外交官

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外交官(がいこうかん、英語: diplomat)は、外交使節団の長および使節団の職員で外交官の身分を有する外交職員の総称[1]

変遷

臨時の外交使節を派遣・接受することは紀元前の中国やギリシャなど非常に古くから行われ、日本の遣隋使遣唐使もその例であるが、常駐の外交使節団が初めて置かれたのは13世紀のイタリアであったといわれている[2]ミラノ公国ジェノヴァ共和国に初めて公使館を設置して以後、イタリアの諸国家間で国家間の交渉に専門的に従事する外交官が相互に派遣されるようになり、またカトリック教会の長であるとともにイタリアの一君主としても位置づけられたローマ教皇も各国に教皇派遣使節を送った。14世紀にはイングランドジェフリー・チョーサーが外交活動をしており、また1455年にはミラノがフランス宮廷に常駐使節を送り、そのシステムは主権国家が形成されるようになった16世紀以後ヨーロッパ各地に広まるとともに、外交慣行の基礎が形成された。

絶対王政期には、宮廷内部において国家の重要な政策決定が行われることが増加し、そのために君主あるいはその側近との個人的関係が外交交渉の成否に深く関わるようになった。一流の外交官は公式の場ではなく、夜中に接受国の君主の寝室に通されて直接重要交渉を行うものとされていた(閨房外交(Boudoir Diplomacy))。また、接受国における主君の代理として自国の名誉を守る責務も課されており、接受国での宮廷内における外交官同士の序列が時には互いの国家の尊厳に関わるものとして時には激しい議論や決闘にいたる例もあった。そのため、外交官には貴族や軍人などが任命されることが多かった。その後、国民国家の成立とともに宮廷外交・閨房外交の時代は終わり、交渉能力とともに相手国の各種情報を総合的に蒐集・報告する能力が求められるようになった。こうした中で職業外交官も外交専門職任用試験を経た人材が登用されるようになっていった。

常駐使節の制度は1648年のヴェストファーレン条約締結以降一般的な慣行と化したが[3]、一般条約である外交関係に関するウィーン条約が採択されたのは1961年である。

職務

常駐外交使節団を構成する外交官の任務は、接受国で派遣国を代表し、その意思の表明、交渉、条約の締結を行うこと(代表機能)、接受国の事情について適法な手段により一切の情報を収集し派遣国に報告すること(報告機能)、両国間の関係の促進をはかること(推進機能)に大別される [4]。特定の問題の交渉や任務にあたる特別使節団も、実質的に常駐外交使節団と同等の扱いを受ける[5]

外交官の地位や外交特権などに関する規則は1815年のウィーン規則及び1818年のエクス・ラ・シャペル規則で基礎が定められ、1961年外交関係に関するウィーン条約及び1963年領事関係に関するウィーン条約によって修正が加えられて今日に至っている。

外交官特権

外交官には、任務の能率的な遂行を確保するため、国際法によって身体の不可侵(拘束されないこと)や裁判権からの免除などの特権を与えられている。特権の内容は、大使館員であるか、領事館員であるかによって異なる。これを外交官特権という。詳しくは該当項を参照。

外交官は、外交使節団に属する。外交官として認められるためには、派遣する国がその者を外交官として派遣することを接受国(受け入れる国)に打診し、合意(アグレマン)が成立する必要がある。アグレマンが成立した場合に該当者は接受国内において外交官と認められ、派遣した国を代表する交渉相手として扱われるほか、外交特権を享受する。接受国側が、国内法に照らして許されざる非行や国益を害する行為がありその者を外交官として扱うべきではないと判断した場合、ペルソナ・ノン・グラータの通告を行うことで、外交官としての立場を失う。ペルソナ・ノン・グラータの通告は事前(着任前)でも事後(着任中)でも良い。

日本の外交官制度

種類

外交官の種類は慣習国際法上一定の原則があり、日本もこれに則って外交官の名称を「外務省設置法」、「外務公務員法」(昭和27年法律第41号)及び「外務職員の公の名称に関する省令」(昭和27年外務省令第7号)により次の通り定めている。ただし参事官~在外公館警備対策官については、外務大臣が「公の便宜のために必要があると認める場合には、国際慣行に従い、第二条及び第三条に掲げる公の名称の一又は二以上を用いることを命ずることができる」ものであり、戦前は官名であったが現在は正式の官名あるいは職名ではない(正式の官名は外務事務官)。その為、外国に赴任して大使、公使、総領事、参事官などになった者も、国内に戻ると大使、公使、総領事、参事官ではなくなるが、儀礼的にこれらの職名で呼ばれる場合がある。また、外交儀礼上、本来の職位よりも一段上の「公の名称」を名乗ることが許される場合がある(名称大使ローカルランク)。

在外公館たる公使館の公館長。ただし1967年に日本の公使館はすべて大使館に昇格しているので、このような意味での特命全権公使は存在しない。現在は、各国の大使館で特命全権大使に次ぐ次席館員を単に「公使」(Minister) と呼び、そのうち外務省入省年次が一番上の数名に「特命全権公使」の名称を付与しているにすぎない。したがって、特命全権公使が置かれる国は、実は外務省内の人事によって左右され、しかも年々変わる。
実際には空席の館も多い
  • 領事官(Consul)
    • 総領事 (Consul-General)
    • 領事 (Consul)
    • 副領事 (Vice-Consul)
    • 領事官補 (Attaché)
主に領事事務に従事する職員。このうち「総領事」の名称を用いるのは在外公館たる総領事館の在外公館長だけである。また「領事官補」の名称を用いるのは、領事館などに配属された語学研修を行う若手外交官だけである。
  • 書記官(Secretary)
    • 一等/二等/三等書記官 (First/Second/Third Secretary)
    • 外交官補 (Attaché)
主に外交事務に従事する職員。このうち「外交官補」は、大使館などに配属された語学研修を行う若手外交官のみが用いる。
  • 理事官
    • 一等/二等/三等理事官 (First/Second/Third Attaché)
    • 副理事官 (Assistant Attaché)
主に外交領事事務に直接関連する業務に従事する職員。ただし現在は、三等理事官以外はほとんど存在しない。
  • 外務書記
現在は存在しない。
  • 電信官
    • 一等/二等/三等電信官
    • 電信官補
現在はインターネット通信等の電気通信事務に従事する職員。現在は電信符号を用いることはない。また「電信官」という公称を用いる外務省職員はなく、電信担当官は他の役職の名称を用いている。
  • 通訳官
    • 一等/二等/三等通訳官
    • 通訳官補
現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。通訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。
  • 翻訳官
    • 一等/二等/三等翻訳官
    • 翻訳官補
現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。翻訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。
諸外国の駐在武官に相当。在外公館に勤務し、主に防衛(=軍事)に関する事務に従事する職員。全員が陸・海・空自衛隊から出向している幹部自衛官(主に佐官クラス)であり、自衛官としての身分及び外務事務官としての身分を併有して任命される。自衛官としての階級を公称し、自衛官の制服を着用し、儀礼刀を佩き、飾緒を着用する。この防衛駐在官は全員が自衛官で、外務省出身者や他の省庁からの出向者は一切いないが、法文上は自衛官に限られるものではない。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。
在外公館に勤務し、主に医務に関する事務に従事する職員。
主に在外公館の警備に関する事務に従事する職員。自衛官・警察官海上保安官入国警備官または公安調査官が出向して任命されることが多い。また、日本の民間警備会社から外務省へ出向して任じられる例もある。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。


任免

外交官の任免は、

  • 大使・公使 → 外務大臣の申し出により内閣が行い、天皇がこれを認証する(認証官)。
  • 総領事・領事・参事官・書記官・理事官・外務書記などの外交職員 → 外務大臣が行う。
  • 外交職員(特別の技術を必要とする外交領事事務などに従事する職員)→ 外務省令で定めるところにより、外務大臣が行う。

採用

大半の外交官は国家公務員I種試験(平成12年までは外務公務員I種試験公務員試験の項参照)および外務省専門職員試験、国家III種試験等に合格して外務省に入省した職員から選ばれる。前者出身の外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命される。それに対して、後者出身及び同等の経歴の者から任命される外交官を同様に「ノンキャリア外交官」と呼称することがあり、その多くは栄進したとしても本省のごく一部の幹部職や中小国駐在の大使等で外交官としての経歴を終わることになる。1894年(明治27年)以来の試験であるところの、外交官及領事館試験、外務書記生試験、雇員採用は、順にI種、専門職、III種に該当する。

なお、例外的に一部の大使公使には学識経験者等の民間人や他省庁出身者が任命されることもある。また書記官には各省庁からの出向者が、在外公館警備対策官等には警察庁防衛省法務省入国管理局公安調査庁海上保安庁からの出向者が、それぞれ任命されることもある。

待遇

日本国の外交官に対しては、在外公館における勤務に必要な経費に充てるために(通常の給与に加えて)在勤手当(非課税)が支払われ、平成17年度において総額256億7188万7000円の予算が計上された。支払対象は約3,000人とされる(一人当たりの単純平均額は約856万円)。

日本の著名な外交官一覧

1600年以前に生誕した者

後漢書東夷伝において、建武中元2年(57年)後漢en:Eastern Hanzh:东汉)に朝貢し、光武帝より印綬を賜ったとされる者の「身分」である(「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」)。この印綬が、江戸時代に志賀島で掘り出された「漢委奴國王」の刻印のある金印であると考えられている。
漢書(前漢書)地理志に、日本en:Japanfr:Japonde:Japanes:Japónpt:Japãoit:Giapponeru:Японияzh:日本・rìběn、 ko:일본ar:اليابانfa:ژاپنtr:Japonyavi:Nhật Bảnid:Jepanghi:जापान)に関するさらに古い記述がある。「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。)
正史ではないが王充の『論衡』にも倭人に関する記述がある。「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八。成王(在位紀元前1021年頃-紀元前1002年頃)の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)。
後漢書東夷伝において、安帝永初元年(107年)後漢に朝貢し生口(奴隷)160人を献上したとされる(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。
魏志倭人伝において、景初2年(238年)邪馬台国卑弥呼により帯方郡を経てen:Cao Weizh:曹魏)に使者として派遣されたとされる。魏の皇帝より親魏倭王の称号、金印紫綬、銅鏡100枚を下賜される。
推古天皇15年(607年)遣隋使としてen:Sui dynastyzh:隋朝)に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書をもって聖徳太子により遣わされる。
推古天皇22年(614年)最後の遣隋使として聖徳太子によりに遣わされる。また、舒明天皇2年(630年)最初の遣唐使としてen:Tang dynastyzh:唐朝)に遣わされる。
650年頃生。天武天皇4年(675年)遣新羅使として新羅(紀元前57年-935年、 ko:신라en:Silla)に派遣され、翌年帰国する。
660年頃生。天武天皇13年(684年)遣耽羅使として耽羅(古代-1402年、ko:탐라en:Tamna済州島に存在した王国)に派遣される。
文武天皇2年(698年)生。養老元年(717年)第9次遣唐使に同行し、の都長安に留学。太学(官立高等教育機関)で学び科挙に合格、玄宗に仕える。2度帰国を試みるも遭難。安南(現ベトナム北中部)節度使、潞州(現山西省付近)大都督等を歴任後、客死。和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首に選ばれている。
700年頃生。神亀5年(728年)第一次遣渤海使の正史として渤海ko:발해en:Balhae)に派遣され、天平2年(730年)に帰国し、聖武天皇に渤海からの進物を献上する。
足利義満が博多の商人肥冨(こいとみ)に日明貿易の利について説得され、応永8年(1401年)第1回遣明使正使として室町幕府からen:Ming dynastyzh:明朝)に遣わされる。
大永元年(1521年)生。甲斐国を拠点とする戦国大名。天文23年(1554年)、相模国北条氏康駿河国今川義元甲相駿三国同盟を締結する。
享禄3年(1530年)生。越後国を拠点とする戦国大名。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによる駿河の今川義元の死後、永禄11年(1568年)に甲斐の武田信玄甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したため(駿河侵攻)、相模の北条氏康は武田と断交し、武田に対抗するため、長年敵対してきた越後の上杉との和睦を望み、永禄12年(1569年)、上杉と北条の間で越相同盟が締結される。
天文3年(1534年)生。尾張国を拠点とする戦国大名。永禄5年(1562年)、三河国徳川家康清洲同盟を締結する。
天文6年(1537年)生。対馬宗氏の外交僧。文禄の役の前、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡り「仮途入明」等について交渉も開戦の阻止に失敗。戦役中は小西行長に同行し、朝鮮と和議の交渉に当たる。江戸開幕後、朝鮮修文職として尽力し、慶長12年(1607年)に再開された最初の朝鮮通信使を迎え、慶長14年(1609年己酉約条を成立させる。
元亀2年(1571年)生。慶長18年(1613年)仙台藩主伊達政宗により慶長遣欧使節の正史として、メキシコ(当時スペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ副王領(1519年-1821年、es:Virreinato de Nueva España))を経由してスペイン及びローマに派遣される。元和6年(1620年)に帰国する。
スペイン帝国(1492年-1975年、es:Imperio españolzh:西班牙帝國)は、当時、中南米とフィリピンの植民地を領有し、また、スペイン王がポルトガル王を兼ね(1580年-1640年)、「太陽の沈まない国」(zh:日不落帝国)と形容される覇権国である。

1601年から1800年に生誕した者

延宝7年(1679年)生。正徳元年(1711年)長崎奉行。1639年にポルトガル王国pt:Reino de Portugal)からの入船を禁止し完成した鎖国下においてもオランダとの交易が認められていたが、新井白石等による長崎貿易の制限論に対し、長崎貿易の実情を把握し、輸出銅・来航船数の制限、値組制度、信牌(許可証)制度導入などを進言し、正徳5年(1715年)海舶互市新例の骨子として採用される。
en:Qing dynastyzh:清朝)は、1616年後金として成立し、1636年国号を清と改め、1644年を滅ぼし、康熙帝雍正帝乾隆帝の時代(1661年-1796年)に最盛期を迎え、アジアにおける広範囲の冊封体制を確立する。
また、鎖国開始当時のオランダは、1623年のアンボイナ事件en:Amboyna massacrenl:Ambonse Moord)によりイングランド王国(927年‐1707年、en:Kingdom of Englandfr:Royaume d'Angleterrezh:英格兰王国)を東南アジア貿易から締め出し、台湾・インドネシア・セイロン・南アフリカ・北米・南米等の植民地を支配する世界の覇権国家en:Hegemon)である。三十年戦争(1618年-1648年)の講和条約であるヴェストファーレン条約en:Peace of Westphaliazh:威斯特伐利亚和约)によりネーデルラント連邦共和国nl:Republiek der Zeven Verenigde Nederlandenzh:尼德蘭七省共和國)としてスペイン帝国es:Imperio español)からの独立が認められる。
元文2年(1737年)生。安永4年(1775年)長崎奉行蘭学を手厚く保護した田沼意次に、長崎で入手した海外情報をもたらす。オランダ人の待遇改善も進める。
なお、鎖国開始(1639年)の直後から、オランダ商館長(カピタン)のオランダ風説書により世界各地の情報が日本にもたらされていた。
宝暦3年(1753年)生。寛政7年(1795年)長崎奉行唐通事(中国語通訳官)を動員して、清の江南・福建の風俗を図説した『清俗紀聞』を編纂・監修。
その後、ほぼ同時期に近藤重蔵らにより『安南紀略』(ベトナムの歴史風俗文物を記した書)と『亞媽港紀略』(マカオの歴史風俗文物を記した書)が編纂される。
宝暦5年(1756年)生。寛政4年(1792年)根室に来航したロシア使節ラクスマンru:Лаксман)と、村上義礼とともに宣諭使として交渉し、長崎以外での交易を拒絶するとともに、長崎入港の信牌(許可証)を交付し、大黒屋光太夫の身柄を引き受ける。
その後、近藤重蔵最上徳内も随行)、伊能忠敬蝦夷地探査・測量が行われる。
ロシア帝国en:Russian Empireru:Российская империяzh:俄罗斯帝国)は、1799年ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、露米会社に勅許を与える。
宝暦14年(1764年)生。長崎奉行ラクスマンru:Лаксман)に交付された長崎入港の信牌(許可証)を持って、文化元年(1804年)に長崎に来航したロシア使節ニコライ・レザノフru:Резанов)に対し、幕府の代表として通商を拒絶する。
レザノフはロシアの勅許会社である露米会社の建て直しのため、日本との通商を望んでいた。その後、文化露寇(フヴォストフ事件)が起こり、間宮林蔵による樺太アムール川(黒竜江)下流域の探査が行われる。
明和5年(1768年)生。文化5年(1808年)のフェートン号事件en:Nagasaki Harbour Incident)当時の長崎奉行。薪水と食料を要求するイギリスの侵入船の脅迫に屈してしまった国辱の責任をとり、切腹して自害する。文久遣欧使節副使の松平康英 とは別人。
フェートン号事件は、ヨーロッパのナポレオン戦争(1803年-1815年)の余波でイギリス海軍がオランダ船の拿捕を企図したものである。17世紀に世界の覇権国家であったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、数次にわたる英蘭戦争en:Anglo-Dutch Wars)で疲弊し、1795年にフランスfr:Francezh:法国・法兰西)の侵攻により傀儡国家バタヴィア共和国、1806年にフランスの衛星国ホラント王国となった後、1810年にフランスに併合された。1815年のウィーン会議en:Congress of Viennazh:维也纳会议)・ウィーン議定書により南ネーデルラント(現ベルギー王国)・ルクセンブルクも支配するネーデルラント連合王国zh:荷蘭聯合王國)として復活する。しかし、産業革命en:Industrial Revolution)で先行していたイギリスが、オランダからケープ植民地セイロン島を引継ぎ、世界の覇権国家en:Hegemon)となる。
フェートン号事件を受けて幕府は本木正栄(庄左衛門)ら6名の長崎通詞英学修業を、オランダ語通詞に英語とロシア語の研修を命じ、文化11年(1814年)日本初の本格的な英和辞典「諳厄利亜語林大成」が本木らを中心に編纂される。文化8年(1811年)高橋景保の提唱により蛮書和解御用掛東京大学の起源の1つ)が開設される。
フェートン号事件後、イギリスは熱心に開国を試み、日本近海に何度も来航している。しかし、文政7年(1824年)の大津浜事件宝島事件を受け、翌年異国船打払令が出された。
寛政6年(1794年)生。天保10年(1839年)老中首座に就任。アヘン戦争(1840年-1842年、en:First Opium Warzh:第一次鸦片战争)で清がイギリスに敗れたことを受け、天保の改革の一環として、従来の異国船打払令を改め薪水給与令を発令し、他方で、江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせる。
イギリス(連合王国、en:United Kingdomfr:Royaume-Unide:Vereinigtes Königreiches:Reino Unidozh:英国・大不列颠及爱尔兰联合王国)は、1819年にシンガポール島、1842年に香港、1858年にインド帝国、1874年にマレー半島、1886年までにミャンマーを領有し、ヴィクトリア女王の時代に覇権国家en:Hegemon)としての頂点を極める。

1801年から1820年に生誕した者

寛政12年(1801年)生。嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国en:United States of America、 fr:États-Unis d'Amérique、 de:Vereinigte Staaten von Amerika、 es:Estados Unidos de América、 ru:Соединённые Штаты Америки、 zh:美国・美利堅合眾國、 ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、 fa:ایالات متحده آمریکا、 tr:Amerika Birleşik Devletleri)のペリーの浦賀来航の頃、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。安政元年(1854年)老中阿部正弘により応接掛に任命され、再来日したペリー艦隊と漢文の応酬により交渉し日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan、en:Treaty of Kanagawa)を締結する。
享和元年(1801年)生。嘉永6年(1853年)老中阿部正弘により任命され、長崎に来航したロシアプチャーチンru:Путятин)と交渉し、安政元年(1854年)日露和親条約に調印。海岸防禦御用掛外国奉行
当時ロシアは、オスマン帝国en:Ottoman Empiretr:Osmanlı İmparatorluğuar:الدولة العثمانيةzh:奥斯曼帝国)・イギリス・フランス・サルデーニャ王国en:Kingdom of Sardiniait:Regno di Sardegnazh:薩丁尼亞王國)とクリミア戦争(1853年-1856年、en:Crimean Warzh:克里米亚战争)で交戦中であった。
文化4年(1807年)生。嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海岸防禦御用掛(海防掛)。嘉永6年(1853年)の黒船来航後、米使応接係を兼任。文久元年(1861年)文久遣欧使節の正史として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。箱館奉行・外国奉行
文化6年(1809年)生。清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年、en:Second Opium Warzh:第二次鸦片战争)が行われる中、老中阿部正弘により任命され、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉し、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)に岩瀬忠震と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛外国奉行軍艦奉行
文政元年(1818年)生。嘉永7年(1854年)、老中阿部正弘目付に任じられ講武所蕃書調所東京大学の起源の1つ)・長崎海軍伝習所の開設に尽力する。
清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年)が行われる中、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約井上清直と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛外国奉行

1821年から1830年に生誕した者

文政8年(1825年)生。慶応3年10月(1867年11月)坂本龍馬の発案による大政奉還を断行した徳川慶喜に対し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令案を奏上、小御所会議において辞官納地させることを主張、戊辰戦争(慶応4年1月2日(1868年1月26日)-明治2年5月18日(1869年6月27日))を誘発する。
明治4年(1871年)岩倉使節団正史。全権委任状を得ないまま渡航するというミス等のため、条約改正の予備交渉は失敗に終わる。
帰国後、内治優先を唱え征韓論を抑えるが、明治六年政変西郷隆盛板垣退助等の下野)、不平士族の反乱を誘発してしまう。外務卿。
文政10年(1827年)生。安政7年(1860年)日米修好通商条約批准を目的とする遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興とともに渡米する(随行艦は咸臨丸)。
文久元年(1861年)外国奉行としてロシア軍艦対馬占領事件en:Tsushima incident)を処理。
勘定奉行として横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所の設立を推進。
文政11年(1828年)生。佐賀藩校英学塾「致遠館」にて英語を学ぶ。慶応4年(1868年)、新政府の制度取調局判事。明治6年(1873年)日清修好条規の批准書交換。外務卿・内務大臣。
文政13年(1830年)生。文久元年(1861年)文久遣欧使節の副使として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。講武所頭取・神奈川奉行外国奉行老中フェートン号事件で自害した松平康英とは別人。
文政13年(1830年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルクde:Otto von Bismarckzh:奥托·冯·俾斯麦)から強い影響を受けた。
明治4年(1871年)の宮古島島民遭難事件en:Mudan incidentzh:八瑤灣事件)を契機をする明治7年(1874年)の台湾出兵en:Japanese invasion of Taiwanzh:牡丹社事件)後の日清両国間互換条款・互換憑単に全権として調印(お雇い外国人ボアソナードが顧問として随行。)。
明治6年(1873年)初代内務卿(当時の実質的な首相)として富国強兵殖産興業を推進。
普墺戦争en:Austro-Prussian Warde:Deutscher Krieg)の結果、ドイツ統一はオーストリア帝国を除外し、プロイセンを中心に進められることになり、1867年オーストリアでは、ハンガリーde:Ungarnhu:Magyarországzh:匈牙利)の独立性の高いオーストリア=ハンガリー二重帝国(en:Austria-Hungaryde:Österreich-Ungarnzh:奥匈帝国)が成立した。
普仏戦争en:Franco-Prussian Warzh:普法戰爭)に勝利したビスマルクは、ドイツ帝国en:German Empirede:Deutsches Kaiserreichzh:德意志帝國)を成立させ、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を行った。

1831年から1840年に生誕した者

  • 寺島宗則(てらしま むねのり)/松木弘安(まつき こうあん)
天保3年(1832年)生。蕃書調所蘭学を教える傍ら、英語を独学。文久2年(1862年)の幕府遣欧使節(文久遣欧使節)、慶応元年(1865年)の薩摩藩遣英使節団に参加。明治4年(1871年)のハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権。在英公使(初代)・外務卿。
ハワイ王国(1795年-1893年、en:Kingdom of Hawaii)は、1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民によるハワイ事変で米国の傀儡国家として名目上共和制ハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州(en:Territory of Hawaii)として併合されて消滅する。
天保4年(1833年)生。明治4年(1871年)西郷隆盛大久保利通らと廃藩置県を断行。同年岩倉使節団副使。
明治7年(1874年)台湾出兵に反対し下野後、翌年大久保利通板垣退助との大阪会議を経て、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会の確立を条件に板垣とともに参議に復帰し、明治天皇の名で立憲政体の詔書が発布される。
天保6年(1836年)生。商社と政治結社の性質を併有する亀山社中海援隊)のリーダー。文久3年(1863年)神戸海軍塾塾頭に任ぜられる。慶応元年(1865年)亀山社中を設立し、グラバー商会から大量の銃の薩摩藩名義での長州藩による買付斡旋、薩摩藩名義での蒸気軍艦ユニオン号の購入、薩長同盟の斡旋に成功する。慶応3年(1867年)亀山社中は海援隊と改称し、土佐藩の外郭団体的な組織となる。同年、いろは丸沈没事件では万国公法に基づく主張を展開し、紀州藩から損害賠償金を得、船中八策に基づいた王政復古を目的とする薩土盟約(その後芸州藩が加わり薩土芸盟約)を成立させ、イカロス号事件の処理で英国公使ハリー・パークスとの談判を行い、さらに山内容堂を通じて、大政奉還の建白を行うが、最期は京都の近江屋中岡慎太郎とともに暗殺される。
天保6年(1836年)生。文久3年(1863年)伊藤博文らとともに、イギリスに密航(長州五傑en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に尽力。明治9年(1876年)の日朝修好条規の締結を担当。条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館帝国ホテル建設に尽力。外務卿・初代外務大臣(第1次伊藤内閣)。
天保7年(1836年)生。昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだ後、安政5年(1857年)頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。文久元年(1861年)アメリカに留学する予定であったが南北戦争(1861年-1865年、en:American Civil War)のため中止となり、文久2年(1862年)幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学し、国際法、化学、蒸気機関学、砲術、船舶運用術を学ぶ。
明治8年(1875年)駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約en:Treaty of Saint Petersburgru:Петербургский договор)を締結。ペルーとの間のマリア・ルス号事件でロシアのサンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判に日本側代表として出席。
外務大輔・駐清特命全権公使・海軍卿・外務大臣(第1次松方内閣)・逓信大臣(初代)・文部大臣・農商務大臣。
天保8年(1837年)生。文久3年(1863年)横浜鎖港談判使節団(第二回遣欧使節団)の正史として、カイロを経由し(三大ピラミッドスフィンクスを見学)、フランスで皇帝ナポレオン3世fr:Napoléon III)に謁見。鎖港交渉には失敗し、パリ約定を締結する。外国奉行軍艦奉行
天保9年(1838年)生。長崎英語伝習所(済美館)、佐賀藩校英学塾「致遠館」にてグイド・フルベッキに英語を学ぶ。明治元年(1868年)外国事務局判事に任官。明治15年(1883年)立憲改進党・東京専門学校(現早稲田大学)を創設。明治21年(1888年)から外務大臣として不平等条約の改正に尽力。第2次大隈内閣において第一次世界大戦en:World War Ifr:Première Guerre mondialede:Erste Weltkriegzh:第一次世界大战)に参戦。
天保10年(1839年)生。文久2年(1862年)5月、幕府使節随行員として長崎から中国上海へ渡航、欧米植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国する。文久3年(1863年)8月、イギリスフランスアメリカオランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、高杉は和議交渉を担当する(通訳は伊藤博文)。
天保11年(1840年)生。英語を独学及び長崎英語伝習所で学ぶ。文久元年(1861年)ロシア軍艦対馬占領事件の退去交渉の通訳。英語通訳の功績により、文久3年(1863年)長崎奉行所支配定役格。英語の私塾を開き、前島密陸奥宗光星亨などに英語を教える。
明治元年(1868年)新政府の開成所東京大学の起源の1つ)御用掛、訳官。明治4年(1871年)岩倉使節団に外務省六等出仕として随行。
モンテスキューの『法の精神』(fr:De l'esprit des lois)を翻訳し、『万法精理』として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与える。

1841年から1850年に生誕した者

天保12年(1841年)生。文久3年(1863年)井上馨らとともに、イギリスに密航(長州五傑en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に高杉晋作の通訳として尽力。維新前は長州藩の外国商人からの武器購入交渉を担当。
維新後、外国事務局判事。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルクから強い影響を受ける。
明治15年(1882年)憲法調査のため渡欧。大日本帝国憲法を起草、逐条解説書『憲法義解』を著す。『憲法義解』は伊東巳代治により英訳され、欧米の学者たちに寄贈される。
明治18年(1885年)甲申政変後の天津条約に全権として調印。
第2次伊藤内閣において、明治27年(1894年)日清戦争en:First Sino-Japanese Warzh:甲午战争)を開始、翌年下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。その後、日露戦争前は満韓交換論・対露不戦を主唱。
明治33年(1900年)立憲政友会を創立、初代総裁に就任。初代工部卿・内務卿・初代内閣総理大臣・外務大臣(兼任)・初代枢密院議長・初代貴族院議長・初代韓国統監
天保15年(1844年)生。明治元年(1868年)長州藩留学生としてドイツ留学。明治6年(1873年)外務省入省。外務次官・外相として治外法権の撤廃に尽力し、明治27年(1894年)駐英公使の時、日英通商航海条約(陸奥条約)に調印。ドイツ駐在通算21年。二度目の妻はドイツ貴族の娘。初代駐米大使。外相も数度歴任。
天保15年(1844年)生。慶応元年(1865年)長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。慶応3年(1867年)坂本龍馬海援隊に加わる。明治17年(1884年)ヨーロッパ留学。
明治19年(1886年)外務省に出仕。明治21年(1888年)、駐米公使兼駐メキシコ公使として、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結。
明治期に不平等条約の改正に尽力し、日英通商航海条約(陸奥条約)により治外法権の撤廃を実現。
明治28年(1995年)下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。外務大臣(第2次伊藤内閣)。主著『蹇々録』。
天保15年(1844年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団に兵部省理事官として随行。明治6年(1873年)初代清国特命全権公使に任命(佐賀の乱鎮圧のため赴任せず)。司法卿(1883年‐1885年)、初代司法大臣(1885年-1891年)として明治期の法典編纂を進める。明治22年(1889年)日本法律学校日本大学の前身)を設立。
弘化4年(1848年)生。明治3年(1870年)ドイツ留学。ドイツ駐在武官。英露間の対立(グレート・ゲームzh:大博弈)、ドイツの世界政策de:Weltpolitik)、アメリカの門戸開放政策en:Open Door Policy)が交錯し、イギリスの覇権国家としての地位(光栄ある孤立en:Splendid isolation)が不安定になる中、義和団の乱en:Boxer Rebellion、Yihetuan Movement)後、満州占領を継続するロシアに対抗するため、第1次桂内閣において小村寿太郎を外相に起用し、明治35年(1902年)日英同盟en:Anglo-Japanese Alliancezh:英日同盟)を締結し、日露戦争(1904年-1905年、en:Russo-Japanese Warru:Русско-японская войнаzh:日俄战争)に勝利する。台湾総督・陸軍大将・内閣総理大臣。
日露戦争での日本の勝利については、インドのネルーが「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」(『父が子に語る世界史』)と記すなど、当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々に重大な影響を与える。
日露戦争の影響を受けて、ロシア帝国の植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文辛亥革命オスマン帝国における青年トルコ革命ガージャール朝fa:قاجاریانen:Qajar dynasty)におけるイラン立憲革命fa:جنبش مشروطه ایرانen:Persian Constitutional Revolution)や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウvi:Phan Bội Châu)の東遊運動vi:Phong trào Đông Duen:Đông Du)、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等が実現する。
嘉永2年(1849年)生。明治3年(1871年)から明治13年(1881年まで)フランスに留学。ソルボンヌ大学初の日本人学士。伊藤博文による憲法調査の随員として渡欧。駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使、駐ベルリン・ドイツ帝国公使。パリ講和会議en:Paris Peace Conferencefr:Conférence de paix de Parisde:Pariser Friedenskonferenzzh:巴黎和会)の首席全権。外務大臣・内閣総理大臣。
  • 林董(はやし ただす)
嘉永3年(1850年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応2年(1866年)幕命によりイギリス留学。明治4年(1871年)外務省出仕、岩倉使節団随行二等書記官。工部大学校(東京大学工学部の前身の一つ)設立に従事。明治28年(1995年)駐北京公使として三国干渉による遼東還付条約に調印。明治35年(1902年)駐英公使として日英同盟に調印。ポーツマス講和会議後の明治38年(1905年)、在英公使館の大使館昇格に伴い初代駐英大使となる[6]。外務大臣・逓信大臣。

1851年から1860年に生誕した者

嘉永4年(1851年)生。慶応元年(1865年)藩費留学生として長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。明治8年(1875年)再び藩費留学生としてハーバード大学で法律を学ぶ。明治14年(1881年)外務省入省。駐ロシア公使の時、日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力するが、ロシア政府に宣戦布告文を提出する。初代駐フランス大使。
嘉永5年(1852年)生。フランス駐在武官。韓国統監として韓国併合en:Japan–Korea Annexation Treatyko:한일 병합 조약)を推し進める。元帥陸軍大将・陸軍大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣。
嘉永6年(1853年)生。岩倉使節団に随行し、米国の小・中学校を経てハーバード大学法学部を卒業。大日本帝国憲法の起草に参画。農商務次官・農商務大臣・司法大臣。
日露戦争に際して米国での広報外交を担当、ポーツマスでの講和会議が暗礁に乗り上げるとセオドア・ルーズベルトen:Theodore Rooseveltzh:西奥多·罗斯福)米国大統領に援助を求め、ポーツマス条約の成立に貢献。
嘉永7年(1854年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応3年(1867年)米国留学。明治6年(1873年)文部省入省。日露戦争に際して日銀副総裁として戦費調達のために戦時外債の公募を担当。特許局初代局長・横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣・内閣総理大臣。二・二六事件で遭難。
安政2年(1855年)生。明治8年(1875年)鳩山和夫らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれ、ハーバード大学へ留学。司法省を経て、明治17年(1884年)外務省へ転出。外相として日英同盟締結を推進。ポーツマス条約全権。日露戦争後の外交に強い影響。明治44年(1911年)日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たす。駐米公使・駐露公使・外務大臣(第1次桂内閣第2次桂内閣)。
安政3年(1856年)生。明治8年(1875年)小村寿太郎らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれて米国留学、コロンビア大学で法学士、イェール大学で法学博士。明治18年(1885年)外務省入省。衆議院議長・早稲田大学学長。子に鳩山一郎、孫に鳩山威一郎、曾孫に鳩山由紀夫鳩山邦夫
安政3年(1856年)生。中江兆民仏学塾でフランス語を学ぶ。明治15年(1882年)外務省入省。天津領事館・パリ公使館勤務。外務次官・朝鮮駐在公使・内閣総理大臣。
安政3年(1857年)生。明治10年(1877年)から4年間アメリカ留学。帰国後、外務省入省。初代の外務次官。駐独大使・駐米大使。
安政4年(1857年)生。明治23年(1890年)ドイツ留学。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として、東京帝都復興計画を立案した。
大正12年(1923年)東京市長として後藤・ヨッフェ会談を行い、ソビエト連邦との国交正常化の契機を作る。昭和3年(1928年)ソ連を訪問、スターリンと会見し、国賓待遇を受ける。初代満鉄総裁・初代内閣鉄道院総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣。
安政5年(1858年)生。明治17年(1884年)から明治21年(1888年)までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官。海軍大臣・海軍大将・朝鮮総督ジュネーブ海軍軍縮会議全権・内閣総理大臣兼外務大臣。昭和11年(1936年)内大臣在任時に二・二六事件で遭難。
安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐英公使、外務大臣・内閣総理大臣。第4次伊藤内閣(1900年‐1901年)の外相として日英同盟の推進に尽力。第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦(1914年‐1918年)への参戦、対華21ヶ条要求(1915年)などに辣腕を振るう。
安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。日露戦争中、駐韓公使として日韓議定書に締結し、対韓・対露強硬外交を推進。後の日韓併合への足がかりを作る。国際連盟en:League of Nationsfr:Société des Nationsde:Völkerbundes:Sociedad de las Nacioneszh:國際聯盟ru:Лига Нацийar:عصبة الأممfa:جامعه مللtr:Milletler Cemiyeti)日本代表。

1861年から1870年に生誕した者

文久元年(1861年)生。ワシントン会議首席全権。米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小に積極的に賛成する。元帥海軍大将・内閣総理大臣。
文久元年(1861年)生。明治4年(1871年)実父である大久保利通とともに岩倉使節団に加わり渡米、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年(1874年)帰国。明治13年(1880年)外務省入省。外務大臣(第1次山本内閣)・宮内大臣
パリ講和会議の国際連盟委員会最終会合において次席全権大使として人種的差別撤廃提案en:Racial Equality Proposalfr:Principe de l'égalité des raceses:Propuesta de igualdad racial)を行う。
ロシアのウラジミール・レーニンen:Vladimir Leninzh:弗拉基米尔·列宁)の「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を唱えたウッドロウ・ウィルソンen:Woodrow Wilsonzh:伍德罗·威尔逊)米国大統領が議長であり、ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、日本代表・フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、3分の2を超える計11名の委員が賛成する(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対又は保留)。しかしウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、人種的差別撤廃提案の実現を阻まれる。
文久2年(1862年)生。国際連盟en:League of Nationsfr:Société des Nationszh:國際聯盟)事務次長(1920年-1926年)。”Bushido: The Soul of Japan”(『武士道』)の著者。東京女子大学初代学長。
元治元年(1864年)生。ドイツ留学、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、明治34年(1901年)フランス公使館付陸軍武官、明治35年(1902年)ロシア帝国公使館付陸軍武官。日露戦争開戦後、ヨーロッパを舞台にロシア第一革命en:Russian Revolution of 1905)支援工作を画策し、日本の勝利に貢献する。台湾総督・陸軍大将。
元治2年(1865年)生。明治27年(1894年)外務省入省(日本初の外交官及領事官試験に合格)。メキシコ臨時代理公使。メキシコ革命(1910年-1920年)に際してフランシスコ・マデロ大統領の遺族を保護。
慶応元年(1865年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐米大使・駐露大使・外務大臣。外務大臣として、ヴェルサイユ体制ワシントン体制という第一次世界大戦後の国際協調体制の構築に関与する一方、満州国設立・国際連盟脱退時の外相でもある。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である(第2次西園寺内閣原内閣高橋内閣加藤友三郎内閣齋藤内閣)。
慶応2年(1866年)生。明治25年(1892年)大蔵省入省。1930年ロンドン海軍軍縮会議首席全権。大蔵大臣・内務大臣・首相。
慶応2年(1866年)生。明治23年(1890年)外務省入省。大正6年(1917年)特命全権大使として石井・ランシング協定を結ぶ。駐仏大使・外務大臣(第2次大隈内閣)。
慶応3年(1868年)生。明治34年(1901年)ドイツ駐在武官。太平洋戦争終結時の首相(1945年4月7日-8月17日)。二・二六事件で 頭部・胸部等に被弾し瀕死の重傷を負うも奇跡的に回復する。海軍大将。
慶応4年(1868年)生。明治31年(1898年)アメリカ留学。米西戦争観戦武官・米国駐在武官。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下、作戦担当参謀として日本海海戦の勝利に貢献。海軍中将。
慶応4年(1868年)生。明治35年(1902年)、明治40年(1910年)の2度ドイツ留学。軍部ファシズムの流れに批判的であり、中国、英米に対して穏健な姿勢であったため、昭和12年(1937年)に組閣の大命降下がなされるも陸軍大臣が得られず失敗する(「宇垣流産内閣」)。
日中戦争開始後の第1次近衛内閣(改造)で、「国民政府を対手とせず」との近衛声明の撤回を条件に外務大臣に就任し、英国を介して、孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、現実的な和平条件引き出しに成功したが、近衛文麿に梯を外され外相を辞任(事実上の更迭)。陸軍大将・朝鮮総督・外務大臣。

1871年から1880年に生誕した者

明治5年(1872年)生。明治30年(1897年)外務省入省。小村寿太郎と共に陸奥条約改正に尽力し、ジュネーブでのILO総会では使用者代表顧問を務める。
明治5年(1872年)生。明治29年(1896年)外務省入省。ワシントン会議全権。戦前、外相として国際協調路線の「幣原外交」を推進(加藤高明内閣第1次若槻内閣濱口内閣第2次若槻内閣)。
戦後、内閣総理大臣に就任し日本国憲法の制定に関わる。中でも第9条は幣原が発案したとする説がある。
明治7年(1874年)生。明治32年(1899年)外務省入省。大正14年(1925年)ソ連のレフ・カラハン日ソ基本条約を締結、日ソ間の国交を樹立する。昭和15年(1940年)蘭印経済交渉特命全権・昭和16年(1941年)駐仏印特命全権大使。外務大臣。
明治7年(1874年)生。明治42年(1909年)ドイツ大使館付武官補佐官、大正6年(1917年)オランダ公使館付武官。陸軍大将。陸軍教育総監在任時に二・二六事件で遭難。
明治10年(1877年)生。明治35年(1902年)外務省入省。ロンドン海軍軍縮会議首席全権・外務次官・駐米大使・駐英大使・宮内大臣。会津藩主・京都守護職松平容保の六男。
明治10年(1877年)生。オーストリア・ドイツ駐在を経て、大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで駐米大使館付武官。パリ講和会議及びワシントン軍縮会議全権団随員。太平洋戦争日米開戦時の駐米大使。海軍大将・外務大臣。国際法の権威として知られる。海軍大将。
明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。オランダ公使、ソ連大使。外務大臣(第1次近衛内閣)・内閣総理大臣。日中戦争en:Second Sino-Japanese Warzh:中国抗日战争)の開始、軍部大臣現役武官制の復活の責任などにより文官唯一のA級戦犯として処刑。
明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐英大使、首相。中国権益に対しては積極論者であり、満蒙分離論を支持する一方、覇権国英米との関係を重視し、日独防共協定日独伊三国同盟には強硬に反対する。
昭和26年(1951年)首相としてサンフランシスコ平和条約日米安全保障条約を締結する。
明治12年(1879年)生。明治45年(1912年)駐ドイツ大使館付武官補佐官、大正7年(1918年)パリ講和会議全権随員。温厚で誠実な人柄から陸軍の暴走に歯止めを掛けることが期待されるが、軍部大臣現役武官制下で米内内閣の陸軍大臣を単独辞職し、内閣を瓦解させてしまう。陸軍大臣・元帥陸軍大将。
明治13年(1880年)生。大正4年(1915年)ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。
昭和11年(1936年)12月12日の西安事件により、中国国民党は中国共産党との共同抗日へと方針変更する。昭和12年(1937年)7月7日の発生した盧溝橋事件は日中いずれから仕掛けられたのか不明であるが、日本は不拡大方針を採り、同月11日は停戦協定(松井・秦徳純協定)が成立する。しかし、その後の、中国共産党から国共合作による徹底抗戦の呼びかけがなされ、また、胡適日本切腹中国介錯論(1935年、一種の焦土作戦)に基づくと思われる蒋介石の「最後の関頭」演説(『あらゆる犠牲を払ってでも徹底抗戦すべきである』)で抗戦の覚悟が公式に明らかにされると、中国側からの日本軍・日本人居留民に対する襲撃が繰り返し実行される。同年8月13日、中国軍による日本租界への襲撃である第二次上海事変が発生すると、米内は閣議で断固膺懲、陸軍派兵を主張し、トラウトマン工作については交渉打切りを強く主張、「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の第一次近衛声明につながる。
日独防共協定en:Anti-Comintern Pactde:Antikominternpaktzh:反共產國際協定)締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派である。日独伊三国軍事同盟にも「日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と反対する。
太平洋戦争の終盤から海軍省廃止時まで海軍大臣を務める。連合艦隊司令長官・海軍大臣・海軍大将・内閣総理大臣。
明治13年(1880年)生。明治26年(1893年)から9年間アメリカ留学。明治37年(1904年)外務省入省。国際連盟脱退時のジュネーブ総会首席全権。脱退直前の連盟総会において、日本による満州国承認に対して批判的な各国の厳しい雰囲気の中、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を英語で行う。満鉄総裁・外務大臣。
第2次近衛内閣の外相としてヒトラーde:Adolf Hitlerzh:阿道夫·希特勒)が率いるナチスドイツ(en:Nazi Germanyzh:納粹德國)、ムッソリーニit:Benito Mussolinizh:贝尼托·墨索里尼)が率いるイタリアと日独伊三国軍事同盟en:Tripartite Pactde:Dreimächtepaktzh:三国同盟条约)に調印する。さらにヨシフ・スターリンen:Joseph Stalinzh:约瑟夫·斯大林)が指導するソビエト連邦en:Soviet Unionzh:苏联)と日ソ中立条約に調印し、4国の連携で米英に対抗することを目指したが、独ソ戦の開始により目論見が破綻する。

1881年から1890年に生誕した者

明治15年(1882年)生。駐スイス公使館付駐在武官、駐満州国大使。昭和10年(1935年)、華北で相次いだ抗日・民族主義運動を撲滅するため梅津・何応欽協定を締結する。昭和11年(1936年)の二・二六事件後、陸軍次官に就任し、粛軍人事を行う。昭和20年(1945年)9月2日、重光葵とともに、大本営全権として太平洋戦争の降伏文書に調印する。陸軍大将。
明治15年(1882年)生。明治38年(1905年)外務省入省。国際連盟帝国事務局長・ロンドン海軍軍縮会議事務総長・駐仏大使・外務大臣。ソ連対日参戦時の駐ソ大使。第二次世界大戦でドイツ降伏後、ソ連を通じた連合国との交渉を試みるが、ソ連からは無視された。ソ連の対日参戦の情報をつかみ損ね、奇襲を受けることになる。
明治15年(1882年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐独大使の時、日独防共協定締結の交渉に当たり、同協定に調印した(1936年11月25日)。
明治15年(1882年)生。大正元年(1912年)外務省入省。太平洋戦争開戦時の外務大臣(東條内閣)として野村吉三郎来栖三郎とともに開戦回避交渉を担当し、終戦時の外務大臣(鈴木貫太郎内閣)としてソ連の仲介による和平交渉を模索する。
明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)ハーバード大学留学。大正14年(1925年)駐米大使館付武官。ロンドン軍縮会議次席随員。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。元帥海軍大将・連合艦隊司令長官
明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)駐スイス武官。太平洋戦争en:Pacific Warzh:太平洋战争)開戦時の内閣総理大臣。昭和18年(1943年)11月大東亜会議en:Greater East Asia Conferencezh:大東亞會議)を主催し、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言を採択する。参加者:汪兆銘中華民国行政院長、張景恵満州国務総理、ホセ・ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ内閣総理大臣、ワンワイタヤーコーンタイ親王(首相代理)、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班。陸軍大将・陸軍大臣。
明治17年(1884年)生。明治42年(1909年)外務省入省。外務次官・中国大使・外務大臣。米内内閣の外務大臣として、日独伊三国軍事同盟の締結に反対する。
明治19年(1886年)生。駐独大使館付武官から、大使に就任。日独伊三国同盟による枢軸外交実現のために奔走する。第二次世界大戦en:World War IIfr:Seconde Guerre mondialede:Zweiter Weltkriegzh:第二次世界大战)末期になっても、ドイツ有利との誤った戦況報告を日本政府に流し続ける。
明治19年(1886年)生。明治43年(1910年)外務省入省。駐ドイツ大使として日独伊三国軍事同盟を締結・調印(1940年9月27日)。日米開戦時の交渉担当大使。
明治20年(1887年)生。大正4年(1915年)外務省入省。東亜局長として支那事変では不拡大方針を強く主張する。太平洋戦争終戦時の駐ビルマ大使。バー・モウを伴ってタイに脱出。
明治20年(1887年)生。明治44年(1911年)外務省入省。満州事変の勃発に際し「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線での収拾に奔走。
太平洋戦争後の連合国への降伏文書調印において、日本政府全権として署名(1945年9月2日)。東條内閣小磯内閣東久邇宮内閣で外務大臣。
明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。駐イタリア大使・外務次官。昭和9年(1934年)4月に、日本がアジア・モンロー主義を宣言したと解釈された「天羽声明」で有名。
明治20年(1887年)生。大正3年(1914年)外務省入省。スウェーデン公使・駐イタリア大使。大島浩駐独大使と連携して防共協定強化、日独伊三国同盟の推進を図る。
明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。最初の勤務地ロシアで1917年ロシア革命en:Russian Revolutionru:Русская революция)に遭遇する。外務大臣・内閣総理大臣。
斎藤隆夫反軍演説の際には除名に反対票を投じる。昭和16年(1941年)の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選。
衆議院帝国憲法改正小委員会委員長として、戦力不保持を定める憲法案第9条第2項に「前項の目的を達するため」との文言を追加する芦田修正を行い、これにより自衛力保持の余地が残された。
主著として、『最近世界外交史』(全3巻、明治図書(1934年)、改訂復刻:時事通信社(1965年))、『第二次世界大戦前史』(1959年 時事通信社)、『第二次世界大戦外交史』(時事通信社1960年、復刊1975年、岩波文庫(上下)2015年)。
明治20年(1887年)生。昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件発生当時の北京特務機関長。同事件発生から4日後の7月11日に、北京市長兼第二九軍副司令官の秦徳純と停戦協定を締結する(松井=秦徳純協定)。陸軍中将。
松井=秦徳純協定により事態が収拾したにもかかわらず、その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃が連続し、戦闘が本格化する。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。
明治22年(1889年)生。駐独大使館付武官・駐満大使館付武官。入念・緻密な計画に基づいて、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起こし、満州事変en:Mukden Incidentzh:九一八事變)を成功させた首謀者である。
ニ・ニ六事件では反乱軍鎮圧の先頭に立ち、日中戦争en:Second Sino-Japanese Warzh:中国抗日战争)に際しては不拡大方針を唱え、トラウトマン工作に関与。関東軍作戦参謀・陸軍中将・立命館大学国防学研究所長。
明治22年(1889年)生。大正7年(1918年)スイス国駐在ドイツ語習得従事。大正9年(1920年)フランス国駐在フランス語習得従事。昭和2年(1927年)在イタリア日本大使館付海軍駐在武官。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。海軍次官・海軍大将(海軍大将となった最後の軍人である)。

1891年から1920年に生誕した者

明治29年(1896年)生。大正9年(1920年)農商務省入省。昭和6年(1931年)重要産業統制法を起案実施。満州国にて満州産業開発五カ年計画を実施。
外相・首相として、日米安保条約の改定を断行(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約en:Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)。
明治30年(1897年)生。大正10年(1921年)外務省入省。外務次官・駐英大使。鳩山一郎首相から日ソ交渉全権代表に起用され、昭和30年(1955年)6月からロンドンにおけるソ連側全権代表ヤコフ・マリク駐イギリス大使との会談で日ソ国交回復及び日本の国際連合en:United Nationsfr:Organisation des Nations uniesde:Vereinte Nationenes:Organización de las Naciones Unidaszh:联合国ru:Организация Объединённых Нацийar:الأمم المتحدة)加盟への道を開く。
  • 加瀬俊一(かせ しゅんいち、通称「大加瀬」)
明治30年生(1897年)生。大正9年(1920年)外務省入省。昭和19年(1944年)から中立国スイス駐在公使に就任し、ドイツ敗戦後、和平工作を試み、ポツダム宣言en:Potsdam Declarationzh:波茨坦公告)受諾の正式な通知を連合国代表に対して行う。駐メキシコ大使・駐西独大使。
明治33年(1900年)生。大正8年(1919年)外務省官費留学生としてハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。大正13年(1924年)外務省に書記生として採用。
第二次世界大戦期の在カウナス(リトアニア)日本領事館領事代理として、訓令に反し約6000人のユダヤ人避難民に通過査証を発行し救う。
明治34年(1901年)生。内閣総理大臣(1964年-1972年)として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。1974年にノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。内閣官房長官、郵政大臣、建設大臣、大蔵大臣、通産大臣などを歴任。
明治35年(1902年)生。大正8年(1919年)イギリス留学。戦後、吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。貿易庁長官・サンフランシスコ講和会議全権団顧問・外務省顧問。
  • 加瀬俊一(かせ としかず、通称「小加瀬」)
明治36年(1903年)生。大正14年(1925年)外務省入省。松岡洋右の国際連盟脱退時及び日ソ中立条約締結時に随行。アジア・アフリカ会議に外相代理として出席。昭和30年(1955年)初代国際連合en:United Nations)大使。佐藤栄作ノーベル平和賞受賞に向け積極的なロビー活動を行う。
明治38年(1905年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。在英日本大使館勤務。汪兆銘政権の財政顧問。
首相として中国へのODA開始、積極的な東南アジアへの開発援助、福田ドクトリン東南アジア外交三原則)の発表(昭和52年(1977年))を行う。外務大臣・内閣総理大臣。
明治39年(1906年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。終戦連絡部長(後の渉外部長)。昭和24年(1949年)初代の財務官。昭和27年(1952年)駐米公使。昭和31年(1956年)国際通貨基金世界銀行理事として外資の借入れ交渉や対日融資の増加に尽力。昭和41年(1966年)から昭和47年(1972年)まで初代のアジア開発銀行総裁。
明治40年(1907年)生。昭和6年(1931年)外務省入省。ポツダム宣言の翻訳、沖縄返還日米繊維交渉など、日米交渉に深く関与する。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。
明治42年(1909年)生。昭和7年(1932年)外務省入省。戦時中は革新派の外交官として知られ、英国の仲介で日中戦争の収拾に当たった宇垣一成外相の方針に反発する。
戦後は、外務事務次官に就任。退官後、駐米大使として沖縄返還交渉、日米繊維摩擦交渉に当たる。福田赳夫改造内閣対外経済担当大臣として欧米との経済摩擦の緩和に奔走する。
大正2年(1913年)生。昭和12年(1937年)商工省入省。駐米大使館書記官・通商産業省通商局長・通産事務次官。GATT11条国への移行(国際収支上の理由で貿易制限ができなくなる。)、国際通貨基金(IMF)8条国への移行(国際収支上の理由で為替制限ができなくなる。)、OECD加盟(資本自由化)、国内市場開放が問題となっていた高度経済成長期に「国際派」「自主調整派」として早期の市場の自由化を唱える。
大正5年(1916年)生(女性)。1947年労働省入省。国際労働機関(ILO)事務局長補(1976年-1978年)、1980年、日本初の女性大使として駐デンマーク大使、同年7月17日「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本を代表して署名する。
en:Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women
fr:Convention sur l'élimination de toutes les formes de discrimination à l'égard des femmes
es:Convención sobre la Eliminación de Todas las Formas de Discriminación contra la Mujer
ru:Конвенция о ликвидации всех форм дискриминации в отношении женщин
ar:اتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة
zh:消除對婦女一切形式歧視公約
大正5年(1916年)生。昭和15年(1940年)大蔵省入省。駐フランス大使館勤務。大蔵事務次官日本輸出入銀行総裁・日本銀行総裁。日銀総裁としてプラザ合意en:Plaza Accordzh:广场协议)後の急激な円高に対応する。
大正7年(1918年)生。昭和16年(1941年)内務省入省、海軍主計中尉任官。科学技術庁長官・運輸大臣・防衛庁長官・通商産業大臣・内閣総理大臣等を歴任。昭和58年(1983年)の第9回先進国首脳会議(ウィリアムズバーグ・サミット)で、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否かが議論になり、米(ロナルド・レーガンen:Ronald Reaganzh:罗纳德·里根)・英(マーガレット・サッチャーen:Margaret Thatcherzh:玛格丽特·撒切尔)と、その他の参加国で見解が分かれた際、中曽根が「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテランfr:François Mitterrandzh:弗朗索瓦·密特朗)大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」と発言し、共同声明を主導した。
大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)外務省入省。駐豪大使、駐米大使(1980年-1985年)。蜜月だった中曽根康弘首相とロナルド・レーガン米国大統領の「ロン・ヤス関係」を裏方で支える[7]世界平和研究所(現、中曽根康弘世界平和研究所)理事長。
大正8年(1919年)生。昭和16年(1941年)商工省入省。駐フランス大使館書記官・通産事務次官。佐橋滋とともに、貿易自由化資本自由化に対応するため国内産業の合理化を目的とする特定産業振興臨時措置法案(未成立)を推進する。
大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)大蔵省入省。サンフランシスコ講和会議全権随員。経済企画庁長官・通商産業大臣・外務大臣・内閣官房長官・大蔵大臣・初代財務大臣・内閣総理大臣等を歴任。宮澤内閣においてPKO協力法を成立させ、自衛隊カンボジア派遣を実施する。

1921年から1940年に生誕した者

大正12年(1923年)生。昭和18年(1943年)商工省入省。戦後、駐カナダ大使館書記官。通産省通商局長として日米繊維交渉を決着させる。通産事務次官として第一次オイルショックに対応。
三井物産副社長としてイラン革命(1979年、en:Iranian Revolutionfa:انقلاب ۱۳۵۷ ایرانar:الثورة الإسلامية الإيرانيةzh:伊朗伊斯蘭革命)、イラン・イラク戦争(1980年-1988年、en:Iran–Iraq Warfa:جنگ ایران و عراقar:حرب الخليج الأولىzh:两伊战争)によるイラン・ジャパン石油化学事業(IJPC)からの撤退を決断する。
昭和2年(1927年)生(女性)。国連日本政府代表部特命全権公使・国連人権委員会日本政府代表。平成3年(1991年)から平成12年(2000年)まで国連難民高等弁務官犬養毅の曾孫、芳澤謙吉の孫。
昭和4年(1929年)生(女性)。1953年労働省入省。1979年国連日本政府代表部公使、1983年初代婦人局長、1985年男女雇用機会均等法の制定に尽力。1986年駐ウルグアイ大使、文部大臣(1993年-1994年、細川内閣羽田内閣)。
昭和6年(1931年)生。昭和32年(1957年)国連採用。昭和49年(1974年)外務省入省。国連事務次長。平成4年(1992年)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表。平成6年(1994年)旧ユーゴ問題担当事務総長特別代表として国際連合保護軍(UNPROFOR)の最高指揮権を付与される。
昭和7年(1932年)生。昭和30年(1955年)外務省入省。国連大使・外務事務次官。コロンビア大学ニューヨーク大学などで国際法の客員教授。国際司法裁判所en:International Court of Justicefr:Cour internationale de justicees:Corte Internacional de Justiciazh:国际法院判事・所長。皇太子妃雅子の父。
昭和8年(1933年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。中近東アフリカ局第二課長、駐アラブ首長国連邦大使(1986年-1989年)、駐イラク大使(1990年-1991年)、駐エジプト大使(1994年-1997年)。駐イラク大使在任時、イラクのクウェート侵攻が勃発し、湾岸戦争(「人間の盾」作戦)に際して人質にされた在留邦人の解放に尽力する。『JAPAN and the MIDDLE EAST』(英文、共著、1994年、中東調査会)、『アラビスト外交官の中東回想録』(2005年、明石書店)著。
昭和9年(1934年)生。昭和36年(1961年)検事任官。昭和47年(1972年)在米大使館一等書記官。東京地検特捜部検事としてロッキード事件を捜査、米国での嘱託尋問を担当し、起訴後公判検事として田中角栄元首相に論告求刑をする。
昭和9年(1934年)生(女性)。1958年、労働省入省。1986年婦人局長、ケニア大使(1991年-1995年)、1998年証券取引等監視委員会委員長、2003年日立製作所取締役。
昭和9年(1934年)生。昭和33年(1958年)通商産業省入省。産業政策局長として日米構造協議(1989-90年)を担当。通産事務次官。
昭和10年(1935年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。条約局長・外務審議官(政務担当)・最高裁判所判事。
昭和12年(1937年)生。昭和34年(1959年)外務省入省。駐仏大使・国際連合教育科学文化機関en:UNESCOzh:联合国教育、科学及文化组织)事務局長。
昭和12年(1937年)生。昭和36年(1961年)外務省入省。条約局長・初代の総合外交政策局長・事務次官・駐米大使。国際海洋法裁判所en:International Tribunal for the Law of the Seafr:Tribunal international du droit de la merde:Internationaler Seegerichtshofes:Tribunal Internacional del Derecho del Marzh:国际海洋法法庭)判事・裁判所長。
昭和14年(1939年)生。伊藤忠商事株式会社社長(1998年-2004年)・会長(2004年-2010年)を務めた後、民主党政権下の中華人民共和国大使(2010年-2012年)。
ワシントン・コンセンサス」に対し、「1989年のベルリンの壁崩壊後、社会主義の敗北が明らかになって以降、IMF、世界銀行および米国財務省の間で広く合意された米国流の新古典派対外経済戦略で、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界中に広く輸出し、米国主導の資本主義を押し広げようとする動きである」と説明し、これに批判を加える[8]
昭和14年(1939年)生。昭和39年(1964年)外務省入省。中国課次席事務官・防衛庁長官・内閣官房長官・自由民主党幹事長。
昭和14年(1939年)生。昭和40年(1965年)東京地方検察庁検事任官。在米大使館一等書記官としてロッキード事件の捜査のため堀田力検事をサポートし、米側からの資料提供やロッキード社のコーチャン副会長の嘱託尋問を実現させる[9]。法務省刑事局総務課国際犯罪対策室長・検事総長

1941年から1950年に生誕した者

昭和17年(1942年)生。第2次橋本内閣の外務政務次官、第1次安倍改造内閣の防衛大臣、小渕内閣福田康夫内閣の外務大臣(1998年-1999年、2007年-2008年)。外務政務次官として在ペルー日本大使公邸占拠事件(1996年-1997年)に対処。その他経済企画庁長官・法務大臣等を歴任。自由民主党副総裁(2012年~)。
昭和18年(1943年)生。昭和41年(1966年)大蔵省入省。在米大使館一等書記官。主計局長。最後の大蔵事務次官かつ初代の財務事務次官。日本銀行副総裁・株式会社大和総研理事長・学校法人開成学園理事長兼学園長・東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長。
昭和18年(1943年)生。昭和42年(1967年)外務省入省。外務事務次官・最高裁判所判事。
昭和18年(1943年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。経済局長、世界貿易機関(WTO)紛争解決機関議長・上級委員。
昭和19年(1944年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。条約局長・総合外交政策局長・外務事務次官。外務事務次官として価値観外交を具体化した政策「自由と繁栄の弧」を立案・推進。平成26年(2014年)初代の国家安全保障局長
北朝鮮核ミサイル問題に関する日米首脳会談(2018年4月17日)、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談(同月27日)に先立ち、同月12日、米国のジョン・ボルトン国家安全保障担当大統領補佐官と協議を行う。さらに、南北首脳会談後、米朝首脳会談に先立ち、ボルトンと会談し、北朝鮮が持つ生物・化学兵器を含む全ての大量破壊兵器とあらゆる弾道ミサイルの完全な放棄に向けて韓国を含む3カ国による連携を続けることで一致する[10]
2018年6月10日、金杉憲治外務省アジア大洋州局長とともに、同月12日の米朝首脳会談の情報収集のためにシンガポールに派遣される[11]
昭和19年(1944年)生。昭和42年(1967年)大蔵省入省。昭和44年(1969年)オックスフォード大学留学。国際通貨基金派遣職員・国際金融局長・国際局長(初代)・財務官。平成17年(2005年)アジア開発銀行総裁。平成25年(2013年)日本銀行総裁。日銀総裁として大胆な金融緩和マイナス金利の導入を実施。
昭和20年(1945年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。北米局安全保障課長。退官後、株式会社岡本アソシエイツ設立、内閣総理大臣補佐官、内閣官房参与、内閣総理大臣外交顧問。
昭和21年(1946年)生(女性)。昭和46年(1971年)専門職として外務省入省。2008年、女性専門職からの初の大使として、駐リトアニア大使(初代)に就任(~2012年)。
昭和22年(1947年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。アジア大洋州局長・外務審議官。2002年の日朝首脳会談(第1次小泉内閣)を実現に導く。日本総合研究所・国際戦略研究所理事長。
昭和22年(1947年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。在ウィーン国際機関日本政府代表部大使、国際原子力機関(IAEA、en:International Atomic Energy Agency)事務局長(2009年~)。
北朝鮮核ミサイル問題に関する日米首脳会談、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月9日、IAEA事務局長として、河野太郎外相と会談を行い、北朝鮮の核兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)に向けた、IAEAによる検証体制の重要性とその構築方法について協議する。
2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領がイラン核合意(JCPOA)離脱を表明したことを受け、同月9日、IAEA事務局長として、同大統領がIAEAによる査察が不十分であると指摘してきたことに反論し、イランが世界で最も厳しい査察を受けていると強調し、同日時点までイランは同合意を履行しているとの声明を出す[12]。同月14日、プーチンロシア大統領とイラン核合意の継続に向けて協議する[13]
昭和22年(1947年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。駐米大使(2008年-2012年)。2018年5月、ドナルド・トランプ米国政権の保護主義的主張に対し、日本が中国と組む選択肢はあるかとの質問に対し、「ない。中国は多くの政府系企業を抱え、政府調達は透明性を欠く。WTO(世界貿易機関)体制の最大の受益者でありながら、知的財産権の規律も不十分だ。日米の方が自由経済という意味ではるかに近い。」と発言する[14]。高祖父は伊藤博文。父は駐オランダ大使、駐タイ大使、最高裁判事等を歴任した外交官藤崎萬里
昭和23年(1948年)生。大阪府立住吉高等学校卒業。大阪大学法学部を中退し、昭和44年(1969年)に専門職員として外務省入省後、上級職試験を受け直し、翌年上級職となる。昭和62年(1987年)から3年間北米局北米第二課長として日米の経済関係、日米構造協議を担当する。外務事務次官。
昭和23年(1948年)生。平成16年(2004年)外務省へ出向、国際連合日本政府代表部次席代表・特命全権大使G4案による国連安保理改革を推進。東京大学大学院法学政治学研究科教授(日本政治外交史)。
昭和25年(1950年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。駐フランス大使(2013年-2016年)。日本・EU経済連携協定(EPA)首席交渉官(2017年~)として、投資家対国家の紛争解決(ISDS、en:Investor-state dispute settlement)等の取扱いを交渉する。

1951年から1955年に生誕した者

昭和26年(1951年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。国際法局長・駐フランス大使。平成25年(2013年)内閣法制局長官第2次安倍内閣)として、日本国憲法第9条に関し集団的自衛権の行使の可否の解釈の見直しに積極的に着手。
昭和26年(1951年)生。昭和52年(1977年)東京大学大学院理学系研究科修士課程数学専門課程を修了し、外務省入省。北米局長(2009年-2011年)、駐スイス大使(兼駐リヒテンシュタイン大使(2011年-2012年))、国連大使(2013年-2014年)、駐イタリア大使(兼駐アルバニア、駐サンマリノ、駐マルタ大使(2014年-2017年)、米国離脱後の環太平洋経済連携協定TPP11、『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、CPTPP)の首席交渉官(2017年~)。
昭和26年(1951年)生。昭和49年(1974年)外務省入省。アジア大洋州局長・外務事務次官・駐米大使(2012年~2018年)。
昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。平成20年(2008年)国際法局長、平成22年(2010年)総合外交政策局長、平成25年(2013年)TPP政府対策本部主席交渉官。駐英大使(2016年~)。
昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。アジア大洋州局長(2008年-2011年)、駐インド大使(2011年-2012年)、外務事務次官(2013年-2016年)。三菱商事株式会社顧問・取締役(2017年~)。
昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。フランス語研修を受ける。国際協力局長、駐中国大使(2012年-2016年)、駐フランス大使(2016年~)。
昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。2007年初代国際協力局長、2008年総合外交政策局長、駐韓国大使(2012年-2016年)、国際連合日本政府常駐代表(国連大使、2016年~)。
昭和28年(1953年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。外務事務次官(2016年-2018年)、駐米大使(2018年~)。
昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第二課長、駐アフガニスタン大使(2004年-2006年)、中東アフリカ局長(2006年-2008年)、駐エジプト大使(2010年-2013年)、駐サウジアラビア大使(2015年~2017年)。
昭和29年(1954年)頃生。昭和54年(1979年)外務省入省。国際法局長(2013年‐2014年)、駐ベルギー大使(2014年‐2017年)、駐インドネシア大使(2017年~)。
昭和29年(1954年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐ガーナ大使。平成23年(2011年)大臣官房審議官兼経済局・経済外交担当大使として環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結に向けた交渉にあたる。平成26年(2014年)欧州連合日本政府代表部特命全権大使。平成29年(2017年)TPP政府対策本部主席交渉官。駐イタリア大使(2017年~)。
昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長(1995年-1998年)。2004年、湾岸戦争以来13年ぶりとなる駐イラク大使に就任。中東アフリカ局長(2008年-2010年)。2010年、駐シリア大使に就任するが、シリア騒乱に関連して、2012年6月29日、シリア政府よりペルソナ・ノン・グラータの指定を受け解任される。駐エジプト大使(2013年-2014年)、駐デンマーク大使(2016年~)。
昭和29年(1954年)生。内閣総理大臣(2006年-2007年、2012年~)。2007年日米豪印戦略対話en:Quadrilateral Security Dialogue)を提唱。2016年8月にアフリカ開発会議(TICAD、en:Tokyo International Conference on African Developmentfr:Conférence internationale de Tokyo sur le développement de l'Afrique)において成長著しいアジアと潜在力の高いアフリカを重要地域と位置付け、両者の連結性を高める「自由で開かれたインド太平洋戦略」(en:Free and Open Indo-Pacific Strategy)を提唱。
北朝鮮の核・ミサイル問題に関する米朝首脳会談に先立ち、2018年4月17日ドナルド・トランプ米国大統領と会談を行い、北朝鮮の核・ミサイルの「完全、検証可能かつ不可逆的な方法での廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement/Denuclearization)を目指す方針を確認し、非核化実現へ最大限の圧力を維持することで一致する[15]。同年5月11日、国際原子力機関(IAEA)による査察が行われる場合、日本が応分の費用を負担する考えを示す[16]。なお、当該費用負担が、短・中距離弾道ミサイルの廃棄、拉致問題の解決などを条件とするものであるか、報道内容からは不明である。
2018年5月28日、米朝首脳会談(6月12日開催)を前に、トランプ米国大統領との電話協議で、北朝鮮の核兵器に加え、生物・化学兵器と弾道ミサイル計画の完全かつ恒久的な廃棄を目指すことを確認する[17]
2018年7月1日、ベルギーブリュッセルに、北大西洋条約機構(NATO、en:North Atlantic Treaty Organizationfr:Organisation du traité de l'Atlantique nord)日本政府代表部を開設する。
昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。ドイツ語研修を受ける。駐インド大使(2012年-2015年)、駐ドイツ大使(2015年~)。
昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐中国公使・駐トルコ大使(2013年-2016年)・駐中国大使(2016年~)
昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。カイロでアラビア語研修を受ける。中東アフリカ局第一課長。2004年から自衛隊イラク派遣で派遣されていた陸上自衛隊サマーワ宿営地内にあるサマーワ外務省連絡事務所長を務める。駐ボツワナ大使(2011年-2014年)、駐イラン大使(2015年~)。
昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。防衛省防衛政策局次長・駐パキスタン大使。平成25年(2013年)TPP政府対策本部主席交渉官代理、平成28年(2016年)TPP政府対策本部主席交渉官。平成29年(2017年)経済協力開発機構代表部大使。
昭和30年(1955年)生。ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。外務副大臣(2002年-2003年)、経済産業大臣(2012年-2014年)。経済財政政策担当大臣(2017年~)として2017年TPP11(『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、CPTPP)の閣僚交渉を担当、2018年3月署名。

1956年から1960年に生誕した者

昭和31年(1956年)生。昭和55年(1980年)外務省入省。駐英大使館一等書記官(1994年-1997年)、駐露大使館一等書記官・参事官(1997年-2000年)、欧州局ロシア課長(2002年-2004年)、駐露公使(2008年-2010年)、欧州局長(2012年-2014年)、駐ロシア大使(2015年~)。
昭和31年(1956年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。総合外交政策局長(2012年-2015年)、駐インド大使(2015年~)。
昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。在シリア日本国大使館外交官補としてアラビア語研修を受ける。2003年駐イラク大使館参事官。中東アフリカ局長(2014年-2017年)、駐サウジアラビア大使(2017年~)。
昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。エジプトでアラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長、駐エジプト大使(2014年~)。
昭和32年(1957年)生。広島平和記念公園広島平和記念資料館などが所在する広島県第1区選出の衆議院議員。外相として、平成28年(2016年)4月、広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め、他のG7外相と共に広島平和記念公園広島平和記念資料館の訪問、原爆死没者慰霊碑に献花を実現。同年5月、バラク・オバマen:Barack Obamazh:贝拉克·奥巴马)米国大統領広島訪問を実現。
ドナルド・トランプen:Donald Trumpzh:唐納·川普)米国大統領がTPPの批准を拒絶し、欧州連合からのイギリス脱退en:Brexitzh:英國脫離歐盟)の交渉が行われ、保護貿易主義への潮流が世界的に強まる中、平成29年(2017年)相互の関税の意欲的な引下げ等による自由貿易主義の牽引を目指し、欧州連合(EU、en:European Unionfr:Union européennede:Europäische Uniones:Unión Europearu:Европейский союзzh:欧洲联盟tr:Avrupa Birliğiar:الاتحاد الأوروبيfa:اتحادیه اروپا)との日本・EU経済連携協定(EPA)につき、セシリア・マルムストロームen:Cecilia Malmström)欧州委員(貿易担当)等との閣僚交渉を担当。
2017年7月、持続可能な開発目標(SDGs、en:Sustainable Development Goalsfr:Objectifs de développement durablees:Objetivos de Desarrollo Sosteniblezh:可持续发展目标)の達成に向けた総額10億ドル規模の支援を国連本部において表明する。
平成24年(2012年)12月から連続4年7か月に亘る外務大臣在任期間は内田康哉(通算7年5ヶ月、連続4年11ヶ月)・吉田茂(通算5年2ヶ月、連続3年6ヶ月)に次ぐ。外相として訪問した国・地域は50に達し、歴代最多[18]
昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。オックスフォード大学ハートフォード・カレッジにて在外研修。日本ラグビーフットボール協会総務委員会委員。在米国大使館一等書記官・経済局国際経済第一課長・総合外交政策局国連政策課長・在英大使館参事官等を歴任。
井ノ上正盛とともに、イラク復興支援に尽力中の平成15年(2003年)11月にイラク日本人外交官射殺事件で殉職(享年45)。死後、従四位に叙され、旭日中綬章授与、大使に特進。
奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。
昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。ASEAN政府代表部大使(2012年-2014年)、駐カナダ大使兼国際民間航空機関代表部大使(2017年~)。
昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。スペイン語研修を受ける。中南米局長(2012年-2014年)、駐メキシコ大使(2014年-2017年)、駐ブラジル大使(2017年~)。
昭和34年(1959年)生。平成18年(2006年)国連日本政府代表部公使参事官、平成29年(2017年)国連日本政府代表部大使。国際政治学者(専門は安全保障論・国連研究)。日本で模擬国連の活動を開始したことでも知られる。
昭和35年(1960年)生。昭和57年(1982年)通商産業省入省。1987年、ハーバード大学J.F.ケネディスクール行政学修士を取得。在ブラジル一等書記官。日本サッカー協会国際委員として2002年日韓W杯招致に携わる。日本サッカー協会専務理事、内閣官房東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局長。
昭和35年(1960年)生。昭和60年(1985年)ノンキャリアの専門職員として外務省入省後、在ロシア日本国大使館を経て国際情報局分析第一課主任分析官。鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕されるが、2009年に失職するまで「起訴休職外務事務官」を自称。失職後は多数の書籍を出版し、2015年だけでも40冊を超える書籍(共著を含む)を出版している。
昭和35年(1960年)生。昭和58年(1983年)東京水産大学を卒業し、宮城県庁入庁。平成2年(1990年)‐平成7年(1995年)、松下政経塾研究生(第11期)。平成5年(1993年)東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。外務大臣政務官、外務副大臣、防衛大臣(2012年-2014年、2017年~)等を歴任。
2017年8月、北朝鮮核ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、等を共同発表する[19]
北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談、米朝首脳会談に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、マティス米国国防長官と会談し、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、あらゆる弾道ミサイル計画の放棄を要求することを確認する[20]
ドナルド・トランプ米国大統領が、2018年6月12日の米朝首脳会談後、米韓軍事演習の中止や在韓米軍の将来的な撤退に言及したことに対し、同月14日、マティス米国国防長官に「在韓米軍は東アジアの安全保障に重要な役割を担っている。」と懸念を伝える(マティスは「(在韓米軍の)縮小は検討してない」と回答する。)[21]
昭和35年(1960年)生(女性)。昭和58年(1983年)外務省入省。1986年スペイン外交官学校国際関係ディプロマ課程修了。総合外交政策局国連政策課長、同局安全保障政策課長、在英国日本国大使館公使、等を歴任。国際連合事務総長特別代表(防災担当、2018年~)。

1961年以降に生誕した者

昭和38年(1963年)生。第150代外務大臣(平成29年(2017年)~)。ジョージタウン大学国際学部比較政治学専攻卒業。河野一郎の孫、河野洋平の子である。
外相として、2017年8月東南アジア諸国連合(ASEAN、en:Association of Southeast Asian Nationszh:东南亚国家联盟ko:동남아시아 국가 연합fr:Association des nations de l'Asie du Sud-Estru:Ассоциация государств Юго-Восточной Азииar:أسيانfa:انجمن ملل آسیای جنوب شرقی)関連外相会合・東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF、 en:ASEAN Regional Forum)に出席する。
2017年8月、北朝鮮核ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2、参加者河野外相、小野寺五典防衛相、ティラーソン国務長官、マティス国防長官)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、尖閣諸島が米国の防衛義務の範囲であること、米国が最新鋭の能力を持つ次世代戦闘機等を日本に展開すること、日本が地上配備型迎撃システムの配備などで防衛能力を強化すること、を共同発表する[22]
2017年9月、共同議長として、第9回軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI、en:Non-Proliferation and Disarmament Initiative)外相会合を開催する。参加国(日本、オーストラリア、ドイツ、オランダ、ポーランド、カナダ、メキシコ、チリ、トルコ、UAE、ナイジェリア、フィリピン)。
2017年12月15日、北朝鮮核ミサイル問題等を議論する国連安全保障理事会閣僚級会合の議長を務める。
2018年(平成30年)2月、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conferencede:Münchner Sicherheitskonferenzfr:Wehrkunderu:Мюнхенская конференция по безопасностиzh:慕尼黑安全会议)に出席する。
尖閣諸島国有化問題(zh:日本政府购买钓鱼岛事件)を契機に途絶えていた、8年ぶりとなる日中ハイレベル経済対話zh:中日经济高层对话)を、2018年(平成30年)4月16日、河野が王毅中国外相と共同議長として開催し、自由貿易体制の重要性、並びに日中韓の自由貿易協定(FTA)及び東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnershipzh:区域全面经济伙伴关系协定)の締結に向けた協力を確認する[23]
北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談(2018年4月27日開催)、米朝首脳会談(2018年6月12日開催)に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、同月22日、主要7カ国(G7)外相会合において、北朝鮮に対し非核化が実現するまで最大限の圧力を維持する方針と、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、全ての射程のミサイル、並びに核兵器、生物・化学兵器を含む大量破壊兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な方法による廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)を要求することを確認する[24]。さらに、2018年4月27日、南北首脳会談における板門店宣言を受け、全ての大量破壊兵器及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDに向けた具体的な行動を期待すると表明する[25]
抽象的な朝鮮半島の非核化の合意にとどまった米朝首脳会談後の、2018年6月14日の日米韓外相会談に際して、「完全かつ検証可能で不可逆的な方法で、全ての大量破壊兵器と弾道ミサイルを廃棄することが重要だ」と述べるとともに、拉致・核・ミサイルの問題が包括的に解決できれば、北朝鮮との国交を正常化する意向を示す[26]
昭和38年(1963年)生(女性)。1989年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入所。旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表上級補佐官、UNHCR副高等弁務官特別補佐官、国連本部事務総長室国連改革チームファースト・オフィサー等を歴任。2017年から国連事務次長(軍縮担当上級代表、en:High Representative for Disarmament)。
昭和38年(1963年)生(女性)。昭和62年(1987年)外務省入省。旧姓小和田。ハーバード大学経済学部卒業。東京大学法学部に学士入学。旧外務公務員I種試験(外交官試験)に合格し、東京大学を中退し、外務省に入省。
昭和40年(1965年)生。外務大臣政務官(福田康夫改造内閣麻生内閣)、国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官第3次安倍内閣(改造))。自衛隊南スーダン派遣に際し、2016年と2017年に首相補佐官として内戦状態にあった南スーダンを視察訪問。
昭和41年(1966年)生(女性)。平成元年(1989年)外務省入省。国際連合事務次長補兼国際連合開発計画危機対応局長(2018年~)。
昭和48年(1973年)生。平成8年(1996年)専門職員として外務省入省。中近東アフリカ局中近東第一課配属。在シリア大使館・在チュニジア大使館・在ヨルダン大使館兼任イラク大使館員等歴任。在イラク三等書記官。
奥克彦とともにイラク復興支援中にイラク日本人外交官射殺事件で平成15年(2003年)11月殉職(享年30)。死後、従七位に叙され、旭日双光章受賞、一等書記官に特進。
奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。

外交官が登場する作品

関連項目

脚注

  1. 杉原高嶺・水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007-05-01、第4版。ISBN 978-4-641-04640-5。
  2. 杉原高嶺・水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007-05-01、第4版。ISBN 978-4-641-04640-5。
  3. 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
  4. 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
  5. 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999-07-30、新版。ISBN 4-641-04593-3。
  6. 外務省記録「欧米大国ト特命全権大使交換一件」
  7. 日経新聞180518追想録
  8. 丹羽宇一郎『財界だって格差社会はノー』文藝春秋2007年3月号
  9. 日本経済新聞夕刊2017年4月26日追想録
  10. 日経新聞180505
  11. 日経新聞180609
  12. 日経新聞180510
  13. 日経新聞180515
  14. 日経新聞180529
  15. 日経新聞180418
  16. 毎日新聞180511
  17. 日経新聞180529
  18. 日本経済新聞2017年4月30日
  19. 日経新聞20170818
  20. 毎日新聞180421
  21. 日経新聞180615
  22. 日経新聞20170818
  23. 日経新聞180416
  24. 日経新聞180423
  25. 外務省大臣談話180427
  26. 日経新聞180614

参考文献

外部リンク