明智光秀
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あけちみつひで
[生] 享禄1(1528).美濃
[没] 天正10(1582).6.13. 京都
安土桃山時代の武将。通称十兵衛。天正3 (1575) 年九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。父は光綱。その前身は判然としないが,美濃の土岐氏の支流といわれ,また美濃明智荘に居住し明智と称したという。初め斎藤氏に仕え,流浪ののち永禄9 (1566)年織田信長に仕えた。翌年,滝川一益に従い北国征伐に参加し,信長上洛に際しては村井貞勝らとともに京都の政務にあたり,信長の信任を受けた。元亀2 (1571) 年,若狭平定の軍功により,近江坂本城主となり,滋賀郡を領した。のち朝倉氏が滅亡し,越前が平定されると,柴田勝家らと同国の経営を行ない,天正5年には信長の命で丹波に進撃して,丹波経略に尽力した。その後も荒木村重,松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆,また武田勝頼征伐などの諸戦に従軍。同 10年信長より徳川家康の功をねぎらうための接待役を命じられたが,その準備なかばで,さらに羽柴秀吉への援軍を命じられ,憤激して帰国し,丹波亀山城から兵を整え上洛し,6月2日信長を本能寺で討つにいたった(本能寺の変 ) 。しかしその後の収拾策は遅滞し,光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して,味方と頼んだ蒲生秀賢,細川忠興,筒井順慶らはいずれも参陣せず,京畿地方の人心の収攬も成功しないまま,13日山崎の戦いで秀吉に大敗,近江坂本に帰る途中,小栗栖 (おぐるす) で殺害された。