摺上原の戦い
摺上原の戦い | |
---|---|
戦争: 伊達家と蘆名家の抗争 | |
年月日: 天正17年6月5日(1589年7月17日) | |
場所: 摺上原(現在の福島県磐梯町・猪苗代町) | |
結果: 伊達軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
伊達軍 15pxpx | 蘆名軍 15px |
戦力 | |
23,000 | 16,000 |
損害 | |
約500 | 約1,800 |
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、戦国時代の1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日)に、磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝し、南奥州の覇権を確立した。
Contents
合戦までの経緯
天正12年(1584年)に伊達家の家督を継いだ政宗は積極的な勢力拡大策を採ったが、このために複雑な血縁関係で結ばれている奥州や北関東の諸大名、蘆名家や佐竹家を敵に回す事になった。天正13年(1585年)には畠山義継のために政宗の父・輝宗が横死[1]。これにより輝宗の存在のために確立していた伊達家周辺の諸大名との外交関係は大幅に後退した[1]。おまけに政宗は家督を継いで1年とさしたる実績も権力基盤もなく、孤立無援に近い状態になった[1]。
輝宗の死去を好機とみた佐竹義重ら反伊達勢力は岩城常隆、石川昭光、二階堂家、蘆名家と連合し[1]、政宗を攻めた(人取橋の戦い)[2]。政宗は連合軍の圧倒的兵力の前に押されたが、佐竹軍内で義重の叔父・佐竹義政(小野崎義昌)が裏切りで殺され、常陸に里見家が侵攻しようとしたため、連合軍は解散して撤退した[2]。
その後、政宗は天正16年(1588年)の郡山合戦でも佐竹家・蘆名家を中心とした連合軍と戦い、これも引き分けに終わっている。
蘆名家の内訌
反伊達勢力の主力をなす蘆名家は当時、深刻な内訌を抱えていた。天正3年(1575年)に蘆名盛興が死去し[2]、嗣子がなかったため二階堂家から人質としてあった盛隆が家督を継いだ[3]。天正8年(1580年)には隠居の盛氏が死去し、盛隆も天正12年(1584年)10月6日に側近の大庭三左衛門に暗殺された[3]。このため蘆名家は盛隆の生後1か月の遺児である亀王丸が継ぐ事になるが、その亀王丸も天正14年(1586年)11月21日に3歳で夭折してしまった[3]。こうなると他家から養子を迎えるしかなく、候補に挙げられたのが伊達政宗の同母弟・小次郎と佐竹義重の次男・義広であった[4]。小次郎と義広は政宗の曽祖父・伊達稙宗の血を受け継いでおり、その稙宗は盛氏の叔母を正室にしていた[4]。つまり、曽祖母を介して両者は蘆名家の血統を受け継いでいたのである[4]。血統も年齢も互角である両者の対立は、そのまま蘆名家の家臣団の分裂にもつながった[4]。小次郎には蘆名一門衆の猪苗代盛国、蘆名宿老の四天の大半、外様の国人領主などが味方し、義広には蘆名一門衆で執政である金上盛備が味方していた[5]。盛備は執政として外交も担当しており、当時中央で政権を確立していた豊臣秀吉と誼を通じており、その秀吉との関係を背景にして小次郎の派閥を切り崩し、義広を蘆名家の新当主とした[5](なお、伊達小次郎に関しては、蘆名盛隆が殺害された時も政宗の父・伊達輝宗が蘆名家の当主に擁立しようと図り、佐竹義重によって阻止されて亀王丸が擁立されたとする小林清治の研究がある[6])。
その結果、義広が蘆名家に入嗣すると同時に佐竹家から転身してきた大縄義辰らにより、小次郎派に対する粛清が開始される[7]。四天の宿老家では佐瀬家を除く三家が中枢から排除されて失脚する[7]。また小次郎を支持した国人層は遠ざけられて佐竹家から転身した家臣で中枢は占められ、これは蘆名家の内訌をさらに激化させる事になった。
伊達政宗が蘆名家の居城・黒川城を攻めるには、猪苗代湖の北にある猪苗代城を何としても落とさないといけない。当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、天正13年(1585年)に父の猪苗代盛国から家督を譲られて城主になった人物である[8]。しかし盛国は隠居ながらなおも隠然たる影響力を持っており、先の継嗣争いでも小次郎派に与していた。ところが継嗣争いで敗れ、また盛胤とも不仲になり、隠居を次第に後悔するようになっていく[8]。また盛国は後妻が生んだ盛胤の異母弟・亀丸を溺愛し、盛胤を廃嫡して亀丸に家督を譲りたいと思うようになった。そのため天正16年(1588年)5月10日、盛胤が黒川城に出仕している間に盛国は猪苗代城を乗っ取ってしまった[8]。家臣の大半は盛国に従い、あくまで盛胤を支持する家臣は斬られ、激怒した盛胤は盛国を攻めるが猪苗代城は奪還できず、金上盛備が仲介に入ってひとまず父子は和睦した[8]。
政宗はこの盛国の後妻に近づいた。そして後妻を通じて盛国に内応を呼び掛け、盛国が遂に応じたのである。
決戦
前哨戦
天正17年(1589年)4月22日、政宗は米沢城を出発して翌日に大森城に入る。ただし、この時の出兵は当初は郡山合戦以降田村氏の所領を巡って対立を続けていた岩城常隆が4月15日に田村郡に侵攻したことに対応するものであった[9]。ところが、24日になって蘆名氏に仕えていた片平城の片平親綱(大内定綱の弟)が内通すると、政宗は蘆名攻めの好機と捉えるようになる[9]。さらに二本松城に入城して伊達領のほとんどから兵をかき集め、2万の大軍を編成した。5月3日、政宗は南下して本宮城に入城[10]。5月4日、片倉景綱を先鋒に大内定綱、片平親綱、伊達成実ら伊達軍は猪苗代湖から東に4里の地にある安子島城に迫り、城主の安子ヶ島治部はすぐに開城した[10]。5月5日、伊達軍は安子島城から西に1里の地にある高玉城を攻める[10]。城主の高玉常頼は伊達軍相手に果敢に応戦するも圧倒的兵力の前に落城し、常頼夫妻や娘婿の荒井新兵衛夫妻以下60余名の城兵は悉く撫で斬りとされた[10]。
そのまま伊達軍は越後街道を西に向かって猪苗代・黒川に迫るのが普通だが、ここで政宗は進路を変えて急に北上したのである。そして5月18日には伊具郡の金山城に入城した。ここは反伊達勢力のひとつである相馬領と接する城である。この時、相馬義胤は岩城常隆の要請を受けて田村郡に兵を進めていたが[9]、いきなり伊達軍主力が思いもよらない場所に現れ、しかも5月19日には相馬領の駒ヶ嶺城を落としてしまったのである。しかも5月20日には蓑首城も落城し、城代の泉田甲斐は政宗に降り、杉目三河や木崎右近らは討死した。このため、相馬義胤は田村郡侵攻を諦めて引き返すが、その時政宗はすでに戦後処理を亘理重宗に任せて相馬領から撤退していた。政宗の目的はあくまで相馬家の参戦阻止が目的であり、それは果たせたのである。
政宗は主力を率いて南下し、安子島城に戻った。そして6月1日、今まで態度を明確にしていなかった猪苗代盛国が遂に亀丸を政宗の人質に差し出して恭順したのである[11]。この時、蘆名軍は佐竹や二階堂ら諸氏の軍が合流して2万近くに増大して小倉城まで進出していた。ところが盛国が離反した事で政宗は直接、黒川城に迫る事が可能になった。しかも政宗は米沢城から原田宗時の別働隊を米沢街道沿いに南下させて黒川城に迫らせた。こうなると蘆名家は東と北の両方面から敵に迫られる事になる。蘆名軍はやむなく黒川城に撤退した。
政宗は6月3日の日没後、重臣の反対を押し切って雨中の夜間行軍を強行し、6月4日の午後に猪苗代城に入城した[11]。また別働隊を率いる原田宗時も、蘆名方の菅原城に進軍を阻まれる事になった。
摺上原合戦
6月5日、蘆名軍は猪苗代城から西におよそ2里の地にある高森山に本陣を置いて伊達軍を待ち構え、挑発のため、猪苗代湖畔の民家に放火した。
これに応じて政宗も猪苗代城から出撃し、猪苗代盛国を先鋒にして蘆名軍に攻めかかった。この時、伊達軍は2万3000人、対する蘆名軍は別働隊を警戒して黒川城に留守を残したため、1万8,000人と伊達軍がやや有利であった。両軍ともに陣形は魚鱗であったと伝わる。
摺上原は緩やかな丘陵地帯であるが、開戦当初は強風が西から東にかけて吹いていた。そのため砂塵が舞い上がり、東に陣取る伊達兵はまともに目を開けていられない状態となる。そこに蘆名軍の先鋒である猪苗代盛胤が攻めかかった。因縁ある猪苗代親子は同族間で激突することとなった。
蘆名軍は実質指揮を執るのは大縄義辰ら佐竹氏から附属された家臣であり、第1陣は盛胤、第2陣は金上盛備と佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、第3陣は富田氏実と佐竹の援軍、第4陣は岩城・二階堂・石川・富田隆実らであった。
これに対し、伊達軍は第1陣は盛国、第2陣は伊達成実と片倉景綱、第3陣は片平親綱、後藤信康、石母田景頼、第4陣は屋代景頼、白石宗実、浜田景隆、鬼庭綱元らであった。
当初は風向き、そして盛胤や盛備らの活躍で蘆名軍が圧倒的に有利だった。ところが第3陣の富田隊を含め、松本・平田ら重臣衆や援軍による後詰め諸隊は動かずに傍観を決め込み、さらに風向きが東から西に変わったことを機に、守勢に回っていた伊達軍が一斉に攻勢に出た。津田景康が鉄砲隊を率いて蘆名軍の真横から狙撃したため、蘆名軍の足並みが大いに乱れた。しかも傍観を決め込んでいた富田氏実が、伊達軍と戦わずに西に向かって、独断で撤退を開始した。もともと蘆名軍は諸氏連合の寄せ集めであり、劣勢になれば自軍の被害を惜しんですぐに撤退する。それは先年の人取橋・郡山らの合戦でも実証済みである。また、これら傍観・撤退組は佐竹氏出身の蘆名義広の養子入り当主相続の際、伊達氏からの養子を迎える意見を持った対立派閥であった。故にそれ以降蘆名家中では義広擁立派閥や佐竹氏から送り込まれた家臣団により冷遇されていた諸氏である。
富田隊の撤退に続いて二階堂隊、石川隊も撤退しはじめた。こうなると義広も撤退せざるを得ず、蘆名軍は総崩れとなった。
ところで、摺上原から黒川に逃れるには、日橋川を渡るしか道はない。義広は何とか渡れたが、富田氏実は自軍が渡り終えると橋を落とした。そのため、逃げようとする蘆名軍は逃げ道がなくなった。この時の伊達軍と蘆名軍の激闘の様子は『奥羽永慶軍記』では
「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり。 伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多くは河岸・川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えず。 ここにして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり」
とある。ただし、日橋川の橋を落としたのは伊達軍の工作隊によるものという説もある[12]。
戦後
蘆名家
蘆名家はこの摺上原合戦で事実上壊滅した。金上盛備、佐瀬種常・常雄らは戦死し、日橋川で溺死した者は1800余、伊達軍に討ち取られた兵は3580余という未曽有の数となった。このため逃亡兵も相次ぎ守備兵力を確保できず、6月10日の夜に義広はやむなく黒川城を捨てて常陸の父のもとに逃走した[13]。これにより、戦国大名としての蘆名家は滅亡した。
伊達家
伊達政宗は6月6日に塩川に至り、6月7日には菅原城を落とした原田宗時の別働隊と合流して周辺を制圧した[13]。
そして6月11日に黒川城に入城した[13]。こうなると蘆名家の旧臣ら、いわゆる富田氏実、長沼盛秀、伊東盛恒、松本源兵衛、横沢彦三郎、慶徳善五郎らは政宗に恭順を誓った。こうして会津の大半は政宗の支配下に入り、政宗は奥州の覇者となった。ただし、蘆名家の旧臣全てが降ったわけではない。奥会津の中丸城主・山内氏勝や久川城主・河原田盛次らはなおも抵抗し、さらに石川・二階堂など親蘆名家の豪族はなおも伊達家に抵抗し、全てが平定されるのは年末までかかる事になる(須賀川城の戦い)。
しかし、この政宗の行動は天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発令した「惣無事令」を無視する行動であった。このため、天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は秀吉に旧蘆名領など摺上原の勝利で得た所領を没収された。
関連作品
- 摺上
ボードゲーム
脚注
註釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.175
- ↑ 2.0 2.1 2.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.176
- ↑ 3.0 3.1 3.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.177
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.178
- ↑ 5.0 5.1 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.179
- ↑ 小林清治「政宗家督相続の前提」『伊達政宗の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02875-2 P22-29
- ↑ 7.0 7.1 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.181
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.188
- ↑ 9.0 9.1 9.2 小林清治「政宗の和戦」『伊達政宗の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02875-2 P79-80
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.192
- ↑ 11.0 11.1 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.194
- ↑ 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.202
- ↑ 13.0 13.1 13.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.203
参考文献
- 書籍
- 史料