日ソ中立条約

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大日本帝國及「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦間中立條約
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日ソ中立条約の調印書
通称・略称 日ソ中立条約
署名 1941年4月13日(モスクワ
効力発生 1941年4月25日
条約番号 昭和16年条約第6号
条文リンク 中野文庫
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日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)は、1941年昭和16年)に日本ソビエト連邦(以下ソ連)の間で締結された中立条約である。「日ソ中立条約」は略称で、正式名称は「大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国連邦間中立条約」とされる。

相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国モンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。

条約締結

締結への経緯

当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。

ところが、松岡洋右外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶユーラシア枢軸(「日独伊ソ四国同盟構想」)によって、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされるようになった。

当初、ソ連は応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941年4月13日、モスクワで調印した。ソ連側はヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側は陸軍軍人で駐ソビエト連邦大使の建川美次と外務大臣の松岡洋右が署名した。

また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡にドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告している。実際にナチスドイツは同年6月に独ソ不可侵条約を破棄しバルバロッサ作戦を敢行。ソ連は同年11月に極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入し、結果ドイツ軍ソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連を崩壊させることを狙った作戦は失敗に終わり、ナチスドイツ崩壊への端緒となった。

条約破棄

1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しない(ソ連側は「破棄」と表現)ことを日本に通達した。この背景には、ヤルタ会談にて秘密裏に対日宣戦が約束されていたことがある。さらに、ポツダム会談で、ソ連は、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由に、アメリカと他の連合国がソ連政府に対日参戦の要請文書を出すことを求めた[1]

これに対して、アメリカ大統領トルーマンはスターリンに送った書簡の中で、連合国が署名したモスクワ宣言(1943年)や国連憲章103条・106条などを根拠に、ソ連の参戦は平和と安全を維持する目的で国際社会に代わって共同行動をとるために他の大国と協力するものであり、国連憲章103条に従えば憲章の義務が国際法と抵触する場合には憲章の義務が優先するという見解を示した[1][2]

この回答はソ連の参戦を望まなかったトルーマンやバーンズ国務長官が、国務省の法律専門家であるジェームズ・コーヘンから受けた助言をもとに提示したものであり、法的な根拠には欠けていた[3]

通達後においても日本側は条約が有効と判断して、ソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼した。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。

ソ連は8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太千島列島および満州国朝鮮半島北部等へ侵攻した。

この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった[4][5]

具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、

本条約は 両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし
両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは 本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし — 大日本帝國及ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立條約、第三條

とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年で終了するものと解するのが妥当と解釈される。

また、関東軍特種演習(通称:関特演)による日本の背信行為によって条約が破棄されたという見解[6]に対しては、演習はあくまでも演習であり、演習以降も中立条約に基づく体制は維持されたことから、実際に中立条約破棄を行い、開戦したのはソ連であると批判する。

ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めた[7][8]

さらに、日ソ中立条約が破棄されるまで、ソ連は日本政府に対して日本が中立条約に違反しているとの抗議を一度もしたことがない。極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がいるし、裁判機関がすべて連合国の国民により構成されているので、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある[9]。極東国際軍事裁判など戦後裁判の審決を受諾したサンフランシスコ条約にソ連は署名していない。

関連作品

映像作品

脚注

  1. 1.0 1.1 長谷川毅『暗闘(上)』中央公論新社《中公文庫》、2011年、pp.347 - 351
  2. 萩原徹『大戦の解剖』読売新聞社、1950年、pp.261-P267、外務省『終戦史録4』北洋社、1977年
  3. モスクワ宣言には日本は拘束されず、国連憲章もこの時点ではまだどの国も批准していなかった(長谷川前掲書pp.348 - 349)。実際の参戦時にソ連は単に「連合国に対する義務を忠実に果たすため」とだけ述べ、モスクワ宣言や国連憲章には触れていない。
  4. ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤尚武駐ソ連大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。日本大使館から内地に向けての電話回線は全て切断されていたし、モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤尚武駐ソ連大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。 しかし、モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、ソ連当局の妨害のため、日本電信局に送信しなかった。そのため、宣戦布告が日本の外務省本省に届かなかった。ソ連は佐藤尚武駐ソ連大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始した。 日本政府がタス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手し、ソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。そして、日本の外務省本省は、南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報、つまり、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などという内容の電報を送った。それが、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)によって、傍受、解読され、英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された(英国立公文書館に秘密文書として所蔵された)。 10日午前11時15分(ソ連が侵攻してから約35時間経過)、東京のマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問して、正式な宣戦布告文が届いた。
  5. 産経新聞 2015年(平成27年)8月9日日曜日 「対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書」:電話回線切断の事項は、この出典ではない。産経新聞の新聞記事のもともとの出典の大部分は、『戦時日ソ交渉史』(昭和41年3月、外務省欧亜局東欧課作成)であるが、在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報の傍受、解読、保管のくだりは産経新聞の取材によるものである。
  6. 信夫清三郎 日ソ中立条約 国際政治 Vol. 1960 (1960) No.11 pp.99 - 110 JOI:JST.Journalarchive/kokusaiseiji1957/1960.99
  7. 『暗闘(上)』pp.94 - 95
  8. ボリス・スラヴィンスキー、高橋実・江沢和弘訳『考証 日ソ中立条約』岩波書店、1996年、p.313
  9. 『法選征服シリーズ 国際公法』(早稲田司法試験セミナー編。早稲田経営出版。1994年11月10日 初版第1刷発行)p 356に「第2次大戦後, 連合国は, ニュルンベルクおよび極東(東京)国際軍事裁判において, ドイツおよび日本の戦争指導者を, 「平和に対する罪」「通常の戦争犯罪」ならびに「人道に対する罪」を侵したという理由で訴追・処罰した。 「平和に対する罪」「人道に対する罪」については, ⅰ これらの犯罪が国際法違反でかつ国際犯罪であることが確立していたか(罪刑法定主義に反しないか), ⅱ侵略戦争に責任ある国家機関の個人責任を追及し得るか, が問題とされ, さらに, 裁判自体についても,ⅲ裁判機関がすべて連合国の国民により構成されており, 公正な裁判所といえるか等の疑問がだされている。」と記載されている。この本は、1994年頃の日本の司法試験の受験生のうち、『国際公法』を選択した人が読むことが多かった司法試験対策のための本である。

参考文献

関連項目

外部リンク

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