スール朝
スール朝とは、1539年から1555年の間にかけて、北インドを支配したインドの王朝である。王朝を創始したのは、ビハール南部を根拠地においていたシェール・ハーン・スーリー(即位後シェール・シャー)である。デリー・スルターン朝のひとつに数える研究者もいる。
Contents
概要
成立・全盛期
1539年12月、シェール・シャーはムガル帝国第2代皇帝であるフマーユーンを撃破し、北インドにおける真のスルターンであると宣言し、即位した[1]。王朝の名前は自らが、所属するアフガン系の部族名に由来する[2][3]。
初代スルターンであるシェール・シャーは、後のムガル帝国で大成されていく地租制度・軍事制度といった重要な施策を行った。地租の現金納への改正、地租のための測量の実施、検見法の導入などである[4][5]。
また、現在では、UNESCOの世界遺産に登録されているロータス・フォートをパンジャーブ地方に建設することで中央アジアからの遊牧民族進入の備えとした。
これらの改革によりスール朝は全盛期を迎えたが、シェール・シャーは1545年5月22日に不慮の死を遂げてしまった[6]。
衰退・滅亡期
シェール・シャーの跡を継いだ息子のイスラーム・シャーは、父の遺志を受け継いで王朝の改革を推し進めたが、父と違って才智に欠けており、王朝は混乱した。
1554年にイスラーム・シャーが死去すると、その息子のフィールーズ・シャーが跡を継いだが、幼少のために王族内部で内紛が発生し、フィールーズ・シャーはその内紛で殺害され、王朝は四散分解した[7][8]。
以後、絶えない一族間のスルターン位をめぐる抗争、1554年に発生した旱魃とそれに伴う飢饉・疫病の蔓延により人心が離れた[9][10][11]。
1555年7月、カーブルを出発したフマーユーンの手により、デリーが陥落したことをもって王朝は滅亡し、再び北インドはムガル帝国が支配することとなった[12]。
歴代君主
- シェール・シャー(1539年 - 1545年)
- イスラーム・シャー(1545年 - 1554年)
- フィールーズ・シャー(1554年)
- ムハンマド・アーディル・シャー(1554年 - 1555年)
- イブラーヒーム・シャー(1555年)
- シカンダル・シャー(1555年)
系図
シェール・シャー1 | ニザーム・ハーン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イスラーム・シャー2 | ムハンマド・アーディル・シャー4 | 娘 | イブラーヒーム・シャー5 | 娘 | シカンダル・シャー6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フィールーズ・シャー3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.181
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.149
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.181
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.150
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.181
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.150
- ↑ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.56
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.150
- ↑ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.56
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.181-183
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.151
- ↑ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.151
参考文献
- 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。
- サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年。
- アンドレ・クロー; 杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年。
- フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。