マンホールの蓋(マンホールのふた、英: manhole cover)は、マンホールあるいは排水桝の最上段に載置・嵌合される蓋あるいは蓋付枠である[1]。人や物が誤ってマンホールに落ちてしまうのを防ぐとともに、関係者以外の進入を防ぐため、マンホールの開口部に嵌められた着脱可能な蓋を指す。下水道の物が最も一般的だが、上水道、電信電話、電力、ガス等、地下設備を有する各種事業体の物が存在する。
概要
マンホールの蓋は、車両をはじめとする交通機関が蓋の上を通過する際、蓋に十分な重さがなければ、所定の位置から外れてしまう恐れがある。そのため、公共のマンホール蓋は強固かつ重量のある鋳鉄製を採用している自治体が多い。その理由として鋳鉄ならば鋳型さえ起こせば比較的安価に大量生産できること、加工のしやすさが挙げられる。
かつては80キログラム以上もある鋳鉄蓋もあったが、現在は性能が向上し、軽量化と強度の向上が図られたため、40キログラム程度になっている[2]。耐用年数は、車の通行量が多い場所は磨耗するため15年ほど、それ以外では経年劣化のため30年が目安とされる[2]が、例外的に100年以上使用されている蓋も存在する。
蓋には通常、かぎ型のバールキーと呼ばれる工具を挿入して引き開けるための「摘み穴」もしくは「不法開放防止を目的とした鍵」が備えられている。専用のマンホールバールキーは特にこうした穴・鍵に引っかける目的で製造されている。
水害の際には、マンホール内を通る水圧の影響によりマンホールの蓋が外れ、マンホール内に人が落ちてしまう二次災害が発生することがある[3]。その対策として、大量の雨水が管内に流れ込んできたときでも空気の逃げ場ができるよう予めガス抜き用の穴が開けられているほか、蓋の鍵によって水害で外れることを防ぐための浮上防止機能がある[4]。国際会議や各国の要人の来日に際しては、マンホールを利用したテロを防ぐ治安対策として、所管の警察によりマンホールの蓋に封印がされることがある[5]。
形状
マンホールの蓋には円形と角形がある[1]。円形が多く採用される理由として、以下が指摘されている。
- 円は定幅図形であるため、蓋がずれても穴に落ちてしまうことがないから[2]。
- 自動車などの重い物が載った時でも、圧力が分散されて割れにくいため。また、もし蓋が外れた場合でも、他の形のマンホールであれば、鋭い角の部分が後に通過する他の自動車のタイヤをパンクさせてしまう恐れがあるが、丸い形には角が無いため。
- 円筒状の穴は掘るのが容易であり、マンホール開口部の丸い形状は、それを囲む地面の圧力に対して最も効率的な形状であるため、その丸い開口部の蓋が丸い様相を帯びるのは自然であるから。
- 丸型の鋳造は水平の型押しロール機を使用して機械切断するのがより簡単だから。
- 丸型の蓋は丸いマンホール穴に対して、うまくはまるように回転させる必要が無いから。
- 丸い形状なら簡単に転がして移動できるから。
- 文化的理由。
など、様々なものがあるが、明確な理由はない。
排水口を兼ねた蓋は丸い形状のものもあるが、長方形(四角形)が一般的となっている。
アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の都市ナシュアには、地下での流れの方向を指し示す三角形のマンホールの蓋がある。
愛好・収集と盗難
マンホールの蓋は自治体など事業主や設置年代によりデザインが多様であるため、街を歩いて眺めたり、実物を集めたりすることを趣味とする人もいる。日本では「マンホーラー」と呼ばれることもある。茨城県石岡市のように、ふるさと納税の返礼品として贈る自治体もある[6]。国土交通省や日本下水道協会は各地で「マンホールサミット」を開いており、マンホールカードなどグッズも制作・配布している[7]。
設置者側も、より凝ったデザインにしたり、観光客誘致など地域おこしの手段に活用したりするようになっている。愛知県は2017年、下水道用マンホール蓋のデザインを公募で決定した[8]。静岡県沼津市は2018年1月15日、同市が舞台のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」登場キャラクターのイラストをあしらったマンホール蓋の設置費用をクラウドファンディングで募ったところ、翌日には目標金額を達成。今後は設置場所に拡張現実(AR)でキャラクターを出現させるなど、「聖地巡り」をするファンの呼び込みに役立てる考えである[9]。
撤去されたマンホール蓋を廃棄せずに活用する自治体もある。群馬県前橋市が2017年、使わなくなった下水道用マンホールの蓋10枚を1枚3000円で購入者を募ったところ、合計193件の申し込みがあり、最も人気が高い蓋の競争率は40倍を超えた。抽選の末に「転売しない」との誓約書を提出してもらって販売した。次回も実施を検討している[10]。
日本のマンホール蓋
日本では、前述のように様々なマンホールを収集する愛好家が存在する他、専ら明治時代の黎明期から第二次世界大戦前までの産業遺産的価値のある蓋の残存状況や、当時の蓋の意匠の地域的分布傾向、更には市町村合併により消滅した自治体の名称や紋章が入った蓋の残存状況等を、産業考古学的見地から調査研究していな研究者(例えば林丈二[注釈 1]、栗原岳[注釈 2])も少数ながらいる。
近年のマンホール蓋に於ける問題点
日本国内に設置されているマンホール蓋は、下水道用だけで約1500万個ある。トラックの大型化に伴い1995年、幹線道路では25トンの荷重(それ以前は20トン対応)に耐えられるように安全基準が変更された。この改正以前の設置分を含めて。車道で15年、歩道で30年程度とされる耐用年数を過ぎた蓋が全国に約300万個あると日本グラウンドマンホール工業会(東京)は推計しており、更新が遅れるとスリップ事故などに繋がる懸念がある[11]。
本来、マンホール蓋表面の紋様はスリップ防止のために付けられている物だが、近年散見される具象模様付の蓋は、旧来の単純な幾何学模様の蓋に比べて平面の部分が増加した物も多く見られる。自治体によっては一時期、具象模様付の蓋を採用したものの、後にそれを中止し、最新の細かい幾何学模様のマンホール蓋を採用している例もある[12][† 2]。
歴史的なマンホール蓋
日本で最初の下水道は、1881年(明治14年)の横浜居留地で、神奈川県御用掛(技師)の三田善太郎がこの下水道の設計を行ない、その時に「マンホール」を「人孔」と翻訳したのではないかと言われている。この時設置された蓋は鋳鉄製格子状だったとも木製格子状だったとも言われており、詳細については不明である[† 3]。
間違いなく鋳鉄製の蓋が使用されたのは、1885年(明治18年)の神田下水(東京)の「鋳鉄製格子形」が嚆矢とされている[† 3]。鋳鉄製格子形の物は実際に2000年代まで東京都千代田区神田岩本町に残存していたのが林丈二、栗原岳により確認されており、寸法や格子の穴の数まで神田下水当時の図面に描かれた蓋[† 4]と同一であった。また、北海道函館市入舟町には1897年(明治30年)頃の物と推察される鋳鉄製格子形の蓋が2015年7月時点で幾つか現存しており[注釈 3]、国内現役最古のマンホール蓋の可能性がある。
現在の蓋の原形は、明治から大正にかけて、東京帝国大学で教鞭をとると同時に、内務省の技師として全国の上下水道を指導していた中島鋭治が、1904年(明治37年)から1907年(明治40年)にかけて東京市の下水道を設計するとき[‡ 1]に西欧のマンホールを参考に考案した。この当時の紋様が東京市型(冒頭の写真参照)と呼ばれ、中島門下生が全国に散るとともに広まってゆき、その後、1958年(昭和33年)にマンホール蓋のJIS規格(JIS A 5506)が制定された際に、この紋様が採用された。一方、名古屋市の創設下水道(1907年=明治40年起工[‡ 2])の専任技師だった茂庭忠次郎は、その後内務省土木局に入り、全国の上下水道技術を指導した折に名古屋市型(このページ冒頭2枚目の写真参照)を推し進めたため、名古屋市型紋様も全国的に広まっていった[† 3]。
コンクリート製マンホール蓋は、1932年(昭和7年)頃、東京の隅田川にかかる小台橋近くの工場で森勝吉が製造したのが嚆矢[† 5]とされ、ダイヤ型のガス抜き穴が開いた物であった。「森式」、或いは「小台型」と呼ばれ、特に金属が不足した支那事変以降、戦時中にかけて多用されたと言われている[† 5]。現在でも、このダイヤ穴の物は稀に見かける。
他に上水道、電話、電力、ガスといった事業体でもマンホール蓋は存在する。
ギャラリー
以下のギャラリーでは事業体別に主に戦前製の蓋を掲載している。
マンホールの蓋
下水道関係
この項ではマンホール蓋の代表格である下水道関係の蓋を取り扱うが、厳密にはマンホールと呼べない桝蓋類や形状的に共通点の多い防火水槽蓋も一部掲載する。歴史的に重要な物やデザイン的に凝った物を冒頭部分で掲載し、その後はほぼ北から順に並べてある。
Manhole.cover.in.tokyo.kanda.jpg
東京都千代田区神田岩本町に2000年代まで残存していた鋳鉄製格子蓋。1885年(明治18年)神田下水創設時の物の可能性がある。
Manhole.cover.in.hakodate.dock.jpg
函館市入舟町の函館どっく前電停付近に2枚ある鋳鉄製格子蓋。前述の通り1899年(明治32年)以前に設置された物で、2015年7月現在残存しており、日本での現役最古のマンホール蓋の可能性がある。
Manhole.cover.in.hakodate.city.3.jpg
函館市内中心部には丸型鋳鉄製格子蓋が2010年代まで幾つか残存していた。函館市中心部の下水道は1910年(明治43年)5月竣工[‡ 3]なので、その当時の物の可能性がある。
Manhole.cover.in.hakodate.city.jpg
Manhole.cover.in.yokohama.city.jpg
横浜市中区の新港埠頭周辺で数枚発見された蓋。格子柄ではあるが格子部分に穴は開いていない。図面等から、新港埠頭整備中の1908年(明治41年)頃までに設置された蓋である事が確認されている[† 6]。
Manhole.cover.in.tokyo.sendagaya.jpg
中島鋭治が考案したとされる「東京市型」。中央の紋章は旧東京府千駄ヶ谷町[注釈 4]下水の物。同町下水は1924年(大正13年)に設計完了している[† 7]。
Manhole.cover.in.tokyo.oku.jpg
茂庭忠次郎が考案したとされる「名古屋市型」。中央の紋章は旧東京府尾久町[注釈 4]章。尾久町下水は1932年(昭和7年)竣工[† 8]。
Manhole.cover.in.shinjuku.tokyo.2.jpg
森勝吉が考案したとされる「森式」コンクリート蓋。中央の紋章は旧東京府章。
Manhole cover in Hamamatsu.jpg
静岡県浜松市に2015年10月現在、数枚存在するドイツ仕様の蓋。これに酷似した紋様の蓋がドイツ各地と中国の青島に存在する。[13]。
Manhole.cover.in.hamamatsu.city.jpg
浜松市ではドイツ蓋の他にこのような古い蓋も発見されている。黎明期のマンホール蓋は、このように鉄枠が無く、周囲の石縁に直接はめられている物が多かった(前掲の函館市の蓋も同様)。
Manhole.cover.in.morioka.city.jpg
幅の広いダイヤ柄の鉄縁(正式には人孔縁塊と呼ばれる)の付いた蓋盛岡市の蓋。「下水」の文字をパターン化した紋様[14]。
Manhole.cover.in.sendai.city.jpg
仙台市の下水は1899年(明治32年)起工、1913年(大正2年)竣工[‡ 4]。これは1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)にかけて設置された蓋[† 9]。
Manhole.cover.in.kesennuma.city.jpg
宮城県気仙沼市の下水は公式には1973年(昭和48年)起工だが、やや古い蓋が散見される。周囲の「コ」の字を3個並べたような紋様は1937年(昭和12年)から2006年まで使用された旧市章(1953年=昭和28年までは町章)を簡略化した物である。
Manhole.cover.in.kesennuma.city.2.jpg
Manhole.cover.in.koriyama.city.jpg
福島県郡山市で発見された古い蓋。茂庭忠次郎が設計に携わっている関係で、このような名古屋市型の亜種が採用されている[† 10]。
Manhole.cover.in.taira.city.jpg
福島県旧平市の蓋。中央の紋章は「平」の字をデザイン化した平市の市章である。
Manhole.cover.in.kawagoe.city.jpg
埼玉県川越市下水は1932年(昭和7年)起工。東京市型の凹凸の関係を逆転させたような紋様だが、外側の穴の数が異なる。
Lamphole.cover.in.kawagoe.city.jpg
川越市で発見されたランプホール蓋。ランプホールとは、管渠が屈折する箇所等のマンホールとマンホールの間に設置し、作業用の灯火を吊るすための穴で、日本語では「燈孔」と訳されている[† 11]。人が出入りする訳ではないので口径も小さく、200mm〜350mm程度である。
Manhole.cover.in.hanno.city.jpg
埼玉県飯能市下水は1953年(昭和28年)起工。この蓋は市内で稀に見られる物で、中心部分に非常に大きい飯能市章が入り、その周囲を「下水」の文字をデザイン化したマーク(東京市下水道局のマークと同じ物 このページ冒頭の東京市型の蓋参照)が囲む。
Manhole.cover.in.tokyo.city.3.jpg
旧東京市下水道のコンクリート蓋。人孔縁塊(前掲の盛岡市の蓋参照)が付いており、この12穴の物は戦前の仕様である。これのガス抜き穴の数を半減させた仕様の物は1958年(昭和33年)にJIS規格(JIS A 5506)化され、現在も多用されているが、12穴の物はあまり残存していない[† 12]。
Manhole.cover.in.senju.tokyo.jpg
旧東京府千住町[注釈 4]の蓋。千住町下水は1926年(大正15年)竣工[‡ 5]。直径600mmの物と755mmの物が発見されているが、これは755mmの方である。600mmの物は正調名古屋市型だが、前掲の本家名古屋市の古い仕様の蓋や旧尾久町の蓋よりもガス抜き穴の径が小さい[† 13]。
Lamphole.cover.in.osaki.tokyo.jpg
旧東京府大崎町[注釈 4]のランプホール蓋。大崎町下水は1931年(昭和6年)竣工[‡ 6]。旧町内には2016年現在も当時のランプホール蓋が僅かに残存している。
Manhole.cover.in.tokyo.oji.jpg
旧東京府王子町[注釈 4]の蓋。王子町下水は1928年(昭和3年)起工[† 14]。直径645mmの物と815mmの物が発見されているが、これは815mmの方である。
Manhole.cover.in.sugamo.tokyo.jpg
旧東京府巣鴨町[注釈 4]の汚水桝蓋。巣鴨町下水は1929年(昭和4年)起工[† 15]。なお、同町のマンホール蓋は名古屋市型である。
Manhole.cover.in.takada.tokyo.jpg
旧東京府高田町[注釈 4]の蓋。高田町下水は1930年(昭和5年)起工[† 15]。この名古屋市型の蓋は紋章部分が3タイプに細分化されるが、写真のタイプは現存しない。前掲の巣鴨町とほぼ同仕様の汚水桝蓋も存在する。
Manhole.cover.in.nishisugamo.tokyo.jpg
旧東京府西巣鴨町[注釈 4]の雨水桝蓋。西巣鴨町下水は1931年(昭和6年)起工[† 16]。摩耗して見辛いが、中心部分に「西」の字を丸くデザイン化した西巣鴨町章が入っている。この蓋は何故か区域外の現東京都豊島区の目白駅近く(旧高田町)で発見された。
Lamphole.cover.in.east.tokyo.jpg
旧東京府東部下水道町村組合のランプホール蓋。同下水は1931年(昭和6年)起工[† 16]で、排水区域[注釈 4]は旧日暮里町、三河島町、南千住町だった。なお、同組合のマンホール蓋は東京市型である。
Manhole.cover.in.shinagawa.tokyo.jpg
旧東京府品川町[注釈 4]の蓋。品川町下水は1928年(昭和3年)起工[† 7]。紋様は東京市型の凹凸の関係を逆転させた物であるが、ガス抜き穴の内側に放射方向に線が入っている点が東京市型とは異なる。
Manhole.cover.in.shibuya.tokyo.jpg
旧東京府渋谷町[注釈 4]章が入った蓋。現東京都渋谷区の恵比寿駅近くで発見された物である。
Manhole.cover.in.tokyo.city.nagoya.tipe.jpg
東京市章が入った名古屋市型。東京都内で稀に見かける。
Manhole.cover.in.musashino.city.jpg
東京都武蔵野市下水は1952年(昭和27年)起工。前掲の「森式」に類似したコンクリート蓋が見られる。この、森式のガス抜き穴を楕円形に変更した仕様の蓋は神奈川県川崎市でも見られる。
Manhole.cover.in.ome.city.jpg
Manhole.cover.in.tokyo.station.jpg
東京駅丸ノ内南口駅前で発見された工部省マーク入の蓋。我が国の鉄道は、当初工部省の管轄で、その後鉄道作業局、鉄道院を経て1920年(大正9年)に鉄道省となったが、この紋章は工部省時代の名残として国鉄時代まで使用された。
Manhole.cover.in.dojunkai.tokyo.city.jpg
大正末期から昭和初期にかけて、旧東京府内や横浜市内に建設された同潤会アパートは、当時としては近代的なRC造の集合住宅として名を馳せたが、これは旧東京市牛込区にあった同潤会江戸川アパートの敷地内にあった私設蓋。
Manhole.cover.in.yokohama.city.3.jpg
横浜市中区で発見された東京市型だが、ガス抜き穴の内側に放射方向に線が入っている点が正調東京市型とは異なる。横浜市の戦前製の蓋は、東京市型の凹凸の関係を逆転させた物(前掲の旧東京府品川町の蓋参照)が市内各所で散見される[† 17]。
Manhole.cover.in.yokohama.city.2.jpg
Manhole.cover.in.kawasaki.city.jpg
神奈川県川崎市下水の起工は1931年(昭和6年)[† 6]。これは前掲の東京府章入りの蓋と同じ「森式」コンクリート蓋である。同市のコンクリート蓋は他にも、これとほぼ同仕様でガス抜き穴が楕円形の物(前掲の東京都武蔵野市の蓋参照)や金属の骨組みが表面に露出した物等、多くの種類が確認されている。鋳鉄製の古い蓋は東京市型類似の物と、東京市型の凹凸の関係を逆転させた物等が散見される。
Lamphole.cover.in.kawasaki.city.jpg
川崎市で発見されたランプホール蓋。この蓋は東京市型類似の仕様だが、凹凸の関係が逆になっている。前述の通り、このタイプのマンホール蓋も存在する。
Manhole.cover.in.kamakura.city.jpg
神奈川県旧鎌倉町の蓋。中央に鎌倉町の町章が入っている。鎌倉町は1939年(昭和14年)に市制施行し、同時にこの町章は廃止されているので、それ以前の蓋である。
Manhole.cover.in.kamakura.city.2.jpg
神奈川県鎌倉市下水は公式には1958年(昭和33年)起工となっているが、前掲のような町制時代の蓋も見られる。これは、前掲の旧東京府品川町の蓋と同じく東京市型の凹凸の関係が逆転した蓋であるが防火水槽用に転用されている。「鎌」の字の周囲に「下水」の文字が見られ、ガス抜き穴も後から塞いだ形跡が見られる。
Manhole.cover.in.hadano.city.jpg
神奈川県秦野市で2枚だけ発見されている蓋。名古屋市型の影響が見られる。
Manhole.cover.in.nagaoka.city.jpg
新潟県長岡市下水は1924年(大正13年)起工[‡ 7]。この仕様は大阪市の戦前のマンホール蓋の物をそのまま流用しており、西日本では特に下水道の歴史が古い自治体で散見される紋様だが、東日本での採用例は稀である。
Manhole.cover.in.kanazawa.city.jpg
金沢市で3枚だけ発見されている角蓋。中央に豪快に「金」の字が入っている。
Manhole.cover.in.toyama.city.jpg
富山市下水は1952年(昭和27年)起工。摩耗して見辛いが、中心の「下水」の文字の周囲には右書き(反時計回り)で「富山市下水道」と書かれている。他に、東京市型の亜種で中心の紋章が片仮名の「ト」と「山」の字を組み合わせてデザイン化した蓋も散見される。
Manhole.cover.in.takaoka.city.jpg
富山県高岡市下水は1949年(昭和24年)起工で、富山県内では初の下水道である。日本海側は下水道の普及が遅かった都市が多い。
Manhole.cover.in.shizuoka.city.jpg
静岡市葵区にある正体不明の蓋。繊細な紋様が入っている。
Manhole.cover.in.nagoya.city.3.jpg
名古屋市のマンホール蓋は、創設時から戦後にかけての長期間、途中で幾度かのマイナーチェンジがあったものの、一貫して名古屋市型が採用されているが、これは例外的に終戦直後の一時期だけ設置された蓋[† 18]。
Manhole.cover.in.okazaki.city.jpg
愛知県岡崎市で発見された名古屋市型の亜種。同市の下水は1925年(大正14年)起工と古い歴史を持ち、名古屋市の設計を流用した記録が残っている[‡ 8]。
Manhole.cover.in.gifu.city.jpg
岐阜市下水(1937年=昭和12年竣工)の蓋。岐阜市では全国に先駆けて分流式を採用したため、ガス抜き穴の開いていない物も存在する。
Manhole cover in gifu city 2.jpg
岐阜市下水の前掲とは別仕様の蓋。これも雨水管の蓋である。
Manhole.cover.in.ogaki.city.jpg
岐阜県大垣市で発見された蓋。大垣駅周辺には数種類のマンホール蓋が存在するが、大垣市の下水は公式には1962年(昭和37年)竣工とされている。このような例は他にも多数あって、例えば前掲の函館市の下水は1910年(明治43年)竣工とされているが、函館ドック周辺では1899年(明治32年)以前に下水が敷設されていた事が図面等から確認されている。また、前掲の浜松市の下水も公式には1959年(昭和34年)起工とされている[† 18]。
Manhole.cover.in.tsu.city.jpg
津市下水は1921年(大正10年)起工[‡ 9]。1927年(昭和2年)刊行 中島工学博士記念 日本水道史附図には津市章が中心に入った名古屋市型の図面が掲載されている[† 19]。
Manhole.cover.in.ise.city.jpg
三重県伊勢市にある防火水槽蓋。防火水槽蓋は、このように井桁の紋章が入っている例が他地域でも散見される。
Manhole.cover.in.kyoto.city.1923-4.jpg
マンホール蓋には、普段は目にする事の出来ない裏面に製造年やメーカー名が陽刻されている場合が多いが、これは珍しく表面に製造年月が陽刻された例。摩耗しているが「大正十二年四月」と読める。蓋自体は京都市下水道の名古屋市型である。
Manhole.cover.in.kyoto.city.2.jpg
京都市で数枚発見された汚水桝蓋。京都市の下水は公式には1931年(昭和6年)竣工とされている[† 20]が、前掲のような大正時代の蓋が存在する。
Lamphole.cover.in.kyoto.city.jpg
Lamphole.cover.in.kyoto.city.2.jpg
京都市で発見されたランプホール蓋。前掲のランプホール蓋とは仕様が異なるが、京都市の一部地域で発見された大正一桁年代製のマンホール蓋と仕様が酷似している。
Manhole.cover.in.kyoto.city.3.jpg
Manhole.cover.in.osaka.city.jpg
大阪市内で1枚だけ発見された角蓋。市松模様の蓋は全国的に見て稀である。
Manhole.cover.in.mikage.kobe.city.jpg
兵庫県旧御影町下水の蓋。御影町は1950年(昭和25年)に神戸市に編入されたのでそれ以前の蓋である[15]。
Manhole.cover.in.akashi.city.jpg
兵庫県旧明石町(1919年=大正8年市制施行)下水は1914年(大正3年)竣工[‡ 10]と非常に歴史が古いが、これは創設時の物と推察される蓋[† 21]。中央に入った紋章は「明」の字をデザイン化した明石町(現 明石市)の町章である。なお、これとほぼ同仕様の蓋が大分市にもあるが、これは明石市の下水道創設に携わった技師植村倉蔵が大分市の下水道創設の責任者である下水道部長を務めた[‡ 11]事に関係する。
Manhole.cover.in.akashi.city.2.jpg
前掲の旧明石町のマンホール蓋と同時期の仕様書に掲載されている角蓋[† 21]。四隅に「下水」の文字が入っている。
Manhole.cover.in.kakogawa.city.jpg
兵庫県旧加古川町の町章が入った蓋。上の方に小さく「下水」の文字が入っている。加古川町の市制施行は1950年(昭和25年)で、この時に新たな市章を制定し、旧町章は廃止されているので、新しく見積もってもそれ以前の蓋である。これに反して同市の下水は1963年(昭和38年)起工と公式発表されている。
Manhole.cover.in.saidaiji.city.jpg
岡山県旧西大寺市下水の蓋。右から「西大寺市」と書かれているが、西大寺市は1953年(昭和28年)に周辺町村合併により誕生した市なので、それ以降の蓋である。その後西大寺市は1969年(昭和44年)に岡山市に編入された。蓋の紋様は東京市型の亜種である。このような亜種は全国各地に散在する。
Manhole.cover.in.hiroshima.city.jpg
広島市下水は1916年(大正5年)竣工[‡ 12]。市内で散見されるこの長方形蓋は下水用の物で、前掲の兵庫県旧明石町や後述の松山市にも類似した仕様の蓋がある。広島市にはこの他にも下水用の角蓋が数種類ある。
Manhole.cover.in.onomichi.city.jpg
広島県尾道市で2枚だけ発見された蓋。形状から汚水桝蓋と推察される。
Manhole.cover.in.matsue.city.jpg
松江市下水は公式には1973年(昭和48年)起工とされているが、市内ではある程度古いマンホール蓋が散見され、名古屋市型が多い。これは1枚だけ発見された「ニ」の字を縦横に交互に並べた紋様の蓋で、中心部分には右書きで「下水」の文字が入っている。同じ紋様の蓋は京都市下水でも採用されている。
Manhole.cover.in.matsue.city.2.jpg
松江市内で散見される蓋。この名古屋市型の外周の穴を全て塞いだタイプの他に、外周にも穴の開いた正調名古屋市型が多数ある。
Manhole.cover.in.ogori.yamaguti.jpg
山口県旧小郡町下水の蓋。中央の紋章は「小」の字と「下」の字を組み合わせてデザイン化した物である。名古屋市型に似ているが、内側の穴の数が異なる。
Manhole.cover.in.takamatsu.city.jpg
高松市下水は1933年(昭和8年)起工。これは名古屋市型の亜種だが、市内で見られる古い蓋にはこのタイプと正調名古屋市型の2種がある。
Manhole.cover.in.tokushima.city.2.jpg
徳島市下水は公式には1962年(昭和37年)竣工とされている。市内で散見される古いマンホール蓋は大阪市の旧仕様を流用した物(前掲の新潟県長岡市下水参照)が多い。ここまで紋様を簡略化した蓋は珍しい。他には宇都宮市にも極端に紋様を簡略化した蓋がある。
Manhole.cover.in.tokushima.city.jpg
Manhole.cover.in.naruto.city.jpg
徳島県旧撫養町の紋章(片仮名でムヤ)が入った蓋。撫養町は1947年(昭和22年)に周辺町村と合併し鳴門市となったので、それ以前の蓋である。
Manhole.cover.in.matsuyama.city.jpg
松山市で発見された角蓋。同市の下水は1920年(大正9年)竣工[‡ 13]と古い歴史を持つが、この蓋は文字が左から書かれているので設置時期は不明である。ただ、中央に放射状に穴が開いたこの仕様の蓋は、本州と四国の瀬戸内海沿岸地域で下水道の歴史が古い地区のみで散見される仕様である。
Manhole.cover.in.nagahama.ohzu.city.jpg
愛媛県旧長浜町下水は公式には1958年(昭和33年)起工とされているが、旧町内で見られる円形マンホール蓋はほぼこれ1種類のみで、強烈なキャムバー(強度を高めるために板面を凸型に反らせる事で、古い時代の蓋には多く見られるが、製造技術の向上に伴い戦後の蓋には殆ど見られない。)が付き、鉄枠が無く石縁に直接はめてある極めて古い仕様。
Manhole.cover.in.uwajima.city.jpg
愛媛県宇和島市下水は公式には1983年(昭和58年)起工と、極めて歴史が浅い事になっている(この写真は1996年撮影)が、やや古そうな蓋が散見される。
Manhole.cover.in.kochi.city.jpg
高知市下水は1948年(昭和23年)起工。市内で散見される蓋は大阪市の旧仕様(前掲の新潟県長岡市参照)を流用した物が多い。
Manhole.cover.in.kokura.city.jpg
福岡県旧小倉市下水は1926年(大正15年)起工[‡ 14]。中央の菱形の紋章は「小」の字をデザイン化した旧小倉市の市章である。前掲の浜松市のドイツ蓋に多少類似している。
Manhole.cover.in.kokura.city.2.jpg
旧小倉市のエリアで2枚だけ発見された小倉市章入り名古屋市型の蓋。鉄枠がなく石縁に直接はめられた古い時代の仕様。
Manhole.cover.in.moji.city.jpg
Manhole.cover.in.tobata.city.jpg
Manhole.cover.in.yahata.city.jpg
福岡県旧八幡市の市章が入った蓋。東京市型類似の紋様だが、外側の穴の数が12個と、東京市型より少ない。外側12個、内側8個の穴は名古屋市型と同一。これに類似した仕様で旧東京府章が入った蓋が東京都大田区で何枚か発見されている。旧八幡市章が入った蓋は正調東京市型やコンクリート製の物もある。なお、八幡市の下水は1934年(昭和9年)起工[† 22]。
Manhole.cover.in.wakamatsu.city.jpg
福岡県旧若松市の市章が入った蓋。若松市の下水は1926年(大正15年)竣工[‡ 15]である。
Manhole.cover.in.kitakyusyu.city.jpg
福岡県北九州市戸畑区で発見された旭硝子株式会社の社紋が入ったコンクリート蓋。付近には旭硝子株式会社北九州事業所があるので、その関係の私設蓋である。滑り止めの必要が無いコンクリート蓋でありながら、東京市型類似の紋様が入っている。このようなコンクリート蓋は極めて稀な存在である。
Manhole.cover.in.ohmuta.city.jpg
福岡県大牟田市下水は1957年(昭和32年)起工とされているが、市内で発見されたこの蓋は少々古めかしいデザインで他ではあまり見かけない仕様である。
Manhole.cover.in.oita.city.2.jpg
前掲の兵庫県旧明石町の仕様を流用した大分市の蓋。明石町の町章部分までそのまま流用し、そこに「下水」「人孔」の文字を入れている。大分市の下水は1923年(大正12年)竣工と、古い歴史を持つ[‡ 16]。
Lamphole.cover.in.oita.city.jpg
大分市で発見されたランプホール蓋。縦書きで「大分」と入った仕様が前掲の蓋と同一である[‡ 17]。
Manhole.cover.in.oita.city.jpg
大分市で数枚発見された長方形マンホール蓋。中央には右から「下水人孔」と書かれている。四隅に紋章を配したこの様式の蓋は、上水道関係では西日本で時折見かける物だが、下水道用の蓋としては珍しい。
Manhole.cover.in.beppu.city.jpg
大分県別府市で散見される蓋。別府市は、上水道の蓋も含めて古い蓋が非常に多く残っている。
Manhole.cover.in.beppu.city.2.jpg
Manhole.cover.in.nagasaki.city.jpg
長崎市で1枚だけ発見されている蓋。長崎市の下水は1889年(明治22年)竣工[‡ 18]と、国内有数の古さだが、この蓋の設置時期は不明である。長崎市の市章は五角星なのだが、何故かこの蓋の紋章は六角星になっている。下水用の蓋では比較的珍しい「二」の字を縦横に並べた紋様。
Manhole.cover.in.sarushima.yokosuka.jpg
神奈川県横須賀市の無人島猿島は、旧日本軍の煉瓦造要塞が残る事で有名な島だが、これは島内で発見された唯一の蓋。
上水道関係
この項では上水道関係の蓋を取り扱う。上水道のマンホールというのは存在はするが、下水道に比べて稀な存在のため、厳密にはマンホールとは呼べない消火栓蓋の写真が中心となる。また、制水弁、量水器等の小型の蓋も一部掲載している。歴史的に重要な物やデザイン的に凝った物を冒頭部分で掲載し、その後はほぼ北から順に並べてある。
Fire.hydrant.cover.in.yokohama.city.2.jpg
横浜市中区の新港埠頭で数枚発見されている水道関係の蓋。新港埠頭は1907年(明治39年)~1914年(大正3年)にかけて整備されたが、その時期の物である可能性が非常に高い。根拠としては、横浜市の水道は我が国初の近代水道で、1887年(明治20年)に竣工しているが、この時に使用された消火栓はイギリスのJ.Blakeborough社から輸入された物だった。当時の消火栓蓋は横浜市水道記念館に保存されているが、表面の紋様は「一」の字を並べた物で、この写真の蓋によく似ている事である。当初の蓋でも右から「横水」と書かれているのと「Y.W.W.」(「Yokohama water works」の略)の文字が確認出来る[† 23]。これと同仕様で国内のメーカー名が陽刻されている蓋も確認されている。
Fire.hydrant.cover.in.yokohama.city.jpg
横浜市水道の第二拡張工事(1910年~1916年=明治43年~大正5年)の際に初めて設置されたと推察される[注釈 5]消火栓蓋。小判型の消火栓蓋は全国的に見て非常に稀で、神奈川県内と秋田市でしか発見されていない[† 24]。
Fire.hydrant.cover.in.yokohama.city.3.jpg
横浜市の小判型消火栓蓋は、メーカーにより書体が数種類確認されているが、これは「消火栓」の文字が左から書かれた非常に珍しい蓋。
Fire.hydrant.cover.in.gora.hakone.jpg
前掲の横浜市の小判型消火栓蓋の仕様を流用した、神奈川県箱根町「強羅水道」(1923年=大正12年竣工)[‡ 19]の創設時の蓋。この水道は小田原電気鉄道(現 箱根登山鉄道)の経営で、同様に戦前は各地に民営の上水道が存在した。この蓋は1992年に撤去され、現在は神奈川県寒川町にある神奈川県水道記念館にて一般公開されている。
Fire.hydrant.cover.in.hiratsuka.city.jpg
神奈川県平塚市で発見された神奈川県営水道の鋳鉄製小判型消火栓蓋。これは戦後の物である。このデザインを流用した円形消火栓蓋は多数存在する。また、戦後製の小判型消火栓蓋でモルタル製及びコンクリート製の物は神奈川県営水道の給水区域に多数存在する。
Fire.hidrant.cover.enoshima.water.works.jpg
1926年(大正15年)~1928年(昭和3年)まで、現在の神奈川県藤沢市江ノ島とその周辺地域に給水していた江之島水道株式会社の消火栓蓋。摩耗して見辛いが、紋章は片仮名の「エ」を4個円形に並べ、中央に「水」の字を配したものである。同社は1928年(昭和3年)に東京の玉川水道株式会社と業務提携し、商号を「湘南水道株式会社」と変更、給水区域の拡大を図ったが、1933年(昭和8年)には神奈川県営水道が発足し、神奈川県に買収された。戦前の消火栓蓋で円形の物は極めて稀である。
Valve.hole.cover.in.syonan.water.works.jpg
前掲の江之島水道株式会社の解説で述べた湘南水道株式会社の制水弁蓋。中心部分には「湘水」の文字が入っている。2016年現在でも、江之島水道株式会社と湘南水道株式会社の量水器蓋や止水栓蓋が当時の給水区域に僅かに残存している。湘南水道の量水器や止水栓は、いずれも業務提携を結んでいた東京の玉川水道株式会社の蓋と同仕様である。
Fire.hydrant.cover.in.yokosuka.city.jpg
神奈川県横須賀市水道創設時(1922年=大正11年)[‡ 20]の物と推察される消火栓蓋。楕円形消火栓蓋も小判型と並んで非常に稀な存在で、他に愛知県犬山市、奈良市と愛媛県内各所で発見されているに過ぎない。周囲の鉄枠の部分にも紋様が入っている。なお、横須賀水道創設時の蓋は、消火栓に限らず大粒の川砂利を混入した戦前期特有のコンクリートで周囲を固められている。
Fire.hydrant.cover.in.hadano.city.jpg
神奈川県旧秦野町水道の消火栓蓋。楕円形ではないが、前掲の横須賀市の消火栓蓋とデザインの共通性が見られる。中央の紋章は「秦」の字と「の」の字を組み合わせた物である。秦野町の水道は当初陶管を使用し1890年(明治23年)竣工と、非常に古い歴史を持ち、当初から消火栓が設置されていた[‡ 21]。
Fire.hydrant.cover.in.kofu.city.jpg
甲府市水道創設時(1912年=大正元年)[‡ 22]の物と推察される消火栓蓋[† 25]。消火栓蓋の紋様はダイヤ柄か格子柄が圧倒的に多い中、この紋様の蓋は槌田商店というメーカーの戦前の型録に掲載されている[† 26]。敷設時期から見て、甲府市で初めて採用され、そこから放射状に近隣地域に広まったと推察される。
Fire.hydrant.cover.in.iida.city.jpg
「甲府市型」の採用例で長野県旧飯田町水道(1923年=大正12年竣工)[‡ 23]の消火栓蓋である。甲府市の物は単口消火栓なので長方形だが、これは双口式なので正方形の開口部を持つ。正方形の甲府市型は長野県旧平野村、同上田市等で確認されているが、文字が縦書きで2分割になっている物は、旧飯田町でしか発見例が無い。なお、飯田町の市制施行は1937年(昭和12年)である。
Fire.hydrant.cover.aratama.water.works.jpg
1928年(昭和3年)に竣工し1932年(昭和7年)の東京市域拡張まで存在した[† 27]旧荒玉水道町村組合の消火栓蓋。給水区域は、概ね現在の東京23区北西部の練馬区西部を除く一帯だった。
Valve.hole.cover.in.sapporo.city.jpg
札幌市水道は1937年(昭和12年)竣工。市内の消火栓は全て地上式なので、水道関係の古い蓋はあまり残っていない。
Valve.hole.cover.in.kitami.city.jpg
北海道北見市水道の制水弁蓋。蛇口から水が出ているのを表した一種のピクトグラム。出ている水が「水」の字になっている。
Fire.hydrant.cover.in.aomori.city.jpg
青森市水道は1909年(明治42年)竣工[‡ 24]。市内の消火栓は殆どが地上式で、これは僅かに発見された[† 28]地下式消火栓蓋である。
Fire.hydrant.cover.in.akita.city.jpg
秋田市水道は1911年(明治44年)竣工[‡ 25]。これは市内で2枚だけ発見された[† 28]小判型消火栓蓋(前掲の横浜市の消火栓蓋参照)。2枚とも摩耗が激しいが、もう1枚は横浜市の小判型消火栓蓋と同一の紋様である事が確認出来る[† 28]。
Fire.hydrant.cover.in.kamaishi.city.jpg
岩手県釜石市水道は1953年(昭和28年)竣工と、それほど古くはないが、市内ではこのような右書き消火栓蓋が2種類発見されている。基本的な寸法等は東京の荒玉水道の単口消火栓蓋と同一である。
Valve.cover.in.kaminoyama.city.jpg
山形県旧上山町水道は1919年(大正8年)竣工[‡ 26]。これは旧町内で発見された制水弁蓋である。
Fire.hydrant.cover.in.ishinomaki.city.jpg
宮城県石巻市で発見された消火栓蓋。旧石巻町の水道は1925年(大正14年)に敷設許可が下りている[‡ 27]。基本的な寸法等は東京の荒玉水道の単口消火栓蓋と同一である。これと同仕様で紋様の凹凸の関係が逆になった消火栓蓋が愛知県豊橋市水道(1930年=昭和5年竣工)で発見されている[† 29]。
Fire.hydrant.cover.in.shiogama.city.jpg
宮城県塩竈市水道は1912年(明治45年)竣工[‡ 28]。鉄枠が無く、石縁に直接はめられている、相当古い仕様である(前掲の函館市、浜松市の格子状マンホール蓋参照)。紋章は入っていないが、「消火栓」の書体は前掲の荒玉水道と同一である。
Fire.hydrant.cover.in.fukushima.city.jpg
福島市水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 29]。市内で発見された右書き消火栓蓋はいずれも紋章が入っていない。
Fire.hydrant.cover.in.taira.city.jpg
福島県旧平町水道は1917年(大正6年)竣工[‡ 30]。六角星の中に「平」の字が入った紋章の付いた消火栓蓋は、文字が横書きで左から書かれている物は散見されるが、これは1枚だけ発見された縦書きの消火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.maebashi.city.jpg
群馬県前橋市水道は1928年(昭和3年)竣工[† 30]。これと同仕様の制水瓣蓋も発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.takasaki.city.jpg
群馬県高崎市水道は1910年(明治43年)竣工[‡ 31]。市内で発見された右書きの消火栓蓋は紋章の入っていないこの1種類のみである。旧東京市15区の区域内のみで発見された消火栓蓋[† 31]と同仕様。
Fire.hydrant.cover.in.ashikaga.city.jpg
栃木県足利市水道は1930年(昭和5年)竣工[† 32]。他にも右書きの消火栓蓋が発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.mito.city.jpg
水戸市水道は1932年(昭和7年)竣工[† 33]。基本的な寸法は東京の荒玉水道の消火栓蓋と同一である。これとほぼ同仕様の蓋が愛知県豊川市でも確認されている。
Fire.hydrant.cover.in.hitachi.city.jpg
茨城県日立市で2枚だけ発見された消火栓蓋。旧日立町の水道は久原鉱業株式会社日立製作所が日立鉱山従業員用に1918年(大正7年)に給水開始したもので[‡ 32]、この蓋に入った紋章も日立製作所の社紋と「水」の字を組み合わせた物である。その後1940年(昭和15年)には日立水道株式会社として独立し、1948年(昭和23年)に日立市に買収された。
Fire.hydrant.cover.in.fukaya.city.jpg
埼玉県深谷市で発見された消火栓蓋。旧深谷町の水道は埼玉県内で2番目に古く1929年(昭和4年)に竣工している。
Fire.hydrant.cover.in.hanno.city.jpg
埼玉県旧飯能町水道は1932年(昭和7年)竣工。埼玉県内では珍しい「甲府市型」消火栓蓋は文字が左から書かれている。
Fire.hydrant.cover.in.saitama.city.jpg
埼玉県南水道は1937年(昭和12年)竣工。これは、旧大宮市で発見された消火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.noda.city.jpg
千葉県野田市で発見された消火栓蓋。旧野田町の水道は野田醤油株式会社(現キッコーマン株式会社)の経営で、1923年(大正12年)に竣工している[‡ 33]。この蓋の仕様は旧東京15区の区域のみで発見されている消火栓蓋と同一[† 31]である。両側に2個入った紋章は平仮名の「の」の字と「水」の字を組み合わせたものである。
Fire.hydrant.cover.in.kisarazu.city.jpg
千葉県木更津市で1枚だけ発見された古い消火栓蓋。木更津には海軍航空隊があったため、付近では海軍軍用水道の止水栓蓋も発見されている。
Firehydrant.cover.in.tokyo.city.jpg
旧東京市水道は1894年(明治24年)起工、1911年(明治44年)竣工[* 1]。これは1932年(昭和7年)以前の旧15区内のみで多数発見された仕様の蓋(前掲の群馬県高崎市 千葉県野田市の消火栓蓋参照)[† 34]だが、大半の物は「消火栓」の文字の上部にヒンジ部の突起、下部に鍵穴という仕様であるのに対し、それらの位置関係が逆になっている。このタイプは非常に稀な存在である。
Firehydrant.cover.in.tokyo.aratama.tipe.jpg
旧東京府の荒玉水道町村組合(前掲の双口消火栓蓋参照)の給水区域内のみで発見された四隅に東京市章が入った消火栓蓋[† 35]。寸法や鍵穴の位置、「消火栓」の書体等が荒玉水道の単口消火栓蓋と同一の仕様である。荒玉水道は1932年(昭和7年)4月に拡張工事に着手し、1932年(昭和7年)10月に東京市に編入、その後も拡張工事は継続し1934年(昭和9年)3月に竣工している[* 2]。
Fire.hydrant.cover.in.shibuya.tokyo.jpg
旧東京府渋谷町[注釈 4]水道の消火栓蓋。同町の水道は1924年(大正13年)竣工[* 3]。
Fire.hydrant.cover.in.meguro.tokyo.jpg
旧東京府目黒町[注釈 4]水道の消火栓蓋。同町の水道は1926年(大正15年)竣工[* 4]。東京では珍しい「甲府市型」の採用例で、鉄枠部分に紋様は入っていないが「消火栓」の文字が、甲府市の消火栓蓋の解説で述べた「槌田商店」の戦前の型録に掲載されている物と酷似している[† 26]。なお、これより文字が大きいタイプも確認されている。「甲府市型」のうち、宮城県北部で発見された数例を除き、甲府市から放射状に伝搬したと推察される物の中では最東端に分布する物である。
Fire.hydrant.cover.in.edogawa.tokyo.jpg
旧東京府江戸川町村[注釈 4]水道組合の双口消火栓蓋。これより幅の狭い単口消火栓蓋も確認されている。同水道の竣工は1926年(大正15年)[* 5]。給水区域は概ね現在の東京都荒川区、台東区、墨田区、江東区の荒川右岸に接した地域一帯だった。
Fire.hydrant.cover.in.yoyohata.tokyo.jpg
旧東京府代々幡町[注釈 4]水道の消火栓蓋。同町の水道は1931年(昭和6年)一部給水開始[* 6]。
Manhole.cover.in.iogi.tokyo.jpg
旧東京府井荻町[注釈 4]水道のマンホール蓋。同町の水道は1932年(昭和7年)一部給水開始[* 7]。この蓋は東京都杉並区の杉並浄水場付近で1枚だけ発見された物である。
Fire.hydrant.cover.in.nippon.water.woks.tokyo.jpg
東京の旧日本水道株式会社の消火栓蓋。同社は1932年(昭和7年)一部給水開始、1945年(昭和20年)に東京都に買収された[* 8]。給水区域は概ね現在の東京都世田谷区の北西部だった。
Valve.cover.in.seijyougakuen.tokyo.jpg
東京の旧成城学園水道購買組合の制水弁蓋。同水道は1925年(大正14年)給水開始、1933年(昭和8年)より前掲の日本水道株式会社から分水を受け、1945年(昭和20年)、日本水道株式会社とともに東京都に買収された[* 8][† 36]。
Manhole.cover.in.senkawa.water.woks.tokyo.jpg
東京の旧千川上水のマンホール蓋。同上水は1696年(元禄9年)に開設、1722年(享保7年)に一旦廃止の後、1781年(天明元年)から1786年(天明6年)の間だけ復活。その後近代になって1880年(明治13年)には千川水道会社が設立され、濾過池を設置の上、本郷、下谷の一部に給水していたが1908年(明治41年)には同社の解散に伴い給水中止[* 9][† 37]。その後は工業用水として大蔵省印刷局等に給水していたが、それも1971年(昭和46年)には中止された。この蓋は2015年現在、東京都北区滝野川6丁目と7丁目の境の通りに大小数枚残存している物で、この部分は1928年(昭和3年)に暗渠化されている。
Meter.cover.in.totsuka.yokohama.jpg
神奈川県旧戸塚町水道は1924年(大正13年)に敷設許可が下りている[‡ 34]。これは旧町内で数枚発見された量水器蓋。四角い紋章は片仮名の「トツカ」の字をデザイン化したものである。戸塚町は1939年(昭和14年)に横浜市に編入された。
Fire.hydrant.cover.in.kamakura.city.2.jpg
前掲の神奈川県営水道で1936年(昭和11年)に給水区域に編入された旧大船町(1948年=昭和23年 鎌倉市に編入)のエリアだけで発見された別仕様の消火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.fujisawa.city.jpg
神奈川県藤沢市で発見された神奈川県営水道の消火栓蓋。前掲の創設時の物と推察される蓋とは異なる仕様。
Manhole.cover.in.yokosuka.city.jpg
神奈川県横須賀市で発見された非常に古い円形2分割蓋。中心に横須賀市章が入っている。横須賀市の下水道は戦後の敷設なので、この蓋は水道関係のマンホール蓋と推察される。円形で2分割になっている蓋は非常に珍しい。
Fire.hydrant.cover.in.miura.city.jpg
神奈川県旧三崎町水道は1935年(昭和10年)給水開始。これは創設時の物と推察される消火栓蓋。紋章は「サ」とも「キ」とも読める文字を3個円形に並べ、中央に「水」の字を配した判じ紋である。
Fire.hydrant.cover.in.odawara.city.2.jpg
神奈川県小田原市水道は1936年(昭和11年)竣工。この消火栓蓋は、神奈川県内では比較的珍しい「甲府市型」だが、枠部分に紋様が入っていないなど、本家(前掲の甲府市消火栓参照)とは若干雰囲気が異なる。これとほぼ同仕様で文字がやや小さい物も発見されている。「甲府市型」は、宮城県北部で発見された数例を除いて、甲府市を中心とした半径約130km圏内に放射状に分布している。
Valve.cover.in.niigata.city.jpg
新潟市水道は1910年(明治43年)竣工であるが、横浜市の水道創設時と第一期拡張工事に携わった技術者三田善太郎が工事主任者として携わっている[† 38]。その影響か、前掲の横浜市新港埠頭の消火栓蓋の「横水」と同様に「一」の字の紋様で「新水」と入った制水弁蓋が何枚か発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.nagaoka.city.jpg
新潟県長岡市水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 35]。
Valve.cover.in.nagaoka.city.jpg
Fire.hydrant.cover.in.takada.city.jpg
新潟県旧高田市水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 36]。創設時の物と推察される消火栓蓋。この蓋は「栓」の字の部分にもう1つ丸い小蓋が付いている。このような仕様の消火栓蓋は、横浜市でかつて見られた[† 39]他、函館市では多く見られる。これと同一デザインで小蓋無しの物も散見される。
Fire.hydrant.cover.in.takada.city.2.jpg
新潟県旧高田市で発見された非常に小さな消火栓蓋。寸法は約300mm×175mm。これは函館市で発見された190mm×210mmの物[† 40]に次いで、現在発見されている中では2番目に小さい消火栓蓋である。右側にある水止栓蓋と比較しても、その小ささが判る。なお、「水止栓」というのは止水栓の古い呼称で、昭和初期頃までしか使われていなかった。新潟市では「水留栓」という名称の蓋も発見されている。水止栓に付いている六角星のような紋章は旧高田市章で、雪の結晶を表したものである。
Fire.hydrant.cover.in.takaoka.city.jpg
富山県高岡市水道は1931年(昭和6年)竣工。同市内で文字が右から書かれている消火栓蓋はこの仕様の物しか発見されていない。富山県内の他自治体でも、これと同仕様の消火栓蓋が散見される。
Fire.hydrant.cover.in.kanazawa.city.jpg
金沢市水道は1930年(昭和5年)竣工。この写真の蓋は市内で1枚だけ発見された右書き(反時計回りに「消火栓」の文字が入る)消火栓蓋。
Manhole.cover.in.kanazawa.city.2.jpg
金沢市の1932年(昭和7年)築の某企業本社ビル正面玄関脇にある私設の靴洗栓蓋。靴洗栓というのは、未舗装道路が多かった時代に泥で汚れた靴を洗うために大きなビルの玄関付近に設置される事が多かったが、現在までに発見されている物の多くは建物の壁に蛇口を取り付けたタイプ(旧国鉄本社ビルにも存在した)で、このような蓋付の「地下式靴洗栓」は極めて稀な存在である。この蓋は2015年現在、残存が確認されている。
Valve.cover.in.fukui.city.jpg
福井市水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 37]。この排気弁蓋は1枚だけ発見された。
Fire.hydrant.cover.in.awara.city.jpg
福井県旧芦原村水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 38]。これは1枚だけ発見された防火栓蓋である。昭和初期頃まで、中部地方以西の地域では消火栓の事を「防火栓」と呼んでいたケースが散見される(特に近畿以西に多い)[注釈 6]。「芦原村 水道 防火栓」の文字が読める。
Fire.hydrant.cover.in.shimizu.city.jpg
Fire.hydrant.cover.in.kakegawa.city.jpg
静岡県旧掛川町水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 39]。創設時の物と推察される防火栓蓋。掛川町は1954年(昭和29年)に市制施行したので少なくともそれ以前の蓋だが、「掛川町」の表記で名称が「消火栓」となっている蓋もある。
Fire.hydrant.cover.in.hamamatsu.city.jpg
静岡県浜松市水道は1931年(昭和6年)竣工[† 41]。市内で散見される右書き消火栓蓋は、この「ハマ」の字に松葉をあしらった紋章の物と、浜松市章が入った物の2種がある。
Manhole.cover.in.shizuoka.city.2.jpg
1941年(昭和16年)に竣工し現在の静岡市葵区と清水区のエリアに給水している「静清工業用水道」のマンホール蓋。石縁が付いている事と摩耗状態から、創設時の物と推察される。安倍川から取水しており、送水本管上と配水本管上にこのマンホール蓋が散在する。中心の紋章は「工」と「水」の字を組み合わせた物である。
Fire.hydrant.cover.in.yamura.yamanashi.jpg
山梨県旧谷村町水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 40]。
Fire.hydrant.cover.in.okaya.city.jpg
長野県岡谷市の水道は非常に複雑な沿革があり、「小井川水道」、「平野村水道」、「平野村湊村水道組合」、「岡谷水道」、「今井水道」、「長地村水道」、「小坂水道」、「川岸村水道組合」の8事業体が合併して現在の岡谷市水道が形成されている。写真の蓋は、1928年に給水開始した旧岡谷水道の消火栓蓋。前掲の横浜市新港埠頭の古い消火栓蓋に似た紋様である。なお、旧平野村水道、旧平野村湊村水道組合、旧川岸村水道組合の消火栓蓋は「甲府市型」である事が確認されている。
Fire.hydrant.cover.in.osachi.okaya.city.jpg
前掲の旧岡谷水道で述べた8事業体の中の旧長地村水道消火栓蓋である。同村の水道は1919年(大正8年)竣工。
Fire.hydrant.cover.in.hirano.okaya.city.jpg
前掲の旧岡谷水道で述べた8事業体の中の旧平野村水道消火栓蓋と考えられ、旧平野村エリアのみでこの紋章の入った蓋が発見されている。
Manhole.cover.in.hirano.okaya.city.jpg
旧平野村の区域ではこのような英語書きの制水弁蓋も散見される。「甲府市型」消火栓を採用した地域では、制水弁蓋も甲府市型紋様の場合が多い。これと同仕様の蓋は本家甲府市でも発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.matsumoto.city.jpg
長野県松本市水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 41]。市内中心部で発見された古い消火栓蓋はこれ1種類のみなので、これが創設時の物と推察される。なお、1974年(昭和49年)に松本市に編入された旧本郷村には1926年(大正15年)起工の村営水道が存在したが、現在でも旧本郷村エリアでは「本」と「水」の字を配した紋章の入った蓋が時折見られる。
Fire.hydrant.cover.in.ohmachi.city.jpg
長野県旧大町水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 42]。この「甲府市型」の単口消火栓蓋が創設時の物と推察される。紋章は「大町」の字をデザイン化した中に「水」の字が入っている。
Fire.hydrant.cover.in.ueda.city.jpg
長野県上田市水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 43]。市内中心部で散見される古い消火栓蓋は「甲府市型」の双口消火栓が多いが、紋章の入っていない物、「消火栓」が左書きで書体が異なる物等、数種類が確認されている。なお、現在は上田市に編入されている1926年(大正15年)起工の旧殿城村水道[‡ 44]のエリアでは「消火栓」の文字が左書き(前掲の埼玉県旧飯能町水道消火栓蓋参照)の「甲府市型」の単口消火栓蓋が発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.matsushiro.nagano.city.jpg
長野県旧松代町水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 45]。この「甲府市型」の単口消火栓蓋が創設時の物と推察される。松代町は1966年(昭和41年)に長野市に編入された。
Fire.hydrant.cover.in.toyohashi.city.jpg
愛知県豊橋市水道は1930年(昭和5年)竣工[† 29]。市内で散見される古い消火栓蓋は、前掲の宮城県石巻市の消火栓蓋と凹凸の関係を逆にした紋様の物で、東京の荒玉水道の単口消火栓蓋と同一寸法である。
Fire.hydrant.cover.in.okazaki.city.jpg
Fire.hydrant.cover.in.gifu.city.jpg
岐阜市水道は1934年(昭和9年)竣工[† 42]。市内で散見される右書きの消火栓蓋は、このタイプと把手が両側に付いたタイプの2種がある。
Fire.hydrant.cover.in.tajimi.city.jpg
岐阜県旧多治見町水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 46]。これは名古屋市水道の消火栓蓋の仕様を流用した物で「単口消火栓」と書かれているが、他にも右書き消火栓には様々なバリエーションがあり、名古屋市仕様で「単口」の文字が入っていない物、岐阜市の消火栓蓋と同仕様で単口の物と双口の物等、数種類が発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.yokkaichi.city.jpg
三重県四日市市の水道は1922年(大正11年)に主に船舶給水用として敷設された四日市給水株式会社に端を発する[‡ 47]。同社はその後1928年(昭和3年)に四日市市に買収された。同市内では四日市市章が入った右書きの消火栓蓋も発見されているが、この蓋に入った紋章は四日市市章とは異なる。
Fire.hydrant.cover.in.tsu.city.jpg
津市水道は1930年(昭和5年)竣工[† 19]。この蓋が創設時の消火栓蓋と推察される。
Valve.cover.in.ohtsu.city.jpg
大津市水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 48]。市内で古い蓋はあまり見かけないが、この排気弁蓋は創設時の物の可能性もある。上部には1921年(大正10年)~1958年(昭和33年)まで使用された2代目大津市章が入っている。同心円状の紋様の蓋は、西日本の上水道関係で多く見られる。
Manhole.cover.in.kyoto.city.4.jpg
京都市水道は1912年(明治45年)竣工[‡ 49]。市内各所では大型の制水弁蓋や排気弁蓋で創設時の図面に掲載された物と酷似した蓋が発見されている[† 43]。これは大型量水器蓋で、四隅に京都市水道局の紋章が入っている。このタイプの大型量水器蓋は西日本で散見される物である[† 44]。
Fire.hydrant.cover.in.miyazu.city.jpg
京都府旧宮津町水道は1912年(明治45年)竣工[‡ 50]。これは1枚だけ発見された防火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.osaka.city.jpg
大阪市水道は1895年(明治28年)竣工[‡ 51]。市内で稀に見られる防火栓蓋は、書体のバリエーションが多数あるが、いずれも「防火栓」の名称から、かなり古い時代の物と推察される。同仕様で右書きの「消火栓」蓋もある。
Fire.hydrant.cover.in.ibaraki.city.jpg
大阪府旧茨木町水道は1929年(昭和4年)竣工。創設時の物と推察される防火栓蓋。茨木町の市制施行は1948年(昭和23年)である。
Fire.hydrant.cover.in.takasago.city.jpg
兵庫県旧高砂町水道は1924年(大正13年)竣工[‡ 52]。一風変わったこの消火栓蓋は古くからあると考えられるが、旧町内で他に発見された消火栓蓋とは全く仕様が異なるので私設消火栓の可能性もある。
Fire.hydrant.cover.in.toyooka.city.jpg
兵庫県旧豊岡町水道は1922年(大正11年)竣工[‡ 53]。この防火栓蓋は豊岡駅周辺で1枚だけ発見された。
Fire.hydrant.cover.in.kinosaki.toyooka.city.jpg
兵庫県旧城崎町水道は1920年(大正9年)竣工[‡ 54]。城崎温泉駅周辺では前掲の旧豊岡町と同仕様で「城崎町」と入った防火栓蓋が発見されており、創設時の物と推察されるが、これは名称が「消火栓」となっている蓋。
Fire.hydrant.cover.in.hidaka.toyooka.city.jpg
兵庫県旧日高町の水道は1925年(大正14年)に給水開始した日高水道株式会社に端を発する[‡ 55]。この防火栓蓋は、旧日高町章とは異なる紋章が入っているので、会社経営当時の蓋と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.wakayama.city.jpg
和歌山市水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 56]。2分割のこの蓋は半分だけが新しい物と交換されている。因みに同市の消火栓は創設時から単口式と双口式があったが[‡ 56]、これの左半分と類似したデザインで2分割になっていない小ぶりな消火栓蓋も発見されている。
Fire hydrant cover in Yoshino, Nara.jpg
奈良県旧吉野村水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 57]。
Valve.cover.in.okayama.city.jpg
岡山市水道は1924年(大正13年)起工[‡ 58]。この排気弁蓋は書体が前掲の荒玉水道の蓋と似ている。
Fire.hydrant.cover.in.kurashiki.city.jpg
岡山県旧倉敷町水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 59]。創設時の物と推察される消火栓蓋。この時代の西日本では「消火栓」と「防火栓」が自治体により混在した。
Fire.hydrant.cover.in.kanaoka.okayama.city.jpg
岡山県旧金岡村水道は1924年(大正13年)竣工[‡ 60]。この防火栓蓋は「金岡村 水道 防火栓」の文字が読める。創設時の防火栓数は13箇所との記録がある。
Fire.hydrant.cover.in.fukuyama.city.jpg
広島県福山市水道は1922年(大正11年)起工[‡ 61]これは市内で稀に見られる消火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.tottori.city.jpg
かなり古い時代の物と推察される防火栓蓋。同市内では、文字が右から書かれた「消火栓」蓋も発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.matsue.city.jpg
松江市水道は1919年(大正8年)竣工[‡ 63]。市内ではこの仕様を含めて計3種類の右書き消火栓蓋が発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.yanai.city.jpg
山口県旧柳井町水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 64]これは市内で1枚だけ発見された消火蓋。
Fire.hydrant.cover.in.ogori.yamaguchi.city.jpg
山口県旧小郡町水道は1923年(大正12年)竣工[‡ 65]。旧町内で発見された右書きの消火栓蓋は2種ある。後述の大分県別府市の古い消火栓蓋に似た仕様である。
Fire.hydrant.cover.in.ube.city.jpg
山口県宇部市水道は1924年(大正13年)竣工[‡ 66]。市内で1枚だけ発見されたこの防火栓蓋が創設時の物と推察される。他に右書きで「消火栓」と入った蓋は数種類発見されているが、「防火栓」はこれ1種類しか発見されていない。
Fire.hydrant.cover.in.shimonoseki.city.jpg
山口県下関市水道は1907年(明治40年)竣工[‡ 67]。市内で1枚だけ発見されたこの右書き消火栓蓋は恐らくかなり古い時期の物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.takamatsu.city.jpg
高松市水道は1922年(大正11年)竣工[‡ 68]。市内で散見される右書き消火栓蓋には、この「高」の字に松葉をあしらった高松市章が入った物と、「TAKAMATSU」とローマ字の紋章が入ったやや小さめの物の2種があるが、この「高」の字の紋章の蓋は鉄枠が無く石縁に直接はめた古い仕様なので、こちらが創設時の物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.marugame.city.jpg
香川県丸亀市水道の消火栓蓋。他にも右書きの消火栓蓋が発見されている。同市の水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 69]で、工事顧問を務めた技術者和田忠治は、横浜市水道の第二拡張工事に携わった人物である。その影響か、横浜市の「Y.W.W.」(前掲の横浜市の消火栓蓋参照)同様「M.W.W.」のイニシャルが入っている。
Fire.hydrant.cover.in.muya.naruto.city.jpg
徳島県旧撫養町水道の防火栓蓋。紋章は片仮名の「ヤ」を6個放射状に並べ、それに「水」の字を組み合わせて「ムヤ 水」と読ませた判じ紋である。
Fire.hydrant.cover.in.dogoonsen.matsuyama.city.jpg
愛媛県旧道後湯之町水道は1936年(昭和11年)竣工。これは旧給水区域で1枚だけ発見された楕円形の右書き消火栓蓋。松山市中心部の水道は1953年(昭和28年)給水開始と戦後の敷設であり戦後製の左書きの楕円形消火栓蓋が多く見られる。これはこの蓋の仕様を踏襲したものと推察される。
Fire.hydrant.cover.in.nagahama.ehime.jpg
愛媛県旧長浜町水道は1925年(大正14年)起工[‡ 70]。旧町内では楕円形の消火栓蓋、空気弁蓋等が散見される。楕円形消火栓を用いている自治体では、量水器蓋まで楕円形であるケースが多い。
Fire.hydrant.cover.in.uwajima.city.jpg
愛媛県宇和島市水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 71]。この蓋は市内で1枚だけ発見された右書きの消火栓蓋。
Fire.hydrant.cover.in.suzaki.city.jpg
高知県旧須崎町水道は1927年(昭和2年)竣工[‡ 72]。市内で発見された消火栓蓋は複数種ある。なお、市内では他に「消火栓蓋」と書かれた蓋が発見されており[18]、わざわざ「蓋」の字を入れた蓋は後述の宮城県松島町の物と2例しか発見例が無い。
Fire.hydrant.cover.in.nakamura.city.jpg
高知県旧中村町水道は1920年(大正9年)竣工[‡ 73]。この蓋は大阪市の古い防火栓蓋の仕様を流用した物である。同仕様で「消火栓」と書かれた蓋も発見されているので、この防火栓蓋が創設当時の蓋の可能性が高い。
Fire.hydrant.cover.in.kokura.city.jpg
福岡県旧小倉市水道は1913年(大正2年)竣工[‡ 74]。旧市内で1枚だけ発見された旧小倉市章入りのこの防火栓蓋は文字が左から書かれているが、「防火栓」の名称から、かなり古い時期の物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.tobata.city.jpg
福岡県旧戸畑市水道は1931年(昭和6年)竣工。旧市内で発見された右書きの消火栓蓋にはこのタイプと、戸畑市章がこれより上寄りに入った物の2種があり、いずれも古い時代の物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.wakamatsu.city.jpg
福岡県旧若松市水道は1912年(明治45年)竣工[‡ 75]。旧市内では古い消火栓蓋が数種類発見されており、これより古いと考えられる蓋もあったが、摩耗して紋章部分が判らなくなっていた。この蓋は片仮名の「ワカ」の字に松葉をあしらった旧市章が確認出来る。旧門司市と旧八幡市では右書きの消火栓蓋は発見されているものの、市章が入った物は確認されていない。
Fire.hydrant.cover.in.yanagawa.city.jpg
福岡県旧柳河町水道は1926年(大正15年)竣工[‡ 76]。恐らくこの蓋が創設時の物と推察される。同町の変遷から考えて、新しく見積もっても昭和20年代前半以前の蓋である。
Fire.hydrant.cover.in.omuta.city.jpg
福岡県大牟田市水道は1921年(大正10年)竣工[‡ 77]。市内中心部で散見されるこの消火栓蓋は、発見箇所が創設時の配水線路図に示された消火栓位置と悉く一致するので、創設時の物と推察される。製造所による相違か、書体に多くのバリエーションがある。古い時代の蓋には英語が併用された例が時折見られる(前掲の甲府市の消火栓参照)。
Valve.cover.in.ohmuta.city.jpg
福岡県大牟田市で散見される「Sluice valve boxes」と書かれた制水弁蓋。英語を使用している事から、前掲の消火栓蓋と同時期の物と推察される。中央の紋章は「大」の字が6個に「田」の字を組み合わせて「オオムタ」と読ませた判じ紋である。他に「Sluice valve box」と単数形で書かれた小さめの制水弁蓋も散見される[19]。
Fire.hydrant.cover.in.oita.city.jpg
大分市水道は1927年(昭和2年)竣工[† 45]。市内で数枚発見されたこの防火栓蓋が創設時の物と推察される。同仕様で名称が「消火栓」となった蓋も発見されている。
Fire.hydrant.cover.in.beppu.city.jpg
大分県別府市水道は1917年(大正6年)竣工[‡ 78]。市内で発見された消火栓蓋は数種類が確認されているが、この仕様が最も古いと推察される。前掲の旧小郡町の消火栓蓋に類似している。
Fire.hydrant.cover.in.kamegawa.beppu.city.jpg
大分県旧亀川町は1925年(大正14年)に御越町から町名を改称、その後、1935年(昭和10年)に別府市に編入されているので、「亀川町」と入ったこの消火栓蓋は明らかにその間に設置された蓋である。前掲の別府市の消火栓蓋と類似している。
Fire.hydrant.cover.in.saga.city.jpg
佐賀市水道は1916年(大正5年)竣工[‡ 79]。市内で1枚だけ発見されているこの消火栓蓋もかなり古い時期の物と推察される。「H」の字を並べたようなこの紋様は他に例を見ない珍しい物である。消火栓の英訳「Hydrant」の頭文字に由来する物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.takeo.city.jpg
佐賀県旧武雄町水道は1927年(昭和2年)竣工[‡ 80]。給水区域内で発見された古い消火栓蓋は1種類のみなので、これが創設時の物と推察される。
Fire.hydrant.cover.in.sasebo.city.jpg
長崎県佐世保市水道は1908年(明治41年)竣工[‡ 81]と、九州でも有数の古さを誇る。写真の蓋は「佐世保市水道 防火栓」と書かれているが、市内で発見された古い蓋には「佐世保市水道」の文字が入っておらず「防火栓」が左書きの物や、名称が「消火栓」となっている物など、数種類が確認されている。
Valve.hole.cover.in.sasebo.city.jpg
佐世保市では古い制水弁蓋も散見されるが、いずれも8角形の珍しい仕様である。制水弁以外も含めて8角形の蓋は全国的に極めて稀な存在である。
Fire.hydrant.cover.in.kumamoto.city.jpg
熊本市水道は1925年(大正14年)竣工[‡ 82]。1枚だけ発見されたこの消火栓蓋は、文字が縦書きなので年代判定が困難だが、状態から判断してある程度古い時代の物と推察される。他に古い消火栓蓋は発見されていない。
FileFire hydrant cover in Furukawa,.jpg
宮城県旧古川市∥古川町水道は1884年(明治17年)に陶管を使用した簡易水道を敷設、1909年(明治42年)に鉄管を使用した改良工事を実施と非常に歴史が古い[‡ 83]が、新しく見積もっても戦前の物と推察されるこの蓋は、大阪市の蓋の流用である。内容物は地下式消火栓だと考えられる。正式な「古川町」の蓋も存在するが、他に神奈川県営水道の消火栓蓋のマークを消さずにそのまま使用している物も発見されている。
Valve.cover.navy.water.works.jpg
旧日本海軍マークが大きく入ったこの蓋は、旧海軍軍用水道の排気弁蓋である。神奈川県海老名市から横須賀市に至る水道道路周辺や横須賀米軍基地内では、軍用水道の蓋が現在も見られる。他の地域でも、かつて軍の施設があった周辺で見られる。
Fire.hydrant.cover.navy.water.works.jpg
神奈川県横須賀市で数枚発見された旧海軍軍用水道の消火栓蓋。横須賀海軍軍用水道は1921年(大正10年)に竣工しており[‡ 84]、これが創設時の物と推察される。
Valve.cover.in.hiratsuka.city.jpg
神奈川県平塚市の旧海軍火薬廠は1919年(大正8年)に完成し、現在はその殆どが横浜ゴム株式会社の敷地になっているが、これはその付近で発見された非常に古い制水弁蓋。文字が潰れてはいるが、「火薬廠 水道 制水辨」と書かれているのが判読出来る。
Manhole cover in Tokyo City.jpg
東京23区内で1枚だけ発見されている「人孔」の文字が入った蓋だが、これは旧東京市水道の消火栓蓋の仕様をそのまま流用し、文字を変えただけの蓋である。「人孔」と書かれているからには中はマンホールと推察されるが、長方形では都合が悪い。また、管轄が水道局なのか下水道局なのかも不明。
Fire.hydrant.cover.in.kamakura.city.jpg
神奈川県鎌倉市で発見された消火栓蓋だが、前掲の人孔蓋とは逆に、下水用の東京市型の蓋をそのまま流用している。しかも、地下式消火栓は本来、中に水が入っては困る構造にもかかわらず、穴も沢山開いている。東京市型や名古屋市型を流用した防火水槽蓋は各地で見られるが、消火栓はこの1枚しか発見例が無い。
Valve.cover.in.matsushima.miyagi.jpg
通常、蓋に書かれる文字はその内容物を示しているが、宮城県松島町で発見されたこの蓋は、材質を表示しており、極めて稀有な例である。蓋の形状から見て、水道の区画量水器と推察される。
電信電話関係
この項では電信電話関係のマンホール蓋、ハンドホール蓋を取り扱う。
1885年(明治18年)に逓信省が設置され、郵政事業と電信電話事業を取り扱う事となった。その後、1949年(昭和24年)に郵政事業は郵政省、電信電話事業は電気通信省に分離され、旧逓信省の紋章は郵政省が引き継ぎ、電気通信省は新たな紋章を制定した。そして1952年には電気通信省が日本電信電話公社となり、電気通信省の紋章を引き継いだ[† 46]。従って、旧逓信省の紋章(逓信の頭文字「テ」をデザインした物で現在は郵便マークとして認識されている)が入った蓋は1949年(昭和24年)以前に設置された物である。
Telephone.manhole.cover.in.takamatsu.city.jpg
高松市で発見された蓋。この「ニ」の字を縦横に並べた紋様は、逓信省時代の電話マンホール蓋の中で最も一般的な仕様で、全国で見られる。サイズが数種類ある。
Telephone.manhole.cover.in.tokyo.city.jpg
東京駅丸ノ内南口付近で発見された蓋。前掲の蓋と酷似した逓信省時代の蓋だが、明らかに「ニ」の字の紋様の目が粗い。また、鉄枠が無く石縁に直接はめられた極めて古い仕様である事から、東京駅開業の1914年(大正3年)頃に設置された可能性が高い。この仕様の蓋は全国でも1枚しか発見されておらず、2015年4月現在、現存が確認されている。キャムバーが付いているため、中心部分がかなり摩耗しているが、前掲の蓋同様、逓信省マークの周囲には右書きで「電話」の文字が入っている。
Telephone.manhole.cover.in.tokyo.city.2.jpg
東京23区内で1枚だけ発見された蓋。前掲の2枚と似た仕様だが、この蓋の紋様は「ニ」の字が平行に一列に並んでいる。全国的に見ても非常に稀な存在である。
Telephone.manhole.cover.in.osaka.city.jpg
大阪市で発見された蓋。前掲の3枚とは全く異なる紋様のこの仕様は、近畿、中国、四国地方でしか発見例が無い。当該地域では比較的よく見かける。
Telephone.manhole.cover.in.hakone.kanagawa.jpg
神奈川県箱根町で発見された蓋。逓信省マークが大きく入り、「電話」の文字が入っていない。文字入りの蓋よりは少ないが、比較的よく見られる仕様である。なお、この仕様の蓋はキャムバーが付いていない。
Telephone.manhole.cover.in.wakamatsu.fukuoka.jpg
福岡県旧若松市で発見された蓋。逓信省マーク付きのコンクリート蓋は、金属が不足した戦時中に設置された蓋である。この仕様の蓋も比較的よく見かける。
Telephone.manhole.cover.in.ichinoseki.city.jpg
岩手県一関市で発見された蓋。「甲型」と呼ばれる大型のハンドホール蓋である。発見例は比較的少ない。
Telephone.manhole.cover.in.kyoto.city.jpg
京都市で発見された蓋。「乙型」と呼ばれる小型のハンドホール蓋である。甲型、乙型ともに、西日本の物はこのように四隅にRが付いた仕様が多く、東日本の物は前掲の甲型のように四隅が角ばっている物が多いが、稀に例外もある。乙型は比較的よく見かける仕様で、戦時中製造のコンクリート蓋もある。また、これより更に小型の1枚物のハンドホール蓋も存在する。
Manhole.cover.in.sanyo-onoda.city.jpg
山口県山陽小野田市(旧山陽町)の厚狭駅付近で発見された鉄道電話のハンドホール蓋。前掲の東京駅丸ノ内南口駅前の蓋では紋章が「工」の字の工部省マークとなっているが、この蓋の紋章は完全に平底レールの断面図である。通信関係のこの仕様の蓋は、逓信省時代から存在し、中国地方のみで見られる物である[† 47]。
Manhole.cover.in.yokohama.city.4.jpg
横浜市中区の新港埠頭周辺で発見された警察電話のハンドホール蓋。波型の紋様は珍しい。同デザインで幅の広い物も発見されている。
電力関係
この項では戦前に存在した電力会社、電力供給事業体のマンホール蓋を取り扱う。戦前は東京電燈(株)、東邦電力(株)、大同電力(株)、宇治川電気(株)、日本電力(株)の5大電力会社が存在し、自由競争の時代があったため、その他にも主な電鉄会社が鉄道業の傍ら、電力供給事業に参入するケースが多かった。
Electric.manhole.cover.in.nippondenryoku.jpg
日本電力株式会社は1919年(大正8年)創業。戦前の5大電力会社の1つである。これは東京都目黒区で発見された蓋だが、同社の本拠地は大阪であり、関東地区では専ら卸売りのみで一般電灯電力の供給は行なっていなかった。同社は1942年(昭和17年)に日本発送電(株)に統合され、関東地区の配電設備は関東配電(株)に、関西地区の配電設備は関西配電(株)に引き継がれた[† 48][† 49]。
Electric.manhole.cover.in.ujigawadenki.2.jpg
宇治川電気株式会社は1906年(明治39年)創業。戦前の5大電力会社の1つである。これは大阪市内で発見された蓋で同社の社紋が入っている。同社の供給区域は京阪地区であったため、当該地域ではこの仕様の蓋が数枚発見されている。同社は1942年(昭和17年)に日本発送電(株)に統合され、配電設備は関西配電(株)に引き継がれた[† 49]。
Electric.manhole.cover.in.tokyo.city.jpg
東京市電気局(現 東京都交通局)は1911年(明治44年)発足。市電の運行の傍ら一般電灯電力の供給を行なっていたが、1942年(昭和17年)に電力供給事業は関東配電(株)に統合された。これは東京都千代田区で発見された円形マンホール蓋の中心部分である。右書きで「市電燈」と入った文字部分は真鍮のはめ込みになっている。この仕様の蓋はこの1枚しか発見例が無く、他に発見された同局の蓋の多くは「市電燈」の文字が左書きでゴシック体になっている。
Manhole.cover.in.kyotodentou.jpg
京都電燈株式会社は1888年(明治21年)創業。関西から北陸地域に電力の供給を行なう傍ら、1925年(大正14年)からは鉄道業も営んでいたが、1942年(昭和17年)に日本発送電(株)に統合され、配電設備は関西配電(株)に引き継がれた[† 50]。これは京都市東山区の京阪電気鉄道祇園四条駅近くで発見された蓋。京都電燈の社紋が入った角蓋は京都市内で散見されるが、円形蓋は珍しい。
ガス関係
この項では戦前に存在したガス会社、ガス供給事業体の蓋を取り扱う。現在、都市ガス供給事業は比較的広範囲で1社独占となっているが、戦前は供給区域が非常に狭い小規模ガス会社が多数存在した。ガス管上にあるマンホールは非常に数が少なく、近年まで残存した戦前の蓋で大型の物は殆ど無いので、小蓋類の掲載にとどめる。
Gas.hole.cover.in.yokohamagas.2.jpg
横浜市中区で1枚だけ発見された非常に古いガスの小蓋。同市は現在、東京ガス(株)の供給区域であり、東京ガス仕様の「瓦斯」と右書きの小蓋類は散見されるが、これは明らかに東京ガスの仕様と異なり、1944年(昭和19年)に東京ガスに統合された横浜市瓦斯局の蓋である可能性が極めて高い。横浜市の都市ガス供給事業は我が国初で、1872年(明治5年)に横浜瓦斯会社が発足、1875年(明治8年)には横浜瓦斯局と改称、更に1892年(明治25年)には横浜市瓦斯局と改称した。市内では東京ガスの仕様ではない物でこの蓋よりも新しそうな蓋も数枚発見されているので、これは相当に古い時期の蓋と推察される。
Gas.hole.cover.in.kantogas.jpg
神奈川県横須賀市で1枚だけ発見された「関東瓦斯株式会社」の蓋。同社の沿革は不明な点が多いが、東京ガスのホームページによれば1944年(昭和19年)に同社に統合された経緯だけは確認出来る。この蓋は水道の弁類用の蓋の転用(前掲の大津市の排気弁蓋参照)で、文字を削り取った形跡が確認出来る。
Gas.hole.cover.in.kyotogas.jpg
京都市内で数枚発見されている「京都瓦斯株式会社」の蓋。摩耗しているが、本来の社紋は京都市章の中心部分に「G」の字を入れた物である。同社の沿革も不明な点が多いが、明治末期頃に創業、1945年(昭和20年)に大阪ガス(株)に統合されている[† 50]
東京都下水道局のマンホール
東京都下水道局の23区管轄において、2001年度以降に導入された新しいマンホールの蓋にはマンホールの固有番号および管きょ(下水道)の布設年度(西暦)が記されている。四つ並んでいるうちの一番左の数字は管理図内の人孔番号(01〜99)で黄色が合流管・汚水管、青色が雨水管というように区別されている。中央の二つが管理図内の固有記号(0Aのように数字とアルファベットの組み合わせ)で緑色のみ。一番右の数字は管きょ布設年度の西暦下二桁(00〜99) で黄色が1900年代(1999年度まで)、青色が2000年代(2000年度以降)というように区別されている。
下水道局では23区内の下水道管きょを管理図で把握しており、固有番号は管理図の番号・記号と対応している。なお、新しいマンホールの蓋の設置は、管きょの新設時や蓋の取り替え時などに行われる[20]。
デザインマンホール
日本の多くの自治体ではその地域の名産や特色をモチーフにしているデザインマンホールが導入されている(色付きのものはカラーマンホールとも呼ばれる)。特に下水道関連のマンホールでは多種多様なデザインが見受けられる。
Manhole cover in Yokote, Akita.jpg
Manhole cover in Yuzawa, Akita.jpg
Manhole cover Tokorozawa colored.jpg
逸話
レーシングカーは蓋を持ち上げられるか
蓋は宇宙空間で最初の人工物か
脚注
注釈
出典
- ↑ 林 1984, p. 136
- ↑ 林 1984, pp. 176-177
- ↑ 3.0 3.1 3.2 林 1984, pp. 177-178
- ↑ 林 1984, p. 45
- ↑ 5.0 5.1 林 1984, p. 63
- ↑ 6.0 6.1 林 1984, p. 148
- ↑ 7.0 7.1 林 1984, p. 60
- ↑ 林 1984, p. 56
- ↑ 林 1984, p. 164
- ↑ 林 1984, p. 163
- ↑ 林 1984, p. 188
- ↑ 林 1984, pp. 63
- ↑ 林 1984, pp. 53-54
- ↑ 14.0 14.1 林 1984, p. 57
- ↑ 15.0 15.1 林 1984, p. 58
- ↑ 16.0 16.1 林 1984, p. 59
- ↑ 林 1984, p. 147
- ↑ 18.0 18.1 林 1984, pp. 136-137
- ↑ 19.0 19.1 林 1984, p. 139
- ↑ 林 1984, p. 128
- ↑ 21.0 21.1 林 1984, p. 117
- ↑ 林 1984, p. 95
- ↑ 林 1984, pp. 144-146
- ↑ 林 1984, p. 145
- ↑ 林 1984, p. 144
- ↑ 26.0 26.1 林 1984, p. 181
- ↑ 林 1984, pp. 38-39
- ↑ 28.0 28.1 28.2 林 1984, p. 165
- ↑ 29.0 29.1 林 1984, pp. 138-139
- ↑ 林 1984, p. 162
- ↑ 31.0 31.1 林 1984, p. 20
- ↑ 林 1984, p. 161
- ↑ 林 1984, p. 159
- ↑ 林 1984, pp. 19-20
- ↑ 林 1984, p. 21
- ↑ 林 1984, p. 44
- ↑ 林 1984, p. 27
- ↑ 林 1984, p. 143
- ↑ 林 1984, p. 146
- ↑ 林 1984, p. 169
- ↑ 林 1984, p. 141
- ↑ 林 1984, p. 134
- ↑ 林 1984, p. 127
- ↑ 林 1984, p. 119
- ↑ 林 1984, p. 98
- ↑ 林 1984, p. 64
- ↑ 林 1984, pp. 111,113
- ↑ 林 1984, p. 73
- ↑ 49.0 49.1 林 1984, p. 123
- ↑ 50.0 50.1 林 1984, p. 130
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 727-769
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 789-800
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 785
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 777-782
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 769-771
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 771-773
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 786-788
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 807-810
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 801-804
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 820-822
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 834-836
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 823-826
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 828-830
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 832-834
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 830-832
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 834-836
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 836
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 837
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 363
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 358
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 361-363
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 457
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 450
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 423-425
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 418-422
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 414-415
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 394-395
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 389-391
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 396-399
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 404-405
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 367-369
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 380
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 381-385
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 364
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 429-432
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 432
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 437-439
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 479-480
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 439
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 459-461
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 445-447
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 454-455
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 443-445
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 455
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 453
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 463
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 479-480
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 516-517
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 510-516
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 519
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 520-530
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 549-551
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 552-554
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 554-555
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 554
- ↑ 56.0 56.1 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 557-560
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 557
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 573-578
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 581-582
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 583
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 570-571
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 583-586
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 587-588
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 602
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 600-601
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 596-599
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 590-596
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 603-605
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 605-607
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 617
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 615-617
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 614-615
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 615
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 642-644
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 646-650
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 654
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 650-652
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 659-661
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 630-632
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, p. 633
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 625-628
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 661-664
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 391-392
- ↑ 中島工学博士記念事業会 1927, pp. 355-356
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 5-6
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 216,318
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 322-327
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 332-333
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 312-318
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 327-329
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 329-331
- ↑ 8.0 8.1 東京都水道局 1952, pp. 359-367
- ↑ 東京都水道局 1952, pp. 44-54
そのほかの出典
参考文献
- 林丈二 『マンホールのふた 日本篇』 サイエンティスト社、1984年。ISBN 978-4914903275。
- 『中島工学博士記念 日本水道史』 中島工学博士記念事業会、中島工学博士記念事業会、1927年。
- 東京都水道局 『東京都水道史』 東京都水道局、1952年。
- 社団法人日本水道協会 『日本水道史』 社団法人日本水道協会、1967年。
- 神奈川県営水道六十年年史編集委員会 『神奈川県営水道六十年史』 神奈川県企業庁、1994年。
関連項目
外部リンク