退助等の下野)、不平士族の反乱を誘発してしまう。外務卿。
- 小栗忠順(おぐり ただまさ)
- 文政10年(1827年)生。安政7年(1860年)日米修好通商条約批准を目的とする遣米使節の目付(監察)として、正使の新見正興とともに渡米する(随行艦は咸臨丸)。
- 文久元年(1861年)外国奉行としてロシア軍艦対馬占領事件(en:Tsushima incident)を処理。
- 勘定奉行として横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所の設立を推進。
- 副島種臣(そえじま たねおみ)
- 松平康英(まつだいら やすひで)
- 文政13年(1830年)生。文久元年(1861年)文久遣欧使節の副使として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。講武所頭取・神奈川奉行・外国奉行・老中。フェートン号事件で自害した松平康英とは別人。
- 大久保利通(おおくぼ としみち、en:Ōkubo Toshimichi)
- 文政13年(1830年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争、普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルク(de:Otto von Bismarck、zh:奥托·冯·俾斯麦)から強い影響を受けた。
- 明治4年(1871年)の宮古島島民遭難事件(en:Mudan incident、 zh:八瑤灣事件)を契機をする明治7年(1874年)の台湾出兵(en:Japanese invasion of Taiwan、 zh:牡丹社事件)後の日清両国間互換条款・互換憑単に全権として調印(お雇い外国人のボアソナードが顧問として随行。)。
- 明治6年(1873年)初代内務卿(当時の実質的な首相)として富国強兵、殖産興業を推進。
- 普墺戦争(en:Austro-Prussian War、 de:Deutscher Krieg)の結果、ドイツ統一はオーストリア帝国を除外し、プロイセンを中心に進められることになり、1867年オーストリアでは、ハンガリー(de:Ungarn、 hu:Magyarország、 zh:匈牙利)の独立性の高いオーストリア=ハンガリー二重帝国(en:Austria-Hungary、 de:Österreich-Ungarn、 zh:奥匈帝国)が成立した。
- 普仏戦争(en:Franco-Prussian War、 zh:普法戰爭)に勝利したビスマルクは、ドイツ帝国(en:German Empire、 de:Deutsches Kaiserreich、 zh:德意志帝國)を成立させ、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を行った。
1831年から1840年に生誕した者
- 寺島宗則(てらしま むねのり)/松木弘安(まつき こうあん)
- 天保3年(1832年)生。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、英語を独学。文久2年(1862年)の幕府遣欧使節(文久遣欧使節)、慶応元年(1865年)の薩摩藩遣英使節団に参加。明治4年(1871年)のハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権。在英公使(初代)・外務卿。
- ハワイ王国(1795年-1893年、en:Kingdom of Hawaii)は、1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民によるハワイ事変で米国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州(en:Territory of Hawaii)として併合されて消滅する。
- 木戸孝允(きど たかよし、en:Kido Takayoshi)/桂小五郎(かつら こごろう)
- 天保4年(1833年)生。明治4年(1871年)西郷隆盛、大久保利通らと廃藩置県を断行。同年岩倉使節団副使。
- 明治7年(1874年)台湾出兵に反対し下野後、翌年大久保利通、板垣退助との大阪会議を経て、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会の確立を条件に板垣とともに参議に復帰し、明治天皇の名で立憲政体の詔書が発布される。
- 坂本龍馬(さかもと りょうま)
- 天保6年(1836年)生。商社と政治結社の性質を併有する亀山社中(海援隊)のリーダー。文久3年(1863年)神戸海軍塾塾頭に任ぜられる。慶応元年(1865年)亀山社中を設立し、グラバー商会から大量の銃の薩摩藩名義での長州藩による買付斡旋、薩摩藩名義での蒸気軍艦ユニオン号の購入、薩長同盟の斡旋に成功する。慶応3年(1867年)亀山社中は海援隊と改称し、土佐藩の外郭団体的な組織となる。同年、いろは丸沈没事件では万国公法に基づく主張を展開し、紀州藩から損害賠償金を得、船中八策に基づいた王政復古を目的とする薩土盟約(その後芸州藩が加わり薩土芸盟約)を成立させ、イカロス号事件の処理で英国公使ハリー・パークスとの談判を行い、さらに山内容堂を通じて、大政奉還の建白を行うが、最期は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。
- 井上馨(いのうえ かおる)
- 天保6年(1836年)生。文久3年(1863年)伊藤博文らとともに、イギリスに密航(長州五傑、en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に尽力。明治9年(1876年)の日朝修好条規の締結を担当。条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力。外務卿・初代外務大臣(第1次伊藤内閣)。
- 榎本武揚(えのもと たけあき、en:Enomoto Takeaki)
- 天保7年(1836年)生。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、安政5年(1857年)頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。文久元年(1861年)アメリカに留学する予定であったが南北戦争(1861年-1865年、en:American Civil War)のため中止となり、文久2年(1862年)幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学し、国際法、化学、蒸気機関学、砲術、船舶運用術を学ぶ。
- 明治8年(1875年)駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約(en:Treaty of Saint Petersburg、 ru:Петербургский договор)を締結。ペルーとの間のマリア・ルス号事件でロシアのサンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判に日本側代表として出席。
- 外務大輔・駐清特命全権公使・海軍卿・外務大臣(第1次松方内閣)・逓信大臣(初代)・文部大臣・農商務大臣。
- 池田長発(いけだ ながおき)
- 天保8年(1837年)生。文久3年(1863年)横浜鎖港談判使節団(第二回遣欧使節団)の正史として、カイロを経由し(三大ピラミッド、スフィンクスを見学)、フランスで皇帝ナポレオン3世(fr:Napoléon III)に謁見。鎖港交渉には失敗し、パリ約定を締結する。外国奉行・軍艦奉行。
- 大隈重信(おおくま しげのぶ、en:Ōkuma Shigenobu)
- 天保9年(1838年)生。長崎英語伝習所(済美館)、佐賀藩校英学塾「致遠館」にてグイド・フルベッキに英語を学ぶ。明治元年(1868年)外国事務局判事に任官。明治15年(1883年)立憲改進党・東京専門学校(現早稲田大学)を創設。明治21年(1888年)から外務大臣として不平等条約の改正に尽力。第2次大隈内閣において第一次世界大戦(en:World War I、 fr:Première Guerre mondiale、 de:Erste Weltkrieg、 zh:第一次世界大战)に参戦。
- 高杉晋作(たかすぎ しんさく)
- 天保10年(1839年)生。文久2年(1862年)5月、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国する。文久3年(1863年)8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、高杉は和議交渉を担当する(通訳は伊藤博文)。
- 何礼之(が のりゆき)
- 天保11年(1840年)生。英語を独学及び長崎英語伝習所で学ぶ。文久元年(1861年)ロシア軍艦対馬占領事件の退去交渉の通訳。英語通訳の功績により、文久3年(1863年)長崎奉行所支配定役格。英語の私塾を開き、前島密、陸奥宗光、星亨などに英語を教える。
- 明治元年(1868年)新政府の開成所(東京大学の起源の1つ)御用掛、訳官。明治4年(1871年)岩倉使節団に外務省六等出仕として随行。
- モンテスキューの『法の精神』(fr:De l'esprit des lois)を翻訳し、『万法精理』として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与える。
1841年から1850年に生誕した者
- 伊藤博文(いとう ひろぶみ、en:Itō Hirobumi)
- 天保12年(1841年)生。文久3年(1863年)井上馨らとともに、イギリスに密航(長州五傑、en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に高杉晋作の通訳として尽力。維新前は長州藩の外国商人からの武器購入交渉を担当。
- 維新後、外国事務局判事。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争、普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルクから強い影響を受ける。
- 明治15年(1882年)憲法調査のため渡欧。大日本帝国憲法を起草、逐条解説書『憲法義解』を著す。『憲法義解』は伊東巳代治により英訳され、欧米の学者たちに寄贈される。
- 明治18年(1885年)甲申政変後の天津条約に全権として調印。
- 第2次伊藤内閣において、明治27年(1894年)日清戦争(en:First Sino-Japanese War、 zh:甲午战争)を開始、翌年下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。その後、日露戦争前は満韓交換論・対露不戦を主唱。
- 明治33年(1900年)立憲政友会を創立、初代総裁に就任。初代工部卿・内務卿・初代内閣総理大臣・外務大臣(兼任)・初代枢密院議長・初代貴族院議長・初代韓国統監。
- 青木周蔵(あおき しゅうぞう)
- 天保15年(1844年)生。明治元年(1868年)長州藩留学生としてドイツ留学。明治6年(1873年)外務省入省。外務次官・外相として治外法権の撤廃に尽力し、明治27年(1894年)駐英公使の時、日英通商航海条約(陸奥条約)に調印。ドイツ駐在通算21年。二度目の妻はドイツ貴族の娘。初代駐米大使。外相も数度歴任。
- 陸奥宗光(むつ むねみつ、en:Mutsu Munemitsu)
- 天保15年(1844年)生。慶応元年(1865年)長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。慶応3年(1867年)坂本龍馬の海援隊に加わる。明治17年(1884年)ヨーロッパ留学。
- 明治19年(1886年)外務省に出仕。明治21年(1888年)、駐米公使兼駐メキシコ公使として、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結。
- 明治期に不平等条約の改正に尽力し、日英通商航海条約(陸奥条約)により治外法権の撤廃を実現。
- 明治28年(1995年)下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。外務大臣(第2次伊藤内閣)。主著『蹇々録』。
- 山田顕義(やまだ あきよし)
- 天保15年(1844年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団に兵部省理事官として随行。明治6年(1873年)初代清国特命全権公使に任命(佐賀の乱鎮圧のため赴任せず)。司法卿(1883年‐1885年)、初代司法大臣(1885年-1891年)として明治期の法典編纂を進める。明治22年(1889年)日本法律学校(日本大学の前身)を設立。
- 桂太郎(かつら たろう、en:Katsura Tarō)
- 弘化4年(1848年)生。明治3年(1870年)ドイツ留学。ドイツ駐在武官。英露間の対立(グレート・ゲーム、zh:大博弈)、ドイツの世界政策(de:Weltpolitik)、アメリカの門戸開放政策(en:Open Door Policy)が交錯し、イギリスの覇権国家としての地位(光栄ある孤立、en:Splendid isolation)が不安定になる中、義和団の乱(en:Boxer Rebellion、Yihetuan Movement)後、満州占領を継続するロシアに対抗するため、第1次桂内閣において小村寿太郎を外相に起用し、明治35年(1902年)日英同盟(en:Anglo-Japanese Alliance、zh:英日同盟)を締結し、日露戦争(1904年-1905年、en:Russo-Japanese War、 ru:Русско-японская война、 zh:日俄战争)に勝利する。台湾総督・陸軍大将・内閣総理大臣。
- 日露戦争での日本の勝利については、インドのネルーが「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」(『父が子に語る世界史』)と記すなど、当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々に重大な影響を与える。
- 日露戦争の影響を受けて、ロシア帝国の植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、ガージャール朝(fa:قاجاریان、en:Qajar dynasty)におけるイラン立憲革命(fa:جنبش مشروطه ایران、en:Persian Constitutional Revolution)や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウ(vi:Phan Bội Châu)の東遊運動(vi:Phong trào Đông Du、en:Đông Du)、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等が実現する。
- 西園寺公望(さいおんじ きんもち、en:Saionji Kinmochi)
- 嘉永2年(1849年)生。明治3年(1871年)から明治13年(1881年まで)フランスに留学。ソルボンヌ大学初の日本人学士。伊藤博文による憲法調査の随員として渡欧。駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使、駐ベルリン・ドイツ帝国公使。パリ講和会議(en:Paris Peace Conference、 fr:Conférence de paix de Paris、 de:Pariser Friedenskonferenz、 zh:巴黎和会)の首席全権。外務大臣・内閣総理大臣。
- 林董(はやし ただす)
- 嘉永3年(1850年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応2年(1866年)幕命によりイギリス留学。明治4年(1871年)外務省出仕、岩倉使節団随行二等書記官。工部大学校(東京大学工学部の前身の一つ)設立に従事。明治28年(1995年)駐北京公使として三国干渉による遼東還付条約に調印。明治35年(1902年)駐英公使として日英同盟に調印。ポーツマス講和会議後の明治38年(1905年)、在英公使館の大使館昇格に伴い初代駐英大使となる[6]。外務大臣・逓信大臣。
1851年から1860年に生誕した者
- 栗野慎一郎(くりの しんいちろう)
- 嘉永4年(1851年)生。慶応元年(1865年)藩費留学生として長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。明治8年(1875年)再び藩費留学生としてハーバード大学で法律を学ぶ。明治14年(1881年)外務省入省。駐ロシア公使の時、日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力するが、ロシア政府に宣戦布告文を提出する。初代駐フランス大使。
- 寺内正毅(てらうち まさたけ)
- 嘉永5年(1852年)生。フランス駐在武官。韓国統監として韓国併合(en:Japan–Korea Annexation Treaty、 ko:한일 병합 조약)を推し進める。元帥陸軍大将・陸軍大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣。
- 金子堅太郎(かねこ けんたろう)
- 嘉永6年(1853年)生。岩倉使節団に随行し、米国の小・中学校を経てハーバード大学法学部を卒業。大日本帝国憲法の起草に参画。農商務次官・農商務大臣・司法大臣。
- 日露戦争に際して米国での広報外交を担当、ポーツマスでの講和会議が暗礁に乗り上げるとセオドア・ルーズベルト(en:Theodore Roosevelt、 zh:西奥多·罗斯福)米国大統領に援助を求め、ポーツマス条約の成立に貢献。
- 高橋是清(たかはし これきよ、en:Takahashi Korekiyo)
- 嘉永7年(1854年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応3年(1867年)米国留学。明治6年(1873年)文部省入省。日露戦争に際して日銀副総裁として戦費調達のために戦時外債の公募を担当。特許局初代局長・横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣・内閣総理大臣。二・二六事件で遭難。
- 小村寿太郎(こむら じゅたろう、en:Komura Jutarō)
- 安政2年(1855年)生。明治8年(1875年)鳩山和夫らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれ、ハーバード大学へ留学。司法省を経て、明治17年(1884年)外務省へ転出。外相として日英同盟締結を推進。ポーツマス条約全権。日露戦争後の外交に強い影響。明治44年(1911年)日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たす。駐米公使・駐露公使・外務大臣(第1次桂内閣、第2次桂内閣)。
- 鳩山和夫(はとはま かずお)
- 安政3年(1856年)生。明治8年(1875年)小村寿太郎らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれて米国留学、コロンビア大学で法学士、イェール大学で法学博士。明治18年(1885年)外務省入省。衆議院議長・早稲田大学学長。子に鳩山一郎、孫に鳩山威一郎、曾孫に鳩山由紀夫・鳩山邦夫。
- 原敬(はら たかし、en:Hara Takashi)
- 珍田捨巳(ちんだ すてみ)
- 安政3年(1857年)生。明治10年(1877年)から4年間アメリカ留学。帰国後、外務省入省。初代の外務次官。駐独大使・駐米大使。
- 後藤新平(ごとう しんぺい、en:Gotō Shinpei)
- 安政4年(1857年)生。明治23年(1890年)ドイツ留学。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として、東京の帝都復興計画を立案した。
- 大正12年(1923年)東京市長として後藤・ヨッフェ会談を行い、ソビエト連邦との国交正常化の契機を作る。昭和3年(1928年)ソ連を訪問、スターリンと会見し、国賓待遇を受ける。初代満鉄総裁・初代内閣鉄道院総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣。
- 斎藤実(さいとう まこと、en:Saitō Makoto)
- 安政5年(1858年)生。明治17年(1884年)から明治21年(1888年)までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官。海軍大臣・海軍大将・朝鮮総督・ジュネーブ海軍軍縮会議全権・内閣総理大臣兼外務大臣。昭和11年(1936年)内大臣在任時に二・二六事件で遭難。
- 加藤高明(かとう たかあき)
- 安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐英公使、外務大臣・内閣総理大臣。第4次伊藤内閣(1900年‐1901年)の外相として日英同盟の推進に尽力。第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦(1914年‐1918年)への参戦、対華21ヶ条要求(1915年)などに辣腕を振るう。
- 林権助(はやし ごんすけ)
- 安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。日露戦争中、駐韓公使として日韓議定書に締結し、対韓・対露強硬外交を推進。後の日韓併合への足がかりを作る。国際連盟(en:League of Nations、 fr:Société des Nations、 de:Völkerbund、 es:Sociedad de las Naciones、 zh:國際聯盟、 ru:Лига Наций、 ar:عصبة الأمم、 fa:جامعه ملل、 tr:Milletler Cemiyeti)日本代表。
1861年から1870年に生誕した者
- 加藤友三郎(かとう ともさぶろう、en:Katō Tomosaburō)
- 牧野伸顕(まきの のぶあき、en:Makino Nobuaki)
- 文久元年(1861年)生。明治4年(1871年)実父である大久保利通とともに岩倉使節団に加わり渡米、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年(1874年)帰国。明治13年(1880年)外務省入省。外務大臣(第1次山本内閣)・宮内大臣。
- パリ講和会議の国際連盟委員会最終会合において次席全権大使として人種的差別撤廃提案(en:Racial Equality Proposal、fr:Principe de l'égalité des races、es:Propuesta de igualdad racial)を行う。
- ロシアのウラジミール・レーニン(en:Vladimir Lenin、zh:弗拉基米尔·列宁)の「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を唱えたウッドロウ・ウィルソン(en:Woodrow Wilson、zh:伍德罗·威尔逊)米国大統領が議長であり、ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、日本代表・フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、3分の2を超える計11名の委員が賛成する(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対又は保留)。しかしウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、人種的差別撤廃提案の実現を阻まれる。
- 新渡戸稲造(にとべ いなぞう、en:Nitobe Inazō)
- 文久2年(1862年)生。国際連盟(en:League of Nations、fr:Société des Nations、zh:國際聯盟)事務次長(1920年-1926年)。”Bushido: The Soul of Japan”(『武士道』)の著者。東京女子大学初代学長。
- 明石元二郎(あかし もとじろう)
- 元治元年(1864年)生。ドイツ留学、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、明治34年(1901年)フランス公使館付陸軍武官、明治35年(1902年)ロシア帝国公使館付陸軍武官。日露戦争開戦後、ヨーロッパを舞台にロシア第一革命(en:Russian Revolution of 1905)支援工作を画策し、日本の勝利に貢献する。台湾総督・陸軍大将。
- 堀口九萬一(ほりぐち くまいち)
- 元治2年(1865年)生。明治27年(1894年)外務省入省(日本初の外交官及領事官試験に合格)。メキシコ臨時代理公使。メキシコ革命(1910年-1920年)に際してフランシスコ・マデロ大統領の遺族を保護。
- 内田康哉(うちだ やすや)
- 慶応元年(1865年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐米大使・駐露大使・外務大臣。外務大臣として、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制という第一次世界大戦後の国際協調体制の構築に関与する一方、満州国設立・国際連盟脱退時の外相でもある。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である(第2次西園寺内閣、原内閣・高橋内閣・加藤友三郎内閣、齋藤内閣)。
- 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
- 慶応2年(1866年)生。明治25年(1892年)大蔵省入省。1930年ロンドン海軍軍縮会議首席全権。大蔵大臣・内務大臣・首相。
- 石井菊次郎(いしい きくじろう)
- 慶応2年(1866年)生。明治23年(1890年)外務省入省。大正6年(1917年)特命全権大使として石井・ランシング協定を結ぶ。駐仏大使・外務大臣(第2次大隈内閣)。
- 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)
- 慶応3年(1868年)生。明治34年(1901年)ドイツ駐在武官。太平洋戦争終結時の首相(1945年4月7日-8月17日)。二・二六事件で 頭部・胸部等に被弾し瀕死の重傷を負うも奇跡的に回復する。海軍大将。
- 秋山真之(あきやま さねゆき)
- 宇垣一成(うがき かずしげ、en:Kazushige Ugaki)
- 慶応4年(1868年)生。明治35年(1902年)、明治40年(1910年)の2度ドイツ留学。軍部ファシズムの流れに批判的であり、中国、英米に対して穏健な姿勢であったため、昭和12年(1937年)に組閣の大命降下がなされるも陸軍大臣が得られず失敗する(「宇垣流産内閣」)。
- 日中戦争開始後の第1次近衛内閣(改造)で、「国民政府を対手とせず」との近衛声明の撤回を条件に外務大臣に就任し、英国を介して、孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、現実的な和平条件引き出しに成功したが、近衛文麿に梯を外され外相を辞任(事実上の更迭)。陸軍大将・朝鮮総督・外務大臣。
1871年から1880年に生誕した者
- 諸井六郎(もろい ろくろう)
- 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう、en:Kijūrō Shidehara)
- 明治5年(1872年)生。明治29年(1896年)外務省入省。ワシントン会議全権。戦前、外相として国際協調路線の「幣原外交」を推進(加藤高明内閣・第1次若槻内閣、濱口内閣・第2次若槻内閣)。
- 戦後、内閣総理大臣に就任し日本国憲法の制定に関わる。中でも第9条は幣原が発案したとする説がある。
- 芳澤謙吉(よしざわ けんきち)
- 明治7年(1874年)生。明治32年(1899年)外務省入省。大正14年(1925年)ソ連のレフ・カラハンと日ソ基本条約を締結、日ソ間の国交を樹立する。昭和15年(1940年)蘭印経済交渉特命全権・昭和16年(1941年)駐仏印特命全権大使。外務大臣。
- 渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)
- 明治7年(1874年)生。明治42年(1909年)ドイツ大使館付武官補佐官、大正6年(1917年)オランダ公使館付武官。陸軍大将。陸軍教育総監在任時に二・二六事件で遭難。
- 松平恆雄(まつだいら つねお)
- 明治10年(1877年)生。明治35年(1902年)外務省入省。ロンドン海軍軍縮会議首席全権・外務次官・駐米大使・駐英大使・宮内大臣。会津藩主・京都守護職松平容保の六男。
- 野村吉三郎(のむら きちさぶろう)
- 明治10年(1877年)生。オーストリア・ドイツ駐在を経て、大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで駐米大使館付武官。パリ講和会議及びワシントン軍縮会議全権団随員。太平洋戦争日米開戦時の駐米大使。海軍大将・外務大臣。国際法の権威として知られる。海軍大将。
- 廣田弘毅(ひろた こうき)
- 明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。オランダ公使、ソ連大使。外務大臣(第1次近衛内閣)・内閣総理大臣。日中戦争(en:Second Sino-Japanese War、zh:中国抗日战争)の開始、軍部大臣現役武官制の復活の責任などにより文官唯一のA級戦犯として処刑。
- 吉田茂(よしだ しげる、en:Shigeru Yoshida)
- 明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐英大使、首相。中国権益に対しては積極論者であり、満蒙分離論を支持する一方、覇権国英米との関係を重視し、日独防共協定・日独伊三国同盟には強硬に反対する。
- 昭和26年(1951年)首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結する。
- 畑俊六(はた しゅんろく)
- 明治12年(1879年)生。明治45年(1912年)駐ドイツ大使館付武官補佐官、大正7年(1918年)パリ講和会議全権随員。温厚で誠実な人柄から陸軍の暴走に歯止めを掛けることが期待されるが、軍部大臣現役武官制下で米内内閣の陸軍大臣を単独辞職し、内閣を瓦解させてしまう。陸軍大臣・元帥陸軍大将。
- 米内光政(よない みつまさ、en:Mitsumasa Yonai)
- 明治13年(1880年)生。大正4年(1915年)ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。
- 昭和11年(1936年)12月12日の西安事件により、中国国民党は中国共産党との共同抗日へと方針変更する。昭和12年(1937年)7月7日の発生した盧溝橋事件は日中いずれから仕掛けられたのか不明であるが、日本は不拡大方針を採り、同月11日は停戦協定(松井・秦徳純協定)が成立する。しかし、その後の、中国共産党から国共合作による徹底抗戦の呼びかけがなされ、また、胡適の日本切腹中国介錯論(1935年、一種の焦土作戦)に基づくと思われる蒋介石の「最後の関頭」演説(『あらゆる犠牲を払ってでも徹底抗戦すべきである』)で抗戦の覚悟が公式に明らかにされると、中国側からの日本軍・日本人居留民に対する襲撃が繰り返し実行される。同年8月13日、中国軍による日本租界への襲撃である第二次上海事変が発生すると、米内は閣議で断固膺懲、陸軍派兵を主張し、トラウトマン工作については交渉打切りを強く主張、「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の第一次近衛声明につながる。
- 日独防共協定(en:Anti-Comintern Pact、de:Antikominternpakt、zh:反共產國際協定)締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派である。日独伊三国軍事同盟にも「日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と反対する。
- 太平洋戦争の終盤から海軍省廃止時まで海軍大臣を務める。連合艦隊司令長官・海軍大臣・海軍大将・内閣総理大臣。
- 松岡洋右(まつおか ようすけ、en:Yōsuke Matsuoka)
- 明治13年(1880年)生。明治26年(1893年)から9年間アメリカ留学。明治37年(1904年)外務省入省。国際連盟脱退時のジュネーブ総会首席全権。脱退直前の連盟総会において、日本による満州国承認に対して批判的な各国の厳しい雰囲気の中、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を英語で行う。満鉄総裁・外務大臣。
- 第2次近衛内閣の外相としてヒトラー(de:Adolf Hitler、zh:阿道夫·希特勒)が率いるナチスドイツ(en:Nazi Germany、zh:納粹德國)、ムッソリーニ(it:Benito Mussolini、zh:贝尼托·墨索里尼)が率いるイタリアと日独伊三国軍事同盟(en:Tripartite Pact、de:Dreimächtepakt、zh:三国同盟条约)に調印する。さらにヨシフ・スターリン(en:Joseph Stalin、zh:约瑟夫·斯大林)が指導するソビエト連邦(en:Soviet Union、zh:苏联)と日ソ中立条約に調印し、4国の連携で米英に対抗することを目指したが、独ソ戦の開始により目論見が破綻する。
1881年から1890年に生誕した者
- 梅津美治郎(うめづ よしじろう)
- 明治15年(1882年)生。駐スイス公使館付駐在武官、駐満州国大使。昭和10年(1935年)、華北で相次いだ抗日・民族主義運動を撲滅するため梅津・何応欽協定を締結する。昭和11年(1936年)の二・二六事件後、陸軍次官に就任し、粛軍人事を行う。昭和20年(1945年)9月2日、重光葵とともに、大本営全権として太平洋戦争の降伏文書に調印する。陸軍大将。
- 佐藤尚武(さとう なおたけ)
- 明治15年(1882年)生。明治38年(1905年)外務省入省。国際連盟帝国事務局長・ロンドン海軍軍縮会議事務総長・駐仏大使・外務大臣。ソ連対日参戦時の駐ソ大使。第二次世界大戦でドイツ降伏後、ソ連を通じた連合国との交渉を試みるが、ソ連からは無視された。ソ連の対日参戦の情報をつかみ損ね、奇襲を受けることになる。
- 武者小路公共(むしゃこうじ きんとも)
- 明治15年(1882年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐独大使の時、日独防共協定締結の交渉に当たり、同協定に調印した(1936年11月25日)。
- 東郷茂徳(とうごう しげのり)
- 明治15年(1882年)生。大正元年(1912年)外務省入省。太平洋戦争開戦時の外務大臣(東條内閣)として野村吉三郎、来栖三郎とともに開戦回避交渉を担当し、終戦時の外務大臣(鈴木貫太郎内閣)としてソ連の仲介による和平交渉を模索する。
- 山本五十六(やまもと いそろく、en:Isoroku Yamamoto)
- 明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)ハーバード大学留学。大正14年(1925年)駐米大使館付武官。ロンドン軍縮会議次席随員。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。元帥海軍大将・連合艦隊司令長官。
- 東條英機(とうじょう ひでき、en:Hideki Tojo)
- 明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)駐スイス武官。太平洋戦争(en:Pacific War、zh:太平洋战争)開戦時の内閣総理大臣。昭和18年(1943年)11月大東亜会議(en:Greater East Asia Conference、zh:大東亞會議)を主催し、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言を採択する。参加者:汪兆銘中華民国行政院長、張景恵満州国務総理、ホセ・ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ内閣総理大臣、ワンワイタヤーコーンタイ親王(首相代理)、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班。陸軍大将・陸軍大臣。
- 有田八郎(ありた はちろう)
- 大島浩(おおしま ひろし)
- 明治19年(1886年)生。駐独大使館付武官から、大使に就任。日独伊三国同盟による枢軸外交実現のために奔走する。第二次世界大戦(en:World War II、fr:Seconde Guerre mondiale、de:Zweiter Weltkrieg、zh:第二次世界大战)末期になっても、ドイツ有利との誤った戦況報告を日本政府に流し続ける。
- 来栖三郎(くるす さぶろう)
- 明治19年(1886年)生。明治43年(1910年)外務省入省。駐ドイツ大使として日独伊三国軍事同盟を締結・調印(1940年9月27日)。日米開戦時の交渉担当大使。
- 石射猪太郎 (いしい いたろう)
- 重光葵(しげみつ まもる)
- 明治20年(1887年)生。明治44年(1911年)外務省入省。満州事変の勃発に際し「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線での収拾に奔走。
- 太平洋戦争後の連合国への降伏文書調印において、日本政府全権として署名(1945年9月2日)。東條内閣・小磯内閣・東久邇宮内閣で外務大臣。
- 天羽英二(あもう えいじ)
- 明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。駐イタリア大使・外務次官。昭和9年(1934年)4月に、日本がアジア・モンロー主義を宣言したと解釈された「天羽声明」で有名。
- 白鳥敏夫(しらとり としお)
- 明治20年(1887年)生。大正3年(1914年)外務省入省。スウェーデン公使・駐イタリア大使。大島浩駐独大使と連携して防共協定強化、日独伊三国同盟の推進を図る。
- 芦田均(あしだ ひとし、en:Hitoshi Ashida)
- 明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。最初の勤務地ロシアで1917年ロシア革命(en:Russian Revolution、ru:Русская революция)に遭遇する。外務大臣・内閣総理大臣。
- 斎藤隆夫の反軍演説の際には除名に反対票を投じる。昭和16年(1941年)の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選。
- 衆議院帝国憲法改正小委員会委員長として、戦力不保持を定める憲法案第9条第2項に「前項の目的を達するため」との文言を追加する芦田修正を行い、これにより自衛力保持の余地が残された。
- 主著として、『最近世界外交史』(全3巻、明治図書(1934年)、改訂復刻:時事通信社(1965年))、『第二次世界大戦前史』(1959年 時事通信社)、『第二次世界大戦外交史』(時事通信社1960年、復刊1975年、岩波文庫(上下)2015年)。
- 松井太久郎(まつい たくろう)
- 明治20年(1887年)生。昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件発生当時の北京特務機関長。同事件発生から4日後の7月11日に、北京市長兼第二九軍副司令官の秦徳純と停戦協定を締結する(松井=秦徳純協定)。陸軍中将。
- 松井=秦徳純協定により事態が収拾したにもかかわらず、その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃が連続し、戦闘が本格化する。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。
- 石原莞爾(いしわら かんじ、en:Kanji Ishiwara)
- 明治22年(1889年)生。駐独大使館付武官・駐満大使館付武官。入念・緻密な計画に基づいて、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起こし、満州事変(en:Mukden Incident、zh:九一八事變)を成功させた首謀者である。
- ニ・ニ六事件では反乱軍鎮圧の先頭に立ち、日中戦争(en:Second Sino-Japanese War、zh:中国抗日战争)に際しては不拡大方針を唱え、トラウトマン工作に関与。関東軍作戦参謀・陸軍中将・立命館大学国防学研究所長。
- 井上成美(いのうえ しげよし)
- 明治22年(1889年)生。大正7年(1918年)スイス国駐在ドイツ語習得従事。大正9年(1920年)フランス国駐在フランス語習得従事。昭和2年(1927年)在イタリア日本大使館付海軍駐在武官。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。海軍次官・海軍大将(海軍大将となった最後の軍人である)。
1891年から1920年に生誕した者
- 岸信介(きし のぶすけ、en:Nobusuke Kishi)
- 明治29年(1896年)生。大正9年(1920年)農商務省入省。昭和6年(1931年)重要産業統制法を起案実施。満州国にて満州産業開発五カ年計画を実施。
- 外相・首相として、日米安保条約の改定を断行(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、en:Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)。
- 松本俊一(まつもと しゅんいち)
- 明治30年(1897年)生。大正10年(1921年)外務省入省。外務次官・駐英大使。鳩山一郎首相から日ソ交渉全権代表に起用され、昭和30年(1955年)6月からロンドンにおけるソ連側全権代表ヤコフ・マリク駐イギリス大使との会談で日ソ国交回復及び日本の国際連合(en:United Nations、fr:Organisation des Nations unies、de:Vereinte Nationen、es:Organización de las Naciones Unidas、zh:联合国、ru:Организация Объединённых Наций、ar:الأمم المتحدة)加盟への道を開く。
- 加瀬俊一(かせ しゅんいち、通称「大加瀬」)
- 明治30年生(1897年)生。大正9年(1920年)外務省入省。昭和19年(1944年)から中立国スイス駐在公使に就任し、ドイツ敗戦後、和平工作を試み、ポツダム宣言(en:Potsdam Declaration、zh:波茨坦公告)受諾の正式な通知を連合国代表に対して行う。駐メキシコ大使・駐西独大使。
- 杉原千畝(すぎはら ちうね、en:Chiune Sugihara)
- 明治33年(1900年)生。大正8年(1919年)外務省官費留学生としてハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。大正13年(1924年)外務省に書記生として採用。
- 第二次世界大戦期の在カウナス(リトアニア)日本領事館領事代理として、訓令に反し約6000人のユダヤ人避難民に通過査証を発行し救う。
- 佐藤栄作(さとう えいさく、en:Eisaku Satō)
- 明治34年(1901年)生。内閣総理大臣(1964年-1972年)として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。1974年にノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。内閣官房長官、郵政大臣、建設大臣、大蔵大臣、通産大臣などを歴任。
- 白洲次郎(しらす じろう)
- 明治35年(1902年)生。大正8年(1919年)イギリス留学。戦後、吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。貿易庁長官・サンフランシスコ講和会議全権団顧問・外務省顧問。
- 加瀬俊一(かせ としかず、通称「小加瀬」)
- 明治36年(1903年)生。大正14年(1925年)外務省入省。松岡洋右の国際連盟脱退時及び日ソ中立条約締結時に随行。アジア・アフリカ会議に外相代理として出席。昭和30年(1955年)初代国際連合(en:United Nations)大使。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に向け積極的なロビー活動を行う。
- 福田赳夫(ふくだ たけお、en:Takeo Fukuda)
- 明治38年(1905年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。在英日本大使館勤務。汪兆銘政権の財政顧問。
- 首相として中国へのODA開始、積極的な東南アジアへの開発援助、福田ドクトリン(東南アジア外交三原則)の発表(昭和52年(1977年))を行う。外務大臣・内閣総理大臣。
- 渡辺武(わたなべ たけし)
- 明治39年(1906年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。終戦連絡部長(後の渉外部長)。昭和24年(1949年)初代の財務官。昭和27年(1952年)駐米公使。昭和31年(1956年)国際通貨基金兼世界銀行理事として外資の借入れ交渉や対日融資の増加に尽力。昭和41年(1966年)から昭和47年(1972年)まで初代のアジア開発銀行総裁。
- 下田武三(しもだ たけぞう)
- 明治40年(1907年)生。昭和6年(1931年)外務省入省。ポツダム宣言の翻訳、沖縄返還、日米繊維交渉など、日米交渉に深く関与する。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。
- 牛場信彦(うしば のぶひこ)
- 明治42年(1909年)生。昭和7年(1932年)外務省入省。戦時中は革新派の外交官として知られ、英国の仲介で日中戦争の収拾に当たった宇垣一成外相の方針に反発する。
- 戦後は、外務事務次官に就任。退官後、駐米大使として沖縄返還交渉、日米繊維摩擦交渉に当たる。福田赳夫改造内閣の対外経済担当大臣として欧米との経済摩擦の緩和に奔走する。
- 今井善衛(いまい ぜんえい)
- 大正2年(1913年)生。昭和12年(1937年)商工省入省。駐米大使館書記官・通商産業省通商局長・通産事務次官。GATT11条国への移行(国際収支上の理由で貿易制限ができなくなる。)、国際通貨基金(IMF)8条国への移行(国際収支上の理由で為替制限ができなくなる。)、OECD加盟(資本自由化)、国内市場開放が問題となっていた高度経済成長期に「国際派」「自主調整派」として早期の市場の自由化を唱える。
- 高橋展子(たかはし のぶこ)
- 大正5年(1916年)生(女性)。1947年労働省入省。国際労働機関(ILO)事務局長補(1976年-1978年)、1980年、日本初の女性大使として駐デンマーク大使、同年7月17日「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本を代表して署名する。
- en:Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women
- fr:Convention sur l'élimination de toutes les formes de discrimination à l'égard des femmes
- es:Convención sobre la Eliminación de Todas las Formas de Discriminación contra la Mujer
- ru:Конвенция о ликвидации всех форм дискриминации в отношении женщин
- ar:اتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة
- zh:消除對婦女一切形式歧視公約
- 澄田智(すみた さとし)
- 大正5年(1916年)生。昭和15年(1940年)大蔵省入省。駐フランス大使館勤務。大蔵事務次官・日本輸出入銀行総裁・日本銀行総裁。日銀総裁としてプラザ合意(en:Plaza Accord、zh:广场协议)後の急激な円高に対応する。
- 中曽根康弘(なかそね やすひろ、en:Yasuhiro Nakasone)
- 大正7年(1918年)生。昭和16年(1941年)内務省入省、海軍主計中尉任官。科学技術庁長官・運輸大臣・防衛庁長官・通商産業大臣・内閣総理大臣等を歴任。昭和58年(1983年)の第9回先進国首脳会議(ウィリアムズバーグ・サミット)で、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否かが議論になり、米(ロナルド・レーガン、en:Ronald Reagan、zh:罗纳德·里根)・英(マーガレット・サッチャー、en:Margaret Thatcher、zh:玛格丽特·撒切尔)と、その他の参加国で見解が分かれた際、中曽根が「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン(fr:François Mitterrand、zh:弗朗索瓦·密特朗)大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」と発言し、共同声明を主導した。
- 大河原良雄(おおかわら よしお)
- 大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)外務省入省。駐豪大使、駐米大使(1980年-1985年)。蜜月だった中曽根康弘首相とロナルド・レーガン米国大統領の「ロン・ヤス関係」を裏方で支える[7]。世界平和研究所(現、中曽根康弘世界平和研究所)理事長。
- 両角良彦(もろずみ よしひこ)
- 大正8年(1919年)生。昭和16年(1941年)商工省入省。駐フランス大使館書記官・通産事務次官。佐橋滋とともに、貿易自由化・資本自由化に対応するため国内産業の合理化を目的とする特定産業振興臨時措置法案(未成立)を推進する。
- 宮澤喜一(みやざわ きいち)
- 大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)大蔵省入省。サンフランシスコ講和会議全権随員。経済企画庁長官・通商産業大臣・外務大臣・内閣官房長官・大蔵大臣・初代財務大臣・内閣総理大臣等を歴任。宮澤内閣においてPKO協力法を成立させ、自衛隊カンボジア派遣を実施する。
1921年から1940年に生誕した者
- 山下英明(やました えいめい)
- 大正12年(1923年)生。昭和18年(1943年)商工省入省。戦後、駐カナダ大使館書記官。通産省通商局長として日米繊維交渉を決着させる。通産事務次官として第一次オイルショックに対応。
- 三井物産副社長としてイラン革命(1979年、en:Iranian Revolution、fa:انقلاب ۱۳۵۷ ایران、ar:الثورة الإسلامية الإيرانية、zh:伊朗伊斯蘭革命)、イラン・イラク戦争(1980年-1988年、en:Iran–Iraq War、fa:جنگ ایران و عراق、ar:حرب الخليج الأولى、zh:两伊战争)によるイラン・ジャパン石油化学事業(IJPC)からの撤退を決断する。
- 緒方貞子(おがた さだこ)
- 赤松良子(あかまつ りょうこ)
- 昭和4年(1929年)生(女性)。1953年労働省入省。1979年国連日本政府代表部公使、1983年初代婦人局長、1985年男女雇用機会均等法の制定に尽力。1986年駐ウルグアイ大使、文部大臣(1993年-1994年、細川内閣、羽田内閣)。
- 明石康(あかし やすし)
- 昭和6年(1931年)生。昭和32年(1957年)国連採用。昭和49年(1974年)外務省入省。国連事務次長。平成4年(1992年)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表。平成6年(1994年)旧ユーゴ問題担当事務総長特別代表として国際連合保護軍(UNPROFOR)の最高指揮権を付与される。
- 小和田恒(おわだ ひさし)
- 昭和7年(1932年)生。昭和30年(1955年)外務省入省。国連大使・外務事務次官。コロンビア大学・ニューヨーク大学などで国際法の客員教授。国際司法裁判所(en:International Court of Justice、fr:Cour internationale de justice、es:Corte Internacional de Justicia、zh:国际法院)判事・所長。皇太子妃雅子の父。
- 片倉邦雄(かたくら くにお)
- 昭和8年(1933年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。中近東アフリカ局第二課長、駐アラブ首長国連邦大使(1986年-1989年)、駐イラク大使(1990年-1991年)、駐エジプト大使(1994年-1997年)。駐イラク大使在任時、イラクのクウェート侵攻が勃発し、湾岸戦争(「人間の盾」作戦)に際して人質にされた在留邦人の解放に尽力する。『JAPAN and the MIDDLE EAST』(英文、共著、1994年、中東調査会)、『アラビスト外交官の中東回想録』(2005年、明石書店)著。
- 堀田力(ほった つとむ)
- 昭和9年(1934年)生。昭和36年(1961年)検事任官。昭和47年(1972年)在米大使館一等書記官。東京地検特捜部検事としてロッキード事件を捜査、米国での嘱託尋問を担当し、起訴後公判検事として田中角栄元首相に論告求刑をする。
- 佐藤ギン子(さとう ぎんこ)
- 昭和9年(1934年)生(女性)。1958年、労働省入省。1986年婦人局長、ケニア大使(1991年-1995年)、1998年証券取引等監視委員会委員長、2003年日立製作所取締役。
- 棚橋祐治(たなはし ゆうじ)
- 昭和9年(1934年)生。昭和33年(1958年)通商産業省入省。産業政策局長として日米構造協議(1989-90年)を担当。通産事務次官。
- 福田博(ふくだ ひろし)
- 昭和10年(1935年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。条約局長・外務審議官(政務担当)・最高裁判所判事。
- 松浦晃一郎(まつうら こういちろう)
- 昭和12年(1937年)生。昭和34年(1959年)外務省入省。駐仏大使・国際連合教育科学文化機関(en:UNESCO、zh:联合国教育、科学及文化组织)事務局長。
- 柳井俊二(やない しゅんじ)
- 昭和12年(1937年)生。昭和36年(1961年)外務省入省。条約局長・初代の総合外交政策局長・事務次官・駐米大使。国際海洋法裁判所(en:International Tribunal for the Law of the Sea、fr:Tribunal international du droit de la mer、de:Internationaler Seegerichtshof、es:Tribunal Internacional del Derecho del Mar、zh:国际海洋法法庭)判事・裁判所長。
- 丹羽宇一郎(にわ ういちろう)
- 昭和14年(1939年)生。伊藤忠商事株式会社社長(1998年-2004年)・会長(2004年-2010年)を務めた後、民主党政権下の中華人民共和国大使(2010年-2012年)。
- 「ワシントン・コンセンサス」に対し、「1989年のベルリンの壁崩壊後、社会主義の敗北が明らかになって以降、IMF、世界銀行および米国財務省の間で広く合意された米国流の新古典派対外経済戦略で、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界中に広く輸出し、米国主導の資本主義を押し広げようとする動きである」と説明し、これに批判を加える[8]。
- 加藤紘一(かとう こういち)
- 昭和14年(1939年)生。昭和39年(1964年)外務省入省。中国課次席事務官・防衛庁長官・内閣官房長官・自由民主党幹事長。
- 原田明夫(はらだ あきお)
- 昭和14年(1939年)生。昭和40年(1965年)東京地方検察庁検事任官。在米大使館一等書記官としてロッキード事件の捜査のため堀田力検事をサポートし、米側からの資料提供やロッキード社のコーチャン副会長の嘱託尋問を実現させる[9]。法務省刑事局総務課国際犯罪対策室長・検事総長。
1941年から1950年に生誕した者
- 高村正彦(こうむら まさひこ)
- 昭和17年(1942年)生。第2次橋本内閣の外務政務次官、第1次安倍改造内閣の防衛大臣、小渕内閣、福田康夫内閣の外務大臣(1998年-1999年、2007年-2008年)。外務政務次官として在ペルー日本大使公邸占拠事件(1996年-1997年)に対処。その他経済企画庁長官・法務大臣等を歴任。自由民主党副総裁(2012年~)。
- 武藤敏郎(むとう としろう)
- 昭和18年(1943年)生。昭和41年(1966年)大蔵省入省。在米大使館一等書記官。主計局長。最後の大蔵事務次官かつ初代の財務事務次官。日本銀行副総裁・株式会社大和総研理事長・学校法人開成学園理事長兼学園長・東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長。
- 竹内行夫(たけうち ゆきお)
- 昭和18年(1943年)生。昭和42年(1967年)外務省入省。外務事務次官・最高裁判所判事。
- 大島正太郎(おおしま しょうたろう)
- 昭和18年(1943年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。経済局長、世界貿易機関(WTO)紛争解決機関議長・上級委員。
- 谷内正太郎(やち しょうたろう)
- 昭和19年(1944年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。条約局長・総合外交政策局長・外務事務次官。外務事務次官として価値観外交を具体化した政策「自由と繁栄の弧」を立案・推進。平成26年(2014年)初代の国家安全保障局長。
- 北朝鮮核・ミサイル問題に関する日米首脳会談(2018年4月17日)、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談(同月27日)に先立ち、同月12日、米国のジョン・ボルトン国家安全保障担当大統領補佐官と協議を行う。さらに、南北首脳会談後、米朝首脳会談に先立ち、ボルトンと会談し、北朝鮮が持つ生物・化学兵器を含む全ての大量破壊兵器とあらゆる弾道ミサイルの完全な放棄に向けて韓国を含む3カ国による連携を続けることで一致する[10]。
- 2018年6月10日、金杉憲治外務省アジア大洋州局長とともに、同月12日の米朝首脳会談の情報収集のためにシンガポールに派遣される[11]。
- 黒田東彦(くろだ はるひこ、en:Haruhiko Kuroda)
- 昭和19年(1944年)生。昭和42年(1967年)大蔵省入省。昭和44年(1969年)オックスフォード大学留学。国際通貨基金派遣職員・国際金融局長・国際局長(初代)・財務官。平成17年(2005年)アジア開発銀行総裁。平成25年(2013年)日本銀行総裁。日銀総裁として大胆な金融緩和とマイナス金利の導入を実施。
- 岡本行夫(おかもと ゆきお)
- 昭和20年(1945年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。北米局安全保障課長。退官後、株式会社岡本アソシエイツ設立、内閣総理大臣補佐官、内閣官房参与、内閣総理大臣外交顧問。
- 明石美代子(あかし みよこ)
- 昭和21年(1946年)生(女性)。昭和46年(1971年)専門職として外務省入省。2008年、女性専門職からの初の大使として、駐リトアニア大使(初代)に就任(~2012年)。
- 田中均(たなか ひとし)
- 天野之弥(あまの ゆきや)
- 昭和22年(1947年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。在ウィーン国際機関日本政府代表部大使、国際原子力機関(IAEA、en:International Atomic Energy Agency)事務局長(2009年~)。
- 北朝鮮核・ミサイル問題に関する日米首脳会談、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月9日、IAEA事務局長として、河野太郎外相と会談を行い、北朝鮮の核兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)に向けた、IAEAによる検証体制の重要性とその構築方法について協議する。
- 2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領がイラン核合意(JCPOA)離脱を表明したことを受け、同月9日、IAEA事務局長として、同大統領がIAEAによる査察が不十分であると指摘してきたことに反論し、イランが世界で最も厳しい査察を受けていると強調し、同日時点までイランは同合意を履行しているとの声明を出す[12]。同月14日、プーチンロシア大統領とイラン核合意の継続に向けて協議する[13]。
- 藤崎一郎(ふじさき いちろう)
- 昭和22年(1947年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。駐米大使(2008年-2012年)。2018年5月、ドナルド・トランプ米国政権の保護主義的主張に対し、日本が中国と組む選択肢はあるかとの質問に対し、「ない。中国は多くの政府系企業を抱え、政府調達は透明性を欠く。WTO(世界貿易機関)体制の最大の受益者でありながら、知的財産権の規律も不十分だ。日米の方が自由経済という意味ではるかに近い。」と発言する[14]。高祖父は伊藤博文。父は駐オランダ大使、駐タイ大使、最高裁判事等を歴任した外交官藤崎萬里。
- 薮中三十二(やぶなか みとじ)
- 昭和23年(1948年)生。大阪府立住吉高等学校卒業。大阪大学法学部を中退し、昭和44年(1969年)に専門職員として外務省入省後、上級職試験を受け直し、翌年上級職となる。昭和62年(1987年)から3年間北米局北米第二課長として日米の経済関係、日米構造協議を担当する。外務事務次官。
- 北岡伸一(きたおか しんいち)
- 昭和23年(1948年)生。平成16年(2004年)外務省へ出向、国際連合日本政府代表部次席代表・特命全権大使。G4案による国連安保理改革を推進。東京大学大学院法学政治学研究科教授(日本政治外交史)。
- 鈴木庸一(すずき よういち)
- 昭和25年(1950年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。駐フランス大使(2013年-2016年)。日本・EU経済連携協定(EPA)首席交渉官(2017年~)として、投資家対国家の紛争解決(ISDS、en:Investor-state dispute settlement)等の取扱いを交渉する。
1951年から1955年に生誕した者
- 小松一郎(こまつ いちろう)
- 昭和26年(1951年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。国際法局長・駐フランス大使。平成25年(2013年)内閣法制局長官(第2次安倍内閣)として、日本国憲法第9条に関し集団的自衛権の行使の可否の解釈の見直しに積極的に着手。
- 梅本和義(うめもと かずよし)
- 昭和26年(1951年)生。昭和52年(1977年)東京大学大学院理学系研究科修士課程数学専門課程を修了し、外務省入省。北米局長(2009年-2011年)、駐スイス大使(兼駐リヒテンシュタイン大使(2011年-2012年))、国連大使(2013年-2014年)、駐イタリア大使(兼駐アルバニア、駐サンマリノ、駐マルタ大使(2014年-2017年)、米国離脱後の環太平洋経済連携協定(TPP11、『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、CPTPP)の首席交渉官(2017年~)。
- 佐々江賢一郎(ささえ けんいちろう)
- 昭和26年(1951年)生。昭和49年(1974年)外務省入省。アジア大洋州局長・外務事務次官・駐米大使(2012年~2018年)。
- 鶴岡公二(つるおか こうじ)
- 昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。平成20年(2008年)国際法局長、平成22年(2010年)総合外交政策局長、平成25年(2013年)TPP政府対策本部主席交渉官。駐英大使(2016年~)。
- 齋木昭隆(さいき あきたか)
- 昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。アジア大洋州局長(2008年-2011年)、駐インド大使(2011年-2012年)、外務事務次官(2013年-2016年)。三菱商事株式会社顧問・取締役(2017年~)。
- 木寺昌人(きてら まさと)
- 昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。フランス語研修を受ける。国際協力局長、駐中国大使(2012年-2016年)、駐フランス大使(2016年~)。
- 別所浩郎(べっしょ こうろう)
- 昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。2007年初代国際協力局長、2008年総合外交政策局長、駐韓国大使(2012年-2016年)、国際連合日本政府常駐代表(国連大使、2016年~)。
- 杉山晋輔(すぎやま しんすけ)
- 昭和28年(1953年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。外務事務次官(2016年-2018年)、駐米大使(2018年~)。
- 奥田紀宏(おくだ のりひろ)
- 昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第二課長、駐アフガニスタン大使(2004年-2006年)、中東アフリカ局長(2006年-2008年)、駐エジプト大使(2010年-2013年)、駐サウジアラビア大使(2015年~2017年)。
- 石井正文(いしい まさふみ)
- 昭和29年(1954年)頃生。昭和54年(1979年)外務省入省。国際法局長(2013年‐2014年)、駐ベルギー大使(2014年‐2017年)、駐インドネシア大使(2017年~)。
- 片上慶一(かたかみ けいいち)
- 昭和29年(1954年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐ガーナ大使。平成23年(2011年)大臣官房審議官兼経済局・経済外交担当大使として環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結に向けた交渉にあたる。平成26年(2014年)欧州連合日本政府代表部特命全権大使。平成29年(2017年)TPP政府対策本部主席交渉官。駐イタリア大使(2017年~)。
- 鈴木敏郎(すずき としろう)
- 昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長(1995年-1998年)。2004年、湾岸戦争以来13年ぶりとなる駐イラク大使に就任。中東アフリカ局長(2008年-2010年)。2010年、駐シリア大使に就任するが、シリア騒乱に関連して、2012年6月29日、シリア政府よりペルソナ・ノン・グラータの指定を受け解任される。駐エジプト大使(2013年-2014年)、駐デンマーク大使(2016年~)。
- 安倍晋三(あべ しんぞう)
- 昭和29年(1954年)生。内閣総理大臣(2006年-2007年、2012年~)。2007年日米豪印戦略対話(en:Quadrilateral Security Dialogue)を提唱。2016年8月にアフリカ開発会議(TICAD、en:Tokyo International Conference on African Development、 fr:Conférence internationale de Tokyo sur le développement de l'Afrique)において成長著しいアジアと潜在力の高いアフリカを重要地域と位置付け、両者の連結性を高める「自由で開かれたインド太平洋戦略」(en:Free and Open Indo-Pacific Strategy)を提唱。
- 北朝鮮の核・ミサイル問題に関する米朝首脳会談に先立ち、2018年4月17日ドナルド・トランプ米国大統領と会談を行い、北朝鮮の核・ミサイルの「完全、検証可能かつ不可逆的な方法での廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement/Denuclearization)を目指す方針を確認し、非核化実現へ最大限の圧力を維持することで一致する[15]。同年5月11日、国際原子力機関(IAEA)による査察が行われる場合、日本が応分の費用を負担する考えを示す[16]。なお、当該費用負担が、短・中距離弾道ミサイルの廃棄、拉致問題の解決などを条件とするものであるか、報道内容からは不明である。
- 2018年5月28日、米朝首脳会談(6月12日開催)を前に、トランプ米国大統領との電話協議で、北朝鮮の核兵器に加え、生物・化学兵器と弾道ミサイル計画の完全かつ恒久的な廃棄を目指すことを確認する[17]。
- 2018年7月1日、ベルギーのブリュッセルに、北大西洋条約機構(NATO、en:North Atlantic Treaty Organization、fr:Organisation du traité de l'Atlantique nord)日本政府代表部を開設する。
- 八木毅(やぎ たけし)
- 昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。ドイツ語研修を受ける。駐インド大使(2012年-2015年)、駐ドイツ大使(2015年~)。
- 横井裕(よこい ゆたか)
- 昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐中国公使・駐トルコ大使(2013年-2016年)・駐中国大使(2016年~)
- 小林弘裕(こばやし ひろやす)
- 昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。カイロでアラビア語研修を受ける。中東アフリカ局第一課長。2004年から自衛隊イラク派遣で派遣されていた陸上自衛隊サマーワ宿営地内にあるサマーワ外務省連絡事務所長を務める。駐ボツワナ大使(2011年-2014年)、駐イラン大使(2015年~)。
- 大江博(おおえ ひろし)
- 昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。防衛省防衛政策局次長・駐パキスタン大使。平成25年(2013年)TPP政府対策本部主席交渉官代理、平成28年(2016年)TPP政府対策本部主席交渉官。平成29年(2017年)経済協力開発機構代表部大使。
- 茂木敏充(もてぎ としみつ)
- 昭和30年(1955年)生。ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。外務副大臣(2002年-2003年)、経済産業大臣(2012年-2014年)。経済財政政策担当大臣(2017年~)として2017年TPP11(『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、CPTPP)の閣僚交渉を担当、2018年3月署名。
1956年から1960年に生誕した者
- 上月豊久(こうづき とよひさ)
- 昭和31年(1956年)生。昭和55年(1980年)外務省入省。駐英大使館一等書記官(1994年-1997年)、駐露大使館一等書記官・参事官(1997年-2000年)、欧州局ロシア課長(2002年-2004年)、駐露公使(2008年-2010年)、欧州局長(2012年-2014年)、駐ロシア大使(2015年~)。
- 平松賢司(ひらまつ けんじ)
- 昭和31年(1956年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。総合外交政策局長(2012年-2015年)、駐インド大使(2015年~)。
- 上村司(うえむら つかさ)
- 昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。在シリア日本国大使館外交官補としてアラビア語研修を受ける。2003年駐イラク大使館参事官。中東アフリカ局長(2014年-2017年)、駐サウジアラビア大使(2017年~)。
- 香川剛廣(かがわ たけひろ)
- 昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。エジプトでアラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長、駐エジプト大使(2014年~)。
- 岸田文雄(きしだ ふみお)
- 昭和32年(1957年)生。広島平和記念公園、広島平和記念資料館などが所在する広島県第1区選出の衆議院議員。外相として、平成28年(2016年)4月、広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め、他のG7外相と共に広島平和記念公園、広島平和記念資料館の訪問、原爆死没者慰霊碑に献花を実現。同年5月、バラク・オバマ(en:Barack Obama、zh:贝拉克·奥巴马)米国大統領広島訪問を実現。
- ドナルド・トランプ(en:Donald Trump、zh:唐納·川普)米国大統領がTPPの批准を拒絶し、欧州連合からのイギリス脱退(en:Brexit、zh:英國脫離歐盟)の交渉が行われ、保護貿易主義への潮流が世界的に強まる中、平成29年(2017年)相互の関税の意欲的な引下げ等による自由貿易主義の牽引を目指し、欧州連合(EU、en:European Union、fr:Union européenne、de:Europäische Union、es:Unión Europea、ru:Европейский союз、zh:欧洲联盟、tr:Avrupa Birliği、ar:الاتحاد الأوروبي、fa:اتحادیه اروپا)との日本・EU経済連携協定(EPA)につき、セシリア・マルムストローム(en:Cecilia Malmström)欧州委員(貿易担当)等との閣僚交渉を担当。
- 2017年7月、持続可能な開発目標(SDGs、en:Sustainable Development Goals、fr:Objectifs de développement durable、es:Objetivos de Desarrollo Sostenible、zh:可持续发展目标)の達成に向けた総額10億ドル規模の支援を国連本部において表明する。
- 平成24年(2012年)12月から連続4年7か月に亘る外務大臣在任期間は内田康哉(通算7年5ヶ月、連続4年11ヶ月)・吉田茂(通算5年2ヶ月、連続3年6ヶ月)に次ぐ。外相として訪問した国・地域は50に達し、歴代最多[18]。
- 奥克彦(おく かつひこ、en:Katsuhiko Oku)
- 昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。オックスフォード大学ハートフォード・カレッジにて在外研修。日本ラグビーフットボール協会総務委員会委員。在米国大使館一等書記官・経済局国際経済第一課長・総合外交政策局国連政策課長・在英大使館参事官等を歴任。
- 井ノ上正盛とともに、イラク復興支援に尽力中の平成15年(2003年)11月にイラク日本人外交官射殺事件で殉職(享年45)。死後、従四位に叙され、旭日中綬章授与、大使に特進。
- 奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団、奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。
- 石兼公博(いしかね きみひろ)
- 昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。ASEAN政府代表部大使(2012年-2014年)、駐カナダ大使兼国際民間航空機関代表部大使(2017年~)。
- 山田彰(やまだ あきら)
- 昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。スペイン語研修を受ける。中南米局長(2012年-2014年)、駐メキシコ大使(2014年-2017年)、駐ブラジル大使(2017年~)。
- 星野俊也(ほしの としや)
- 昭和34年(1959年)生。平成18年(2006年)国連日本政府代表部公使参事官、平成29年(2017年)国連日本政府代表部大使。国際政治学者(専門は安全保障論・国連研究)。日本で模擬国連の活動を開始したことでも知られる。
- 平田竹男(ひらた たけお)
- 昭和35年(1960年)生。昭和57年(1982年)通商産業省入省。1987年、ハーバード大学J.F.ケネディスクールで行政学修士を取得。在ブラジル一等書記官。日本サッカー協会国際委員として2002年日韓W杯招致に携わる。日本サッカー協会専務理事、内閣官房東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局長。
- 佐藤優(さとう まさる)
- 昭和35年(1960年)生。昭和60年(1985年)ノンキャリアの専門職員として外務省入省後、在ロシア日本国大使館を経て国際情報局分析第一課主任分析官。鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕されるが、2009年に失職するまで「起訴休職外務事務官」を自称。失職後は多数の書籍を出版し、2015年だけでも40冊を超える書籍(共著を含む)を出版している。
- 小野寺五典(おのでら いつのり)
- 昭和35年(1960年)生。昭和58年(1983年)東京水産大学を卒業し、宮城県庁入庁。平成2年(1990年)‐平成7年(1995年)、松下政経塾研究生(第11期)。平成5年(1993年)東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。外務大臣政務官、外務副大臣、防衛大臣(2012年-2014年、2017年~)等を歴任。
- 2017年8月、北朝鮮核・ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、等を共同発表する[19]。
- 北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談、米朝首脳会談に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、マティス米国国防長官と会談し、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、あらゆる弾道ミサイル計画の放棄を要求することを確認する[20]。
- ドナルド・トランプ米国大統領が、2018年6月12日の米朝首脳会談後、米韓軍事演習の中止や在韓米軍の将来的な撤退に言及したことに対し、同月14日、マティス米国国防長官に「在韓米軍は東アジアの安全保障に重要な役割を担っている。」と懸念を伝える(マティスは「(在韓米軍の)縮小は検討してない」と回答する。)[21]。
- 水鳥真美(みずとり まみ)
- 昭和35年(1960年)生(女性)。昭和58年(1983年)外務省入省。1986年スペイン外交官学校国際関係ディプロマ課程修了。総合外交政策局国連政策課長、同局安全保障政策課長、在英国日本国大使館公使、等を歴任。国際連合事務総長特別代表(防災担当、2018年~)。
1961年以降に生誕した者
- 河野太郎(こうの たろう)
- 昭和38年(1963年)生。第150代外務大臣(平成29年(2017年)~)。ジョージタウン大学国際学部比較政治学専攻卒業。河野一郎の孫、河野洋平の子である。
- 外相として、2017年8月東南アジア諸国連合(ASEAN、en:Association of Southeast Asian Nations、zh:东南亚国家联盟、ko:동남아시아 국가 연합、fr:Association des nations de l'Asie du Sud-Est、ru:Ассоциация государств Юго-Восточной Азии、ar:أسيان、fa:انجمن ملل آسیای جنوب شرقی)関連外相会合・東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF、 en:ASEAN Regional Forum)に出席する。
- 2017年8月、北朝鮮核・ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2、参加者河野外相、小野寺五典防衛相、ティラーソン国務長官、マティス国防長官)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、尖閣諸島が米国の防衛義務の範囲であること、米国が最新鋭の能力を持つ次世代戦闘機等を日本に展開すること、日本が地上配備型迎撃システムの配備などで防衛能力を強化すること、を共同発表する[22]。
- 2017年9月、共同議長として、第9回軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI、en:Non-Proliferation and Disarmament Initiative)外相会合を開催する。参加国(日本、オーストラリア、ドイツ、オランダ、ポーランド、カナダ、メキシコ、チリ、トルコ、UAE、ナイジェリア、フィリピン)。
- 2017年12月15日、北朝鮮核・ミサイル問題等を議論する国連安全保障理事会閣僚級会合の議長を務める。
- 2018年(平成30年)2月、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conference、 de:Münchner Sicherheitskonferenz、 fr:Wehrkunde、 ru:Мюнхенская конференция по безопасности、 zh:慕尼黑安全会议)に出席する。
- 尖閣諸島国有化問題(zh:日本政府购买钓鱼岛事件)を契機に途絶えていた、8年ぶりとなる日中ハイレベル経済対話(zh:中日经济高层对话)を、2018年(平成30年)4月16日、河野が王毅中国外相と共同議長として開催し、自由貿易体制の重要性、並びに日中韓の自由貿易協定(FTA)及び東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnership、zh:区域全面经济伙伴关系协定)の締結に向けた協力を確認する[23]。
- 北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談(2018年4月27日開催)、米朝首脳会談(2018年6月12日開催)に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、同月22日、主要7カ国(G7)外相会合において、北朝鮮に対し非核化が実現するまで最大限の圧力を維持する方針と、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、全ての射程のミサイル、並びに核兵器、生物・化学兵器を含む大量破壊兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な方法による廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)を要求することを確認する[24]。さらに、2018年4月27日、南北首脳会談における板門店宣言を受け、全ての大量破壊兵器及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDに向けた具体的な行動を期待すると表明する[25]。
- 抽象的な朝鮮半島の非核化の合意にとどまった米朝首脳会談後の、2018年6月14日の日米韓外相会談に際して、「完全かつ検証可能で不可逆的な方法で、全ての大量破壊兵器と弾道ミサイルを廃棄することが重要だ」と述べるとともに、拉致・核・ミサイルの問題が包括的に解決できれば、北朝鮮との国交を正常化する意向を示す[26]。
- 中満泉(なかみつ いずみ)
- 昭和38年(1963年)生(女性)。1989年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入所。旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表上級補佐官、UNHCR副高等弁務官特別補佐官、国連本部事務総長室国連改革チームファースト・オフィサー等を歴任。2017年から国連事務次長(軍縮担当上級代表、en:High Representative for Disarmament)。
- 皇太子妃雅子(こうたいしひ まさこ)
- 昭和38年(1963年)生(女性)。昭和62年(1987年)外務省入省。旧姓小和田。ハーバード大学経済学部卒業。東京大学法学部に学士入学。旧外務公務員I種試験(外交官試験)に合格し、東京大学を中退し、外務省に入省。
- 柴山昌彦(しばやま まさひこ)
- 昭和40年(1965年)生。外務大臣政務官(福田康夫改造内閣・麻生内閣)、国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官(第3次安倍内閣(改造))。自衛隊南スーダン派遣に際し、2016年と2017年に首相補佐官として内戦状態にあった南スーダンを視察訪問。
- 岡井朝子(おかい あさこ)
- 昭和41年(1966年)生(女性)。平成元年(1989年)外務省入省。国際連合事務次長補兼国際連合開発計画危機対応局長(2018年~)。
- 井ノ上正盛(いのうえ まさもり)
- 昭和48年(1973年)生。平成8年(1996年)専門職員として外務省入省。中近東アフリカ局中近東第一課配属。在シリア大使館・在チュニジア大使館・在ヨルダン大使館兼任イラク大使館員等歴任。在イラク三等書記官。
- 奥克彦とともにイラク復興支援中にイラク日本人外交官射殺事件で平成15年(2003年)11月殉職(享年30)。死後、従七位に叙され、旭日双光章受賞、一等書記官に特進。
- 奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団、奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。
外交官が登場する作品
- 杉原千畝 スギハラチウネ(2016年公開の邦画)
- 外交官・黒田康作(2011年に放送されたフジテレビ系列のドラマ)
- アンダルシア 女神の報復(2011年公開の邦画)
- アマルフィ 女神の報酬(2009年公開の邦画)
関連項目
- 外交 - 外交交渉 - 外交政策
- アグレマン - ペルソナ・ノン・グラータ
- 外務省 - 大使館(在外公館) - 総領事
- 大使 - 駐在武官
- 待命大使 - 名称大使 - 政府代表 - 全権委員
- 特命全権大使 - 臨時代理大使
- アタッシェ
- キャリア (国家公務員)#外務キャリア
- ローカルランク
- スパイ
脚注
- ↑ 杉原高嶺・水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007-05-01、第4版。ISBN 978-4-641-04640-5。
- ↑ 杉原高嶺・水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007-05-01、第4版。ISBN 978-4-641-04640-5。
- ↑ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
- ↑ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
- ↑ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
- ↑ 外務省記録「欧米大国ト特命全権大使交換一件」
- ↑ 日経新聞180518追想録
- ↑ 丹羽宇一郎『財界だって格差社会はノー』文藝春秋2007年3月号
- ↑ 日本経済新聞夕刊2017年4月26日追想録
- ↑ 日経新聞180505
- ↑ 日経新聞180609
- ↑ 日経新聞180510
- ↑ 日経新聞180515
- ↑ 日経新聞180529
- ↑ 日経新聞180418
- ↑ 毎日新聞180511
- ↑ 日経新聞180529
- ↑ 日本経済新聞2017年4月30日
- ↑ 日経新聞20170818
- ↑ 毎日新聞180421
- ↑ 日経新聞180615
- ↑ 日経新聞20170818
- ↑ 日経新聞180416
- ↑ 日経新聞180423
- ↑ 外務省大臣談話180427
- ↑ 日経新聞180614
参考文献
- 西川吉光 『現代国際関係論』 晃洋書房
- アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫上下, 1961年/平凡社東洋文庫に伝記ほか)
- 安成英樹「外交官」(『歴史学事典 8 人と仕事』(弘文堂、2001年) ISBN 978-4-335-21038-9
- 木村昌人編『外交』(日本史小百科 近代 東京堂出版 1999年)
- ニコルソン 斎藤真訳 『外交』(UP選書 東京大学出版会 1968年)