福島正則
福島正則 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 寛永元年7月13日(1624年8月26日) |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 安芸広島藩主→信濃高井野藩主 |
氏族 | 福島氏 |
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。
Contents
生涯
秀吉の子飼い
永禄4年(1561年)[1]、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる[2][3]。
母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る[4]。始めの禄高は200石であった[5][6]。
天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ[7]、300石を加増されて500石となった[8]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)[9]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて従軍したらしい[10][注釈 1]。 正則は本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として胴肩衣(襦袢)を賜った(『福島家世系之図』)[11]。
その後、根来寺攻めや、四国征伐にも従い[12]、天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万3千余石を与えられ[注釈 2][13]、ここに正則は「分国」を形成する大名的領主となった[14]。 小田原征伐では、織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃、包囲した[15]。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた[16]。
この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った[16][注釈 3]。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した[17]。
文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こった。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた[18]。慶長3(1598年)に、羽柴名字が確認される[19]。羽柴名字・豊臣姓を与えられ、侍従任官によって諸大夫から公家成したのである[14]。
続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、秀吉は慶長4年(1599年)に朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた[20]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が去すると、この計画は実施されることなく日本軍は大陸から撤兵した。
関ヶ原の戦い
正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。
慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し[21]、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。
関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った[注釈 4]。 宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。
やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は崩壊した。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)[23]。
江戸時代
慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は、早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷き、また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させた[24]。
慶長7年(1602年)、本姓が豊臣姓であることが確認される[25]。
慶長8年(1603年)、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始める。この城は毛利領最東端の岩国城に対する城で、さらに山陽道の交通を遮断する能力も備えていた。慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。慶長13年(1608年)に豊臣秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけている。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。
この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されず、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった[26]。また一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが[27]、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。しかし戦後、正則の弟の福島高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられた。
改易と晩年
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の上使として牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷に派遣され、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けることとなった[28]。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。
元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64[28]。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。
幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された[28]。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。
官職および位階等の履歴
- 天正13年7月16日(1585年8月11日)、平正則として従五位下左衛門大夫に叙任。
- 慶長2年7月26日(1597年9月7日)、豊臣正則として侍従に任官。羽柴の名字も同時に拝領[29]。
- 慶長7年3月7日(1602年4月28日)、豊臣正則として左近衛権少将に転任(時に、従四位下に昇叙か)。
- 元和3年6月21日(1617年7月23日)、豊臣正則として従三位に昇叙し、参議に転任。同年11月2日、参議辞退。
なお「左衛門大夫」という官職は実際には存在しない[30]。現在残されている正則を左衛門大夫に任じる旨の口宣案の由来・真贋は不明である。本来「左衛門大夫」とは「(六位相当の)左衛門尉を辞して、それと引き換えに従五位下に昇進した、現在は散位(無官)の人」を指す言葉である。「現在従五位下であって左衛門尉でもある人」は「大夫尉」「大夫判官」と呼んで区別する。正則の時代にはすでにそのような慣習は忘れられて「左京大夫」などの実在の官職との混同が起きていたのする見方がある[31]。「左衛門大夫」は「さえもんたいふ」であるが「左京大夫」は「さきょうのだいぶ」であり、この点でも区別がある。また、同様の例として池田輝政の「三郎左衛門尉」(単に「ある人物の三男で、本人は左衛門尉の官職にある人」という意味。「三郎」は官職名ですらない)があり、正則も輝政も侍従任命後も従来の名乗りを用い続けている事例を挙げて、武士としての官途名と豊臣政権において武家官位として補任される官位が別物として扱われるようになったからとする説もある[32]。また、通常豊臣譜代の諸将は「諸大夫成」(従五位下叙位)として扱われていたが、正則と青木一矩(重吉)だけは「公家成」(侍従任官)とされて、浅野長政・加藤清正・石田三成らよりも一段上とされていた。これは正則と青木一矩が秀吉の母方の縁者であることから、豊臣氏の「准一門」とされて他の譜代家臣とは別格扱いされたからだとされている[32]。
人物・逸話
- 一般的には「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴者としての逸話には事欠かない。
- 関ヶ原の戦いでは第一の武功を賞されたが、関ヶ原ではたびたびそれをなげうつことも辞さない言動をしている。戦いに関連した次のような逸話・研究がある。
- 武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している。
- 自らはキリシタンではなかったが、清洲城主であった頃から一貫してキリシタン保護政策を堅持していた。宗教に対しては寛容な政策を採っていたとされる[35]。
- 大酒飲みで酒癖が悪かった。
- 幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している際、「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでコキ使われたのでは堪らない」とこぼし、池田輝政に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこのことを直訴してくれ」と迫った。輝政が沈黙していると、それを聞いていた加藤清正が怒りながら「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめたという[36]。
- 元和元年(1615年)の大坂城落城後、妙心寺の石川貞清の元を訪れ面会した正則は、貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し、死者の冥福を祈った。貞清は関ヶ原の戦いで西軍に与して戦後は茶人・商人となっていた人物で、その妻について石田三成の娘、大谷吉継の妹、真田信繁(幸村)の娘などの諸説がある。
- 家康が重病で死の床に就くと、正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにもかかわらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
- あるとき細川忠興に「なぜ武勇もなく得体の知れない茶人の千利休のことを慕っている」と尋ね、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服した。
- かなりの恐妻家であったらしく、ある時は女性問題で嫉妬に狂った夫人(昌泉院)に薙刀で斬りつけられて、戦場では臆したことはないと自負した彼もこれには逃げ出したと言う逸話が残っている。
- 信濃国高井野藩に転封され検地と新田開発を奨励した。新田開発を許された久保田家の子孫である6代目久保田重右衛門(久保田春耕)は、小林一茶の門人の一人で一茶の経済的支援者となった。
妻室
家臣
福島正則を主題とする作品
- 小説
- 司馬遼太郎『愛染明王』(短編集『俺は権現』(講談社文庫)に収録)
- 高橋和島『福島正則―秀吉天下取りの一番槍』(PHP文庫)2000年
- 大久保智弘 『水の砦―福島正則最後の闘い』(講談社文庫)
- 高橋和島『闘将 福島正則―太閤記外伝』(PHP研究所)
- 山本周五郎『古い樫木』(短編集『花も刀も』(新潮文庫)に収録)
脚注
注釈
- ↑ 『浅野家文書』の「羽柴秀吉陣立書」2通に名前がある。うち1通には「うしろのそなへ」として「福島市兵衛殿三百」とある。もっともこれは計画書であり、必ずしもこの通りに出陣したとは限らない
- ↑ 秀吉からの朱印状が存在するが、日付だけで年は書いていない。秀吉からは統治についての心構えを記した書状がほぼ同時期の9月8日付けに出されており、こちらの内容から、正則が伊予を与えられたのは天正15年(1587年)であると推測されている
- ↑ 『駒井日記』に正則の出陣の事が書かれているため、これ以前に1度は帰国していたと思われる
- ↑ 正則が先陣と決まっていたにもかかわらず、井伊直政・松平忠吉の抜け駆けによって開始されたとされているが、実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。また、7月7日付で家康から諸将に出された軍法の第4条で抜駆けは厳禁されており、合戦開始時においても、合戦後においても正則から直政に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、直政の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、正則の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている[22]。
- ↑ 秀信は正則にとって、主筋(織田信長の家臣が豊臣秀吉で、正則はその家臣である)に当たるため、恩義により助命を嘆願した。
出典
- ↑ 福尾、藤本, p. 1.
- ↑ 『系図纂要』『福島家系図』
- ↑ 福尾、藤本, p. 4.
- ↑ 福尾、藤本, p. 14.
- ↑ 『福島氏世系之図』『福島家系譜』などによる
- ↑ 福尾、藤本, p. 13.
- ↑ 福男、藤本, p. 16.
- ↑ 福尾、藤本, p. 17.
- ↑ 福尾、藤本, pp. 19-20.
- ↑ 福尾、藤本, pp. 24-25.
- ↑ 福尾、藤本, p. 25.
- ↑ 福尾、藤本, p. 32.
- ↑ 福尾、藤本, p. 34.
- ↑ 14.0 14.1 黒田基樹「福島正則文書の基礎的研究」、『芸備地方史研究』210・211号、1998年。
- ↑ 福尾、藤本, p. 64.
- ↑ 16.0 16.1 福尾、藤本, p. 69
- ↑ 日本戦史・朝鮮役, 補伝 征韓録[1]
- ↑ 福尾、藤本, p. 76.
- ↑ 村川, p. 27; 福尾、藤本, p. 78.
- ↑ 『島津家文書』二‐九七八
- ↑ 福尾、藤本, p. 90.
- ↑ 笠谷, p. 69-73.
- ↑ 福尾、藤本, p. 133.
- ↑ 福尾、藤本, p. 154.
- ↑ 村川, p. 35頁.
- ↑ 福尾、藤本, p. 170.
- ↑ 福尾、藤本, p. 172.
- ↑ 28.0 28.1 28.2 福尾、藤本, p. 179
- ↑ 福尾、藤本, p. 78.
- ↑ 福尾、藤本, p. 33.
- ↑ 橋本, 「蔵人五位と五位蔵人」.
- ↑ 32.0 32.1 木下, 「織豊期の武家官位」
- ↑ 福尾、藤本, pp. 135-136.
- ↑ 福尾、藤本, p. 97.
- ↑ 福尾、藤本, pp. 155-157.
- ↑ 福尾、藤本, p. 164.
参考文献
- 参謀本部 編 『日本戦史・朝鮮役』 偕行社、1924年。
- 橋本義彦 『平安貴族』 平凡社〈平凡社選書〉、1986年。
- 福尾猛市郎・藤本篤 『福島正則 - 最後の戦国武将 -』 中央公論新社〈中公新書〉、1999年。ISBN 978-4121014917。
- 村川浩平 『日本近世武家政権論』 日本図書刊行会、2000年。ISBN 978-4823105289。
- 笠谷和比古 『関ヶ原合戦と近世の国制』 思文閣出版社、2000年。
- 木下聡 『中世武家官位の研究』 吉川弘文館、2011年。
- 『信州高山村史』第2巻歴史編、高山村史刊行会、2005年。
- 論文
関連項目
外部リンク
- 福島正則陣跡 関ケ原観光web
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