後奈良天皇
後奈良天皇(ごならてんのう、1497年1月26日(明応5年12月23日) - 1557年9月27日(弘治3年9月5日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:1526年6月9日(大永6年4月29日)- 1557年9月27日(弘治3年9月5日))。諱は知仁(ともひと)。
生涯
明応5年12月23日(1497年1月26日)、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。
大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた[1]。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。
人物
慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬 (大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。)」との悲痛な自省の言を添えている。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
三条西実隆、吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。
系譜
後柏原天皇の第二皇子。母は、勧修寺教秀の娘、豊楽門院・勧修寺藤子。
- 女院:藤原(万里小路)栄子(吉徳門院)(1494-1522) - 万里小路賢房女
- 典侍:藤原(高倉)量子 - 橘以緒女、高倉永家養女
- 典侍:藤原(広橋)国子 - 広橋兼秀女
- 掌侍:藤原(日野)具子 - 水無瀬秀兼女、日野守光養女
- 宮人:小槻氏(伊予局) - 壬生雅久女(壬生晴富女、和気親就女とする説あり)
- 宮人:藤原氏 - 持明院基春女
- 宮人:王氏 - 恒直親王女
系図
在位中の元号
- 大永(1526年4月29日) - 1528年8月20日
- 享禄 1528年8月20日 - 1532年7月29日
- 天文 1532年7月29日 - 1555年10月23日
- 弘治 1555年10月23日 - (1557年9月27日)
諡号・追号・異名
「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
後世の評価
- 皇太子徳仁親王は平成29年(2017年)の誕生日前の記者会見で、上記の後奈良天皇による般若心経奥書を西尾市岩瀬文庫で見た思い出に言及。同様に疫病に苦しんだ民を思いやり、般若心経を写経し奉納した嵯峨天皇など7人の天皇とともに、国民に寄り添う模範として挙げた[2]。
参考文献
- ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎訳、講談社、2003年1月。ISBN 978-4062116756。
出典
関連項目
- なぞなぞ
- 醉象
- 本禅寺
- フランシスコ・ザビエル - キリスト教布教のため、来日したザビエルは京都で後奈良帝当時の御所の荒廃を嘆く文を遺している。