咸臨丸
咸臨丸? | |
艦歴 | |
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発注: | 1855年(江戸幕府) |
起工: | 1855年 |
進水: | 1856年 |
就役: | 1857年 |
退役: | 1871年沈没 |
その後: | |
性能諸元 | |
排水量: | 620 t |
全長: | 48.8 m |
全幅: | 8.74 m |
吃水: | |
機関: | 3本マストの帆 100馬力の蒸気機関 |
燃料: | 石炭 |
最大速: | 6 ノット (10 km/h) |
兵員: | |
兵装: | 砲 12門 |
咸臨丸(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。旧名(オランダ語名)、Japan(ヤパン号。ヤッパン号、ヤーパン号とも)。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
概要
洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた)。
姉妹艦には朝陽丸(旧称エド号)及び電流丸(旧称ナガサキ号)がある。
幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。
艦歴
- 1855年(安政2年)7月、オランダのキンデルダイクにて起工。
- 1857年(安政4年)3月、完成。8月4日 (旧暦)、日本へ送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となる。
- 1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、正使一行が乗艦するアメリカ軍艦ポーハタン号の別船として本艦も派米。福澤諭吉らも便乗していた。
- 1862年(文久2年)、小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検(艦長は小野友五郎)した。
- 1866年(慶応2年)、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。
- 1868年(慶応4年)、戊辰戦争が起こる。
- 8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。
- 8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。
- 9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航。咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。
- 1871年(明治4年)9月19日 (旧暦)、片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航したが、輸送途中、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨(米人船長の操船ミス説も存在[1])により遭難し、サラキ岬で破船、沈没する。
- 1887年(明治20年)、清水次郎長が清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立。
- 1984年(昭和59年)、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見され、咸臨丸のものかと話題になる。
- 2006年(平成18年)9月20日、錨は咸臨丸のものと発表される[2][3]。
米国派遣
日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦の随伴艦として、幕府海軍の練習航海も兼ねて、本艦も派米された。士官はいずれも長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船していたが、出発前に「軍艦奉行」に昇進して遣米副使としての任も与えられた木村摂津守を除いて、艦内組織は未整頓のままであり、教員の主席にあたる「軍艦操練所教授方頭取」であった勝海舟が先任士官として運用の実質的責任者となったものの、指揮系統の混乱を招いた[4]。なお対外的には、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通している[5]。
旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港し、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港した。往路は38日間・テンプレート:Convert/nmiの航海であったが、出港直後から荒天に見舞われ、艦の各所が破損したほか、日本人の乗員は疲労と船酔いでほとんど行動不能に陥り、艦の運用は、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行した。また上記の指揮系統の未整頓もあって、当初は組織だった当直体制が確立されておらず、荒天下での艦の運用に支障を来した[4]。
復路はハワイ経由での航海となった。往路で同乗したアメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人のみでの運用となっており、往路の反省から、アメリカ滞在中に得た知見も踏まえて、当直などの運用体制が整備されたものの、45日間・テンプレート:Convert/nmiの航海はおおむね好天に恵まれ、その練度向上を確かめる機会はなかった[4]。
この派米任務は、往復83日間・合計テンプレート:Convert/nmiの大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えた。しかし一方で、往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、大きな禍根を残すこととなった[4]。
特記事項
- ページ最上部右の白黒写真は、咸臨丸が1860年(安政7年)にサンフランシスコ(桑港)で碇泊中に撮影されたものとして、1926年(大正15年)にサンフランシスコで開催された在米日本人発展史料展覧会において公表されたものである。しかし、咸臨丸について徹底した調査を行った文倉平次郎は、この写真は咸臨丸ではなく、イギリスから購入した軍艦筑波が1887年(明治20年)に同地で碇泊しているときに撮影されたものであると指摘した。
- 与島にかつて存在した瀬戸大橋フィッシャマンズワーフに同名の観光船が就航していた。これは、地元の塩飽諸島から35名の水夫が咸臨丸に乗り組んだ歴史的背景にちなむものである。1988年から2008年まで就航していたが、採算性の悪化や各部の劣化によって運行停止となった[6]。
出典
参考文献
- 合田, 一道 『咸臨丸 栄光と悲劇の5000日』 北海道新聞社〈道新選書 37〉、2000年11月。ISBN 4-89453-125-9。
- 金澤, 裕之 『幕府海軍の興亡:幕末期における日本の海軍建設』 慶應義塾大学出版会、2017年、71-99。ISBN 4766424212。
- 土居, 良三 『咸臨丸 海を渡る』 中央公論社〈中公文庫〉、1998-12-18。ISBN 4-12-203312-8。 - 和辻哲郎文化賞受賞。
- 橋本, 進 『咸臨丸還る 蒸気方 小杉雅之進の軌跡』 中央公論新社、2001年2月。ISBN 4-12-003107-1。
- 文倉, 平次郎 『幕末軍艦咸臨丸』 巌松堂、1938年。 - 咸臨丸と幕末艦船研究の古典。
- 文倉, 平次郎 『幕末軍艦咸臨丸』 名著刊行会、1969年、限定版。 - 巌松堂(1938年刊)の複製。
- 文倉, 平次郎 『幕末軍艦咸臨丸』上巻、中央公論社〈中公文庫〉、1993年。ISBN 4-12-202004-2。 - 文庫跋文は司馬遼太郎。
- 文倉, 平次郎 『幕末軍艦咸臨丸』下巻、中央公論社〈中公文庫〉、1993年。ISBN 4-12-202019-0。
- 松浦, 玲 『勝海舟』 筑摩書房、2010年。ISBN 978-4-480-88527-2。
関連文献
- 加藤貞仁 『箱館戦争』 無明舎出版〈んだんだブックス〉、2004年3月。ISBN 4-89544-363-9。
- 田中弘之 『幕末の小笠原 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』 中央公論社〈中公新書〉、1997年10月。ISBN 4-12-101388-3。
- 宮永孝 『万延元年のアメリカ報告』 新潮社〈新潮選書〉、1990年10月。ISBN 4-10-600388-0。