東南アジア諸国連合

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ファイル:ASEAN member states.svg
██ ASEAN 加盟国
██ ASEAN オブザーバー参加国
██ ASEAN 候補国
ASEAN +3
東アジアサミット参加国
ASEAN 地域フォーラム参加国

東南アジア諸国連合(とうなんアジアしょこく れんごう、英語: Association of South‐East Asian NationsASEAN /ˈɑːsi.ɑːn/ テンプレート:Respell)は、東南アジア10か国の経済社会政治安全保障文化に関する地域協力機構。本部所在地はインドネシアの首都ジャカルタ

2009年以降、アメリカや中国など50カ国あまりがASEAN大使を任命し、ASEAN本部のあるジャカルタに常駐[1]。日本も2011年5月26日、ジャカルタに東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部を開設し、ASEAN大使を常駐させている[2]

域内の総人口は6億2000万人(2014年)を超えており、5億人(2014年)の人口を抱える欧州連合 (EU) よりも多く人口増加率も高い。2013年の加盟国の合計のGDPは2兆4,104億米ドルであり、日本のGDPの約半分の規模である。ASEANを一つの国家として見た場合、世界7位の規模を持つことになる。

ASEAN経済共同体のAECを発足させようとしている。2015年末に向けて発足する予定で、主にASEAN各国同士の経済協力を目的としている。域内の物品関税が9割超の品目数ですでにゼロとなるなど高水準のモノの自由化を促そうとしている。

沿革

1961年タイフィリピン、マラヤ連邦(現マレーシア)の3か国が結成した東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が前身。また、インドネシアも加えたマフィリンド構想も、ASEAN設立の土台となったEAN(東アジア協会)の設立によって発展的に解消される形となったとされる。

のちベトナム戦争中の1967年8月ドミノ理論による東南アジア諸国の赤化を恐れたアメリカの支援のもと、タイのバンコクでASAを発展的に解消する形で現在の東南アジア諸国連合が設立された。原加盟国はASAの3ヶ国とインドネシア、1965年にマレーシアから独立した新興都市国家シンガポールの計5か国で、いずれも反共主義の立場を取る国であった。各国外相共同の設立宣言は、東南アジア諸国連合設立宣言や「バンコク宣言」などと言う。

加盟国

現在まで

1967年に5カ国で発足して以来、1984年にイギリスから独立して間もないブルネイが加わるまで新規加盟国は長い間現れなかった。これには冷戦期の反共主義が関連し、フィリピンやタイは反共軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO、1977年6月末解散)の加盟国としてベトナム戦争アメリカを支援して南ベトナムベトナム共和国)へ派兵を行った。その後、1980年代以降にシンガポールやタイなどで高度経済成長が実現すると、徐々に総合地域開発など経済分野での重要性が増していった。

1990年代後半に同地域の北方にある4か国が順次加盟し、現在に至る10か国体制が出来上がった。この10か国からなる拡大ASEANを"ASEAN-10"と呼ぶことがある。特に1995年、ベトナム共産党による一党独裁が続く社会主義国家のベトナム(ベトナム社会主義共和国)を迎え入れた事は、ASEANが反共政治同盟から東南アジアの地域共同体へと変質した事を示す象徴的な出来事となった。一方、ベトナムとしても、ASEAN発足時には北ベトナム(ベトナム民主共和国)としてアメリカやSEATO諸国などとベトナム戦争を戦い、その後もカンボジア内戦などでタイなどと激しく対立していた過去を払拭し、外交政策の転換と体制の安定化を完成させるためにASEAN加盟は必要だった。なお、最後の加盟国であるカンボジアは内政事情から加盟が遅れたもので、当初はミャンマー、ラオスと共に加盟する予定であった。ベトナムの影響力が強いラオスとカンボジアの相次ぐ加盟により、イデオロギー対立を超えた東南アジア地域統合体としての役割をさらに強く担う事になった。2013年には共産圏であるベトナム出身者から初めてASEAN事務総長が選ばれ、ASEAN共同体設立の舵取りを担った[3]

一方、アメリカや西ヨーロッパ諸国から軍事政権による強権統治が批判されているミャンマーの加盟を認め、ASEANはミャンマーの民主化問題で「建設的関与」というアプローチを取る事を明確にした。以後、ASEANは強硬な軍事政権批判を避け、首脳会談での議長声明などの形で民主化を求める提言が続けているが、ミャンマー軍事政権はこれを拒否、あるいは自分の計画に基づいた政策展開を崩さず、加盟国の内政に対するASEANの影響力には限界がある事が示されている[4]

加盟年月日 加盟国
1967年08月08日
(結成時)
 インドネシア
シンガポールの旗 シンガポール
タイ王国の旗 タイ
フィリピンの旗 フィリピン
マレーシアの旗 マレーシア
1984年01月08日 ブルネイの旗 ブルネイ
1995年07月28日  ベトナム
1997年07月23日 ミャンマーの旗 ミャンマー
ラオスの旗 ラオス
1999年04月30日 カンボジアの旗 カンボジア

加盟運動

パプアニューギニア

パプアニューギニアの旗 パプアニューギニアは、1975年の独立当初からASEAN開始に関心を持っており[5]、翌年の1976年からASEAN閣僚会議にオブザーバー(会議に出席はできるが議事への参加権や議決権がない)として参加し、1981年には特別オブザーバーの地位を得た。

1986年のASEAN閣僚会議で正式に加盟を申請し、現在まで加盟を希望している。しかし、パプアニューギニアが東南アジアに位置してないことから[5]、ASEAN諸国は加盟に否定的である。

東ティモール

東ティモールの旗 東ティモールは、オブザーバー・ステータスの獲得、さらにはASEAN加盟も目標とし、2007年には東南アジア友好協力条約(TAC)にも参加済である。東ティモールが加盟すると、ASEANは東南アジアに首都を置く全11カ国を迎えて地域共同体として完成するが、同国の独立はインドネシアとの紛争[6]を経ており、インドネシアとの友好関係を重視する加盟諸国はこの動きを必ずしも歓迎していない。特にミャンマーは、自国の民主化運動家であるアウンサンスーチーが東ティモールを支持していることもあって反対を表明しており、シンガポールも東ティモール加盟には消極的とされている[7]。また、独立後の東ティモールは国内情勢が不安定で、2006年から国際連合による国際連合東ティモール統合ミッション(UNMIT)が続いている点も問題となっている。

これに対し、東ティモールのダコスタ外相は、2010年7月21日に行った時事通信などのインタビューで、同国は2012年までのASEAN加盟を目指しているとし、東ティモールは安定した民主国家であり、急速な経済発展を遂げていると述べ、加盟資格は十分あるとの認識を示した。また、ASEANの最高規範(加盟国が順守すべき基本原則としての民主主義、法の支配など)であるASEAN憲章の基準を満たすことはできると強調した[8]。同年12月1日にはジョゼ・ラモス=ホルタ大統領が2011年中のASEAN加盟決定に改めて意欲を示した[9]

2011年3月4日、ダコスタ外相は、ASEAN議長国インドネシアのジャカルタで同国マルティ外相に対しASEAN加盟を正式に申請した。マルティ外相は共同記者会見で「東ティモールの加盟を支持し、速やかにASEAN内で話し合う」「2015年までにASEANに迎え入れたい」と述べ、早ければ今月中にも外相レベルで協議を始める方針を示した。ダコスタ外相と3月3日に会談したインドネシアのユドヨノ大統領は東ティモールの加盟を全面的に支持すると表明。他の加盟国にも大きな異論はないが、手続き上の問題などから年内の加盟実現は困難とみられている。ダコスタ外相は「早期の加盟を望む」と語っており、ユドヨノ大統領と東ティモールのグスマン首相は22日に会談し、加盟問題などを協議する予定である。[10]

統計

経済

  • GDP (為替レート): 2兆4,104億米ドル(2013年)
  • GDP(購買力平価): 3兆5,740億米ドル(2011年)
  • 1人当たりGDP (為替レート): 3,909米ドル(2013年、加盟10か国平均)
  • 1人当たりGDP(購買力平価): 5,930米ドル(2011年)
  • 貿易額(輸出入): 1兆6000億米ドル(MER・H22年10月ASEAN経済統計基礎資料:外務省HPより)

人口

域内人口は6億人を超え、欧州連合 (EU) や北米自由貿易協定 (NAFTA) よりも多い。国連の予測では、2030年には7億人を超え、2050年には7億7000万人規模になるとされている。

順位 国名 人口
1  インドネシア 255,462,000
2 フィリピンの旗 フィリピン 102,965,000
3  ベトナム 91,812,000
4 タイ王国の旗 タイ 68,387,000
5 ミャンマーの旗 ミャンマー 52,187,000
6 マレーシアの旗 マレーシア 30,568,000
7 カンボジアの旗 カンボジア 15,040,000
8 ラオスの旗 ラオス 6,802,000
9 シンガポールの旗 シンガポール 5,541,000
10 ブルネイの旗 ブルネイ 421,000

出典:List_of_Asian_countries_by_population wikipedia(2015.4)

他の経済圏との比較

加盟国数 地域・国名 人口/100万人 GDP/10億米ドル 一人当りGDP/米ドル
10 東南アジア諸国連合(ASEAN) 600 1,865 3,111
03 北米自由貿易協定 (NAFTA) 453 17,138 37,858
27 欧州連合の旗 欧州連合 (EU) 499 16,242 32,537
05 [[ファイル:テンプレート:Country flag alias MERCOSUR|border|25x20px|テンプレート:Country alias MERCOSURの旗]] メルコスール(MERCOSUR) 273 2,812 10,312
- アフリカ連合 (AU) 850 1,515 1,896
- 日本の旗 日本 128 5,459 42,783
- 中華人民共和国の旗 中国 1,341 5,878 4,382
- インドの旗 インド 1,191 1,632 1,371

出典:World Economic Outlook Database, September 2011 ※GDPは変動為替ベース。推定値含む

主な活動

ファイル:Jakarta Welcome ASEAN Delegates Billboard.jpg
ASEANサミットを歓迎するジャカルタの看板(2011年)

ASEANの主な活動は設立当初は外相会議であった。バンコク宣言では外相会議を毎年開催することを定めている(定期閣僚会議)。第1回の外相会議はASEANの設立を宣言したバンコクにおける会合である。設立当初の目的は経済・社会分野での地域協力で、最高決定機関は年次外相会議であった。

1972年1973年から欧州共同体(現欧州連合)やオーストラリアとの域外対話を開始した。現在はこれに中華人民共和国日本ニュージーランドカナダアメリカ合衆国大韓民国ロシアインドを加えた10者が域外対話国・機構と呼ばれる。年次外相会議の直後に招かれた拡大外相会議を開いている。

1975年以降は、外相会議とは別に、経済担当閣僚会議が年に1,2回開かれる。

1976年2月にバリ島でASEAN首脳が初めて一堂に会してASEAN協和宣言が発表され、政治協力がASEANの地域協力の正式な一分野になった。ASEANサミットとも称されるこの会合は、当初は不定期開催であり、1992年のシンガポールにおける会合の時点で未だ第4回目を数えるに止まった。だが、この第4回首脳会議において、3年毎の公式首脳会議とそれ以外の年の非公式首脳会議が開催されることが決定され(シンガポール宣言)、1995年以降毎年開催されている。更に、公式・非公式の区別は2002年に入って廃止されることになった。

1976年2月に開かれた初の首脳会議において東南アジア友好協力条約が締結された。この条約への加盟国は2008年7月で25カ国に上り、ユーラシア全体に拡がっている。

2005年

2006年

2006年首脳会議の合い言葉は、「一つのビジョン、一つのアイデンティティー、一つの共同体」である。

  • 5月9日
    • マレーシアの首都クアラルンプールで、ASEANとしては初の国防相会議を開いた。共同声明は、同会議の目的として
      防衛・安全保障分野の対話と協力を通じての地域の平和と安定の促進
      国防政策、脅威の認識、安全保障への挑戦に関する相互の信頼と理解の促進
      2020年までのASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC) 創設への貢献
      などを確認した。
  • 7月24日 - 28日
    • クアラルンプールで、東南アジア諸国連合(ASEAN)は外相会議、拡大外相会議、ASEAN地域フォーラム (ARF) を開催した。
  • 7月24日
    • マレーシアのサイドハミド外相は、ASEAN常任委員会で、ASEAN憲章作成作業が順調に進んでいることを報告し、「ASEAN設立40周年を祝う2007年の首脳会議までに準備したい」と述べた。
  • 8月24日
    • クアラルンプールで、ASEAN加盟国に日本、インド、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、中国を加えた16カ国による初の経済担当閣僚会議が開かれた。日本から参加16カ国による自由貿易協定 (FTA) 構想が提案され、大筋で合意が得られた。

2007年

  • 1月11日
    • フィリピン中部のセブで外相・経済相会議が開かれた。外相会議では
      ミャンマーの民主化問題については、懸念を表明すると共に、アウンサンスーチーの早期解放を要求することで一致した。
      北朝鮮核問題では、朝鮮半島の非核化を求める方針を確認した。
    • 次いで13日に開催された首脳会談では
      当初目的より5年前倒しし、2015年に「政治・安全保障」「社会・文化」での連携を深める、ASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC)、ASEAN経済共同体 (ASEAN Economic Community: AEC)、ASEAN社会・文化共同体 (ASEAN Social and Cultural Community: ASCC) の3つからなるASEAN共同体の設立を目指す採択を一致した。
      ASEANの法的枠組みとして共同体の最高規範となるASEAN憲章制定の必要を謳った。ただし「内政不干渉」「政治問題に関する決議の多数決か全会一致か」については、ミャンマーの反発などで合意に至らず、見送られた。
      テロ容疑者の引渡し相互協力を定めた対テロ協力協定、移民労働者の権利保護に関する宣言を採択した。
  • 11月21日
    • 「憲章」を制定。発効には全加盟国で批准される事が条件となる。

2008年

  • 2月18日
    • マレーシアが「ASEAN憲章」の批准書に署名。1月に批准したシンガポールに続いて2カ国目。
    • 20日までに、ラオスからの批准手続き書の提出を受け付けた。15日、事務局に批准を伝えたブルネイを含め、憲章批准国は4カ国となった。
    • 非公式外相会合をシンガポールで開き、北朝鮮東南アジア友好協力条約 (TAC) への加盟を求める事で合意した。
  • 3月6日
    • ベトナムがASEAN憲章に批准し、批准国は5カ国となった。
  • 11月14日
    • タイプミポン国王が国会の批准手続を受け、ASEAN憲章への批准を承認。これにより、憲章発効の要件であった10カ国全ての批准が終わり、ASEAN憲章の2008年内の発効が確実に。

2009年

  • 4月9日
    • 財務相会合は、域内のインフラ整備のための「ASEANインフラ基金」創設について確認した。緊急時に外貨を融通し合う「チェンマイ・イニシアティブ」の多国間基金へのASEAN各国の拠出額で合意。インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイが47億6000万ドル、フィリピンが36億8000万ドルを負担し、ベトナム、ラオスなど後発5カ国は外貨準備の5%を拠出。基金は2月に1200億ドル(約12兆円)への拡大が決まっており、うち80%は日本、中国、韓国が負担する。
  • 4月10日
    • タイ中部のパタヤで一連の首脳会議が開かれた。カンボジアのフン・セン首相と、タイのアピシット首相はプレアビビア周辺の国境地域で繰り返し起きている両国軍同士の衝突について会談し、再発防止に努力することで一致した。
    • 外相会議で「政治・安全保障共同体」を協議、東南アジア友好協力条約 (TAC) への加入のガイドラインを作成することを確認した。紛争解決メカニズム、域内の人権促進を図るための人権機構について意見交換。「非核地帯委員会」の進展などについて協議。首脳会議で採択される声明を承認した。
    • 10日正午頃、タイのアシビット首相の退陣を求めるタクシン元首相派の市民グループ1000人以上が会場のホテル前に集合し、5時間以上にわたるデモを行った。その後、ASEAN首脳宛の要求書を渡し、撤退した。
    • ASEAN10カ国、日本、韓国、中国の首脳会議
  • 4月11日
    • タクシン元首相の反政府デモ隊が会場となるホテルに乱入した。これにより、ASEAN議長国タイのアシピット首相は、首脳会議の中止を決定し、バタヤ一帯に非常事態宣言を一時発令した。
    • 日中、日韓、日中韓首脳会議は、会場が別のホテルであったため、予定通り行われた。日中会談では、北朝鮮のロケット発射問題で麻生首相は「国際社会が結束して強いメッセージを送る必要」を強調するのに対して、温首相は「北東アジアの平和と安定に目を向け六カ国協議と朝鮮半島の非核化過程を推進すべき」と指摘した。また、今月末の麻生首相の訪中を歓迎した。
    • 各国首脳は11日午後帰国した。
    • 東アジア会議(ASEAN+3、オーストラリア、ニュージーランド、インドの16カ国)は、第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)での合意を踏まえ、世界不況・金融危機対策などについて協議する予定であったが中止となった。
  • 4月12日
    • ASEAN+3首脳会談も中止になった。なお一連の首脳会議は、6月13、14日にプーケットで開催する方向で調整が始まっていると5月4日発表された[11]
  • 5月3日
    • ASEAN+3財務相会合が、インドネシアのバリ島で開かれた。「チェンマイ・イニシアティブ」拡大に伴う資金総額1200億(約12兆円)のうち日本と中国が同額の384億ドル、韓国が192億ドルを拠出することで合意した。また、域内経済監視機構「サーベイランス・ユニット」の早期設立、「アジア債券市場育成イニシアチブ (ABMI)」の重要性の確認、新型インフルエンザの拡大が与える影響を見守ることで一致した。
  • 7月19日

2010年

  • 1月14日
    • ベトナム中部のダナンで非公式外相会議、政治・安全保障共同体会議など一連の閣僚級会議を開き、2015年の共同体構想に向けた域内の「連結」や機構整備のためのルールを承認した[13]
  • 7月19日
    • ベトナムの首都ハノイで外相による政治・安全保障共同会議や同非公式夕食会が開催され、23日へと進展する一連の閣僚級会合が開かれた。今回は、16カ国が参加する東アジアサミット (EAS) への米・ロの参加について協議し、両国の正式参加に同意する見通しである。アジア・太平洋地域の対話の輪がさらに広がった。

2011年

  • 11月15日[14]
    • 外相会議を開催。
  • 11月17日~19日 [15][16][17]
    • 第19回東南アジア諸国連合関連首脳会議が、インドネシア・バリ島のヌサドゥアで開かれた。
    • 11月17日、ASEAN首脳会議では「グローバル共同体の中のASEAN共同体」をテーマに、2022年の共通外交政策づくりに向けた基礎固めを目指す「バリ宣言」を採択する予定。2014年のミャンマーの議長国承認の件はこの会議で決定される。
    • 11月18日、議長声明が発表された。ミャンマーを2014年のASEAN議長国として、原則的に承認した。インドネシアのマルティ外相は「後戻りのない」民主化を各国首脳が求めたと記者会見で述べた。このほか声明は南シナ海問題についてASEANと中国が法的拘束力のある「行動指針」の締結の必要性を再度強調している。また、「ASEAN海洋フォーラム」の拡大会合の開催に関心を示した。首脳会議は「バリ宣言」に署名した。
    • 11月18日・19日の両日にASEAN+3(日中韓)が開かれる。
    • 11月19日、米国とロシアが初めて参加する18カ国による第6回東アジア首脳会議 (EAS) は、政治、安保分野の協力に重点を置いた「互恵関連規則原則の宣言」を採択する。南シナ海紛争が焦点に1つになる見通しである。

2013年

2014年

2015年

  • 11月19日~11月21日、マレーシアのクアラルンプールで第27回ASEAN首脳会議開催。
  • 11月22日、クアラルンプールで加盟国連合首脳がASEAN経済共同体(AEC)発足に関する首脳宣言に署名し、同年12月31日にAECが発足。

2016年

2017年

  • 8月8日、フィリピンのマニラで結成50周年の記念式典を開催。

2018年

  • 1月5日、ジャカルタの現事務局本部隣接地で、新しい本部建物の起工式。2019年完成予定[18]

対外関係

日本

ASEANの発足当初から日本は緊密な関係を維持し、1970年代より頻繁に首脳、外相レベル会談を行ってきている。1974年田中角栄首相が東南アジアを歴訪した際には、日本の経済進出に反発する現地住民からの反対デモが発生した (マラリ事件) が、それ以後も両地域の関係は概ね順調に推移した。当時の日本にとって東南アジアは、インドネシアの石油、マレーシアの天然ゴムなどの原料供給地として重要であり、さらに低賃金で良質な労働力を得られるタイやマレーシアなどは日本の製造業が海外進出をする際の有力な相手国となった[19]。また、アメリカへの従属度が高い日本外交にとって東南アジアはその独自性を発揮できる数少ない場で[20]1978年福田ドクトリンなどが発表された。ASEAN側にとっても、地域内での覇権を求めず経済面での利益を追求する日本の進出は経済発展に好都合で、両者の関係はさらに深化した。

1981年には日本とASEAN諸国の間で「東南アジア諸国連合貿易投資観光促進センター設立協定」を結び、日本アセアンセンターが設立された。これは貿易の振興、日本からASEAN諸国への投資と観光客の増大を目標としたものである。他にASEAN文化基金、日・ASEAN総合交流基金、日・ASEAN学術交流基金、などの各種基金が存在している。2010年からは日本国内でのASEAN諸国への理解を深めるためとして「ASEAN検定」が開始され、日本アセアンセンターなどの後援を得て、リクルート社内に設けられた事務局によってタイ・ベトナム・インドネシア3カ国についての試験が行われている。

1997年からはASEAN首脳会議の拡大版として日本・中国・韓国の3カ国首脳も集まるASEAN+3が開催され、東アジアの長期安定・発展を担う上で重要な存在となっている。

2003年は日本ASEAN交流年とされた。記念切手の発行や人的交流、文化紹介の催しなど交流年を記念したイベントの開催や事業の実施が日本、ASEAN諸国各国で見られた。12月11日12日には日本が各国首脳を招いて日・ASEAN特別首脳会議を開催した。また、2008年には当時の福田康夫総理は福田ドクトリンを継承する立場からASEAN共同体支持[21]とASEAN大使及び代表部の設置を打ち出し[22]日本・ASEAN包括的経済連携協定を締結して2002年発効の日本・シンガポール新時代経済連携協定による経済連携協定(EPA)をASEAN全域へ拡大するステップとなった。しかし、ASEAN全体と日本の自由貿易協定(FTA)交渉はまだ妥結せず、2010年に成立した中国-ASEAN間の自由貿易協定English版(ACFTA)が先行する事になった。これにより、日本が構想する東アジアEPAの成立も停滞している。

2012年12月28日に発足した第2次安倍内閣は、価値観外交の基本方針下で、経済や安全保障での存在感が高まるアセアンを重視。就任後1か月以内に、安倍晋三総理の初外遊先となったベトナムに続いてタイインドネシアの訪問、民政移管を進めるミャンマーへの麻生太郎副総理の訪問など、閣僚がアセアン主要国を次々と訪問した。自由民主主義基本的人権法の支配など普遍的価値の実現と経済連携ネットワークを通じた繁栄を目指し、日本はASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、2013年1月18日には、訪問先のインドネシアにおいて、以下の対ASEAN外交5原則を発表した[23]

  • 自由,民主主義,基本的人権等の普遍的価値の定着及び拡大に向けて、ASEAN諸国と共に努力していく。
  • 「力」でなく「」が支配する、自由で開かれた海洋は「公共財」であり、これをASEAN諸国と共に全力で守る。米国のアジア重視を歓迎する。
  • 様々な経済連携のネットワークを通じて、モノ、カネ、ヒト、サービスなど貿易及び投資の流れを一層進め、日本経済の再生につなげ、ASEAN諸国と共に繁栄する。
  • アジアの多様な文化、伝統を共に守り、育てていく。
  • 未来を担う若い世代の交流を更に活発に行い、相互理解を促進する。

日本がアセアンとの価値観外交を進めるに当たっては、港や道路などハードのインフラの整備だけでなく、投資環境整備にもつながる法整備支援や、人材育成といったソフトのインフラ整備への協力を、日本の役割として位置付けることが重要と指摘されている[1]

欧州連合

独立を維持したタイを除くASEAN諸国はいずれも現在の欧州連合(EU)加盟国の植民地となり[24]、経済・文化面でも大きな影響を受けた。第二次世界大戦による日本軍の占領は各地での独立運動を活性化して戦後の独立につながり、特にインドネシアは独立戦争後もオランダ領ニューギニア(イリアンジャヤ)や東ティモール[25]への侵攻を行い、民族自決権の損害と侵害とこれを非難する西ヨーロッパ諸国との対立が生じていた。

しかし、ASEAN諸国が資本主義経済の維持と発展を目指し、西欧諸国との関係が安定すると、欧州経済共同体 (EEC、EUの前身)とASEANは、1972年に初めて対話を行い、ASEANにとっての初めての対話国となった。以降、外相・閣僚レベルの会談を行い、1980年には協力協定を結んだ。この流れは1990年代に入っても続き、1996年には第1回のアジア欧州会合(ASEM)が実現し、以後も2年ごとの開催が続いている。

1997年の合同協力委員会は、同年7月にASEANに加盟したミャンマーの取り扱いで意見の相違が生じ、1999年5月まで延期された。この会合では、政治および安全保障、経済、開発、環境、エネルギーの分野での協力関係を作る「作業計画」が採択された。

2007年11月21日には公式関係30周年を記念して、初の首脳会議がシンガポールで行われた。

アメリカ

元来、ASEANが軍事同盟の東南アジア条約機構(SEATO)を補強する役割を担っていたように、加盟諸国とアメリカは強い関係を保っていた。1975年のベトナム戦争終結により1977年にSEATOが解散しても両者の協力関係は変わらず、ASEANは資本主義諸国を束ねる国際政治システムの事実上の一部として機能していた。冷戦の終了によりASEANから反共政治同盟の色彩が薄まり、ベトナムが加盟[26]してもアメリカはASEAN諸国との友好関係を維持し[27]、現在でもASEAN諸国(東南アジア)はアメリカにとって重要な市場かつ原料供給地である。また、中国による南沙諸島(スプラトリー諸島)支配などの南シナ海進出に対しては、これに反発し警戒するASEAN諸国の立場をアメリカが支持している。

しかし、マレーシアのマハティール政権が「ルックイースト政策」でアメリカではなく日本を経済発展のモデルとし[28]国民車構想で自動車産業の自立を進めるなど、経済面ではASEANとアメリカとの間にさざ波が立つ事がある。アジア全体の経済や国際世論をリードしようとするASEANの狙いは1996年にASEM開催として結実したが、自国抜きで多国間協調が深化する構図に対してアメリカは警戒感を隠さず、東アジア共同体提唱に対するアメリカの反発などに繋がっている。

中華人民共和国

ASEAN発足時の中華人民共和国(中国)は文化大革命の最中で、毛沢東主義による社会主義革命の輸出を熱心に唱えていた。また、ASEAN諸国の多くでは少数派の中国系住民(華人)が経済の実権を握り、国家指導者を輩出する原住民との関係が微妙だった上、過去には華人中心のマラヤ共産党による武装闘争やインドネシアの9月30日事件もあったため、ASEAN諸国政府が持つ中国への警戒感が非常に強かった[29]ニクソン大統領の中国訪問から西側と関係強化していた中国は、1970年代末から改革開放路線へと転じ、東南アジア諸国との外交・経済関係を重視するようになった。カンボジア内戦では、中国とASEAN諸国(特にタイ)の支持を受けたクメール・ルージュ(ポル・ポト派)やシアヌーク派(王党派)などが協力した民主カンプチア三派連合政府が成立した。

1990年に中国がシンガポールとの国交を樹立し、インドネシアとも国交を回復すると[30]、中国とASEANはより接近した。1997年にはASEAN+3の一員となる。カンボジア和平合意により紛争が終結し、中国の改革開放政策の定着が不動のものになると、東南アジアの華人資本は中国への投資を拡大し、中国産の衣料品や電化製品がASEANへ大量に輸出されるようになった[31]。2002年には中国とASEANが自由貿易区創設で合意して[32]、2010年に両者間の自由貿易協定(ACFTA)が発効した。メコン川流域の総合開発計画でも両者は1996年に協力会議を設立し[33]、この分野でも中国からのASEAN接近が、特にラオスなどで顕著である。このような制度整備により、経済関係は拡大の一途をたどっている。

一方、政治面ではASEAN諸国の対中警戒心が解けていない。特に南シナ海中央部の南沙諸島(スプラトリー諸島)や同海北部の西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を中国とベトナム、フィリピンなどが争い、中国海軍が両諸島に基地を設けている事はASEAN諸国から問題とされ、不安定要因になっている。

中華民国(台湾)

中華民国はASEAN発足当時にはマレーシアを除く加盟諸国との外交関係を持っていたが、1990年以降は消滅している。しかし、非公式な外交関係や幅広い経済協力は続いている。中でもシンガポールとは1975年に締結した「星光計画」が依然として有効で、シンガポール軍は台湾での軍事演習を続け、中国による武力侵攻の場合にはシンガポールが支援する取り決めがあるとも言われている(ただし、リー・クアンユーは台湾に武力侵攻の場合は中国は2週間先に事前通告するよう要求してる[34])。なお、中華民国も南沙・西沙諸島の領有権を主張し、南沙諸島の太平島には軍事基地を設けている。

脚注

  1. 1.0 1.1 NHK時論公論「安倍政権 アジア外交の課題~東南アジアへの視点」
  2. 大使館メルマガ「東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部の開設について」
  3. “ミン氏が事務局長に ベトナム出身者で初 ASEAN 15年共同体発足へ舵取り”. じゃかるた新聞. (2013年1月10日). https://jakartashimbun.com/free/detail/8734.html . 2015/12/13閲覧. 
  4. その例としては、2010年4月に行われたASEAN首脳会議の際の議長声明でミャンマー軍事政権による「民主化案」履行を尊重してアウンサンスーチーの総選挙参加を事実上追認した事(出典:共同通信2010年4月9日付記事「スー・チーさん排除追認 声明にミャンマー批判なし ASEAN首脳会議閉幕」[1]、続く10月の首脳会談での議長声明(案)でミャンマー総選挙について「自由、公正、自由参加での実施を強調」という抽象的な表現に留まった事などがあげられる(出典:共同通信2010年10月16日付記事「ミャンマー民主化加速を ASEAN議長声明案」[2]
  5. 5.0 5.1 太平洋島嶼フォーラムの対ASEAN外交―フォーラムによるASEAN認識の意味−
  6. 東ティモールは1975年からインドネシアの一部として統治され、1999年の住民投票による独立決定直後には独立反対派の民兵がインドネシア国軍に支援されて大規模な破壊活動を行った(東ティモール紛争)。
  7. 2009年のIMFデータによると、1人当たりのGDPではシンガポールが5万1142米ドル(以下同)、東ティモールは2364ドルで、20倍以上の差がある。なお、現在のASEAN加盟国での最高はシンガポール、最低はミャンマーの1159ドルで、東ティモールが加盟するとラオス・カンボジア・ベトナムなどと共に2000ドル台の低位グループとなる
  8. “ASEAN入りの資格に自信=東ティモール外相インタビュー”. 時事通信. (2010年7月25日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201007/2010072500059 . 2010/07/27閲覧. 
  9. ラモス=ホルタは共同通信との会見の中で、インドネシアが議長国である2011年中の加盟決定には象徴的な意味があり、インドネシア政府も協力的と述べている。“ASEAN加盟、来年中に 東ティモール大統領会見”. 共同通信. (2010年12月1日). http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120101000560.html . 2010/12/09閲覧. 
  10. 東ティモール、ASEAN加盟を正式申請 読売新聞 2011年3月4日
    東ティモール、ASEAN加盟を正式申請 日本経済新聞 2011年3月4日
  11. 『朝日新聞』2009年5月5日、東京版朝刊、4頁
  12. 朝日新聞、2009年7月19日、東京版朝刊、4面。
  13. 米ロと年内に首脳会議 ASEAN非公式外相会議閉幕
  14. 南シナ問題「国際法が規範」と宣言 東アジアサミット 朝日新聞 2011年11月14日
  15. 中国、広域自由貿易圏に異議唱えず ASEAN側と議論 朝日新聞 2011年11月18日
  16. 南シナ海問題、米中が強く牽制 首脳会談を急きょ設定 朝日新聞 2011年11月19日
  17. 南シナ問題「国際法が規範」と宣言 東アジアサミット 朝日新聞 2011年11月20日
  18. ASEAN、来年に新本部『朝日新聞』朝刊2018年1月6日(国際面)
  19. これは中国が改革開放へまだ進んでいなかった1970年代に顕著だった。
  20. ASEAN発足前の1950年代から、第二次世界大戦の戦時賠償交渉などを機に日本からの援助の働きかけがあり、東南アジア諸国にもスカルノなどの知日派指導者が多くいた。
  21. 福田康夫「『太平洋が「内海」となる日へ―「共に歩む」未来のアジアに5つの約束―』国際交流会議『アジアの未来』晩餐会にて」『福田康夫日本国内閣総理大臣スピーチ 於・国際交流会議「アジアの未来」2008』内閣官房内閣広報室、2008年5月22日。
  22. “福田首相:ASEAN大使・代表部を創設へ-対アジア外交政策を発表”. ブルームバーグ. (2008年5月22日). http://www.bloomberg.co.jp/news/123-K19M8H1A1I4H01.html . 2015/12/13閲覧. 
  23. 外務省「安倍総理大臣の東南アジア訪問」
  24. フィリピンは1898年米西戦争でアメリカ領になるまではスペインが支配した。
  25. 東ティモールではポルトガルによる植民地統治が放棄され、独立が宣言された直後にインドネシア軍が占領した。
  26. ベトナム政府によるアメリカとの国交樹立交渉はASEAN加盟交渉と並行して進められ、1995年7月の加盟に続いて8月にアメリカとの国交が成立した。以後、両国は急速に接近した。
  27. ただし、軍事政権による人権侵害や民主化運動の弾圧が続くミャンマーに対しては、アメリカは国交を結ばず、経済制裁を科している。
  28. しばしば勘違いされるがバブル景気はこの10年後であり全く関係ない
  29. マレーシアから分離したシンガポールは中国系が人口の過半数を占める唯一のASEAN加盟国で、これによりインドネシアのスハルト政権による軍事侵攻の脅威を自認していたため、自らも中国系であるリー・クワンユー(李光耀)首相指導下の人民行動党(PPP)政権は自らの中国的な色彩を徹底して払拭し、中国との外交関係も長年結ばなかった。
  30. インドネシアはスハルト政権が成立した1967年に中国と断交していた。
  31. 総輸出入額は1991年の79億ドルから2001年には5倍以上の416億ドルへ拡大した。チャイナネット2009年4月10日付「対話15周年、大いに前進する中国・ASEANの経済貿易関係」
  32. チャイナネット2009年4月10日付「中国-ASEAN自由貿易区について」
  33. コトバンク内 片山裕(神戸大学教授)「メコン川流域開発」 [3]、原典は朝日新聞社知恵蔵2011』。
  34. 2003年8月24日付「中国時報」

関連項目

外部リンク