カナウジ
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カナウジ(Kannauj)は、インドの都市。ウッタル・プラデーシュ州に属する。カーニャクブジャ(Kanyakubja)とも称される。古代から中世にかけて繁栄した北インドの古都。現在の人口は71,530人(2001年)。
立地
ウッタル・プラデーシュ州のほぼ中央やや西寄りに位置し、カーンプルの北西約80キロメートルに所在する。ガンジス川上流右岸に立地している。
伝承
伝説によれば、あるリシ(仙人)が、邪推から腹をたて、王の友人の娘を呪い、せむしにしてしまったという。カーニャクブジャとは「せむしの娘たちの町」という意味である[1]。
歴史
6世紀半ばのグプタ朝滅亡後の分裂後、マウカリ朝の都となっていたが、7世紀初頭、王が後継なく死去したのち、義理の兄にあたるヴァルダナ朝のハルシャ・ヴァルダナが、マウカリ朝を併合し、この地を都として四囲を征討し、広大な版図を統治した。
当時、インドを訪れた玄奘は、『大唐西域記』において、カナウジを曲女城(きょくじょじょう)と記し、その繁栄ぶりや当時のインドの人びとの正直で誇り高いようす、カースト制度などについて伝えている[2]。
また、9世紀半ばから10世紀後半にかけて、プラティーハーラ朝もカナウジを都としてガンジス川上・中流域からインド西部を統治した。歴代の王は芸術を愛し、ヒンドゥー教とともに仏教も保護したので、町は北インド文化の一大中心地となった。また、東のパーラ朝(8世紀後半-12世紀前半)、南のラーシュトラクータ朝(753年-973年)もカナウジを支配しようとしたため、三者は互いに争うこととなった。
11世紀よりアフガニスタンを拠点としたイスラーム勢力が侵入してくると、カナウジは衰退へと向かった。1019年にはガズナ朝のマフムードによる襲撃を受け、1194年にはゴール朝によって再び略奪された。13世紀よりデリー・スルターン朝の統治下におかれたのちは、かつての繁栄を取り戻すことはなかった。市内には、ジャイナ教風の柱をもつモスクの一部が残る。また、ムスリムの城主マダン・シャーの墓廟建築がある。
脚注
関連項目
参考文献
- 辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0
- 塚本善隆著『世界の歴史4 唐とインド』中央公論新社<中公文庫>、1974.12、ISBN 4122001692