東京国際空港(羽田空港)
東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港にある日本最大の空港。通称は羽田空港(はねだくうこう、英語: Haneda Airport)であり、単に「羽田」と呼ばれる場合もある。空港法第4条に定める「国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港」の一つであり、同国の国土交通大臣が設置・管理する[1]。なお、通称の「羽田空港」は当空港周辺の旧町名「羽田町」に由来する。
Contents
概要
1931年8月25日に「東京飛行場」として正式開港して以来、日本最大かつ東京、首都圏を代表する空港で、2017年の乗降客数では世界で4番目に利用の多い空港となっている[2]。全日本空輸と日本航空、スカイマーク、ソラシドエア、AIRDOの国内線ハブ空港である。
年間の航空機発着回数は約38万4000回、航空旅客数は約6,670万人[3]でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約84.4万トン[3]で国内第2位(1日あたり約2246トン。1位は成田国際空港)。定期乗り入れ航空会社以外のチャーター便やビジネスジェットの乗り入れも行われている。
皇族や内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際はほとんどの場合、羽田空港を使用する[4]。これは羽田空港の方が成田空港より都心に近く沿道の警備が容易なためである。このため、専用施設としてVIP機専用スポット (V1・V2) や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある。
日本では数少ない24時間運用が可能な空港の1つである[5]が、深夜から未明の時間帯にかけては国際線や貨物便[6]が発着するのみとなっている。国内線の各旅客ターミナルビルの開館時間は、定期便の運航時間帯に合わせ、第1旅客ターミナル・第2旅客ターミナルとも5:00 - 24:00ごろとなっている。国際線ターミナルビルの開館時間は24時間である。
空港の設置および空港機能の管理・運用については国土交通省東京航空局東京空港事務所が行なっているが、各ターミナルビルの管理・運用についてはそれぞれ次のようになっている。
施設 | 管理・運用会社 | 備考 | |
---|---|---|---|
国内線地区 | 国内線各ターミナルビル | 日本空港ビルデング株式会社 | |
国際線地区 | 国際旅客ターミナルビル | 東京国際空港ターミナル株式会社(TIAT=ティアット)[7] | 2010年10月に開業。日本の空港としては初のPFI事業として、国との間で事業契約を締結した民間事業者が建設・管理・運用を行なっている。 |
国際貨物ターミナルビル | 東京国際エアカーゴターミナル株式会社 | ||
国際線地区エプロン | 羽田空港国際線エプロンPFI株式会社 |
東京空港事務所においては羽田空港に関する飛行場管制業務のほか、羽田空港、成田空港、下総飛行場、木更津飛行場、館山飛行場に関する進入・ターミナルレーダー管制業務を実施している。
また、伊豆諸島の各小規模空港(リモート空港)に関する情報提供等を航空管制運航情報官が実施している。なお、コールサインについて、新島空港、神津島空港は「伊豆リモート」、三宅島空港は「三宅リモート」、八丈島空港は「八丈リモート」を使用する。
羽田空港は東京23区内にあり利便性が高い反面、騒音問題・増便規制・小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる羽田空港発着枠問題といった緊急に解決が必要な問題が存在する(航空法上の混雑空港(IATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」[8])にあたる)。これらの問題を解決するため、現在までに沖合展開事業や再拡張事業、横田空域の調整が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目 - 羽田空港三丁目、これらに接する地先及び水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき、大田区長が指定する地域から除外されている。
羽田空港の敷地面積は約1,522ヘクタール[9]、埋め立てによる拡張により成田空港を超える日本最大の面積の空港となり、大田区全体の面積のおよそ4分の1を占める。
2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した[10][11]。
2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した[12]。
歴史
羽田飛行場開港
開港する前の旧地名は東京府羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)であった。
1917年には航空の父とよばれた長岡外史が所沢につくった空港につづき、日本飛行大学校がこの地に開校、「羽田飛行場」と呼ばれた飛行訓練施設が置かれた[13]。飛行訓練が行われたものの、民間の旅客機の離着陸はまだ行われていなかった。また、大正時代には羽田運動場が羽田飛行場の近隣に存在したが、後に空港の拡張に伴い運動場用地が買収されている[14]。1923年の関東大震災の時に、鉄道が壊滅的被害をうけ、飛行機で物資を届けることを長岡外史が思いつき、戦前の羽田飛行場のサイズに拡張整備された。同じ頃、航空事故安全のための神社も建立された。
正式開港
1931年8月25日、羽田飛行場のある東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(国際線ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる。)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)が正式に開港した[15]。現在の旧整備場地区に位置していた。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本[15])。ただ、滑走路以外には草が生い茂っていた上、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった[15]。記念すべき第1便は日本航空輸送の大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいなかったため、代わりに大連のカフェに送る松虫や鈴虫6000匹が載せられた[15]。
個人の利用としては1931年8月29日、広島の飛行場からマルガ・フォン・エッツドルフが到着している。
ハブ空港
1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川町、砂川村の立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。この頃には日本航空輸送や満州航空のハブ空港となり、大阪や福岡、台北や京城などの国内主要都市に向けた国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ王国やフランス領インドシナへ向けた国際線の運航も活発化し、これに併せて「東京国際飛行場」と呼ばれるようになったほか[16]、ターミナルやハンガー、滑走路や各種航法設備などの充実が行われた。
また、1930年代後半に同盟関係を結び、その後第二次世界大戦では枢軸国同士として一緒に戦うこととなったドイツとの直行便の就航も計画されたが、その後の国際情勢の悪化のためにこれは実現されなかった。しかし大日本航空(日本航空輸送の後身)が就航していたタイのバンコクで、ヨーロッパ各都市へ向かうイギリスのインペリアル航空などの国際線と接続することとなった。
この様な国内外の民間航空の発展に伴い、北東アジアにおけるハブ空港としての発展が期待され、1938年に第一次拡張(面積約22万坪、滑走路を600 mから800 mへ延長)し[17]、1939年には2本目の滑走路が完成した。同時にターミナルの増築や航法支援施設の整備も進められた。また1937年5月には欧亜連絡飛行を行った「神風号」の帰着地に、同月にはのちに公認世界記録を樹立する「航研機」の初飛行場所に、1939年8月には世界一周飛行に向かった「ニッポン号」の発着地となるなど、日本の航空史に名を残す偉業の舞台となった。
戦時下
1937年7月に始まった日中戦争以降も内際の民間航空輸送は引き続き行われているが、戦時体制のため日本航空輸送は国際航空などと合併し国策会社の大日本航空となり、日本国内における航空輸送事業は同社によって統一営業されることとなった。なお、当時羽田を上回る大飛行場の建設工事が現在の江東区夢の島で進められていたが、戦争の影響で工事が中断したため、引き続き羽田が帝都の航空交通の中心として使われ続けることとなった。
1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(のちの空の日)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機や鹵獲機ポリカルポフI-16が飛行し、また陸軍航空部隊の戦闘機・爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画『日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。
1941年1月より、大日本航空が日本の委任統治領のサイパンやパラオを経由してジャルート環礁までの定期旅客便を川西式四発飛行艇により就航させたが、羽田には飛行艇の施設がなかったため横浜港発着であった。1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐[18]、軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。
これ以降終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどこれまでイギリスやアメリカ、オランダの植民地であったが、南方作戦で日本軍が占領した東南アジア各都市や、ニューギニアのウェワクやラバウルといった日本軍勢力圏へ向けて福岡第一飛行場をハブとし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させている(徴用された大日本航空が委託運航)。
また、南方作戦で鹵獲されたアメリカ軍や中華民国軍、オランダ軍やオランダ領インド航空のボーイングB-17やカーチス・ライトP-40、ダグラス DC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を空襲や機銃掃射する連合国軍機の爆撃目標となったため、空港内外に陸海軍が高射砲・高射機関砲を配置しこれに備えた[14]。
進駐軍による強制接収
第二次世界大戦終結後、連合国による占領下におかれた日本は一般命令第一号により飛行場や航空施設の保存を命じられた。東京飛行場については1945年9月12日に連合国への引き渡しが命じられ、翌13日には自動小銃で武装した兵士らがジープで乗り付けて飛行場にいた者を追い出して接収した[19]。
東京飛行場は日本に駐留する連合国軍(実態は関東地域の占領を担当した米軍)が使用する基地となり、ハネダ・アーミー・エアベース(Haneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)と呼ばれることとなった。なお、飛行場の正式名称に「羽田」が用いられたのは、このときが初めてである[19]。
しかし、アメリカから見て当時の東京飛行場の規模(面積72ha)はローカル空港程度でしかなく、早急な機能拡張が求められた。そのため、12日の引き渡し命令の対象は、既存の飛行場施設に留まらず、拡張用地確保を目的として隣接する3町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)をも含んでいた。この地区には1200世帯・3000人が居住していたが、敗戦国であった日本に拒絶の余地はなく、終戦を迎えたばかりの対象住民らは同21日に警察から口頭で12時間以内の退去を知らされた。その後区役所と警察を介して行われた交渉によって制限時間が48時間以内に延長されたが、それ以降立ち入った者に生命の保証はないとの条件が付けられた。住民らは短時間のうちに家財をリヤカーや舟に積んで立ち退くことを余儀なくされた[19][20][21]。
制限時間経過後も忘れ物を取りに命懸けで戻る者がいたこと等から、その後GHQから日中に限り町への出入りが1週間だけ認められたというが、住民の退去後旧居住区は稲荷橋に設けられた入場ゲートや武装した米軍憲兵によって封鎖され、住民たちは完全に排除された[19]。
何ら補償も行われないまま[22]この地を追われた旧住民らは、住居が米軍の巨大なブルドーザーやショベルカーによって軒並み取り壊されていく様を海老取川の対岸から見守ることしかできなかった[19]。接収された地が旧住民らの手に再び戻ることはなく、その大部分がB滑走路の一部を含む空港敷地として今日も使われ続けている[19]。
なお、穴守稲荷神社の大鳥居だけは頑丈にできていたため撤去できず、その後もこの地(更地、後に駐車場)に残された[19][20][23]。この大鳥居は、沖合展開事業に伴う新B滑走路の拡張計画にて障害となるため撤去の計画が出ていたが、移転費用を近隣住民を主体とする有志が負担すると申し出たことにより、1999年2月に800メートルほど南の現在位置に移される[24][25][26]。
また、接収地の一部であった黒田家(旧福岡藩)の鴨池には、飛行場に留置されていた日本の飛行機や兵器が投棄された[19]。
この時の拡張工事はGHQの重機と「占領軍労務者」として働いた約2000人の日本人たちによって1946年6月までに竣工し、旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が完成した[19][21][27][28]。
連合国による使用
連合国の占領下の日本においては、民間航空を含むすべての日本籍の航空機による活動が禁止されていたため、当時はアメリカやイギリス、フランスなどの連合国の軍用機やパンアメリカン航空やノースウエスト航空、英国海外航空などの連合国の航空会社の乗り入れのみに使用されていた。
なお1946年3月に、イギリス連邦占領軍のサー・セシル・バウチャー少将が英国海外航空のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で運航されていたイギリス南海岸のプール(Poole)と香港を結ぶ路線を延長し、東京国際空港沖へ乗り入れるべく連合国軍最高司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、飛行艇用の滑水路やハンガー、ターミナルの施設が無いため拒否された[29]。このため、1948年3月19日以降暫くはイギリス連邦占領軍の拠点である岩国基地へ乗り入れていたが、その後羽田空港への陸上機での乗り入れが許可された。
その後サンフランシスコ講和条約が締結され、連合国による日本占領が終結に近づいた1951年10月25日には、日本の航空活動が解禁されたことを受けて、第二次世界大戦後初の国内民間航空定期便として日本航空のマーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港 - 伊丹空港(大阪) - 板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始した[30][31]。
返還以後(東京国際空港)
翌1952年7月1日[17]には地上施設の一部がアメリカ軍から返還され[30]、同日に現名称の「東京国際空港」に改名することになった[32]。
また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットMk.Iが英国海外航空によって初飛来し、その後ロンドンのヒースロー国際空港との間に南回りヨーロッパ線で定期就航した。翌1953年には日本航空のダグラス DC-6によって、日本の航空会社による第二次世界大戦後初の国際線定期路線の就航が開始された。
この頃から日本の経済状況が急激に回復してきたこともあり、国内線の乗客が急増したのみならず、スカンジナビア航空やスイス航空、カナダ太平洋航空やカンタス航空などが就航するなど外国航空会社の就航開始が相次ぎ国際線の旅客も急増した。これを受け、全面返還に先立つ1955年5月、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館し、8月には旧A滑走路が2550mに延伸された[33]。その後1958年に全面返還され、1961年には滑走路が3,000mに延伸された[34]。
混雑
その後1960年代に入ると、日本の空の玄関口、首都の空港として日本航空や外国航空会社によりダグラス DC-8やボーイング707、コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空とシンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。
これを受け、1964年に行われた東京オリンピックにあわせ空港設備の整備拡張が行われた。まず、旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)された他、旧C滑走路(3150m×60m)の新設[34]、東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、8月には旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープン。その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸[34]し、旧羽田空港が一応の完成を見た。
しかし、同年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、ターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも増加する乗り入れ機の対応が難しくなった。また、旧A滑走路の使用停止により発着便の増加が事実上不可能になった上に、旅客ターミナルにボーディングブリッジが設置されていない他、旅客ターミナルの混雑や貨物ターミナルの処理能力も限界に達し、抜本的な解決を望む声が多くなった。
この様な声に対し当時の運輸省は羽田空港の沖合展開(更なる埋め立て)を検討したものの、当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたことや、アメリカ空軍横田飛行場の管理していた東京西部空域との兼ね合いもあり、首都圏第二空港の開設を決定した。その後候補地の策定を行い、1966年(昭和41年)千葉県成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港、成田空港)の建設が始まる。
成田空港への国際線移管
1970年には、パンアメリカン航空と日本航空が相次いで当時の主力機材であったボーイング707型機やDC-8型機の倍以上の座席数を持つボーイング747型機を就航させ、ノースウエスト航空や英国海外航空、エールフランス航空やKLMオランダ航空などの他の乗り入れ航空会社もその後を追ったものの、ボーディングブリッジを備えたスポットがわずか3か所しかないなど、大型機の就航に施設拡充が間に合わないような状況は続いた。
もともと成田空港(当初案は富里空港)の位置は羽田空港の存続を前提に検討・決定されたものであるが、運輸省は羽田空港を廃止してでも東京湾内に大空港を建設する案を提唱した産業計画会議に対して非常識と退けつつも「都心から極めて近く、施設もすでに完備されており、国内線用空港として得難い貴重な存在である」と回答しており、羽田の既存の施設を残してあくまで補完的に使用を続けていく方針であった[35]。しかし、成田空港問題の発生により、成田開港は当初計画の1971年から大幅に遅れた。
その上、日本の高度経済成長が続いていた1970年代中盤には、日本航空がボーイング747型機を国内線に投入したほか、国内線のみを運航する全日本空輸や東亜国内航空もロッキード L-1011 トライスター型機やエアバスA300型機などのワイドボディ機の就航を開始したことから、首都圏の航空需要を一手に引き受けていた羽田空港は、国際線のみならず国内線ターミナル・貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。
そして1978年5月20日に漸く成田空港が開港を果たすと、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国(台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した。なお、その後1990年代に就航開始した中華民国のエバー航空も羽田空港を利用することとなった。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照のこと。
沖合展開事業の進展
かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。
新設された成田空港には国際線が移転されたが激しい反対運動によって拡張が進められなかったために国際線のみで処理能力が飽和し国内線を引き受けられる余力はなく、さらに国内線需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路のみであった当時の羽田空港は間もなくキャパシティの限界を再び迎えた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善および騒音対策を目的として[36]東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が計画された。革新知事であった美濃部亮吉は羽田拡張に反対し国内線専用とすることを主張していたが、東京都知事交代に前後して調整が進められ、1984年1月に着工した[37][38][39]。
沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。「ごみ戦争宣言」を出した美濃部施政下、沖展用地は東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場として1975年度から土砂の投棄が続けられており、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。この場所は含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている[40][41]。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した[42]。
この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。
1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。
1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディングブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除くすべての航空会社が移転した[43]。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれにビッグバード (Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港国内線旅客ターミナルの総称としても用いられている。
2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始し[43]、全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・AIRDO)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、全日空グループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2017年10月現在は、
- 第1旅客ターミナルはJALグループ、およびスカイマーク、スターフライヤー(北九州線・福岡線)
- 第2旅客ターミナルはANAグループ、およびAIRDO、ソラシドエア、スターフライヤー(関西線・山口宇部線)
のそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便である北九州線・福岡線は第1旅客ターミナルから出発・到着する。
各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている(就航路線を参照)。
なおこの事業は3期に分かれ、2013年4月の旧暫定国際線ターミナルビル跡地への第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット増築部竣工により終了した。
- 第1期(1984年1月 - 1988年3月)
- A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始)
- 第2期(1987年9月 - 1993年8月)
- 西側地区旅客(→第1旅客)・貨物ターミナル・新整備場移転・新設(1993年9月供用開始)
- 管制塔・運輸省(国土交通省)航空局棟移転(同上)
- 構内道路新設
- 首都高速湾岸線延伸(1993年9月開通)
- 東京モノレール羽田線(現・東京モノレール羽田空港線)西旅客ターミナルビル(新)羽田空港駅(羽田空港第1ビル駅)まで延伸(同上)
- 第3期(1990年5月 - 2013年4月)
- C滑走路移転・拡張
- 1996年空の日には空港イベントの一環として供用前のC滑走路が一般公開された。
- 1997年3月供用開始。これ以降、2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった。(それまでの平行滑走路でも同時に離陸と着陸を行うことは可能であった。)
- 暫定国際線旅客ターミナル(1998年3月20日供用開始)
- 京急空港線羽田空港駅(羽田空港国内線ターミナル駅)まで延伸(1998年11月開通)
- B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始)
- 第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始)
- 東京モノレール、羽田空港第2ビル駅まで延伸(2004年12月1日開業)
- 空港連絡道路(2004年12月1日供用開始)
- 第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始)
- 第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66 - 70番スポット)[44]
- 第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(2010年8月14日供用開始)
- 第2旅客ターミナルビル本館南側(2010年10月13日供用開始)[45][46]
- 第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット(2013年4月8日供用開始)[47][48][49][50]
- C滑走路移転・拡張
国際チャーター便就航
第2旅客ターミナルビルの供用開始に先駆け、1998年3月20日に第2旅客ターミナルビルの南寄りに暫定国際線旅客ターミナルビルが完成した[51]。当初は、チャイナエアラインのみが使用していたが、2002年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となった。
これに伴い、浮いた発着枠が活用されたのが同年開催された2002年サッカーワールドカップ日韓大会開催に伴う日韓間の航路であった。
韓国の首都・ソウルにおいては、ソウル市内にある金浦空港に代わり、2001年に国際線空港として新たに仁川国際空港が開港し、金浦空港に発着する国際線は全て同空港に移転し、金浦空港は事実上国内線専用空港となった。
この仁川国際空港は国際的には行き先こそ「ソウル」と案内されることが多いが、実際にはソウル市内ではなく仁川市内に存在する上、当時はソウル市内とのアクセスが遠く不便であるなど、これらの点においては、日本の羽田空港と成田空港との関係によく似た状況にあった。
そこで、このワールドカップ開催期間中およびその前後に、日韓両国の首都かつその中心部から程近い場所に位置する羽田空港と金浦空港を結ぶチャーター便を開設させた。このチャーター便が好評を博したため、翌2003年からは「定期チャーター便」という定期便に限りなく近い方式で同ルートが開設された。
さらに2007年には同じく定期チャーター便方式で、羽田と中華人民共和国の上海虹橋国際空港の間に、2008年には香港国際空港との間に、2009年には北京首都国際空港との間に航路が開設された。
B滑走路高速離脱誘導路
2009年7月、B滑走路で着陸した航空機が速やかに滑走路から退避するための高速離脱誘導路と、それに接続する誘導路が供用開始された。高速離脱誘導路とは、航空機が比較的高速のまま滑走路から平行誘導路へ移動できるように滑走路に対して斜めに配置するものであり、着陸機の滑走路占有時間が短くなることで発着回数を増加させ空港処理能力を向上させることができる。2009年当時羽田空港の出発機は1時間あたり32機、到着機は28機と到着機の方が少なかったが、到着機が速やかに滑走路を脱出する事で到着機を1時間あたり29機へ増やすことが可能とされ、これにより1日あたり14便までの増枠ができると見込まれた。この工事と並行してA・B平行誘導路を結ぶ誘導路も新設した。
再拡張事業
航空需要の増大から、羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、1990年代には発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっていた。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては唯一、小型機の乗り入れが原則として禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。そこで2000年9月から、首都圏第3空港調査検討会により、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田・成田に次ぐ第3の空港を設置し、航空需要の増加に対応する案が検討された。その検討の結果、日本国政府は2001年12月19日に、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うことを決定し、以下の事業が行われた[52]。
D滑走路の建設
D滑走路は、神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に、従来の埋め立てとジャケット工法による桟橋[53] を組み合わせた、世界初の人工島と桟橋のハイブリッド滑走路として、既存のB滑走路とほぼ平行に建設された。このD滑走路の設計耐久年数は、100年に設定[54] されている。
設計・施工・運用にあたっては制約条件がいくつかあり、対策が行われた。
- 多摩川の流れを遮らないこと。→南側1100mおよび現空港との連絡誘導路を桟橋形式にして、川の流れをせき止めないようにした。
- 既存の滑走路の離着陸を妨害しないように工事をすること。→進入コース直下での大型クレーンによる施工など、制限表面に抵触する作業は空港運用時間外の夜間に行い、高さを低く改造した作業船も用いた。
- 東京港に入出港するタンカー、貨物船などの安全な航行を妨害しないようにすること。→空港東側にある東京港第一航路を一部移設した[55]。また、工事期間中は東京航行安全情報センターを設けて一般船舶が工事区域に侵入しないように警戒その他の業務を行った。
羽田空港沖は、江戸前マアナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により、漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協と国土交通省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために工期短縮の方法などを模索した結果、2010年10月21日に完成し、供用を開始した。
このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・荒天時に千葉県浦安市の市街地上空を通過すること、また東京ディズニーリゾートと直線距離300mの沖合いを通過することが問題視され、滑走路の方位を時計回りに7.5度変更した[56]。この変更により川崎市にある東京湾アクアラインの換気塔が制限表面上に出るため、この換気塔は頂部の装飾を改修(頂部を取り払う)した。
この滑走路の整備により、発着枠が段階的に引き上げられる。引き上げの最短の見通しは以下の通りである[57]。
- 再拡張以前
- 昼間30.3万回
- (別途、深夜早朝時間帯においてチャーター便等が運航)
- 2010年度(10月時点)
- 昼間33.1万回+深夜早朝4.0万回
- (うち国際線は昼間3万回+深夜早朝3万回)
- 2011年度中:昼間35.0万回+深夜早朝4.0万回
- (昼間1.9万回の増枠はすべて国内線)
- 2013年度中:昼間40.7万回+深夜早朝4.0万回
- (ただし、D滑走路を含めた新しい運用方式の慣熟が前提条件。場合によっては、部分的増枠ないし増枠時期の遅れもありえる。)
なお、エアバスA380は後方乱気流が大きく[58]、後続機との飛行間隔を広げざるを得ないことから、昼間時間帯の乗り入れは認められないとされた[59]。
国内線については発着枠の増加により、より小型の飛行機を用いた多頻度運航化が可能となる。国際線については、国土交通省は将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の余裕枠を活用して年間6万回程度(短距離便と、深夜早朝時間帯の中・長距離便がそれぞれ3万回、1日約80便)の就航が可能になるという見解を示している。おおむね就航可能な国際定期便については、短距離便でソウルや釜山、台北、北京、上海など。中・長距離便で北アメリカやヨーロッパ、東南アジアなどの主要都市である。当初は羽田発着国内線最長距離の石垣空港間1,200マイル (1,947 km) 以内の区間を目安としていたが、2008年4月1日には香港線が開設され既にこの目安を超えていた。
ただし、2010年5月17日の、国土交通省成長戦略会議最終報告では、国際線のアジア近距離ビジネス路線限定を廃止して、アジア長距離路線や欧米路線も含めた、高需要、ビジネス路線も発着できるルールに変更した[57]。また、これを可能とするため、発着枠40.7万回+4.0万回が達成される時点で、今後の首都圏における国内・国際の航空需要の伸びを勘案しつつ、昼間時間帯の残り5.7万回の半分強に当たる3万回の発着枠を更に国際線に配分することを基本にした[57]。
新管制塔
D滑走路は旧来の管制塔からかなり離れており、旧管制塔から管制官が目視したとき、安全上規定されている視野角を部分的に確保することができず、また、新設される誘導路の一部が建物の陰に隠れてしまい、機体を目視で確認できない部分が生じてしまう。そこで新たに旧管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに世界で3番目(当時)・国内最高の高さとなる116mの新管制塔を建設し、2010年1月14日に運用を開始した。これにより、それまでの旧管制塔の飛行場管制室は供用開始から16年で役目を終えたことになるが、新管制塔供用開始後も撤去されずバックアップ用の予備管制塔となった。なお、新管制塔で新設されるのは飛行場管制室とその付帯設備だけで、ターミナルレーダー管制室や航空局庁舎は従来の位置のままである。
また、発着能力増大に伴いグランドコントロールだけでは対処飽和になる可能性が出てくることから、グランドコントロールとは別にエプロン地区のみを管制する「ランプ・コントロール」導入が考えられた。仮に導入された場合、これまでの旧管制塔は成田国際空港の旧管制塔のように「ランプ・コントロール・タワー」として利用することも検討されたが見送られた。
国際線地区
A滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、かつての国内線ターミナル(1993年まで)と国際線ターミナル(1998年まで)、日本航空のライン整備センターなどがあった区域に、新しい国際線旅客ターミナルビルと国際貨物ターミナル、エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備した。2008年4月8日に起工式が行われ、2010年7月末に完成し[60]、同年10月21日に供用開始された[61][62]。これに伴い、10月12日に旧・P5国際線駐車場が営業を終了し、10月20日に暫定国際線旅客ターミナルビルが閉鎖された[63]。
国際線旅客ターミナルビルは、5階建て延べ床面積約15万9000平方メートル(付属棟含む)のターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容、延べ床面積約67,000平方メートル)で構成される。ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーン(4階「江戸小路」)や国内最大級の規模の免税店を設置して収益を確保する見通しである。国際旅客ターミナルビルの整備・運営は国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社 (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式で実施している。
スポットは固定スポットとオープンスポットが各々10ヶ所設置されるのみである上、旅客ターミナルビルがA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、更なる拡張も難しいと考えられたことから、前原国土交通大臣が提唱した「羽田空港国際ハブ空港化」の実現には不十分な規模であるとの指摘もあった。
国際貨物ターミナルは、年間50万トンを処理する貨物上屋2棟・生鮮上屋・燻蒸施設などで構成される。国際貨物ターミナルの整備・運営は三井物産グループが設立した特別目的会社「東京国際エアカーゴターミナル株式会社 (Tokyo International Air Cargo Terminal LTD, TIACT)」がPFI方式で実施している。
エプロン・周辺道路などの整備は大成建設を筆頭株主とする特別目的会社「"羽田空港国際線エプロンPFI株式会社"」が実施している。
国際線ターミナルビルの開業に合わせ、同ターミナルへのアクセスとして、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し、ビルに隣接する形での新駅「羽田空港国際線ビル駅」を建設した。また、京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅 - 天空橋駅間のターミナルビル地下に新駅「羽田空港国際線ターミナル駅」を開業し、あわせて国内線ターミナルの最寄駅である羽田空港駅の名称を「羽田空港国内線ターミナル駅」に変更した。
羽田空港船着場の開設
観光面及び防災面から、国際線ターミナル近くに羽田空港船着場を開設した。
多摩川左岸に三愛石油株式会社が所有していたタンカーバースを譲り受け、2011年5月より旅客用に改修する工事を行い[64]、同年7月に利用開始された。その後、陸上部分の2期工事が行われ、同年11月30日に待合室施設などが新設され、完成した[65]。
再拡張後の整備・拡張
国内線第1ターミナルの整備
2011年11月16日、国内線第1旅客ターミナルビルのリニューアル工事が完了した[47][66][67]。チェックインカウンターが並ぶ2階の出発ロビーの天井には、自然光を取り入れる開口部が設けられ、明るい雰囲気となった。また、保安検査場を通過した後の制限エリア内の商業施設を大幅に拡充したほか、屋上展望デッキも改装して航空機をより見やすくなるようフェンスを更新した[68]。
国際線ターミナルの拡張
2009年10月13日、当時の国土交通大臣・前原誠司は地方空港から韓国仁川国際空港を経由した海外渡航が増加している現状を問題視。その原因とされている、国際線は成田空港、国内線は羽田空港とする「内際分離」の原則を改め、羽田空港と成田空港を一体的に運用し、羽田空港を24時間使用可能な国際ハブ空港とする方針を明かした[69][70]。この方針を受け、新設した国際線旅客ターミナルビルを2013年度をめどに、夜間駐機場として整備された北側エプロン方面へ延長増築し、搭乗口を増設する拡張計画が打ち出された[71][72][73]。
拡張部分についてもPFI事業として整備され、2011年6月21日、国土交通省と東京国際空港ターミナルが国際線旅客ターミナルビル本館の改修と増築、北側エプロンへの固定スポット8か所分のサテライト増築、立体駐車場の増築、ホテルの新設を内容とする拡張計画に合意した[74][75][76]。また、2012年8月31日、国際線エプロンの増設などの拡充整備による事業契約の変更について、国土交通省関東地方整備局と羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が変更契約を締結した[77]。
2014年3月30日、拡張部の一部が供用開始。ターミナルビルはT字状になり、延べ面積は約15万9000m2から約23万6000m2に約1.5倍拡大、固定スポット(搭乗口)が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発保安検査場が1カ所から2カ所に増加するなどした[78][79]。
2014年8月28日、拡張部一般エリアが供用開始。イベントスペースや多目的ホール、レストランや物販店などの商業店舗が設けられた。[80]
2014年9月30日、ロイヤルパークホテル ザ 羽田(現・THE ロイヤルパークホテル 東京羽田)開業[81]。またホテル開業に合わせ、ビジネスジェット専用ゲートの供用が開始された[82]。
C滑走路の延伸
2009年4月、政府・与党が長距離国際線への対応としてC滑走路を南東(D滑走路側)へ360m延長して3,360mにする方針を固め、追加経済対策に盛り込むこととした[83][84]。これは長距離国際線の輸送力を増強、大型機の離着陸を可能にする施策で、特に深夜早朝時間帯に就航する長距離国際線の大型化が可能となる[85]。2009年度中に着工し、2013年度完成予定であった[86][87]が、用地内の廃棄物対策の検討に時間を要したため事業期間が約1年伸び、2014年12月11日より施設供用開始となった[88][89][90]。
供用開始に伴い、深夜帯の北向き離陸用途として、現在主に使用しているD滑走路に加え、C滑走路の深夜制限も緩和される[91]ため、エアバスA380型機やボーイング747型機などの大型旅客機も、深夜早朝にC滑走路を使用できるようになる。また関連する工事として、34Rに於けるILSの更新も行われ、2015年8月20日よりILSカテゴリーIIIa、2016年1月7日よりILSカテゴリーIIIbが供用開始となる事で、視界不良時の着陸基準が新たに設定された事により、空港機能の冗長性向上が図られた。
国際線の就航状況
成田空港開港まで
羽田空港には国内線・国際線ともに就航し、1930年代の開港当初から日本航空輸送や満州航空の国際線が乗り入れていた。戦後は日本の表玄関として、日本航空の国際線ハブ空港となったほか、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックをピークに、世界各国からの国際線が乗り入れていた。
しかし、当時の羽田空港の設備では手狭となり、国内線を減便して国際線を運航していたこともあり、東京オリンピック開催後になると、羽田空港に代わる首都圏に新たな国際線空港を建設する動きが出始めた。そして、千葉県成田市に首都圏における事実上の国際線専用空港として、1978年(昭和53年)5月20日に成田空港(当初の正式名称は新東京国際空港)が開港した。
なお、この新東京国際空港は2004年(平成16年)4月1日から成田国際空港株式会社法により、同空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社に改組・民営化(特殊会社化)され、同時に正式名称も「成田国際空港」に改称し現在に至る。
成田空港開港後
1978年(昭和53年)に新東京国際空港(成田空港、現・成田国際空港)が開港すると、中華民国(台湾)の航空会社であるチャイナエアライン(中華航空)を除く国際線定期便は全て成田空港に移り、羽田空港は事実上、国内線専用空港となった。
成田空港が開港しても、チャイナエアラインだけは成田空港には移転せず羽田空港発着となった。この理由は、1974年1月に日本と中華人民共和国の中国共産党政府との間で締結された日中航空協定における予備交渉の席で、中国共産党政府代表団は日中間で航空路線が開設された後も、日本と中華民国との路線を維持することに異議を唱えない立場にあったが「中華民国の国旗(青天白日旗)を付けた中華航空機と同時に乗り入れる気持ちはない」と表明した結果、1974年1月に日本側でまとめた外務・運輸両省案の中で「中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。なお、成田空港開港までは暫定的に羽田空港を双方が供用するようにするが、所要の時間帯調整を行う」と定められたためである。
ところが、中華民国政府はこの「外務・運輸両省案」に示された中華航空の社名と機上の旗に関する問題を、「日華(日本と中華民国)の2国間のみの問題」ではなく、中華民国と中共間の問題ととらえ、妥協をすることがなかった。その結果、1974年4月20日を最後にチャイナエアラインによる日本乗り入れが中断された[92] が、翌1975年7月1日の参議院における外務委員会において、宮沢喜一外務大臣が中華民国側の主張に沿った答弁を認める措置を採り、同年8月10日に再開された。
成田空港の開港後、羽田空港は都心に近く空港アクセスが良い上、空港旅客サービス料が無料であるほか、国内線との接続が良いなどのプラス面を享受することとなったチャイナエアラインの台北経由便を利用してアジア各国やホノルルへ行く利用者が増加し、同社はこの恩恵を四半世紀にわたり享受することとなる。1989年には中華民国の新規参入航空会社であるエバー航空も羽田空港発着で乗り入れを開始した。2002年には早朝・深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運航が始まったものの、同年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となったが、2010年の再国際化に伴い再び羽田空港に発着するようになった。
定期チャーター便の就航と再国際化
前述した記事と重複するが、2002年に開催された日韓共催ワールドカップにおいて、羽田空港とソウルの金浦国際空港との間に日韓両国の航空会社がチャーター便を運航した。このチャーター便が好評を博し、翌2003年からは毎日運航され、かつ個人旅客による航空券購入が可能であり、定期便に限りなく近い「定期チャーター便」という方式で羽田 - 金浦便の運航を開始した。その後、同じく定期チャーター便方式で中華人民共和国の上海虹橋国際空港(2007年)、香港国際空港(2008年)、北京首都国際空港(2009年)との航路が次々と開設された。今後は、大連の大連周水子国際空港との間に航路を開設することが計画されており、同国東北部において特に経済発展が著しい大連と東京都心から近くて便利な羽田空港を結び、片道約2時間30分の「日中日帰りビジネス」の構築を目指している。
再拡張事業でD滑走路が完成すると、羽田空港の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針とした。これに対し、横浜市は「ASEAN地域を含む6000キロ以内を含める」よう主張していた。
第1次安倍内閣が打ち出したアジア・ゲートウェイ構想に基づき、国土交通省は2008年5月19日、再拡張事業により2010年にD滑走路が完成し羽田空港発着枠が大幅に増加した暁には深夜と早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。また20日の経済財政諮問会議で当時の国土交通大臣である冬柴鐵三は「6時台および22時台に羽田空港からの国際線の就航を可能とし、欧米を始めとした世界の主要都市への国際旅客定期便の就航を実現したいと考えている」と表明した。
国土交通省は、再拡張事業完成による発着枠増加分11万回のうち、昼間における3万回を近距離国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田空港が運用できない午後11時から午前6時まで(リレー時間帯を含める場合は午後10時から午前7時まで)の深夜・早朝には通常の発着枠とは別途、距離に制限が無い3万回が割り当てられ、国際線枠6万回とすることにより成田空港を補完する活用が可能であると判断している。さらに新しい国際線ターミナルが2010年10月に供用開始されたことにより、32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が羽田空港に就航した[93]。
国土交通省の成長戦略会議は2010年4月13日、日本の将来の成長に向けた政策提案の重点項目を公表。その中に羽田空港の国際線発着枠を9万回に拡大し国内・国際線の乗り継ぎ拠点となる「ハブ機能」を強化する、今後、昼の時間帯に段階的に増える発着枠について3万回を国際線に充て、欧米路線の定期便も含めるとの方針が盛り込まれた。2009年9月に国土交通大臣に就任した前原誠司は約11万回増える発着枠の半分程度を国際線に回すとしていたが、さらに3万回程度が上積みされた格好である。一方、成田空港では格安航空会社専用のターミナル新設を計画するなど、格安航空会社の受け入れを強化するとの方向性が示された。
国際航空貨物便の乗り入れも認められ、日本貨物航空が2007年4月に、D滑走路運用開始後の2010年10月末以降の深夜・早朝帯(午後11時 - 午前6時)に貨物定期便を就航させる方針を明らかにしていたが、2009年6月の経営見直しにより、羽田空港への就航を当面見送ることを決定した[94]。2010年12月より香港航空が、定期チャーター貨物便を就航させた。
拡張後の国際線就航協議・合意
国土交通省と各国の航空当局は2008年7月以降、羽田空港再拡張後の国際線就航について各国航空当局との間で協議・合意が進められていることを下記のように発表している。
- 2008年
- 7月 : 羽田空港再拡張後の深夜・早朝時間帯において、日本とマレーシア双方の航空企業がそれぞれ週7便まで就航できる枠組み設定で合意したと発表。
- 8月 : 同月13日まで開かれていた日韓航空協議で、2010年の羽田空港再拡張後に日韓双方の航空会社が羽田 - 金浦間で1日それぞれ6便計12便の定期便を運航させることなどで合意したと発表。
- 9月 : シンガポールとの航空協議において、2010年の羽田拡充後のシンガポール・チャンギ国際空港との路線の新設を合意した。
- 10月 : 2010年10月以降に深夜・早朝枠を利用し、羽田とフランスの首都・パリにあるシャルル・ド・ゴール国際空港との間で、日仏両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日仏両国が合意したと発表。羽田に発着するヨーロッパとの定期路線の復活が決定するのは成田空港開港以来初めてである。なお、日本側の航空会社は日本航空が就航を検討していると報道されている[95][96]。
- 11月 : 2010年10月以降に羽田とイギリスのロンドン・ヒースロー国際空港との間で、日英両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日英両国が合意したと発表。ヨーロッパとの定期路線の復活はフランスに続いて2カ国目になる。なお、日本側は日本航空と全日本空輸が、イギリス側はブリティッシュ・エアウェイズ とヴァージンアトランティック航空が就航に意欲を見せていると報道される[97]。
- 2009年
- 2月2日 : 日本・タイ航空当局間協議の結果、深夜早朝枠で羽田とバンコクとの間に日本・タイそれぞれの航空会社に1日1便の就航が可能とする合意[98]。
- 2月9日 : 日本・オランダ航空当局と日蘭それぞれの航空会社が週7便で羽田とアムステルダムとの間で就航できるよう合意[99]。
- 3月19日 : 日本・香港航空当局間協議の結果、羽田の第4滑走路供用開始後、日本、香港双方の企業に対し、羽田の昼間時間帯を使用して双方1日2便ずつ、羽田 - 香港路線の開設を可能とし、成田空港および羽田空港の深夜早朝時間帯と香港を結ぶ便数を旅客貨物の区別なく週70便まで可能とすることで合意したと発表。
- 4月3日 : 日本・ドイツ航空当局間で、羽田の第4滑走路供用開始後に羽田とドイツを結ぶ定期便を1日2便(週14便)まで運航できる合意をする[100][101]。
- 4月6日 : 日本・カナダ航空当局間で、日本とカナダ双方の航空会社が羽田空港とカナダ国内の空港(バンクーバーもしくはトロント)との間にそれぞれ1日1便(週7便)まで定期便を運航できる枠組みが設定される。
- 10月 : 羽田と台北松山空港(台北)との間で定期便を就航させることに向けて合意することを明らかにする[102]。
- 12月11日 : 日本の対中華民国窓口機関、財団法人交流協会と中華民国側の亜東関係協会は11日、羽田 - 台北(松山)路線の開設などで合意した。第4滑走路の供用が開始され次第、1日に最大8便(8往復)が運航される予定。
- 12月12日 : アメリカの首都であるワシントンD.C.で開かれていた日米航空交渉の中で、航空自由化(オープンスカイ)協定で合意したと発表。羽田・成田両空港については発着便数に余裕のない混雑空港として、これまで通り政府間の協議で便数を決定するとしている。また、2010年10月の羽田空港再拡張事業完了後の夜間・早朝時間帯について、日米双方の航空会社が羽田とアメリカの空港を結ぶ旅客便の路線をそれぞれ4往復ずつ設定できることでも合意。同協定の枠組みに含まれる「以遠権」も羽田発着便に適用されることになり、アメリカの航空会社は羽田以遠への第3国運航も可能となる。
- 2010年
- 4月13日 : エアアジア Xは年内に羽田 - クアラルンプール間就航を表明[103]。
- 5月7日 : アメリカ運輸省が、10年秋以降、就航可能になる羽田への路線について、デルタ航空にロサンゼルスとデトロイトの2路線を、アメリカン航空にニューヨーク線を、新規のハワイアン航空にホノルル線を認可したと発表。ユナイテッド航空とコンチネンタル航空も羽田線を申請していたが、いずれも却下される[104]。
- 5月10日 : シンガポール航空による羽田 - シンガポール線が1日2便就航することを正式発表。
- 5月19日 : キャセイパシフィック航空が羽田 - 香港線への就航計画を正式発表。
- 6月5日 : 国土交通省は、日本の航空会社に割り当てられるアメリカ行き路線4便のうち、日本航空に対してサンフランシスコ便とホノルル便の2便を、全日本空輸に対してロサンゼルス便とホノルル便の2便の就航を認可した。これにより、2010年10月以降の航空会社別の国際線運航便数は日本航空が計10路線、1日13便と最多となる[105]。
- 7月6日 : アメリカ運輸省は、羽田空港 - アメリカ間の直行便計4路線の配分を内定どおりデルタ航空2路線、アメリカン航空1路線、ハワイアン航空1路線に正式決定した。これにより、2010年10月以降の羽田空港 - アメリカ間の航空連合別の直行便数は、日本航空とアメリカン航空が加盟するワンワールドが最多になる[106]。
新東京国際空港(成田国際空港)開港以前に就航していた航空会社については、原則として新空港へそのまま移管されているので「成田国際空港」を参照されたい。
今後の整備構想
発着容量拡大試算
都心上空飛行の規制緩和
2014年6月6日、国土交通省の有識者会議は、現在は騒音問題に配慮して、現在東京都心の上空6000フィート(約1800メートル)に制限されている飛行ルートを、3000フィート(約900メートル)以下に規制緩和することを提案した[107][108]。
混雑する15時から19時の4時間の解禁により、年間2.6万回の発着枠拡大が見込める[107]。騒音問題や安全性に懸念があり、実現には航路上空の地方公共団体や地元住民の理解が課題となる。
A滑走路の南側延伸提言
現在、A滑走路とB滑走路は交差しているため独立運用ができず、発着容量を制限する一因となっている。
社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した、「羽田空港の利用状況分析と処理容量の算定」[109]では、(現在B滑走路と交差している)A滑走路を南にスライドし、独立運用を可能とすることで、発着能力が43回/時(43.7万回/年)になるとされている。
また、財団法人運輸政策研究機構による「首都圏空港将来像調査」によれば、発着機材の戦略的順序付け等の関係運用の高度化により、発着枠が44.7万回/年、加えてA滑走路の南側延伸で45.8万回/年、さらに旧B滑走路の再活用も加えると47.8万回/年まで、発着容量の拡大が可能である。これに加え、A滑走路北側の東京方面への離陸を実施することで、48.8万回/年まで容量が増加する[110]。
第5滑走路の建設提言
社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した「羽田空港の処理容量拡大策の検討」[111]によれば、C滑走路の沖側760mにクロースパラレル方式、あるいは1310mにオープンパラレル方式で滑走路を建設した場合、発着能力は46回/時(46.8万回)となる。
オープンパラレル方式の場合、大井・青海埠頭のガントリークレーンと第一航路の制限表面の問題をクリアするために、D滑走路と交差するまで南側に寄せる必要がある。そのため、本来ならオープンパラレルのほうがより発着能力が高くなるが、D滑走路と独立運用ができなくなるため、クロースパラレル方式とほぼ変わらない発着能力となる。なお、現行の空域制限が緩和された場合、発着能力はより拡大する。
また、財団法人運輸政策研究機構による「首都圏空港将来像調査」によれば、C滑走路の沖合に、C滑走路と並行する滑走路を建設し、D滑走路の東方延伸も行うことで、技術的には63.0万回まで容量の拡大が可能となる。ただし、この場合は騒音環境基準を超過してしまう。これに対し、発着回数を56.0万回/年まで制限すると、環境基準を超えるエリアをほぼ無くせる可能性があることが確認されている[110]。
だがこの場合でも、都心方面からのA滑走路やC滑走路への直線進入、B滑走路から西側への離陸など、現在の千葉上空の飛行高度よりも、かなりの低高度の使用が必要である[110]。
神奈川口
2004年から2006年にかけて、国土交通大臣、神奈川県知事、横浜市長、川崎市長を構成員とする「神奈川口構想に関する協議会」が4回会合を行い、神奈川県などからの提案について検討を進めた。神奈川県と横浜市、川崎市の1県2政令指定都市が共同で提案している、羽田空港の再拡張・国際化に合わせて多摩川にある首都高速湾岸線と大師橋の間に空港に接続する橋または海底トンネルを建設し、多摩川の対岸にある川崎市側にも空港施設を設置するという構想で、いすゞ自動車川崎工場跡地の利用を想定していた。国際線旅客ターミナルビルの出国手続き施設を建設する他、ホテルや物流施設を併設し、経済的な地盤沈下が進む京浜臨海部再生の起爆剤になると考えられた。
この神奈川口構想に対しては、東京都大田区が強く反対したが、「アジア諸都市の国際ハブ空港競争激化の中にあって、日本の羽田空港がそれに勝ち抜くキーのひとつとしてあげられるのが、臨空関連施設やホテル他を擁する神奈川口構想の成立可否かもしれない」とする新聞記事[112]もある。
2014年9月8日、「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の初会合で政府は羽田空港と川崎市を直結する「連絡橋」と「海底トンネル」の新設を決定[113][114]。川崎市の15年来の悲願が実現することとなった[115]。
2015年5月18日に開かれた「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の第二回会合で、羽田連絡橋などの整備場所について「川崎区の殿町地区中央部に両地区を結ぶ新たな橋梁(2車線)」と初めて明記された[115][116]。
ただ2017年現在、川崎市側のエリア(いすゞ工場跡地)についてはキングスカイフロントとして、既に医薬品関連の研究施設の集積拠点として整備が進められており、一般客向けの空港関連施設の設置は事実上困難となっている(ANAのケータリングセンターなど、業務用の施設は一部設けられている)。そのため新たな空港施設については、羽田連絡橋の大田区側に宿泊施設等を設ける案が検討されている[117]。
2017年1月24日、東京都が都市計画事業認可を取得し、事業に着手したと発表した[118][119]。
施設
滑走路
滑走路は以下の4本。A滑走路とC滑走路は平行滑走路のオープンパラレル配置で、同時離着陸が可能である。南風の好天時にはB滑走路とD滑走路でLDA (Localizer-Type Directional Aid) を使用した同時進入が行われる。
- A滑走路 (16R/34L): 3000 m×60 m、北風時着陸用および南風時離陸用、34L側にILS設置
- B滑走路 (04/22): 2500 m×60 m、南風時着陸用、22側にILS設置
- C滑走路 (16L/34R): 3360 m×60 m[91]、北風時離着陸用および南風時離陸用、34R側にILS設置(カテゴリーIIIb)
- D滑走路 (05/23): 2500 m×60 m、北風時離陸用および南風時着陸用、23側にILS設置(ローカライザーオフセット2.0度)
上記の各滑走路の離着陸用途は原則として日中帯(午前6時から午後11時まで)のものである。深夜帯(午後11時から午前6時まで)はC滑走路とD滑走路を優先的に使用し、これらが利用できない場合にのみA滑走路、B滑走路の優先順で使用する。[120]
B滑走路については、D滑走路供用以前は横風着陸用滑走路としての位置づけ[56]であったが、2010年10月のD滑走路供用開始にともない、南風時着陸用としてD滑走路とともに使用されている[56][121]。B滑走路とD滑走路の方位は7.5度違い[56]で平行に近い。
旅客ターミナル
国内線第1ターミナルと第2ターミナル、国際線ターミナルの合計3つの空港ターミナルビルがある。第1・第2ターミナルの間は、地下にある動く歩道や羽田スカイアーチの歩道で移動が出来る。
羽田京急バスが運行する、無料の空港ターミナルビル間連絡路線バス(約5:00〜24:00頃までの運行)は、国内線第1・第2ターミナルのみ循環バスは、白い車体の無料連絡バスで移動できる。国内線ターミナルと国際線ターミナル間の連絡は、ペパーミントグリーンの車体の無料循環バスが数分間隔で運行している。ただし、稀に通常路線バスカラーの青いカラーリングのバスで運行する場合や、運転手や路線バス車両の交替よる運行打ち切りがあるので、案内放送やバス表示板に注意が必要である。なお、無料循環バス乗り場は、第1ターミナルが到着階8番、第2ターミナルが到着階9番、国際線ターミナルが0番である。また、京浜急行やモノレールでの国内線ターミナルと国際線ターミナル間の連絡も可能である(国内線と国際線間を乗継利用する場合に限り、無料乗車票を配布)。
第1旅客ターミナル
1993年9月27日に供用開始[123]。地下1階・地上5階、一部6階建ての本館と中央南北の3箇所のウィングから構成される[123]。年間4300万人もの旅客需要をこのターミナルで対応できるように設計されており、その規模の大きさは当時世界でも例がなかった[123]。そのため、単純で分かりやすく利用しやすい施設となるように目指した[123][123]。外観は「ターミナルビルとして機能している事を表現することで十分である」と出された結論に基づいて「かたまり」として機能を纏め、材料や色彩はシンプルにした[123]。材料は、維持管理や耐候性を考慮してタイルが使用されている[123]。西側に長く面している事から窓ガラスには熱線吸収タイプのものを採用し、空調の負担軽減を図っている[123]。進入道路からの印象を強めるために建物の南部と北部は、ガラスと金属パネルの構成によって表情を変えている[123]。建物内部は各施設の集約と、その配置がブロック分けされている[123]。また、4つの吹抜けがあり、中央のシースルーエレベーターのある部分に地下1階から5階までの5層の吹抜けが、建物中央部にある店舗の集合する部分に2階から6階までの4層の吹抜けが、2階出発ロビーから5階までは4層の吹抜けが、2階から3階までは「アルカイダ」という2層の吹抜けがある[123]。吹抜け上部には天窓を設けて自然光を取り入れるようにした事により、明るく開放的な空間を実現している[123]。また、良好な視界と開放感を実現している[123]。柱間はすべて12×12メートルで、各階の床に段差はない[123]。大阪国際空港・成田国際空港(第1ターミナル)・新千歳空港などのターミナル施設と同様に建物中央部を商業区画として、店舗が集中する商業施設で構成され、名称は「マーケットプレイス」である。地下1階のフードコートには「東京シェフズキッチン」、エリアには「マーケットプレイス ガレリア」の名称が付けられている[123]。ガレリアにはアパレルブランドを扱う百貨店(三越・高島屋)のブティック様の小型売店、高級志向のレストランなどが入居しており、さながらデパートのような内装となっている。規模は有楽町マリオンと同規模である[123]。また、ガレリアには「銀座に出向かなくても買い物ができる」という意図も込められている[123]。2階に噴水広場があり、待ち合わせ場所などとして使われるほか、稀にライブやトークショーなどのイベント会場として使われることがある。6階は宴会場・会議室があり、一般的な会合や結婚式の開催が可能となっている。また、展望デッキへの出入口がある。また、2012年4月には1階にカプセルホテル(通常のカプセルホテルに比べると、旅客機のファーストクラスをイメージした高級な内装になっている)「ファーストキャビン羽田ターミナル1」がオープンした[124]。
出発ロビーは2階、到着ロビーは1階にある[123]。出発ロビーのチェックインカウンターは、搭乗客が目指すカウンターを簡単に把握できる視認性が求められている[123]。そのため、柱を無くしたり表示サインや案内所を設置するなどの工夫が図られている[123]。セキュリティゲートは7か所に分散配置された[123]。旧ターミナルでは慢性的に混雑していたが、このターミナルでは、ピーク時と団体旅客の通過時を除いて混雑は解消された[123]。また、制限区域内への入口と認知されやすくなるよう門形のデザインとなっている[123]。セキュリティゲートから全ての搭乗口までは最長でも300メートル以内に収まっている[123]。歩行軽減のために動く歩道が設置されている[123]。床はカーペット敷きである[123]。2階のコンコースと接続する搭乗橋は門形で固定部分と可動部分からなる[123]。車椅子を利用する搭乗客と高齢者に配慮して傾斜は1/12以下に抑えられている[123]。ロビー中央にはモニュメントを配した「出会いの広場」が設けられ、送迎・待ち合わせを容易にしている[123]。 第1ターミナルでは出発客動線と到着客導線は完全には分離されていない。到着客は搭乗口から出発待合エリアに出た後、到着専用階段を下り1階到着出口へと向かう。このため第1ターミナル相互の乗り継ぎ客は降機後すぐに次の搭乗口へと向かう。
羽田空港には、自動車のほか公共交通機関を利用する利用者の割合が高いと考えられ、特に空港に乗り入れる東京モノレールと京急との接続をスムーズにすることが今回の動線計画の大きなテーマの一つであった[123]。そこで、地下1階の改札口から各フロアへの移動を容易とするために中央南北4箇所に昇降動線を設置、モノレールの駅前にシースルーエレベーターを、2階の出発ロビーと1階の到着ロビーを直通で結ぶエスカレーターと、各階乗り継ぎのエスカレーターを設置した[123]。このほか、計画当時から第2旅客ターミナル完成時に地下1階で接続できるようになっていた[123]。ターミナル前の道路には国内で初めてダブルデッキ構造が採用された[123]。2層に分けられた道路は、上層が出発ロビー、下層が到着ロビーに面している[123]。なお、このデッキは土木構造物扱いである[123]。駐車場は南北にP1とP2の2棟あり、約4700台収容可能である[123]。3階に設置された連絡橋と連絡橋に接続した昇降動線を通じて雨に濡れずにスムーズにターミナル内にアクセスできるよう設計されている[123]。
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第一ターミナル全景と新旧の管制塔。手前はA滑走路と国際線の駐機場。
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第1旅客ターミナル。
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第1旅客ターミナル南ウィング出発ロビー。
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第1旅客ターミナルマーケットプレイス。
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第1旅客ターミナルゲートラウンジ。
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第1旅客ターミナル ダイヤモンドプレミアラウンジ。
第2旅客ターミナル
供用開始当初は北ピアと南端にある上層部が全面ガラス貼りの吹き抜け部分(5階建、メトロハットと形状が似ている)のみで、商業区画「マーケットプレイス」は吹き抜け部分の各階に集中している。その後、吹き抜け部分の南側で南ピアの建設が進められて2010年10月に供用開始したことで、第1ターミナルと同様、吹き抜け部分が建物の中心に位置することになった。通常の商業施設の他には北ピアに羽田 エクセルホテル東急が、南ピアには永青文庫(熊本藩主である肥後細川家の収集・保存した美術品を保存・展示している)の所蔵品の一部を中心に展示する美術館「ディスカバリーミュージアム」[127]がある。
第2ターミナルでは出発客導線と到着客導線が分離されており、出発客は2階よりスロープを下り搭乗、到着客は降機後スロープを降り中2階の通路を到着出口へ向かう。第2ターミナル相互の乗り継ぎの場合、出口通路途中にある改札を通過した後2階に上る。[128]国際線増便のため、当ターミナルの一部を国際線対応にする計画がある。
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第2旅客ターミナル。
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第2旅客ターミナル出発ロビー。
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第2旅客ターミナルマーケットプレイス。
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第2旅客ターミナル展望デッキ。
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国際線ターミナル
- 延べ床面積:約23万6000平方メートル(供給処理施設棟を含む)、ボーディングブリッジ18基
2010年10月21日に供用を開始した[61][122]。国内線ターミナルビルと違い、24時間供用されており、一部店舗も24時間営業している。一般エリア4階には、「江戸小路」として、日本色を濃く演出されたショップデザインがなされている。第2ターミナルの国際線施設開業に伴い、2020年3月末に「第3ターミナル」への名称変更が予定されている[129]。
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国際線旅客ターミナル。
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国際線旅客ターミナル出発ロビー。
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国際線旅客ターミナル到着ロビー。
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国際線ターミナル展望デッキ。
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国際線サクララウンジ。
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免税店エリア。
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江戸小路。
貨物ターミナル
西貨物地区と東貨物地区があり、第1、第2旅客ターミナルの北側にある。両ターミナルから空港内循環バスでアクセスできる。2010年10月には新たに国際線地区貨物ターミナルがオープンした。
VIP用施設
日本国政府専用機を含む政府専用機などを利用する政府要人・皇族・国賓などいわゆるVIPが利用できる貴賓室と、専用機専用の駐機スポットが東貨物地区横にある。ボーディングブリッジはなくタラップを利用する。一般道へ直結する専用の車道・ゲートも設けられているが、警備上、この道路の通行時は周辺道路(首都高速1号羽田線)が予告無く一時通行止め(迂回を要請される)となることがある。この駐機スポットでVIPが搭乗するときは、狙撃防止のために駐機スポットを望むラウンジ等には警備員が配置され、窓にはカーテンが降ろされるなど、警備上の配慮が行われている。
プライベート機用施設
遊覧目的の小型機は乗り入れできないが、企業や個人が所有するビジネスジェットなどのプライベート機専用スポットが国際線ターミナルとN地区に約10箇所存在する。利用者は専用ゲートを使用し、一般の旅客の目に触れることのない専用動線を利用することができる。2014年時点で年間約2300便が利用しており、多くは国際線である[130]。
国土交通省は近年国内外からのビジネスジェットの受け入れ条件を緩和し、発着枠に空きがあればいつでも発着でき、発着当日の手続きでも受け付け可能とするなどの受け入れ環境の整備を進めている[131]。
航空会社施設
- 日本航空(格納庫・整備場・訓練施設)
- 全日本空輸(格納庫・整備場)
- スカイマーク(本社・格納庫・整備場)
羽田空港船着場
国際線ターミナル近くに羽田空港船着場がある。再拡張事業のひとつとして開設された。
空港周辺への遊覧船が発着するほか、2013年7月から観光汽船興業が都内(芝浦、日本橋、豊洲、浅草)までの予約制水上タクシー「リムジンボート」を運行している[132]。
施設がある機関
旧整備場地区(整備場駅)に、以下の事務所や格納庫がある。
旅客取扱施設利用料
- 国内線ターミナル
2005年4月1日より徴収を開始した。当時は大人100円であった。
- 出発客 大人290円 小人140円[133]
- 国際線ターミナル
2010年10月21日より徴収を開始した。当時は大人2,000円であった。
ハブ空港(拠点空港)・焦点空港としている航空会社
下記の航空会社がこの空港をハブ空港(または焦点空港)としている。
空港へのアクセス
鉄道
- 京浜急行電鉄空港線
- 羽田空港国内線ターミナル駅・羽田空港国際線ターミナル駅・天空橋駅
- 羽田空港国内線ターミナル駅は第1ターミナルビルと第2ターミナルビルの双方に共通の最寄り駅である
- 両駅から都営浅草線・京成成田スカイアクセス経由で成田国際空港への直通列車(エアポート快特・アクセス特急)もある
将来の計画
羽田空港発着枠の緩和や2020年に開催される予定の東京オリンピックにより羽田空港の利用客増加が見込まれるため、複数の空港連絡鉄道の整備が計画または検討されている。
路線バス
羽田空港からの高速バス、路線バスの行き先の詳細情報は運行会社に関係なく「バス/方面別案内」に記載されている。
一般路線バスは大森駅、川崎駅、蒲田駅からの便が運行されている。特に蒲田駅からは途中大鳥居停留所のみの停車の急行シャトルバスも運行されている。主要ターミナル駅やホテル等と接続するリムジンバスは東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城の主要駅や主要ホテルを中心に首都圏各県の県庁所在地および主要都市さらに静岡県御殿場市、長野県軽井沢町、東京ディズニーリゾート、お台場、東京スカイツリー、東京ビッグサイト、幕張メッセ、富士急ハイランド、河口湖、などのレジャースポットなどからも運行されているほか、成田国際空港や東京シティエアターミナル、横浜シティエアターミナルへの直行便もある。また、一部の路線では、深夜便・早朝便の運行もある。
さらに、首都圏の国際競争力の強化や外国人旅行客の一層の増加を目的として、羽田空港の24時間活用を促進するために、2014年10月26日から、既存の公共交通機関の運行が行われていない深夜早朝時間帯に羽田空港と都心方面等を結ぶアクセスバス(5路線)が試験運行されることになった。5路線の内訳は、銀座・東京・秋葉原線、新宿(新宿駅、東新宿駅)・池袋線、渋谷線、大鳥居・蒲田・品川線、横浜(YCAT)線であり、羽田発が深夜1時00分台、羽田着が早朝4時00分台で、各ルート1日1往復の運行となる[135]。 さらに2015年4月1日から深夜早朝バスの運行が拡大され、新たに浅草、六本木、二子玉川、お台場、桜木町、みなとみらい、川崎、有明、豊洲、東陽町、葛西、一之江へも運行されるようになった[136]。2017年4月1日からは新橋駅、大井町駅の停留所を新設、一部の路線では運行ルートの見直しを行っている。[137]。
これらの路線バスは京浜急行バスまたは東京空港交通が運行しており、発着地により共同運行会社も乗り入れる。
タクシー
首都高速道路
一般道路
- 国道357号(東京湾岸道路)
- 東京都道311号環状八号線(環八通り)
徒歩・自転車
空港に至る道路は環八通り、国道357号の一部を除いてすべて自動車専用トンネルであるため、徒歩・自転車でのアクセスは一般的ではない。天空橋駅付近から環八通りを多摩川沿いに直進すると、左側に国際線ターミナルが見える。さらに直進し羽田空港トンネルを抜けると新整備場駅方面に進むことができる。さらに、国道357号沿いに整備されている歩道で国内線各ターミナルに移動できる。各旅客ターミナル内に駐輪場はないがP1駐車場(第1ターミナル側)に駐輪することができる。
航路
事件・事故
羽田空港内やその周辺で起こった航空事故やハイジャック事件は以下の通りである。
事故
- 1938年8月24日 日本飛行学校訓練機と日本航空輸送旅客機がどちらも離陸後に空中衝突。両機の乗員5人が死亡したほか、墜落後燃料タンクが爆発して地上の45人を巻き添えにした(大森民間機空中衝突墜落事故)。
- 1940年12月20日 耐空証明取得中の三菱MC-20が東京湾に墜落。原因不明。
- 1966年2月4日 全日空60便のボーイング727-100 (JA8302) が着陸進入中に東京湾に墜落。乗員乗客133人全員死亡は当時単独機として世界最悪の事故となった。当時の旅客機はブラックボックスの搭載が義務づけられていなかったため事故原因は不明となった(全日空羽田沖墜落事故)。
- 1966年3月4日 カナダ太平洋航空402便のダグラス DC-8 (CF-CPK) が濃霧の中最終着陸進入中に意図的に高度を下げすぎたために進入灯に激突し炎上。乗員乗客72人中64人が死亡(カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故)。
- 1966年8月6日 KLMオランダ航空863便(アムステルダム発・DC-8)の機長が羽田空港着陸寸前で意識不明に。高度45mまで下がっていたが副機長の素早い対応により着陸復行の後に無事着陸。到着後医師により機長の死亡が確認された。
- 1966年8月26日 日本航空のコンベア880 (JA8030) が訓練飛行中に操縦ミスで墜落。乗員5人全員死亡(日本航空羽田空港墜落事故)。
- 1982年2月9日 日本航空350便のDC-8-61 (JA8061) が着陸進入中に滑走路手前の東京湾に墜落。24人死亡。統合失調症の機長が副操縦士や航空機関士の制止にも関わらず逆噴射装置を作動させたのが原因(日本航空350便墜落事故)。
- 2016年5月27日、大韓航空2708便のボーイング777-300が離陸滑走中にエンジン火災事故を起こした(大韓航空2708便エンジン火災事故)。
- 2017年9月5日、日本航空6便のボーイング777-300が離陸中にエンジンから火災事故を起こし羽田空港に引き返した。当初はバーストストライクと思われていたが後々、エンジンの部品破損が見つかり重大インシデントに認定された。
ハイジャック
- 1971年5月13日 全日空801便仙台行きのYS-11が東京湾上空でビニール電線を持った男にハイジャックされ、犯人は羽田に緊急着陸後逮捕。
- 1971年12月19日 全日空758便福井発のフォッカー F27が羽田への着陸準備中に男が機内トイレに放火し、消火活動のすきに操縦席に押し入り、ナイフで機長を切りつけた。犯人は羽田に着陸後逮捕されたが、逮捕後に死亡した。
- 1972年11月6日 日本航空351便福岡行きのボーイング727が覆面をかぶった男にハイジャックされ、羽田に緊急着陸。犯人の要求で逃亡機として日本航空はDC-8-62(JA8040)を用意させたが、犯人は逃亡機への移動中に逮捕された(日本航空351便ハイジャック事件)。
- 1975年4月9日 日本航空514便(千歳)発のボーイング747-SRが滑走路を滑走中に、男が拳銃で乗員を脅迫。犯人は乗客を解放後に逮捕。
- 1975年7月28日 全日空63便札幌(千歳)行きのトライスターが宮城県松島上空で高校生にハイジャックされ、ハイジャック機は羽田へ引き返し、犯人は羽田に到着後逮捕。
- 1977年3月17日 全日空817便仙台行きのボーイング727が離陸後に暴力団員にハイジャックされ、機内で乗客を改造モデルガンで殴打した上、改造モデルガンが暴発。羽田に緊急着陸した。犯人は機内で服毒自殺した(全日空817便ハイジャック事件)。
- 1999年7月23日 全日空61便札幌(新千歳)行きのボーイング747-400D (JA8966) が離陸後に包丁を持ったフライトシミュレーターマニアの男にハイジャックされた。男は副操縦士をコクピットの外へ追い出し、機長を殺害した。その男が操縦する飛行機が墜落寸前になったため、副操縦士がコクピットへ突入。男を取り押さえ、羽田に緊急着陸した。東京国際空港の空港ターミナルビルにおける構造上の欠陥が指摘された(全日空61便ハイジャック事件)。
警備体制
- 1960年 - 整備場地区に蒲田警察署から独立する形で東京空港警察署が発足。
- 1973年 - 環状八号線沿いに東京空港警察署の新庁舎が完成。
- 1997年 - 東ターミナル地区に新庁舎が完成。
- 2012年 - 警視庁第6機動隊所属の空港警備中隊が配備[140]。
- 2014年 - 空港警備中隊が改組し、爆発物処理やテロ対策を強化した東京国際空港テロ対処部隊が発足[141]。
エピソード
- 安保闘争さなかの1960年6月10日に、当時のアメリカ合衆国大統領・ドワイト・D・アイゼンハワー訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)・ジェイムズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生した(ハガティ事件)。
- 2007年6月7日に、新国際線ターミナルの造成工事現場より、第二次世界大戦当時に大日本帝国陸軍が使用していた対空砲が発掘された。
- 文藝春秋の週刊誌『週刊文春』2008年2月28日号に、「『不正駐機ビジネス』を暴く」との題名で、楽天会長・三木谷浩史のガルフストリーム V型機や、ソニーが所有するダッソー ファルコン 900型機などの複数のビジネスジェット機が、「整備目的」と称して、東京国際空港内の整備エリアに違法に駐機し続けているとの内容の記事が掲載された[142]。その後これらのビジネスジェット機は指摘を受けて撤去されたが、2010年3月現在、再び数機が以前のように駐機し続けているとの指摘がある。
- 2008年より施設内の食堂街から出た廃油を処理し、貨物運搬車の燃料として用いている[143]。
- 2010年2月25日朝、関東地方一帯に於いて記録的な濃霧が発生し、視界不良により計130便が欠航など終日運航が混乱する事態が発生。当時装備されていた計器着陸装置(ILS)カテゴリーIIでは着陸出来ない状況となった[144]それを鑑み、2015年8月20日より滑走路34Rに於いてILSカテゴリーIIIaの供用を開始。
- 2012年4月3日、猛烈に発達した低気圧が関東地方に接近し、羽田空港では方位180度から55ノット以上の強風を観測した。B(22)およびD(23)滑走路で横風規制を超えたため多くの欠航便が出たが、一部の到着便が22へのILSアプローチからC(16L)滑走路へのサークリングを行い、着陸した。
- 2015年から2016年にかけ、東亜建設工業が羽田空港の滑走路の地震の際の液状化防止工事を行ったが、その際、地盤に注入した薬剤の量が不足していたのにもかかわらず、適切に工事を完了したと国土交通省に報告していたことが、2016年5月に判明した。滑走路の強度には影響は無いとしている[145]。
- 2017年10月18日、法務省入国管理局は、日本で初めて羽田空港の入国審査に顔認識システムを導入。日本人帰国者を対象に、顔写真を撮影してパスポートと照合するセルフゲートを設けた[146]。
東京国際空港を舞台とする作品
テレビ
- ウルトラQ 第14・27話(1966年、円谷プロ / TBS、主演:佐原健二)
- アテンションプリーズ(1970年版、東宝 / TBS、主演:紀比呂子)
- 白い滑走路(1973年、TBS、主演:田宮二郎)
- スチュワーデス物語(1983年 - 1984年、TBS、主演:堀ちえみ)
- 逢いたい時にあなたはいない…(1991年、フジテレビ主演:中山美穂)
- ビッグウイング(2001年、TBS、主演:内田有紀)
- GOOD LUCK!!(2003年、TBS、主演:木村拓哉)
- アテンションプリーズ(2006年版、フジテレビ、主演:上戸彩)
- TOKYOエアポート〜東京空港管制保安部〜(2012年、フジテレビ、主演:深田恭子)
- 金曜プレステージ 「山村美紗サスペンス黒の滑走路3」(2013年、フジテレビ)
- ミス・パイロット(2013年、フジテレビ、主演:堀北真希)
映画
- 大怪獣バラン(東宝)
- モスラ(東宝)
- フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(東宝)
- 大巨獣ガッパ(日活)
- ゴジラvsモスラ(東宝)
- ゴジラvsデストロイア(東宝)
- ハッピーフライト(2008年、フジテレビ)
- フライングラビッツ(2008年、東映/電通)
- カーズ2(2011年、ディズニー)
歌謡曲
- 羽田発7時50分(1958年、フランク永井/ビクターレコード)
- 土曜の夜は羽田に来るの(1975年、ハイ・ファイ・セット)
- 羽田空港の奇跡(2012年、TOKIO)
ゲーム
- ぼくは航空管制官シリーズ(新シリーズが登場した場合、ほぼ必ずと言ってよいほど第一作目の舞台になる。またひとつのシリーズの中でリメイクされて2回以上舞台になることが多い。)
脚注
- ↑ 空港法 第4条
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- ↑ 3.0 3.1 “暦年・年度別空港管理状況調書” (PDF) (プレスリリース), 国土交通省航空局, オリジナルの2013年11月1日時点によるアーカイブ。
- ↑ ただし、公式実務訪問賓客・実務訪問賓客・外務省賓客などは通常成田空港を使用する。
- ↑ ほかには関西国際空港、中部国際空港、新千歳空港、北九州空港、那覇空港。メンテナンスや騒音の影響で完全な24時間運用が可能なのはこのうち関西国際空港のみ。
- ↑ ヤマト運輸の「超速宅急便」などの高速宅配サービスが行われている。
- ↑ 同社への出資については上記の日本空港ビルデングのほか、成田国際空港株式会社なども参加している。
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- ↑ ただし、運航開始時点ではいまだ占領下であり、運航・整備をノースウエスト航空へ委託しての出発となった]]
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関連項目
- 日本空港ビルデング
- 東京国際空港ターミナル
- 首都圏第3空港構想
- 第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地
- 東京空港警察署
- 羽田空港発着枠
- 羽田スカイアーチ
- 羽田・成田リニア新線構想
- 羽田事件
- 成田国際空港
- ドラマ人間模様 - 「羽田浦地図」で1945年に強制退去させられた旧住民らの人生を描いている