豊後国
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豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
Contents
沿革
7世紀末に、豊国(とよのくに、とよくに)を分割して、豊前国とともに設けられた。豊後は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのしり」と読んだ。
『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(460,611石余)。太字は郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 日田郡(33,076石余) - 幕府領(西国筋郡代)、森藩
- 玖珠郡(30,841石余) - 幕府領(西国筋郡代)、森藩
- 直入郡(49,799石余) - 幕府領(熊本藩預地)、岡藩、肥後熊本藩
- 大野郡(72,685石余) - 岡藩、臼杵藩
- 海部郡(62,275石余) - 幕府領(佐伯藩預地)、臼杵藩、佐伯藩、肥後熊本藩
- 大分郡(71,302石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、府内藩、臼杵藩、岡藩、肥後熊本藩、日向延岡藩
- 速見郡(59,230石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、杵築藩、日出藩、森藩、日向延岡藩
- 国東郡(81,399石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、杵築藩、肥前島原藩、日向延岡藩
- 慶応4年
- 明治3年12月24日(1871年2月13日) - 佐伯藩預地が日田県の管轄となる[1]。
- 明治4年
国内の施設
国府
国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
- 豊後国分寺
- 現在の金光明寺(大分県大分市国分)。
神社
二宮以下は不詳である。
安国寺利生塔
- 豊後安国寺 - 大分県国東市国東町安国寺。
地域
郡
- 特記した以外は『豊後国風土記』での表記による。
江戸時代の藩
- 杵築藩、小笠原家(4万石)→能見松平家(3.2万石)
- 高田藩、能見松平家(3.7万石→3.2万石で杵築藩に移封)
- 日出藩、木下家(3万石→2.5万石)
- 森藩、来島家(1.4万石→1.25万石)
- 府内藩、竹中家(2万石)→日根野家(2万石)→大給松平家(2.1万石)
- 臼杵藩、稲葉家(5万石)
- 佐伯藩、毛利家(2万石)
- 岡藩、中川家(7万石)
- 立石藩、木下家(5千石)
人物
国司
- 陽候史真身、天平7年(735年)任官
- 小治田諸人、天平10年(738年)任官
- 榎井子祖父、天平宝字元年(757年)任官
- 佐伯久良麻呂、天平神護元年(767年)任官
- 紀鯖麻呂、宝亀2年(771年)任官
- 多治比継兄、天応元年(781年)任官
- 藤原園人
- 藤原豊彦
- 難波頼経、1180年頃
- 源光季
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1333年 - 大友貞宗
- 1334年 - 1352年 - 大友氏泰
- 1352年 - 1364年 - 大友氏時
- 1364年 - 1367年 - 大友氏継
- 1371年 - 1416年 - 大友親世
- 1372年 - 1376年 - 大友氏継
- 1416年 - 1426年 - 大友親著
- 1427年 - 1429年 - 大友持直
- 1444年 - ? - 大友親繁
- 1453年 - 1458年 - 大友親綱
- 1469年 - 1482年 - 大友親繁
- 1482年 - 1484年 - 大友政親
- 1484年 - 1496年 - 大友義右
- 1496年 - 1501年 - 大友親治
- 1501年 - 1516年 - 大友義長(義親)
- 1525年 - 1550年 - 大友義鑑
- 1550年 - 1576年 - 大友義鎮(宗麟)
戦国時代
戦国大名
- 大友氏:豊後・筑後二国の守護に任じられていたが、義鑑の代に肥後に進出し1543年には肥後守護に補任される。義鎮(宗麟)の治世に最盛期を迎え、肥前・豊前・筑前にも進出して1554年に肥前守護、1559年に豊前・筑前の守護に補任。九州6ヶ国の守護となり、龍造寺氏、島津氏と九州の覇を競った。徐々に衰退して豊薩合戦で島津氏に敗れ、豊臣氏の九州平定後には豊後1国のみを安堵される。
豊臣政権の大名
- 大友義統・大友義乗:豊後1国。1587年 - 1593年(文禄の役での義統の失態のため改易)
- 中川秀成:豊後岡7万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、所領安堵。豊後岡藩初代藩主となる)
- 太田一吉:豊後臼杵6万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 福原長堯:豊後府内12万石→6万石。1597年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、自刃)
- 早川長政:豊後府内→杵築2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 毛利高政:豊後日田・玖珠2万石。1595年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後佐伯藩2万石に移封)
- 垣見一直:豊後富来2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城にて殺害される)
- 熊谷直盛:豊後安岐1万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城にて殺害される)
- 竹中重利:豊後高田1万3千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後府内藩2万石に移封)
- 木村清久:豊後国内1万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易)
- 細川忠興:豊後杵築6万石(飛び領、城代:松井康之、有吉立行)。1599年 - 1632年(肥後熊本藩54万石に移封)
武家官位としての豊後守
江戸時代以前
江戸時代
豊後国の合戦
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 44 大分県
- 旧高旧領取調帳データベース