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(フィクションのできごと)
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== 16世紀の歴史 ==
 
== 16世紀の歴史 ==
[[ファイル:The Spanish Armada.jpg|thumb|300px|[[アルマダ海戦]](グラヴリンヌ沖海戦)。この戦いでスペインを打ち破ったイングランドは強国としてのしあがることになる。]]
 
[[ファイル:Elizabeth I Rainbow Portrait.jpg|thumb|right|180px|イングランド女王[[エリザベス1世]]。宗教対立に揺れるイングランドにあって国教会の組織を堅持し「良き女王ベス」と讃えられた。画像は1600年頃に描かれた『虹の肖像』(ハトフィールド・ハウス蔵のサリスベリー・コレクション)。]]
 
[[ファイル:Rosenkranz Mysterien.jpg|thumb|right|250px|[[イエズス会]]の躍進。対抗宗教改革の旗手であったイエズス会は大航海時代の風潮と相俟って新大陸からアジア各地にキリスト教を拡げた。画像は原田家本「紙本著色聖母十五玄義・聖体秘蹟図」に描かれた[[ロヨラ]]と[[ザビエル]]([[京都大学]]総合博物館蔵)。]]
 
[[ファイル:Namban-13.jpg|thumb|250px|[[南蛮人]]の到来。1543年のポルトガル人の[[種子島]]到着により、ヨーロッパ人の来訪は日本にまで及んだ。画像は伝[[狩野内膳]]『南蛮屏風』の一部([[リスボン]][[国立古美術館]]蔵)。]]
 
[[ファイル:Lisboa Lisbon Lissabon.jpg|thumb|right|250px|[[ベレンの塔]]。ポルトガル最盛期を代表する[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世幸運王]]が[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]のインド航路発見とポルトガルの発展を記念して建造した要塞。]]
 
[[ファイル:Plaque depicting chief flanked by two warriors, Benin, AD 1550-1650 - African collection - Peabody Museum, Harvard University - DSC05790.JPG|thumb|right|210px|[[ベニン王国]]。西アフリカのナイジェリアにあったこの王国はポルトガルとの交易で16世紀から17世紀に繁栄した。画像は青銅製の二人並び立つベニンの戦士像([[ピーボディ考古学・民族学博物館|ハーバード大学ピーボディ博物館]]蔵)。]]
 
[[ファイル:Sankore Moske Timboektoe.JPG|thumb|right|180px|黄金郷[[トンブクトゥ]]。[[サハラ交易]]により塩・黄金・奴隷といった物資がここを経由し運ばれた。[[レオ・アフリカヌス]]らの旅行者はその豊かな富を驚嘆しつつ記録を残している。画像はトンブクトゥのサンコレ・モスク。]]
 
[[File:Suleymanname 412a.jpg|thumb|right|180px|[[バルバリア海賊|バルバリアの海賊]]。北アフリカの[[アルジェリア]]を根拠地とする[[バルバロス・ハイレッディン]]はオスマン朝に帰順して大提督となり地中海のキリスト教諸国を圧倒した。画像は[[イスタンブル]]の[[トプカプ宮殿]]で[[スレイマン1世]]に謁見するバルバロス。]]
 
[[File:Moctezuma Xocoyotzin.png|right|thumb|180px|アステカ皇帝[[モクテスマ2世]]。スペイン人コルテスの侵略に遭い事故に巻き込まれ事実上の最後の皇帝となった。画像は17世紀に皇帝を描いた再現画。]]
 
[[ファイル:Guaman Poma - Ataw Wallpa.jpg|thumb|right|180px|インカ皇帝[[アタワルパ]]。スペイン人ピサロの侵略に遭い処刑され事実上の最後の皇帝となった。画像はグァマン・ポマの『新しい記録と良き統治』の挿絵。]]
 
[[File:Leonardo da Vinci - presumed self-portrait - WGA12798.jpg|thumb|right|180px|万能人[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]。「モナリザ」などに見られる巧緻な技術を持つ芸術家であるとともに解剖学・生物学・幾何学・建築学・力学に通じた手稿を残した天才であった。画像はトリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像。]]
 
[[ファイル:Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg|thumb|right|180px|[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]。小国家分立のイタリアにあって強力な政治統合を唱え、そのためには権謀術数をも辞さないという主張は、宗教や道徳から政治を切り離すいわゆる近代[[政治学]]の嚆矢となった。]]
 
[[File:Hans Holbein d. J. - Erasmus - Louvre.jpg|thumb|right|180px|「[[エラスムス]]の世紀」。「人文主義の王者」とも呼ばれたエラスムスは『校訂版 新約聖書』の他『[[痴愚神礼賛]]』のような諷刺の効いた著作を含め旺盛な執筆活動を行い、その思想は宗教改革前後の全ヨーロッパを席巻した。画像は[[ハンス・ホルバイン]]によるエラスムスの肖像([[ルーヴル美術館]]蔵)。]]
 
[[ファイル:Martin Luther, 1529.jpg|thumb|right|180px|[[マルティン・ルター]]。彼が1517年に起こした[[ヴィッテンベルク大学]]での「[[95ヶ条の論題]]」は西方キリスト教世界を大きく分裂させる端緒となった。画像はルターの友人でもあった[[ルーカス・クラナッハ]]による肖像画({{仮リンク|アウクスブルクの聖アンナ教会|de|St. Anna (Augsburg)}}蔵)。]]
 
[[ファイル:Michelangelo, Giudizio Universale 02.jpg|thumb|right|200px|[[システィーナ礼拝堂]]の「[[最後の審判]]」。[[ミケランジェロ]]による大画面の壁画でキリストの再臨と死者の再生を題材としているが、西ヨーロッパ世界の信仰分裂の苦悩を表しているとも言われ、その複雑な人体表現は[[マニエリスム]]芸術の先蹤ともなった。]]
 
[[File:Leaning skeleton, by Vesalius. Wellcome L0003669.jpg|thumb|right|170px|『[[ファブリカ]]』 。ファブリカとは解剖学者[[アンドレアス・ヴェサリウス]]の著書『人体の構造』のラテン語での略称のこと。精確で細密な今迄にない写実的な解剖図を添付することで人々を驚かせた。]]
 
[[ファイル:Francois Dubois 001.jpg|thumb|230px|[[サン・バルテルミの虐殺]]。プロテスタントとカトリックの対立はフランスでは王権をめぐる内戦となり、この混乱から[[ブルボン朝]]が生まれることになる。]]
 
[[ファイル:ArrasWawel.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ポーランドの黄金時代|en|Polish Golden Age}}。[[ヤゲウォ朝]]最後の国王[[ジグムント2世]]の時代にこの国は経済的にも文化的にも大いに繫栄した。画像はジグムント2世(アウグスト)王の[[モノグラム]]「S・A」が刺繡された[[タピストリー]]で1555年頃に[[ブリュッセル]]で作られたもの。]]
 
 
 
[[ファイル:St Basils CathedralR.jpg|thumb|right|200px|モスクワの[[聖ワシリイ大聖堂]]。ロシアの[[イヴァン4世]](雷帝)が[[カザン]]征服を記念して建てたビザンティン様式の教会。]]
 
[[ファイル:Hunername 257b.jpg|thumb|200px|[[第一次ウィーン包囲]]。壮麗王とも呼ばれた[[スレイマン1世]]の時代にオスマン帝国の領土は最大に広がり、ヨーロッパ諸国の脅威となった。]]
 
[[ファイル:Ikhlas 001.jpg|thumb|200px|戦象に乗って戦う[[ムガル帝国]]の[[アクバル]]大帝。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に尽くした賢君とされている。画像は『[[アクバル・ナーマ]]』の[[細密画]]([[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵)。]]
 
[[ファイル:The Golden Temple.jpg|thumb|250px|[[シク教]]の展開。16世紀初めに[[パンジャーブ地方]]で[[グル・ナーナク|ナーナク]]により創始された。画像は[[アムリトサル]]にあるシク教の中心地[[ハリマンディル・サーヒブ]](黄金寺院。1574年着工)。]]
 
[[ファイル:Altankhan.jpg|thumb|210px|[[アルタン・ハーン]]。モンゴルを再統一した[[ダヤン・ハーン]]の孫で[[トゥメト]]部を率いたアルタンは、[[庚戌の変]]では[[北京]]にまで迫り明の人々を恐れさせた。]]
 
[[File:Ningbo Tianyige 2013.07.28 09-23-22.jpg|thumb|right|250px|[[寧波]]。貿易港として文化都市として知られたが、1523年の[[寧波の乱]]では日本船同士が衝突を起こし、以後貿易は制限され[[倭寇]]が跳梁するきっかけをなした。画像は寧波に残る1561年に建立された中国最古の書庫「[[天一閣]]」。]]
 
[[ファイル:王守仁容像.jpg|thumb|210px|[[王陽明]]の登場。明で官学となった朱子学に対し「[[心即理]]」や「[[知行合一]]」といった理念を掲げたのが[[陽明学]]である。明末には陽明学左派の[[李卓吾]]のような型破りの学者も現れ、文芸などを通じ思想界はかつてない活気を見せた。]]
 
[[File:Zhang Juzheng.jpg|thumb|right|200px|[[張居正]]の改革。財政再建と綱紀粛正のため神宗万暦帝のもとで改革を推し進めたのが[[内閣大学士]]の張居正である。[[一条鞭法]]の導入や全国的な丈量の実施により財政は好転したが、彼の死後、万暦帝の親政で改革はなし崩しにされていった。]]
 
[[ファイル:Chinese - Faceted Vase - Walters 49737 - Profile.jpg|thumb|210px|[[万暦赤絵]]。明の中期から後期には五彩など華やかな意匠の陶磁器が発展し、[[万暦帝]]の治世に因み「万暦赤絵」と呼ばれた。画像は「五彩竜仙人文尊形瓶([[ボルティモア]]・[[ウォルターズ美術館]]蔵)」。]]
 
[[ファイル:Sengoku period battle.jpg|right|thumb|200px|日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]。室町幕府の支配が衰えると各地で群雄が割拠する時代へと突入した。画像は1561年の[[武田信玄]]と[[上杉謙信]]の激突を描いた「川中島合戦図屛風」(岩国美術館蔵)。]]
 
[[ファイル:EITOKU Uesugi-Gion-matsuri.jpg|right|thumb|200px|[[洛中洛外図]]。[[応仁の乱]]後も畿内は争乱が続いたが、京都の復興は目覚ましく、戦国大名もこの地を目指した。画像は織田信長から上杉謙信に送られた「洛中洛外図屛風(上杉本)」([[米沢市上杉博物館]]蔵)で、京都の[[町衆]]による[[祇園祭]]が描かれている部分。]]
 
[[File:Odanobunaga.jpg|thumb|right|200px|[[織田信長]]。[[尾張]]の領主から身を起こし、[[駿河]]の[[今川氏]]や[[美濃]]の[[斎藤氏]]を倒して勢力を拡大、室町幕府を滅ぼし、時代に先んじた政策で天下へ号令をかけた。画像は[[愛知県]][[豊田市]]長興寺にある信長の肖像画。]]
 
[[ファイル:Toyotomi Hideyoshi.jpg|thumb|200px|[[豊臣秀吉]]。[[本能寺の変]]で横死した織田信長の路線を踏襲して、戦国の混乱に終止符を打ち「天下統一」を成し遂げた。画像は[[狩野光信]]による絹本着色「豊臣秀吉像(京都[[高台寺]]蔵)」。]]
 
[[ファイル:1594 Orbis Plancius 2,12 MB.jpg|thumb|250px|世界地図の変容。大航海時代の発見や調査に伴う新しい知見が盛り込まれ、新大陸を含めた今までにない世界地図が生まれた。画像はオランダの地理学者[[ペトルス・プランシウス]]により1594年に作成された世界地図。]]
 
 
 
=== 世界 ===
 
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[[ヨーロッパ]]では'''[[ルネサンス]]'''と'''[[宗教改革]]'''の嵐により[[中世]]的な世界観にかわり、[[近世]]的な新しい世界観が生まれた。また、これまで[[天動説]]の体系が長らく信じられてきたが、[[ニコラウス・コペルニクス]]により'''[[地動説]]'''が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する[[天文学者]]も[[ヨハネス・ケプラー]]や[[ガリレオ・ガリレイ]]の登場まで現れなかった。[[暦]]では、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]を改良して[[新暦]]となる'''[[グレゴリオ暦]]'''を制定すると、まずは[[カトリック教会|カトリック]]国家で使われ始めたが、世界中に浸透するまでにはまだ時間を要することとなる。
 
[[ヨーロッパ]]では'''[[ルネサンス]]'''と'''[[宗教改革]]'''の嵐により[[中世]]的な世界観にかわり、[[近世]]的な新しい世界観が生まれた。また、これまで[[天動説]]の体系が長らく信じられてきたが、[[ニコラウス・コペルニクス]]により'''[[地動説]]'''が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する[[天文学者]]も[[ヨハネス・ケプラー]]や[[ガリレオ・ガリレイ]]の登場まで現れなかった。[[暦]]では、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]を改良して[[新暦]]となる'''[[グレゴリオ暦]]'''を制定すると、まずは[[カトリック教会|カトリック]]国家で使われ始めたが、世界中に浸透するまでにはまだ時間を要することとなる。

2018/8/26/ (日) 18:16時点における版

16世紀の歴史

世界

ヨーロッパではルネサンス宗教改革の嵐により中世的な世界観にかわり、近世的な新しい世界観が生まれた。また、これまで天動説の体系が長らく信じられてきたが、ニコラウス・コペルニクスにより地動説が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する天文学者ヨハネス・ケプラーガリレオ・ガリレイの登場まで現れなかった。では、ローマ教皇グレゴリウス13世ユリウス暦を改良して新暦となるグレゴリオ暦を制定すると、まずはカトリック国家で使われ始めたが、世界中に浸透するまでにはまだ時間を要することとなる。

スペインが送り込んだコンキスタドールやヨーロッパからもたらされた伝染病などにより、新大陸の既存の文明であるインカ文明アンデス文明)、アステカ文明は滅亡、マヤ文明も大きく衰退(17世紀に滅亡)し、大航海時代における「冒険の時代」から「征服の時代」へと移行した。

アジア各国では新たな繁栄の時代となり、国内政治が充実し、文化経済が発展した。新大陸や日本から流れた大量のが世界的なインフレーションを起こし(価格革命)、西欧・アジアの経済が急速に拡大した。

日本

室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代にあたる。

日本は9世紀平安時代以降、断続的に内戦が続き、16世紀には戦国大名の乱立する状態になったが、天下統一を目前に本能寺の変で自害した織田信長に代わり、家臣豊臣秀吉が統一を果たした。しかし、秀吉の死後には豊臣政権内の対立が表面化、関ヶ原の戦いにより徳川家康率いる東軍が政権擁護派の石田三成ら西軍に勝利を収め、家康の覇権を決定的なものとした。

できごと


1500年代

1510年代

1520年代

1530年代

1540年代

1550年代

1560年代

1570年代

1580年代

1590年代

1600年代

人物

ヨーロッパ

イタリア

ポルトガル

スペイン

ネーデルラント

神聖ローマ帝国

スイス

フランス

イングランド

スコットランド

北欧

ハンガリー・ポーランド

ロシア

南北アメリカ

北アフリカ・西アジア・中央アジア

南アジア

東南アジア

東アジア

越南

モンゴル

チベット

朝鮮

日本

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク