毛利元就
提供: miniwiki
毛利元就 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 明応6年3月14日[1](1497年4月16日) |
死没 | 元亀2年6月14日[1](1571年7月6日) |
幕府 | 室町幕府 相伴衆[1] |
主君 | 毛利興元 →毛利幸松丸 →尼子経久 → 大内義隆 |
氏族 | 大江氏、毛利氏 |
毛利 元就(もうり もとなり)
戦国時代の武将。弘元の子。幼名,松寿丸。少輔次郎と称した。大永3 (1523) 年家督を継ぎ郡山城に拠った。初め尼子晴久に仕えたが,天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。義隆が家臣陶晴賢に殺されると,その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年厳島の戦いで晴賢を討ち,その余党も撃滅して長門,周防をその勢力下に収め,さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰,山陽 10ヵ国と九州,四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。
- ↑ 1.0 1.1 1.2 時山弥八編 1916, p. 75.