吉田拓郎

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吉田 拓郎
出生名 吉田 拓郎
別名 よしだ たくろう
入江 剣
生誕 (1946-04-05) 1946年4月5日(78歳)
日本の旗 日本 鹿児島県伊佐郡大口町
(現:伊佐市
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市(現南区
学歴 広島商科大学(現:広島修道大学)卒業
ジャンル J-POP
フォークソング
ニューミュージック
ロック
職業 シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
コーラス
ギター
ハーモニカ
ベース
パーカッション
活動期間 1970年 -
レーベル ELEC
1970年 - 1971年
CBS SONY/ODYSSEY
1972年 - 1975年
FORLIFE
1975年 - 1999年
IMPERIAL
2000年 - 2009年
avex trax
2009年 - )
事務所 竹田企画
共同作業者 新六文銭
瀬尾一三
愛奴
かまやつひろし
松任谷正隆
ブッカー・T・ジョーンズ
加藤和彦
LOVE LOVE ALL STARS
吉田建
武部聡志
鳥山雄司
公式サイト 吉田拓郎 avex official website
著名使用楽器
ギブソンJ-45
マーチンD-35
ヤマハL-53
フェンダー・テレキャスター(ビグスビー・アーム付きモデルなど多数)
フェンダー・テレキャスター・シンライン
ギブソン・レスポール
ヤマハCPX-15NA
ボブ・ディラン

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーフォーライフ・レコードの第2代社長である。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現:伊佐市)出身。広島商科大学(現:広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5cm。

夫人は四角佳子1972年 - 1975年)→浅田美代子1977年 - 1983年)→森下愛子1986年 -)。

楽曲提供者としては入江剣[1]の名も用いている。

人物

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2][3][4][5][6][7]、1970年代初頭、マイナーであったフォークロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である[8][9][10][11][12][13]。また、大規模ワンマン野外コンサートラジオの活性化、CMソングコンサートツアープロデューサーレコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした[12][14][15][16][17]日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している[18]。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[19]

来歴

生い立ち

1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれる[20]。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し[21] 谷山小学校に二年生まで在学[20](歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている[21]。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者[20]。父は吉田家に養子に入った人で[20]、鹿児島県の郷土史家である吉田正廣[20][21]。兄は鹿児島ラ・サール高校出身で、母はラ・サール高校の学生寮で栄養士をしていた[21]。両親の出身地は知らない[20]、母方の祖母が広島の出身と話している[20]1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した[20]。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校[22]。鹿児島時代、音楽への関心はまったくなかったが、立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった[23]。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた[23]。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦[24]1962年皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した[25]。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した[23]

1965年広島商科大学(現・広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[26]

アマチュア期

1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場[23]。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱し[23]、中国大会2位、全国3位となる[27]。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが[23]、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く[28]、単身上京した[28]1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し[29][30]兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った[31]。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した[32]。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる[33]。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[34][35]。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送DJを担当したりした[36]。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学バリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い[37]、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいヤジを浴びせられた[38]1969年には、カワイ楽器広島店[39]に就職内定したが[40]上智大学全共闘のメンバー[41]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[42]1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した[43]。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した[7]

よしだたくろう期(1970年 - 1974年)

エレック所属期

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職する[44][45]。エレックはまともな仕事は取ってこれず[46]愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[47]6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが[48]、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される[49][50][51]。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる[52]1971年10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション[53]『ユイ音楽工房[注釈 1]』を設立[53][54]。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供[55]

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期

1972年1月CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ[56]。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売りあげた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された[57]。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった[57]。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった[58]。2月26日に公開された近代放映製作東宝配給映画百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱[59]6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子結婚式を挙げた[60]。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた[61]。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた[62][63]

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された[64][65]。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ[66]。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CMスバル・レックス富士重工)、テクニクス松下電器))の自粛といった処置がとられた[65]。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した[67]

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞を受賞した際、上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取った[68]

吉田拓郎以降

フォーライフ・レコード設立

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)[69][70][71][72]

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドール井上陽水エレック泉谷しげるベルウッド小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社[53]フォーライフ・レコードを発起した[5][49]。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する[73]。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる[74]

1976年4月に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている[75]11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバムクリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月浅田美代子と再婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[76][77]

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である[78][79]

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した[80]。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど[81]、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した[16]

フォーライフ・レコード社長を退任

1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された[80]

1983年浅田美代子と協議離婚する。

1985年6月15日には、国立競技場国際青年年(IYY)記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正とともに企画運営し、司会をつとめて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年12月森下愛子と再々婚する。

テレビ出演の増加

1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する[82]

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年NHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり[80]、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行なう[80]

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っさげて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行ない、5万人を動員する[80]

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで

1999年9月30日フォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月インペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦テイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺ガン手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavexに移籍する[15][注釈 2]6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる[83]

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-rayDVDCD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する[84]

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された[85]

シンガーソングライターとして

音楽性

政治性を排除

テンプレート:Trivia

  • 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は[9][57][86][87]、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注釈 3]を浴び、石を投げられることもあった[5][9][57]。「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した[88]
  • 1972年4月22日日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[89]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[90][91]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件)[92][93][94]。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった[95]。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった[9]。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで[7][58][96]、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた[97]。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った[98]
  • 反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない[99][100]。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである[99]。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる[95]。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やした[95]。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく[101]、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた[9][88][100][102][103]北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている[104]寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[105]。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず[106]、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」などと述べている[107]菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている[108]スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けたがしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」などと評している[101]。60年代のカレッジフォークや社会派フォークとはまったく異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった[59]筒美京平は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている[109]。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている[12]。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている[110]富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている[111]
自作自演スタイルの一般化

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  • ダンガリーのシャツにジーパンギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ[112]、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[113]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた[114][115]
  • 泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている[116]。拓郎ほどその生きざまと歌がぴったり一致しているアーティストはいない[117]
  • それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した[87][99][118]。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった[7][118]
  • 拓郎の効果でギターダンガリーシャツジーパンが非常に良く売れた[119][注釈 4]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた[120][121][122]。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ[123]。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた[124]
ニュー・フォーク
  • 『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌いあげている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された[125]
  • 『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[126]。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった[127][128][129]。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが[98]、これらは拓郎登場以降の呼び方である[98]
  • 拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった[130]なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている[64]
  • 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[100][131][132]

影響を受けたミュージシャン

洋楽の原点

洋楽の原点はニール・セダカコニー・フランシスリック・ネルソンヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス夏の日の恋」など映画音楽だった[133]。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズスペンサー・ディヴィス・グループサム&デイヴオーティス・レディングサム・クックウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[134][135]

ボブ・ディラン

楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[9][16][136]。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している[137]

"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングヒーロー"、"ビートルズドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている[138]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[139]。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[140]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹みうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している[141]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している[142]

高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[9][93][143]

山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ(Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[144]

パクリとアンチテーゼ

特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[145]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[146]小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[147]

拓郎は関西フォークが嫌いで[148]、関西フォークと自分の音楽の違いを"私たちの歌"と"私の歌"と述べている[148]。『イメージの詩』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している[149][150]

作詞法

字余りの作詞法

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  • 曲作りに多用した"字余り、"字足らずという作詞法は[4][7][151][152][153]、日本に於けるその元祖といわれ[154][155][156]、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた[118][152][156][157][注釈 5][158]
    • それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜ひとつにひとつの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない[151][159]言葉を自由にメロディに載せる、或いは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである[4][12][160][151][161]。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである[117]。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない[4]
    • ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べている[162]
    • 他に「コードリズムの上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「アドリブで歌っているような」という表現もされた[163]
  • この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[164][165]
  • 小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている[166]
  • 小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズジャックス岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」などと述べている[167]
  • 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」[168]成毛滋は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している[169]
です・ます調の普及者

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  • 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその"普及者"といわれる[151][170][171][注釈 6]
    • 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた[172]
    • 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている[173]
  • こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。

作曲法

拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン

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  • 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[4][176]
    • フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は[177][178]、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている[53][107][152][179][180]
    • 拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[181]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[182][注釈 7]
  • 近田春夫[183]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[184]
  • 喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[185]
  • 小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ[167][186]、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している[167]
  • 小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[187]
  • 福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話している[188]
  • 佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[189]

歌唱法

山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している[178]

小坂忠久保田麻琴荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[190]

織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている[191]

YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている[192]

小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[9]

こうした作詞法[注釈 8]や作曲法、テーマ設定[注釈 9]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注釈 10][193]渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[194]

多様な音楽ジャンルへのアプローチ

アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり[16][195]ザ・ベンチャーズボブ・ディランサム&デイヴビートルズらを渉猟した拓郎は[196]、フォークのみに依拠したわけではない[16][104][197][198]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため[99]、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[199]。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話している[23]篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている[200]相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」と論じている[201]北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[104]。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一学習院大学教授におさまりかえって自民党走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している[202]牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[203]。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックジャパニーズロックへつながっていく[13]

桑田佳祐は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている[204]

1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[205]

アルバム製作

ロックバンドと共同でのアルバム制作
  • 1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注釈 11]を起用した。
    • スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[206][注釈 12]
    • 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
  • 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に[注釈 13]、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[9][207]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[208]。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[209]
ライブ・アルバム
  • 拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる[210]。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[211][212]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[213]。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[214]

コンサート・ツアー

  • 1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[5][64][215][216]。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった[217]。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[218]
  • 1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった[219]
  • 1975年8月2日3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった[4][220][221]
  • 1979年7月26日27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注釈 14][222]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[223]。ゲストに小室等長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである[224][225]
  • 2006年9月23日、31年ぶりにつま恋かぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。

音楽ビジネスへの影響

テレビ出演拒否

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  • 1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行う[2][4][9][226][227]。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている[228]。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある[229]
    • 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした[230]
    • 紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。そのため、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着した[231]
    • 女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到した[228]が、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った[2][232]
    • 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[233][232][234]
    • 彼のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した[228][235]。これは各所属事務所、或いはレコード会社の戦略によるものであった[226][注釈 15]
    • 拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが[236]、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ[237]
    • 相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている[238]
    • 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所アイドルKinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった[239]。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている[239]

フォークの地位の向上

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  • フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となる[6][93][240][241]
  • 1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した[53][62][242][243]。エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[244]。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった[245]。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる[245]。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す[245]
  • マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[246]
    • ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[247]。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した[248][249]
    • 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
    • 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している[250][251]
  • 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者[252]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である[253]

コマーシャルソング

ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである[254][255]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[196][256]1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[257]

僕の旅は小さな叫び

CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」[258]
松下電器産業Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N)の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった[258]

この年は他にSEIKOタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他[258]中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[259]

HAVE A NICE DAY

1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[255][260][261]。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[262]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[263][264][265]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる[262]。CMの作詞作曲料は85万円[258]

1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞[266]。同年、りりぃ山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[258][267]

これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[258][260]

これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった[268]広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[263][269][注釈 16]
小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[270]

桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[271]

新旧の音楽界の交流の活性化

森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[272]渡辺プロダクションは、これを機に布施明小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[273][274]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[275][276][277]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後阿久悠筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[278][279]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[280]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[281]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[276][282]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[179]。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった[276]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[283][284][285][286][287]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[288][289][290]

ミュージシャン系プロデューサーの先駆

小室哲哉つんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[291]。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される[64]。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし[292]、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである[285]

かまやつひろし

かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエットシンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。

こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[285][293][294]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[295]。『ミュージックフェア』で共演もしている。

キャンディーズ

1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。

もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[296]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[297]。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており[298]真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[299][300]

「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[301]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)[302]。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し[303]、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[304]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[179][305]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[306][307]

このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![308]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。

梓みちよ

梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[309]。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している[310]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[311]1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した[312]

原田真二

フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [313][314]原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[288][289]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆瀬尾一三を交えて合宿させたり[315]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[316][317][318]

こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[注釈 17]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[319]フォーライフの危機をも救った[320][321][322]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[317][323]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[290][324][325][326]アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの[327][328][329]

石野真子

石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[330]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[331]。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[332][333]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[334]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。

吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。

なかにし礼

1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした[335][336]。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している[336]。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した[337]

ラジオ・パーソナリティとして

しゃべり(MC)の魅力

ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[338][339]田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している[58]。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた[116]。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった[116]。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである[116]

拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[340][341]ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[342]

初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[343]

こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[344]。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた[345]

拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[227]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[93][346][347]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオパーソナリティでさらに活かされることになる。

ミュージシャン・パーソナリティ

1971年10月にパックインミュージックパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[4][348][349][350]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[351]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[352][353][354]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[352][355]亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[356]。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている[357]

楽曲のプロモーション

ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[358]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[358][359]

ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍

出演

現在の出演

テレビ

ラジオ

過去の出演

テレビ

音楽番組
テレビドラマ
バラエティ
  • 地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
  • 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
  • T×2 SHOW(テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
旅番組
  • 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂ラサール石井と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊眞鍋かをりらと共演。
ドキュメンタリー番組
  • 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
  • スーパーテレビ情報最前線『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
  • プレミアム10『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)

ラジオ

映画

CM

NHK紅白歌合戦出場歴

NHK紅白歌合戦には1994年に初出場。バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし森進一前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。

年度/放送回曲目出演順対戦相手
1994年(平成6年)/第45回外は白い雪の夜11/25松田聖子(10)

関連人物

主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や・ら・わ行

グループ

外国人

3度の結婚

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四角佳子
  • 最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[227]
  • 二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
  • スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
  • 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[227]
  • 四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[360]
浅田美代子
  • 二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
  • 後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話し、当時の拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。
  • 一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
  • なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[361]
  • 最初にこの二人の交際報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也樹木希林夫妻の奔走があったという[362]
  • 以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタロー南こうせつのコンビが務めた[363]
森下愛子
  • その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[79]
  • 「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」[364]や『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD[365]での、拓郎と中村雅俊の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から大船であったので、「拓郎さん、ホテルに行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
  • オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[366]
  • 他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[367][368]
  • ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている[369]
その他
自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを長渕剛石野真子との結婚の時にした[179][370][371]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[331]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[331][367]

交友関係

ミュージシャン

浅川マキ

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  • 浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという[372]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[373][374]
  • 写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影の依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[375]
  • 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[372]
THE ALFEE

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  • 1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った[376][118]
  • 高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[377]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[378]アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[379]
飯田久彦

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泉谷しげる

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  • 泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[381]
  • 1999年のかまやつひろし還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン井上陽水堺正章桃井かおりアルフィー今井美樹石井竜也NOKKOらが集まって[382]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[383]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[384][385][386]
  • この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカ1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した[385]
忌野清志郎

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  • 拓郎は、1971年7月からライブハウス渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[387]。とは言っても、特に確執があったわけではない。拓郎はこの頃の事を振り返り「RCとはあの頃よく同じステージに立ってたよ。弾き語りで歌も暗いイメージのフォークソングが多い中で、アコースティックでもポップでR&B的な存在は見ていて楽しかった」と語っている[388]
  • 逆に、拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュした[389]
  • 清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム『Hawaiian Rhapsody』で拓郎に「こころのボーナス」を提供した[390]
  • 清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャ言ったこともあった。
小田和正

テンプレート:Trivia

  • 同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている[391][392]。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ[391]。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた[391]
  • その後、拓郎のラジオ番組でゲストに呼んだ小田に初体験の話を聞き、小田ファンから大量のカミソリを送りつけられる事件があり[393]、付き合いが少々濃くなったのは、前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀渕昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
  • この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[注釈 18]。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という[385]。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水忌野清志郎さだまさし南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた[394]。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。
  • 同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送された[395]。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという[396]。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
  • 2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していた[397][398]
  • 2013年12月25日放映された、小田がMCを務める『クリスマスの約束』(TBS)に拓郎が初出演し、小田は「1970年代、多くの若者が背伸びして何かを求めていたあの時代、歌には強いメッセージが求められていました。そこに、カリスマと呼ばれるシンガーがいました」と拓郎を紹介した[399]
かぐや姫

テンプレート:Trivia

  • 山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。
  • まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。
  • かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
  • 2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけ[400]
加藤和彦安井かずみ

テンプレート:Trivia

  • 加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター(GIBSON J-45)を15万円で[401]譲った[402]。この2人は非常に仲がよかった[403]
  • 作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ野際陽子コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた[405]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。
  • 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
  • 1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている[406]
  • 2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
    • 出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法ジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲(アレンジ)を加藤に頼むことにした。
    • 安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年のの「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初[240]。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木ディスコに行っていたという[407]
    • 安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した[240]。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった[240][408]
    • 1994年に安井が亡くなり、1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、まったく付き合いがなかった[240][409]。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという[408][410]
かまやつひろし

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  • 拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。
  • かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った[240]
KinKi Kids

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  • KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「LOVE LOVE あいしてる」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった。
  • 「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[411]。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。
  • 堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している[412]
  • 堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた[413]」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた[414]」等と話している[415]
武田鉄矢

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  • 拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った[215]。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。
  • 付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[416]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している[215][417]
  • 武田は拓郎を"我々団塊のトップアイドル、カツコ良かった"と表現している[418]。武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している[419]
中島みゆき

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  • 1980年8月10日NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた[420][421]。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
  • 拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[422]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初のリクエストは「夢のない遺書のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる実年ソングとなった[423]。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[424][425]
  • 中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある[426]
  • 拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。
長渕剛

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  • 長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[427][428]。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである[429]
  • 1979年愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる[428][224]。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している[224]
  • ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたときは、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた[430]
  • 2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
桑田佳祐原由子
  • 桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており[431]、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『拓郎105分』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」[264](1972年富士フイルムCMソング)を挙げた。1985年のサザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』には、拓郎からの影響を思わせる『吉田拓郎の唄』という楽曲を収録している[158][432]。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した[433]。1986年ごろに拓郎の自宅へ招かれ、酔っぱらって無断でビートルズのピクチャーレコードを持ち帰ってしまい、のちにこのことを後悔し前述のフェンダーテレキャスターを送る共にそのピクチャーレコードを吉田本人に返したが、レコードについては吉田が「君とのいい思い出にしよう」という理由で送り返されたというエピソードがある[434][435]原由子も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという[436]
浜田省吾

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  • 広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある[437]。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった[438]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[439]。浜田らが「愛奴」を結成してCBSソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[440][441]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの[16]。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという[58]
  • 浜田は、1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーした(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)。ちなみに1985年に開催された『吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋』でもドラムでゲスト参加していたりと、長きに渡って交流を持ち続ける[442]
松本隆

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  • 職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[443]
  • 拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[444]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代アイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる[445]。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている[446]
森山良子

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  • 森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
  • 森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。
  • 1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)[447]
山下達郎竹内まりや

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  • 山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している[448]。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた[449]
  • 2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。
  • この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした[450][451]。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。
  • 拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した[450]。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている[452]
  • 2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内本人のアレンジにより3人で演奏した。
その他ミュージシャン
  • イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をドサ回りした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[453]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[454][455]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
  • 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[456]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[457]
  • 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった[458][459]
  • 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[460]
  • 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみ天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという[461]。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
  • 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[462][119]。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で[463]特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた[458]。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている[464][95]
  • 井上陽水石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄パックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[466][467]。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[468]
  • NSP高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという[469]。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している[253]
  • 岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの[470]。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[471][472]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[473]
  • 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロ大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[474]
  • 1976年ペドロ&カプリシャスに在籍時の高橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社はビクターと決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した[475]
  • 松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと[476][477]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている[476]
  • 松任谷正隆は、1971年の拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加しプロデビューした[478]
  • 中村雅俊とは、1975年俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い[479]。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春!』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの[480][481]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった[482]。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している[480][483]1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。
  • 矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという[484][485]。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた[486]
  • 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージ[487]は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た[488]。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた[489]。後に、この曲を、所に返した[490]。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している[487]。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『LIVE 絶滅の危機』)。
  • 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[493]
  • 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[494]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[495]
  • 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[496]。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり[497]、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[498][499]拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した[500]。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言した[501]。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「バイオリンを弾くから」と説明している。
  • 高橋ジョージがもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[502]
  • 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
  • YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ、私設のファンクラブにも入っていたという[192][503]。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している[192]。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。

ミュージシャン以外

  • 明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)[504]のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[505]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[20][506]
  • 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し[507]。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている[508]
  • 爆笑問題太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている[509][510]。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという[510]。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される[511]。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピース又吉直樹は、創作活動の原点となるほど拓郎から影響を受けたと話しており[512]カラオケでも拓郎の曲をよく歌うという[513][514]。他にダチョウ倶楽部も拓郎ファンという[515]
  • 秋吉久美子1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って『旅の重さ』を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[516]。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[517]。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。
  • 仲村トオルは、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという[518]
  • 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが[519]レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している[520]
  • 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」[521][522]「『イメージの詩』に14歳の私のハートは打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉は40年たった私の体の芯の部分に残っていて、今でもふとした瞬間に立ち上がってくることがあります」などと話している[522][523]
  • 漫画家では他に喜国雅彦が拓郎の大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している[524]
  • みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している[114][525][526]。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという[114][526][527]。みうらは拓郎の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している[114][526][528]。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズ倉持君からですよ」と解説している[529]。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している[530]
  • 泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している。
  • 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレイン[注釈 19][531]などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている[532]
  • 森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという[533]
  • 拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している[534][535][536]
  • 箭内道彦は、松山千春や吉田拓郎に憧れ、中学二年からギターを始めたという[537]
  • 任天堂専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している[538]
  • 2013年サッカー日本代表内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした[539][540]。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。
  • この他、江田憲司高須基仁佐々部清逢坂誠二森永卓郎らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している[20][541]

脚注

注釈

  1. 社名は小室等の愛娘・こむろゆいにちなむ(1月30日 ゲスト:小室等さん、こむろゆいさん - ドコモ団塊倶楽部)。
  2. 20歳近く年下の松浦勝人社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した
  3. 客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の第3回の中津川フォークジャンボリーでの暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った(頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、P231-232)。
    耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった(ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p132)。
  4. 本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が、「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため(永遠のJ-POP、2004年、島敏光、学習研究社、p229、230)。
  5. 桑田佳祐は自著「ロックの子」の中で、拓郎の"字余り"や"コマーシャルソング"にはまったと話している(ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89)。
  6. 音楽界に於ける、です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている(『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』p290-291)。
  7. 小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。
  8. 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p202)。
    歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p180)。
    1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」(アサヒ芸能、2009年7月16日号、p189)。
  9. Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
    「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137)。
    拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49)。
    反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p61)。
    「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122)。
    例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p166)。
    フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p26)。
    ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎
  10. 演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示(織田哲郎ロングインタビュー)。
    笠井潔は「ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた。陽水にしても、中島みゆきにしても、60年代歌謡の水準をそのまま高次化したわけではなくて、いったん吉田拓郎に体現されているような近代的表出意識を転回点にした上で、もう一度60年代歌謡の位相に戻ってくるという形をとっている」などと論じている(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、p20、21)。
    拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、p210-212)。
    小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p27)。などと論じている。
    フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p69
  11. ドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己
  12. 同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている(日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p120-121)。
  13. 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。
  14. 外国では、イギリスのワイト島フェスティバルが有名。
  15. 泉谷しげるは「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」などと述べている(週刊現代2013年9月7日号、「スペシャル対談 大竹しのぶ×泉谷しげる 痛快!居酒屋で人生を語ろう」)。
  16. 1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と大滝詠一だけであったといわれる(文藝別冊 大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史、河出書房新社、2005年11月、p176-177)。「Cider'73」からはじまる大滝詠一が手掛けた三ツ矢サイダーの名作シリーズは、拓郎の「HAVE A NICE DAY」に対抗するため、当初サクラカラーはっぴいえんどにCMソングを依頼したもので、はっぴいえんどの解散でこれは流れたが担当者が大滝の楽曲を気にいり、大滝個人に三ツ矢サイダーのCMが持ち込まれたもの(はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、p158-159、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p63、ほぼ日刊イトイ新聞 - 大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。第4回)。
  17. てぃーんずぶるーす6位、キャンディ10位、シャドーボクサー14位(期日不明)。(青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p92)。
  18. 当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う(アサヒ芸能、2009年8月20日号、p97)。
  19. ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。当時、ユイ音楽工房社長だった後藤由多加が飲食店事業の一環として1974年に立ち上げた。拓郎の楽曲「ペニーレインでバーボン」で有名になり、修学旅行のコースにもなった"1970年代原宿の象徴"ともいわれる名店(原宿ペニーレインを舞台化!! - 文化通信.compennylane | あの頃僕らはペニーレインで公式サイト ペニーレインとは『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』拓郎名曲の舞台 主演に“インディーズの歌姫”抜てき)。休日は終日満員となり、マッチが一日500個消えていき、地方から上京したヤングが地元に持ち帰るマッチはプレミアムがついて売れたという(週刊サンケイ、1975年5月8日号、p38-40)。1990年に閉店、2006年に復活した。

出典

  1. 好きだったモデル・入江美樹小澤征爾夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(田家秀樹 2007b, pp. 164,184,185、吉田拓郎 1994, p. 176)。
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  3. “拓郎最後のツアー9公演3万枚が即日完売”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2009年4月5日). オリジナル2015年10月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022133745/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090405-479041.html . 2015閲覧. ナタリー - 拓郎から星野源まで、男性シンガーソングライター名盤紹介DIGAとオヤジと音楽と。 ブルーレイ/DVDレコーダー
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 シンコーミュージック 2013, p. 6.
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー
  6. 6.0 6.1 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
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  8. BS日テレ - 「地球劇場〜100年後の君に聴かせたい歌〜」#3 ウタビト 吉田拓郎谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 Shinji Tanimura Official site『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト井上陽水、唯一無二の世界観で魅せた「UNITED COVER2」東京公演
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 9.8 9.9 【吉田拓郎「元気です」】 日本の音楽のあり様に革命を起こす - ダイヤモンド・オンライン発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ
  10. 今日は一日 三昧(ざんまい)(archive)]
    iTunes - ミュージック - 吉田拓郎「よしだたくろう 青春の詩」
    BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」 結婚しようよ/吉田拓郎 2008年1月24日放送
    田家秀樹 日本ライブ伝説(1)吉田拓郎と1970年代 野外へ放たれた叫び
    吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響
    今日は一日 三昧(ざんまい)(archive)
    吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ
  11. Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会 2001, p. 19.
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 馬飼野元宏 2014, pp. 118-120.
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  14. 「あの年この歌SP「日本の音楽を変えた4人」あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜BSジャパン、2016年1月16日放送
  15. 15.0 15.1 吉田拓郎 Takuro Yoshida4吉田拓郎 Takuro Yoshida5
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 Takuro Yoshida: Shangri-LaThe Band Website (英語)
  17. すべては吉田拓郎から始まった―吉田拓郎展. TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY TAKURONICLE 1970 >>> Just now126ch SUPER LEGEND 名盤チャンネル 吉田拓郎- Music Bird【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK読売新聞、2010年1月1日2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!(archive)吉田拓郎 3年ぶりの首都圏ライブ開催決定 | Musicman-NET(archive)、5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部1月23日の放送は~|J-POP LEGEND FORUM|FM COCOLO大編集後記その八。吉田拓郎が教えてくれた。 | 雑誌・昭和40年男日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に井上陽水「能古島の片想い」に見る片想いの美学 | Bizコンパス、島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、p281-283、381
  18. 『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p661、ISBN 978-4816912238)。
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  20. 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 20.6 20.7 20.8 20.9 「ロングインタビュー 吉田拓郎 家族・時代・仕事をめぐる対話 〈聞き手・重松清〉」『すばる集英社、2010年3月号、122-150。
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  29. 田家秀樹 2007b, p. 278.
  30. LOVE LOVE あいしてる
  31. profile97 | www.morinaga-hiroshi.com book - 森永博志
  32. 田家秀樹 2007b, pp. 291-298.
  33. 田家秀樹 2007b, pp. 349-360,422-431.
  34. ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」(archive)、蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABELあの時の歌は…学都遠く - 暴走族(archive)
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  38. 吉田拓郎 1980, pp. 27-28
    読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p121
  39. カワイミュージックショップ広島
  40. 吉田拓郎 2002, pp. 64-66.
  41. ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p47
  42. 音楽出版社 2008, pp. 27-28.
  43. シンコーミュージック 2007, p. 40.
  44. 田家秀樹 2007, p. 7
  45. R−S20夜明け前?-エレックレコード社長のべらんめえブログ、FOR LIFE RECORDS -PARADISE DIGITAL(archive)
  46. 46.0 46.1 田家秀樹 1994, pp. 141-142.
  47. ツアーMC
    本田 路津子・特別インタビュー(archive)
  48. 別冊宝島編集部 2006, p. 77.
  49. 49.0 49.1 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」
  50. 田家秀樹 2011, pp. 52-53.
  51. 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、p41-42、51-52
  52. 吉田拓郎 1980, p. 32.
  53. 53.0 53.1 53.2 53.3 53.4 『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p661、ISBN 978-4816912238
  54. 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p60-63
  55. ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p225
  56. 吉田拓郎 1976, p. 191.
  57. 57.0 57.1 57.2 57.3 田家秀樹特集 1970年代フォークソングの季節 サブカルチャーから若者文化の主流へ」、『週刊昭和48年』第21巻、朝日新聞出版2009年5月3日、 pp. 14-16。()
  58. 58.0 58.1 58.2 58.3 ニッポン放送「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2013年6月24日放送、竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」
  59. 59.0 59.1 佐々木淳・丹治史彦編『唄えば天国 - ニッポン歌謡映画デラックス 地の巻』メディアファクトリー、1999年、p227
  60. 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲
  61. 読売新聞、2009年12月9日、13面
  62. 62.0 62.1 jinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第2回
  63. あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話
  64. 64.0 64.1 64.2 64.3 「'70年代ヒットパレード大特集 あのとき僕らの言葉が歌になった! 吉田拓郎が駆け抜けた節操なき10年」、『FLASH臨時増刊 Extime(エクスタイム)』、光文社2007年10月10日、 28-34頁。
  65. 65.0 65.1 プレイバック芸能スキャンダル史 吉田拓郎「金沢事件」 女子大生の狂言でCM自粛、放送禁止に
  66. シンコーミュージック 2007, p. 126.
  67. 月刊明星、1973年8月号、集英社、〈独占!よしだたくろう1800字自筆手記〉、p82-85
  68. 石原信一 1985, pp. 76-77.
  69. 『ラインダンス』、井上陽水、新潮社、1982年、p130
  70. 日本経済新聞、1975年5月2日、p16、朝日新聞、1975年5月2日、p23
  71. ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p102
  72. 矢沢保 1980, p. 249.
  73. 人気ラジオ番組「緊急ハプニング集」! | アサ芸プラス第90回 新田 和長 氏 5. 加藤和彦氏との音楽的な日々| Musicman-NET
  74. 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p160
  75. 日本経済新聞、2006年4月12日、20面
  76. 新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、p151-155
  77. アサヒ芸能、2009年7月9日号、p39
  78. 封印歌謡大全、2007年、石橋春海、太田出版、150-151
  79. 79.0 79.1 別冊宝島編集部 2006, p. 34.
  80. 80.0 80.1 80.2 80.3 80.4 吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.
  81. 石原信一 1980, p. 228.
  82. 吉田拓郎 1994, p. 97.
  83. [1]
  84. 【オリコン】吉田拓郎、66歳でDVD最年長TOP10 P.マッカートニー記録抜く
  85. “吉田拓郎 ムッシュさん名曲「我が良き友よ」秘話語る「とにかくヒットを」”. スポーツニッポン. (2017年3月8日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/03/08/kiji/20170308s00041000219000c.html . 2018閲覧. 
  86. 清川仁 (2015年8月6日). “戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). オリジナル2015年10月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html . 2015閲覧. 
  87. 87.0 87.1 “THE ALFEE 坂崎幸之助さん、フォークソングを語る!”. エフエム東京. (2014年8月17日). オリジナル2015年10月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022145954/http://www.tfm.co.jp/hv/?itemid=84316 . 2015閲覧. 
  88. 88.0 88.1 黒沢哲哉『ぼくらの60〜70年代熱中記』、いそっぷ社、2012年、p98-101
  89. 1972年4月22日日本武道館、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある(サンデー毎日、1972年6月25日号、p43)。拓郎、岡林信康以外の出演者は、三上寛六文銭ガロはっぴいえんど遠藤賢司かまやつひろし加川良五つの赤い風船山下洋輔トリオほか。
  90. 田家秀樹 1994, p. 163.
  91. サンデー毎日、1972年6月25日号、p43
  92. 「ドキュメンタリー 頭脳警察」公開記念イベント11月11日編 - BARKS
  93. 93.0 93.1 93.2 93.3 柳井康弘「吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響 : 私生活フォークの成立と「僕の歌」をめぐって(芸術のロケーション)」、『Booklet』第12巻、慶應義塾大学、2004年1月31日、 83-92頁、 NAID 110004646497
  94. 吉田拓郎 1980, pp. 38-40.
  95. 95.0 95.1 95.2 95.3 60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p194
  96. イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、CBS・ソニー出版、p77-78
  97. シンコーミュージック 1992, p. 14.
  98. 98.0 98.1 98.2 小西良太郎「日本のフォークは、いま... "フォーク"という四文字言葉、それは一体何なのだ」『ニューミュージック・マガジン』、ミュージック・マガジン、1974年8月号、p24–27
  99. 99.0 99.1 99.2 99.3 学研ホールディングス 2001, p. 19.
  100. 100.0 100.1 100.2 富澤一誠のライブ・カルテ! 第44回 : 「岡林信康と吉田拓郎は特別な存在」
  101. 101.0 101.1 小西良太郎『昭和の歌100 ―君たちが居て僕が居た』、幻戯書房、2016年
  102. NHKネットクラブ 番組詳細(SONGS「吉田拓郎~今だから人生を語ろう」)吉田拓郎が「SONGS」初登場「いくつになってもラブソングを歌い続けたい」
  103. ぼくらの時代、ぼくらの歌、田川律著、思想の科学社、p110
    アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、P155-156
    NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19
  104. 104.0 104.1 104.2 Jポップを創ったアルバム 1966〜1995、北中正和平凡社、2008年、p40-43
  105. 日本総合研究所 || 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その5)日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷(archive)
  106. にほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、新潮社、p165-166
  107. 107.0 107.1 伊藤強『TV世代に夢をつれてきた 日本の歌手“50+1”人』、日本テレビ放送網株式会社、1990年、ISBN 9784820390152、p265-269
  108. 日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、菊池清麿論創社、2008年
  109. 自由現代社編集部『魂のフォーク・ソング大全集』、自由現代社、2011年、ISBN 9784798217468 p48
  110. 恩蔵茂 2001, pp. 3-5.
  111. 5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部ディランがいなければ、吉田拓郎は「文学者」になっていただろう - iRONNA
  112. 針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『徳光和夫のトクセンお宝映像!』帰ってきたフォークソング伝説2、BS日テレ、2012年3月14日放送)。
  113. ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p49)。
  114. 114.0 114.1 114.2 114.3 週刊現代、2013年3月5日号 p136-137 「わが人生最高の10冊」
  115. 芸能界でコーヒー・ブレイク:私の音楽評論はラブレターだった、吉見佑子、八曜社、1980年、p10
  116. 116.0 116.1 116.2 116.3 泉麻人『僕の昭和歌謡曲史』、講談社、p132–138
  117. 117.0 117.1 富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、音楽之友社、1981年、p224-228
  118. 118.0 118.1 118.2 118.3 坂崎幸之助 2003, pp. 60-74.
  119. 119.0 119.1 山本コウタロー 2009, p. 4.
  120. 別冊宝島編集部 2006, pp. 5,20-21.
  121. 7 - _... moment ...._
  122. 浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw
    あの時代の風
    「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW
    時代に合った新しい映画を出していきたい - INTERNET Watch
    4 - sotozen-net(archive)
  123. 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p9
  124. ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、田口史人湯浅学北中正和監修、1996年、音楽之友社、p43
  125. シンコーミュージック 1992, p. 4-7.
  126. 矢沢保 1980, pp. 44-85.
  127. 矢沢保 1980, p. 61,133.
  128. 新版 日本流行歌史 下、古茂田信男、矢沢寛、島田芳文、横沢千秋、社会思想社、1995年、p63-64
  129. 菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、論創社、2008年、p245-246
  130. 五つの赤い風船とフォークの時代、なぎら健壱、アイノア、2012年、p194-195
  131. 坂崎幸之助 2003, pp. 69-70,110-114.
  132. 日本流行歌変遷史、2008年、論創社菊池清麿、p218-219、245-246
    日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、p72-73
    アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p149、152-153
    60年代フォークの時代、シンコーミュージック、p201-206、214
    70's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、ヒット出版社、p113
    わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p107
    ザ・サクセス・ストーリー 矢沢永吉からY・M・Oまで、1981年、塩沢茂、冬樹社、p10
    音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49、50
  133. 吉田拓郎 & 2002 p217.
  134. 田家秀樹 2007, p. 151.
  135. 気ままな絵日記、p48-50
  136. club willbe(クラブ・ウィルビー):インタビュー 加藤和彦さんは ...
  137. 日本経済新聞、2006年4月12日夕刊、p20
  138. 週刊現代、2012年2月25日号、p90
  139. 山本コウタロー 2009, p. 3.
  140. Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p17
  141. ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p38
    Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p38
    【みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集
    みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
    みうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p183
    浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw
  142. ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p48
  143. 田家秀樹 2007b, p. 82.
  144. 山本コウタロー 2009, pp. 64-65.
  145. AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年、朝日新聞社、p43
  146. 1973年12月の対談(小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p18)。
  147. 小室哲哉音楽対論 Vol.2、p40
  148. 148.0 148.1 田家秀樹 2011, pp. 44-45.
  149. 別冊宝島編集部 2006, p. 47.
  150. 吉田拓郎 1980, pp. 27-28.
  151. 151.0 151.1 151.2 151.3 Go!Go!GUITAR特別編集『初めて弾いたこの一曲』ヤマハミュージックメディア、2009年、ISBN 9784636846928、p19
  152. 152.0 152.1 152.2 Sony Music Shop | 吉田 拓郎・吉田拓郎 スーパー・ヒット・CD・DVD
  153. ディランから教わった「字余り」「字足らず」 吉田拓郎が思い語る えんび服で授賞式は想像できない吉田拓郎「僕はディランのモノマネ」70歳での初ツアー終了加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション本当の「プロの歌」を聴きたい 演歌「復権」の背景とは : J-CAST【インタビュー】中村雅俊「折り返し地点はとっくに過ぎたかなと。だから、先を目指すのではなく、今日をどう生きるか」@ぴあ/インタビュー 大橋卓弥 - チケットぴあSISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第二回 Page.2 - プレイリスト
  154. 毎日新聞、1998年11月20日7面
  155. 音楽出版社 2008, pp. 60.
  156. 156.0 156.1 米大統領選に影響も…「反体制」の象徴、ボブ・ディランがノーベル文学賞 吉田拓郎は「彼がいたから今日がある」 (2/2ページ)
  157. 山田兼士 字余りソングの詩的リズムについて 吉田拓郎の言語革命『洪水』14号、阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
  158. 158.0 158.1 時代は変われど転がり続けて - 日高新報 Web Hidaka
  159. guts、表現技術出版、1972年8月、p16
  160. 坂崎幸之助 2003, pp. 64-65.
  161. アーティストインタビュー:斉藤和義”. JOYSOUND.com. エクシング. . 2017閲覧.
  162. 村田久夫・小島智編 「金子洋明インタビュー」『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』 シンコーミュージック、1999-10-14、88-91。ISBN 4-401-613-40-6。
  163. guts、表現技術出版、1972年8月、p16
  164. 別冊宝島編集部 2006, pp. 36-37.
  165. 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p182-183
  166. 言葉の達人たち、阿久悠扶桑社、1993年、p201-226
  167. 167.0 167.1 167.2 木村ユタカ編著『俺たちの1000枚 10 Artists × 100 Albums』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2016年、ISBN 978-4-401-64350-9、p222-244
  168. フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、p141-160
  169. 「ニューミュージック・マガジン」1972年11月号、p100
  170. ニューミュージック白書、1977年、p54
  171. 171.0 171.1 よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、p116-119
  172. 江口寿史の正直日記、2005年、江口寿史、河出書房新社、p73
  173. 吉田拓郎 1984, pp. 146-148.
  174. 石原信一 1985, p. 97.
  175. 定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p222
    はっぴいえんどコンプリート、2008年、シンコー・ミュージック・エンタテイメント、p87
    失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203、206
    「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p26
  176. 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p194、【発掘!流行り歌 徒然草】椎名林檎「ここでキスして。」(1999年) 年配には受け入れにくい「違和感」は大化けの予兆 デビュー秘話 (2/2ページ)
  177. 吉田拓郎「古希」初ツアー 「そこらの70歳よりも元気なつもり」
  178. 178.0 178.1 音楽出版社 2008, pp. 64-68.
  179. 179.0 179.1 179.2 179.3 昭和歌謡 勝手にベストテン、宝泉薫、彩流社、2009年、p48-51
  180. 別冊宝島編集部 2006, pp. 21-22.
  181. 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p15-20
  182. 小室哲哉音楽対論 Vol.2、p38-40
  183. 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、1998年、アスペクト、p9234-239
    筒美京平を否定する人たちがいた1980年代はじめ、近田が「筒美京平はすごい」と言ったことが筒美神話のはじまり(その意味は 考えるヒット4、2001年、近田春夫文藝春秋、p161)。
  184. 定本 気分は歌謡曲、1998年、近田春夫文藝春秋、p25
  185. この街で君と出会い、1975年、喜多条忠、立風書房、p145
    Charは『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで「JOHNNY, LOUIS & CHARPINK CLOUD)1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作ったと話している(Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p127)。
  186. 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p9
  187. 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p98
  188. SPA!、2009年8月4日号、p143、扶桑社CIRCUSKKベストセラーズ、2009年12月号、p89
  189. J-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ、1999年、佐藤良明平凡社、p170
  190. 『僕の音楽物語 1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』、平野肇、祥伝社、p98-99
  191. 吉田拓郎の古希祝いトリビュートに民生、ミセス、鬼束、ポルノ - ナタリー
  192. 192.0 192.1 192.2 読売新聞、2010年10月22日夕刊、p14
  193. 阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
    石崎ひゅーい×須藤晃「アタラズモトオカラズ」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー
    小野瀬雅生 インタビュー|MUSICSHELF
    インタビュー:意識よりも“衝動”に忠実な全12曲を収録! andymori
  194. 渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p345
  195. ザ・ダウンタウンズ時代の吉田拓郎。秘蔵音源お聴きのがしなく。
  196. 196.0 196.1 恩蔵茂 2001, pp. 221-226.
  197. はっぴいえんど、拓郎、ユーミン…Jポップ創始者たちが唄う“春の名曲”5選Special Interview スペシャルインタビュー - MOMM | MusicMusic Scene VOL.02 田家秀樹、日本ロック大系、白夜書房、〈上巻〉p194、ミッキー・カーチス、おれと戦争と音楽と、亜紀書房、p207
  198. 田家秀樹 2007, p. 19.
  199. 流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p103
  200. J-ROCKベスト123-1968-1996、篠原章講談社、1996年、p61
  201. 相倉久人『相倉久人の70年代ロック&ポップス教養講座』音楽出版社〈CDジャーナルムック〉、2007年、p228-234
  202. 矢沢保 1980, p. 51,52.
  203. 70'sバイブレーション!Museum Talk | Museum of Modern Music 1960 牧村憲一(音楽プロデューサー) × 松山猛(エッセイスト)× 高橋靖子(スタイリスト)4
  204. ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89
  205. ぴあMOOK「氷室京介ぴあ」ぴあ、2013年8月20日発売、p13
  206. エレックレコードの時代(2006年9月・アクセス・パブリッシング)p48
  207. Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
  208. ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p134
    ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
    アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36、37
    guts、表現技術出版、1973年1月、p31
    「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
    ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days(archive)
  209. 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40、41
  210. シンコーミュージック 2013, p. 7.
  211. & 田家秀樹 2007, p. 25.
  212. 石原信一 1985, pp. 203-204.
  213. 田家秀樹 2007, p. 31
    豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、ぴあ、p7
  214. 田家秀樹 2011, pp. 142-143.
  215. 215.0 215.1 215.2 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  216. 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p8
  217. 吉田拓郎 2002, pp. 158-162.
  218. 情報には色をつけない - asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
    『ぴあ』の時代、掛尾良夫著、キネマ旬報社、2011年、p64-66
    『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、p116-117
    田家秀樹 1994, p. 27,146
    渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、p153-160
    読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年、p143-146
    明日に向かって走れ、p136-137
  219. ヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、p76
  220. カルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 234〜240/ Slownet SNS
  221. 吉田拓郎 - おんがく日めくり | YAMAHA
  222. 田家秀樹 2007, pp. 10-11.
  223. ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
  224. 224.0 224.1 224.2 しゃべくり007』、日本テレビ、2013年3月18日放送(Techinsight » 【エンタがビタミン】「帰れって言う、お前らが帰れ!」長渕剛が伝説の“帰れコール”について真相語る。
  225. 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p185-198
    吉田拓郎 Island Concert in 篠島
  226. 226.0 226.1 泉谷しげる - TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK
  227. 227.0 227.1 227.2 227.3 guts、1972年5月号、p8-11
  228. 228.0 228.1 228.2 吉田拓郎 1984, pp. 131-135.
  229. 音楽出版社 2008, pp. 48.
  230. ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p48
  231. 紅白歌合戦と日本人、太田省一、筑摩書房、2013年、p123-126、サンデー毎日、1972年12月10日号、p40、1976年12月12日号、p33
  232. 232.0 232.1 富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』共同通信社、1979年、p178-181
  233. 恩蔵 2001, pp. 221-226.
  234. 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p64-66
    ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p59
    わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p110、148
    Jポップとは何か、2005年、烏賀陽弘道岩波書店、p70-71
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p48
  235. サンデー毎日、1974年10月6日号、「井上陽水のフォークの世界」p150-151、戦後世論のメディア社会学、佐藤卓己柏書房、2003年、p183
  236. ザ・ベストテン、山田修爾ソニー・マガジンズ、2008年、p188-189
  237. テレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、青弓社、2007年 p75、週刊朝日、1978年12月29日号、p37
  238. アイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、相澤秀禎スコラ、p121-122
  239. 239.0 239.1 田家秀樹 2001, pp. 164-165.
  240. 240.0 240.1 240.2 240.3 240.4 240.5 島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、p281-299
  241. 吉田拓郎登場!! | フォーラム - 谷村新司 SHINJI TANIMURA
  242. 牧村憲一さんへのインタビュー - デジタルサウンドシンポジウム@浜松
  243. 昭和フォーク&ロック音楽堂、中村よお、青幻舎、2008年3月、p53
    TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、p189、190
    フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p73
    戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p130、131
  244. 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p63
  245. 245.0 245.1 245.2 馬飼野元宏 2014, p. 245.
  246. 【ああ懐かしの雑誌黄金時代】『深夜放送ファン』 フォークシンガーがスターだった証し
    日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p193
    われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版社、p177
    ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175
    NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19
    ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p49
  247. シンコーミュージック 2007, p. 71.
  248. 吉田拓郎 これが青春 |シンコーミュージック・エンタテイメント
  249. 馬飼野元宏 2014, p. 192-198.
  250. 別冊宝島編集部 2006, p. 19.
  251. 日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p232
  252. 元祖フォーク評論家の立志を後押しした「今日までそして明日から」〜富澤一誠 第2回第1回 からだが溶ける至福の体験 ブルガリアン・ヴォイス
    最強のミュージックマンが音楽を語る!!-ORICON STYLE ミュージック
    庄司明弘インタビュー
    あの時代の風
    BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲
    大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb
    磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴
  253. 253.0 253.1 レポート - フジテレビMusicman'sリレー きくち伸インタビュー2012年11月 - きくちPの音組収録日記 - フジテレビLOVE LOVEあいしてる(19) - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ
  254. ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち、立風書房、1980年、p88
  255. 255.0 255.1 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK
  256. 音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p50
  257. メディア時代の広告と音楽 変容するCMと音楽化社会、小川博司、粟谷佳司、葉口英子、小田原 敏、小泉恭子、増田聡、新曜社、2005年、p28、29
  258. 258.0 258.1 258.2 258.3 258.4 258.5 ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p216
  259. ニューミュージックの本―日本のフォーク&ロック FM fan コレクション★POPS(2)、1978年、富澤一誠監修、共同通信社、p61
  260. 260.0 260.1 「セイ!ヤング」1980年1月4日放送
  261. フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p76
  262. 262.0 262.1 ブレーン別冊『キャッチフレーズ3000選 戦後30年のヒット広告とコピー発想法』島森路子他、マドラ・グループ編著、誠文堂新光社、1976年、p65、128
  263. 263.0 263.1 HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜 BSフジ 「CMの中のJ-POP」2005年3月11日
  264. 264.0 264.1 富士フイルムのあゆみ
  265. 現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p244
    テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、長谷正人、太田省一編著、p148
    タイアップの歌謡史、洋泉社、p87、136
  266. ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p61-63
  267. Lapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p38
  268. フォーク名曲事典300曲、富沢一誠著、p208、209
    みんなCM音楽を歌っていた、田家秀樹著、徳間書店、p46
    すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p88
  269. 『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、p122-123
  270. 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40-44、57
  271. 思想としての60年代、桜井哲夫、講談社、1988年、p128
  272. アサヒ芸能徳間書店、2009年6月25日号、p39、2009年7月23日号、p189
  273. 別冊宝島編集部 2006, p. 24.
  274. アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p157-158
  275. 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p27-28
  276. 276.0 276.1 276.2 別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p140
  277. 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p111
  278. ホットドッグ・プレス、1980年2月号、講談社、p105
  279. 『阿久悠 命の詩〜『月刊you』とその時代〜』、講談社、2007年、p112、113
  280. 矢沢保 1980, p. 22.
  281. イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、CBS・ソニー出版、p94-95
  282. 消費社会の広告と音楽、p41
  283. シンコーミュージック 2013, p. 12.
  284. 歌謡曲とフォークの架け橋めざして〜太田裕美さん
  285. 285.0 285.1 285.2 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122-125、194
  286. 失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p89
    FM雑誌と僕らの80年代、恩蔵茂、2009年、河出書房新社、p40、41
    青二才の頃 回想の70年代、p105
    すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p93
    週刊朝日1975年12月26日号、p35-41
  287. スーパーテレビ情報最前線 「吉田拓郎 『復活』への全軌跡」日本テレビ、2003年10月27日放送(archive)
  288. 288.0 288.1 原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE2/音楽情報サイト: hotexpress
  289. 289.0 289.1 原田真二セレクトのプレイリスト(MUSICSHELFインタビュー)
  290. 290.0 290.1 織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007
  291. シンコーミュージック 2007, p. 185.
  292. 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p222-223、明日に向かって走れ、p191-198、もういらない、p94-95
  293. 別冊宝島編集部 2006, p. 38.
  294. ムッシュ!、2002年、ムッシュかまやつ日経BP社、p141-153
    青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p142、152
    「FM雑誌と僕らの80年代 『FMステーション』青春記」、恩蔵茂、河出書房新社、2009年、p41、42
    「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年9月18日、p605、608
  295. 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p128
  296. 吉田拓郎、田中好子さんとの思い出秘話 - 芸能 - SANSPO.COM(archive)
  297. さよならのメッセージ、1978年、キャンディーズ勁文社、p188、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p188
  298. 石原信一 1980, p. 120.
  299. [2]
  300. [3]
  301. 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日
    拓郎はランちゃんが苦戦したのは、その日が生理だったからとマネージャーに言われたと記している{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}。
  302. 1977年発行 キャンディーズ ファンクラブ会報 No.9
  303. 毎日新聞、2008年4月3日夕刊2面
  304. 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日
  305. 自動改札のアイドルPOP考 VOL.2 - プレイリストから新たな音楽を発見
  306. 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYO FM出版、p158、159、209、210
  307. あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロウ」、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p254
    失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203
  308. 失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p90
  309. 吉田拓郎 1994, pp. 119-120.
  310. 垣花正のあなたとハッピー!ニッポン放送、2010年9月20日
  311. WEEK-END Party 〜forever young〜、NACK5、2007年4月20日
  312. スキャンダル 紅白歌合戦、竹中労、みき書房、1979年、p186
  313. オデッセイ★原田真二編、1978年、ペップ出版、p65、66
  314. 石原信一 1980, pp. 145-152.
  315. 原田真二インタビュー
    プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたり{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  316. 石原信一 1980, pp. 146-147.
  317. 317.0 317.1 第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略
  318. FLASH臨時増刊 Extime、p34
  319. 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房 p61
  320. 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p10
  321. 吉田拓郎 1980, pp. 151-152.
  322. アサヒ芸能、2009年7月9日号、p39、40
  323. 1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p165
    どうにもとまらない歌謡曲 −七〇年代のジェンダー、舌津智之、2002年、晶文社、p145
    日本ロック大系〈下巻〉、1990年、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p415
    別冊太陽 日本のロック 50's〜90's、1993年、平凡社、p105、106
    現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p300
    青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p213
    Media View 1970-1999 売れたものアルバム、2000年1月、東京書籍、p199
    Jロック&ポップスCD名盤ガイド 2001年 立風書房 60、200、237頁
  324. 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p11
  325. 日本ロック大系〈下巻〉、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p415-417
    Jロック&ポップスCD名盤ガイド、立風書房 p200
    J-ROCKベスト123 1968-1996、講談社、p158-160
    新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、p155-157
    「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年10月16日、p634-636、639
  326. 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p11
  327. 第25回 大里洋吉 氏 | Musicman-NET
  328. 田家秀樹 1994, p. 47,48,55,56.
  329. 「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」 デアゴスティーニ・ジャパン、2007年10月16日、p635
  330. 歌謡曲の時代 歌もよう人もよう、阿久悠、2004年9月、新潮社、p207
  331. 331.0 331.1 331.2 アイドルという人生、石川順恵、1998年1月、メディアワークス/主婦の友社、p41
  332. 吉田拓郎 1994, p. 121.
  333. 心に残るニッポンの歌」、テレビ朝日系、2009年1月1日
    石野真子さん(2/3) - インタビュー - ひと - どらく(archive)
    歌謡コンサートブログ:NHKブログ | スタッフだより | 『時代の歌
  334. 日刊スポーツ、2008年3月26日、p17
    アサヒ芸能、2009年7月23日号、p189
  335. 「昭和歌謡黄金時代 作詞家 なかにし礼の世界」NHK BS2、2012年8月8日放送、なかにし礼「時には娼婦のように」 世間の常識にノン【1978年5月】時には娼婦のように/ヤバすぎてテレビで歌えない?黒沢年男 事故で予感
  336. 336.0 336.1 「特集 昭和ですよ!」『kotoba』2013年冬季号、集英社、p43
  337. 放送禁止歌森達也光文社、2003年、p70-71
  338. シンコーミュージック 2007, p. 57,71.
  339. 別冊宝島編集部 2006, p. 78.
  340. 総武線猿紀行 総武線猿紀行第282回SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 Page.2 - プレイリストen-taxi 第21号、2008年、扶桑社、p94
  341. 吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック、p89
  342. Et Tu BRUTE?
  343. ヒットの種、2008年、サエキけんぞう東京ニュース通信社、p125
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p180
  344. ニュー・ミュージックマガジン1972年11月号、ミュージック・マガジン、p94
  345. guts、表現技術出版、1970年8月、p12
  346. シンコーミュージック 2007, p. 197.
  347. 別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、宝島社、2009年、p123
    アサヒ芸能、2009年7月16日号、p190
    SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 [Page.2] - プレイリスト
    近年のコンサート/ライブでは、こうしたMCも重要な構成要素とされるが、小室等は1980年に出した著書の中で、歌と直接関係を持たない、お客さん用のおしゃべりのような、くだらないことを拓郎にやらせた、覚えさせたのはファンに半分責任があると、MCに対する問題提起をしている(出会いは旅のなかで、小室等著、晶文社、1980年2月、p146)
    ほぼ同じ内容の記述(新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p66)
  348. オールナイトニッポンドリームウィーク
  349. 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p29
  350. 別冊カドカワ 井上陽水、p205
  351. 60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1』、p116
    NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19
    フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p77
    ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p120
    セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、p22-29、56-58
    嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY
  352. 352.0 352.1 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p25-27
  353. 別冊宝島編集部 2006, p. 85.
  354. 別冊カドカワ 井上陽水、p205
  355. タイアップの歌謡史、2007年、速水健朗著、洋泉社、p83
  356. 言葉の達人たち、阿久悠扶桑社、1993年、p174、嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY
  357. - MOMM | Music Scene 亀渕昭信03
  358. 358.0 358.1 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p194
  359. Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.6、p83、87
    関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p76、78
    アサヒ芸能、2009年1月29日号、p70、71、アサヒ芸能、2010年11月11日号、p71
    大野真澄 連載 - なこと一覧
  360. たくろうLIVE'73」ライナーノーツより
  361. この話は少し前があって、二人が付き合っている頃、拓郎の実家に行ったら、拓郎の祖父ら先祖の写真が飾られてあって、その人たちがみなハゲていたため、こういう返事になったとのことである(トーク番組での浅田の発言)
  362. 【1973年5月】赤い風船/浅田美代子 危なっかしが“いい宣伝”に ...
  363. 1979年篠島ライブ」での山本のMC
  364. テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日放送
  365. 2013年4月15日放送
  366. OSHARE 30・30 VOL2、日本テレビ放送網、1989年6月、p186-187
  367. 367.0 367.1 週刊朝日、1982年2月12日号、p136
  368. 歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p172
  369. 2013年3月1日NHK総合『あさイチ』内のインタビュー映像にて。
  370. 吉田拓郎 1980, pp. 112-123.
  371. 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p214-215
    よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、p120-121
    歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p19
  372. 372.0 372.1 浅川マキ、幻の男たち、講談社、1985年、p151-158
  373. 吉田拓郎と浅川マキ・ジョイントコンサート1972年
  374. 吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水、山崎ハコ、ガロ、ケメ、イルカ、リリー
  375. TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY. TAKURONICLE 1970-Just nowパンフレット、p14、15
  376. 音楽的日乗 スローハンドVol.2、p17
    地球音楽ライブラリー アルフィー、2004年、TOKYO FM出版、p336-339
    別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p34
  377. 【ビジョン】THE ALFEE、高見沢俊彦の本音「今さら路線変更できない」
    実は「王子」に抵抗があった : タカミー王子の秘密 : 生き方!
    【エンタがビタミン♪】「ロックには見た目も大事」。高見沢俊彦、堂々宣言。還暦になっても王子を貫く!
    高見沢俊彦 | ロングインタビュー | R25.jp
  378. 別冊カドカワ 総力特集 高見沢俊彦、2007年、角川ザテレビジョン、p12、13、31
    あきらめない夢は終わらない、2004年、高見沢俊彦幻冬舎、p181-183、201-203
  379. 別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p18、34
  380. 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD内の発言より
  381. わが奔走―IT'S MY LIFE、1988年、泉谷しげる、ロッキング・オン、p59-60、90-96
    泉谷しげるの治外法権、1994年、泉谷しげる著、徳間書店、p61-63
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p27
  382. ま、いいか、1999年、森山良子毎日新聞社、p234、235
  383. ニッポン放送「三宅裕司のサンデーハッピーパラダイス」2008年8月31日放送
  384. 泉谷しげると吉田拓郎の喧嘩にも遭遇…ムッシュかまやつ『ARTiST』で秘話明かす
  385. 385.0 385.1 385.2 兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記 2011年07月12日 スーパーバンド!
  386. 吉田拓郎と泉谷しげるが12年ぶりに和解 ラジオで大げんか懐かしむ ORICON STYLE 犬猿の2人ついに…泉谷しげると吉田拓郎が12年ぶり和解
  387. 小室哲哉音楽対論 Vol.2、p313-314<TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK
  388. オールナイトニッポンGOLD 2012年10月8日放送分
  389. 芸能界でコーヒー・ブレイク、吉見佑子、八曜社、1980年、p98-105
  390. きくち伸インタビュー
    Musicman'sリレー 第68回 吉田建氏
    JP MUSIC - CD詳細・試聴
  391. 391.0 391.1 391.2 YES-NO 小田和正ヒストリー、小貫信昭、角川書店、2000年、p86-87
  392. 吉田拓郎、小田和正と30年ぶりラジオ! - 芸能 - SANSPO.COM
  393. 『ザ・ビッグヒットトゥモロー』エフエム東京、1984年10月13日放送
  394. Archive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ | Echofield
  395. アーティスト ファイル UNION MUSIC OFFICE ユニオン音楽事務所
  396. 吉田拓郎 1984, p. 62.
  397. 田家秀樹 1994, pp. 140-151.
  398. TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、p67-69
    YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、p85-86、132、148-152、240、262
    Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、TOKYO FM出版、p205
    LOVE LOVE あいしてる
    吉田拓郎・お喋り道楽、p90-91
    風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p122-123、126、127
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p74
    シンプジャーナル ベストセレクション'80s、p160-163、166、167
  399. 【ライヴレポ】小田和正『クリスマスの約束』で、吉田拓郎と共演。ミスチル桜井とは新曲を共作し披露
  400. 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p142-145、149
  401. 気ままな絵日記、p120-121
  402. このギターから石川鷹彦の演奏で知られる「リンゴ」等、多くの楽曲が生み出された(アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36-38、マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」)。
  403. 日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p88
  404. TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正朝日新聞社、p67-69
    YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、p148-151
  405. 晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、2003年7月、小学館、p280-282
  406. 吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、p80-88
    晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、p292
  407. 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、河出書房新社、2010年、p196
  408. 408.0 408.1 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2009年10月20日
  409. 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、p177
  410. 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、p24、25、66、67
  411. ラブ ラブ KinKi Kids、スタッフKinKi、1997年、太陽出版、p12-24
  412. ポポロ』2009年4月号、麻布台出版社、p124
  413. 2011年11月12日NHK-FM「今さらですが突然KinKi Kids生放送」
  414. TBSテレビカミスン!』2011年11月7日放送
  415. 堂本剛が開拓したジャニーズ「アーティスト路線」 - Real Sound
  416. アサヒ芸能、2009年7月30日号、p187
  417. 吉田拓郎・お喋り道楽、p159-176
  418. ニッポン放送「テリーとたい平のってけラジオ」2009年4月17日放送
  419. プレイボーイの人生相談 1966-2006』、週刊プレイボーイ編集部集英社、2006年、p123頁
  420. 中島みゆきデータブック、1995年、落合真司青弓社、p20
    魔女伝説―中島みゆき、1982年、こすぎじゅんいち、CBS・ソニー出版、p80
    中島みゆき・言葉の向こう側、1998年、落合真司、青弓社、p92
  421. 音楽出版社 2008, pp. 72.
  422. 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p83、212
    産経新聞、1996年9月25日夕刊、p8
    最初は詞だけの依頼だったが、拓郎に今さら頭が上がらず、色々注文を付けられ詞も曲も書くことになったと中島は話している(満月みゆき御殿 『GB』中島みゆきファイル from 1980、1999年、萩原健太他著・ソニー・マガジンズ、p287)
  423. 中島みゆき読本、音楽出版社、2009年、p128
  424. 地球音楽ライブラリー 中島みゆき、2006年、財団法人ヤマハ音楽振興会監修・TOKYO FM出版、p194、217、218
  425. 音楽出版社 2008, pp. 52.
  426. 中島みゆき読本、p132、133
  427. 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p8、9、75-85
    NEXT、1984年1月、富澤一誠、潮出版社、p106-108]
    長渕剛インタビュー
    堂本兄弟、2004年2月29日
  428. 428.0 428.1 吉田拓郎 Island Concert in 篠島
  429. 第90回 新田 和長 氏 4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性| Musicman-NET
  430. 長渕剛vs桑田佳祐、矢吹光、1995年3月、三一書房、p154
  431. ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89
  432. 「“エリー”って誰?」意外と知らないサザントリビア10( トリビア ... - 女性自身)
  433. 2008年3月11日「桑田佳祐のオールナイトニッポン
  434. 桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。 - Techinsight 2011年3月
  435. 桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』2009年5月18日放送分
  436. 原由子『娘心にブルースを』1998年、ソニーマガジンズ、p171
  437. 別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p 28
  438. Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、1996年、TOKYO FM出版、p379
  439. あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p24、25
  440. 第137回 高橋信彦氏 | Musicman-NET
  441. Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、p26、27
    「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p48、49
  442. 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p70-71
  443. 松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p70
    アサヒ芸能、2009年7月23日号、p189
  444. 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p41
    コンサートMC
  445. 音楽出版社 2008, p. 84.
  446. 地球音楽ライブラリー、p43
  447. 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p160
    和田誠インタビュー その三、1989年、和田誠話の特集、p122-142
  448. どーもとドーモ、2000年、KinKi Kids新潮社、p177
  449. 山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック2002/5/26
  450. 450.0 450.1 ナタリー - 山下達郎、本日ANNで吉田拓郎とメディア初共演
  451. 今夜よる10時からの『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に山下達郎初登場!何と吉田拓郎さんとメディア初共演が実現!
  452. 吉田拓郎×竹内まりや、ラジオで初共演!
  453. 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p102
  454. ここは私の学校、2003年11月、祥伝社、p66
  455. とんがらし、1975年9月、八曜社
  456. 音楽的日乗 スローハンドVol.1、2006年、自由国民社、p103-104
  457. フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、P178
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p118
  458. 458.0 458.1 田家秀樹 1994, p. 156.
  459. 頭脳警察(2004年8月・須田諭一著・河出書房新社)p164-166
    定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p60、139、140、193
    吉田拓郎・お喋り道楽、p219-220
    関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p78
    ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p122
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p89
    ナタリー - ドキュメンタリー頭脳警察公開記念イベントで貴重発言続々
    haruomi hosono 1971
  460. 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p122
  461. _... m o m e n t ...._丸山圭子ロングインタビュー
  462. ゆるふわ愛され音楽ニュースサイト - ナタリー 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化
  463. われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版、p35-36
  464. 音楽出版社 2008, p. 67.
  465. 加川1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』に収録
  466. 石川セリ公式サイト Seri Ishikawa Official
    もう書いてもいいですね。、2005年、廿楽正治、有朋書院、P170
  467. 別冊宝島編集部 2006, p. 72.
  468. 井上陽水 FILE FROM 1969、p180、181
  469. NSP『八月の空に翔べ』、八曜社、1978年、p29、148、149
  470. この歌 あの歌手(下)、読売新聞社文化部、1997年、社会思想社、p108
  471. 朝日新聞、2010年12月4日、be on Saturday-e1、2、うたの旅人:新婚旅行で書いた詞 「旅の宿」、BS朝日 - うたの旅人 旅の宿 2010年12月4日放送
  472. うたのことばが聴こえてくる、1984年、岡本おさみ、八曜社、p165
    AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p44
  473. 旅に唄あり、1980年10月、岡本おさみ、八曜社、p14-15
  474. 音楽的日乗 スローハンドVol.2、2006年、自由国民社、p29
  475. 「吉田拓郎 YOKOSO」NHK BSプレミアム、2013年6月12日放送
  476. 476.0 476.1 松任谷由実、ルージュの伝言、1984年5月、角川書店、p8-11
  477. 週刊朝日、1979年3月12日、p16、【yumiyoriな話】第36回 最終回 井上陽水さん YOMIURI ONLINE読売新聞、2011年8月13日17面)
  478. Musicman-NET 第87回 松任谷正隆氏.31951年11月19日 日本をリードする音楽プロデューサー松任谷正隆が生まれた日
  479. 吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、p270-285
  480. 480.0 480.1 俳優、音楽、人生...尽きぬ話が語り明かされる!明日4日(水)BSプレミアムで放送『吉田拓郎YOKOSO "中村雅俊"』
  481. ニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2013年4月15日放送、中村雅俊、坂口良子さんとの思い出語る - 芸能社会 - SANSPO.COMテレビ東京『L4 YOU!』2013年4月10日放送、「L4YOU!」- ゲストトーク〜中村雅俊〜
  482. 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p161
  483. 垣花正のあなたとハッピー!ニッポン放送、2010年8月24日
  484. 吉田拓郎 1980, p. 154.
  485. アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39
  486. 吉田拓郎オールナイトニッポン・ゲスト矢沢永吉
  487. 487.0 487.1 LOVE LOVE あいしてる:1999/06/19
  488. LOVE LOVE あいしてる:1997/11/29
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p100
  489. LOVE LOVE あいしてる:1998/09/26
  490. 坂崎幸之助のJ-Friends1、p100
  491. 19インタビュー
  492. 青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド - 広島FM 食卓ON楽
    中国新聞、2007年7月29日、p10
    AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p82
    広島フォーク村
  493. 小室哲哉音楽対論 Vol.1、p105
  494. FLASH臨時増刊 Extime、p30
  495. 週刊新潮、2006年12月14日、p44
  496. 「らいぶ」、学習研究社、1996年6月、p29
  497. 石原信一 1985, p. 53.
  498. 岡林は、はっぴいえんどとロックをやり始めたため、怒ったフォークファンが怖くなり対人恐怖症になって歌を辞めると宣言し渡米、帰国後も京都の寒村に穏棲したりし表舞台に立たなくなった(バンザイなこっちゃ!、2005年・岡林信康著・ゴマブックス、p227、278、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127)。
  499. ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127
  500. 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  501. トーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  502. 東北ロックンロール物語、2008年、高橋ジョージワニブックス、p61-62
  503. 真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目ラジオ「PLATOn」出演記 - C-faculty - 中央大学エコレゾトーク - エコレゾ ウェブ
  504. 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  505. 「LOVE LOVEあいしてる」完全読本、1999年、キンキ・オールスターズ、飛天出版、p84、85
  506. || KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 さんまのまんま : バックナンバー
  507. 吉田拓郎LIVE〜夏と君と冷したぬき〜
    有名人同士の意外な交友関係(2011/05/04) | コブス横丁 | COBSキャリア
  508. 変なおじさん、新潮社、2002年、38頁
  509. 決定!これが日本のベスト
  510. 510.0 510.1 テレビ朝日|ストライクTV 2011年11月7日放送
  511. フォーライフレコード設立35周年記念!井上陽水・吉田拓郎・小室等ら、70年代後半の名曲をコンパイルした高音質コンピ盤発売!新企業CMに俳優の向井理さんを起用 / ニュースリリース | リコー
  512. テレビ朝日 (2015年9月27日). “関ジャム 完全燃SHOW、2015-09-27twitter”. 関ジャム 完全燃SHOW. オリジナル2015年9月27日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/*/https://twitter.com/kanjam_tvasahi/status/648038257750478849 . 2015閲覧. テレビ朝日 (2015年9月27日). “関ジャム 完全燃SHOW”. 関ジャム 完全燃SHOW. オリジナル2015年9月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927091144/http://www.tv-asahi.co.jp/kanjam/ . 2015閲覧. “関ジャム 完全燃SHOW”. Gガイド.テレビ王国. (2015年9月27日). オリジナル2015年9月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927104541/http://tv.so-net.ne.jp/schedule/105144201509272315.action . 2015閲覧. 
  513. 痛快!明石家電視台、2011年2月14日放送
  514. ピース『憧れの人・ダウンタウンへの想いや、青春時代のベストソングを語る!!』-ORICON STYLE
  515. “ダチョウ倶楽部×キンキ、敬愛する吉田拓郎カバー披露”. ナタリー. (2014年4月18日). オリジナル2015年9月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927105817/http://natalie.mu/owarai/news/114743 . 2015閲覧. 
  516. TALK SHOW | 中村のん プレゼンツ、[地球は私の仕事です] 女の仕事、朝日新聞社、1997年9月、p230-231
  517. 勝手にさせて、秋吉久美子著、河出書房新社、1986年3月、p52
  518. 仲村トオルさん(3/3) - インタビュー - ひと - (どらく)
  519. 江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、イーストプレス、p13-27に収録
  520. レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」、2010年11月、ミュージック・マガジン、p41
  521. 青春とはなんだかんだ、柴門ふみの'70s青春記、柴門ふみ小学館、1994年、p813
  522. 522.0 522.1 柴門ふみ 「あのころの熱をもう一度 フォークの季節 拓郎に恋をした」『東京人都市出版、2011年9月号。
  523. 70年代、青春のスーパースター・吉田拓郎を熱く語る 「吉田拓郎・これが青春」 柴門ふみ
  524. 『シンプジャーナル・ベストセレクション'80s』p376、2013年10月28日 | 午後まりブログ:NHK - NHKオンライン6F)マサ拓Z - Live Bar X.Y.Z.→A LIVE SCHEDULE
  525. みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
  526. 526.0 526.1 526.2 ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12
  527. 第三回 : アレ?ここウチの地元? テーマ曲 「伽草子」 吉田拓郎
  528. en-taxi 第21号、2008年、p100
    みうらじゅんの「サブカルジェッター」
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p174、183
  529. みうらじゅん対談集 正論。、みうらじゅん、コアマガジン、2009年、p231、234
  530. みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない」、TBSラジオ、2008年1月26日放送、番組公式サイト ジェッター回顧録2008年1月
  531. 石原信一 1980, p. 46.
  532. 週刊現代、2011年8月13日号、p126
  533. 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p247
  534. 茅ヶ崎ロータリークラブ 創立50周年記念講演 直木賞作家・重松清『命を語ることば』
  535. 重松清さん×糸井重里さんの対談|作家による読書の楽しさを伝える対談
  536. 週刊現代 講談社 2009年10月17日号71頁
  537. 10月23日放送 「クリエイティブディレクター箭内道彦さん」
  538. 社長が訊く『Wii Music』 - 任天堂
  539. サッカー・内田篤人選手、吉田拓郎さんの曲でコンフェデ杯へ闘志 - FNN
  540. 内田、吉田拓郎ソングで士気アップ!プレゼントCD持参
  541. 「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載 - 江田けんじNET
    吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba
    内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双
    ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
    週刊現代 2009年10月17日号、p71
    en-taxi 第21号、p96-99
    ライオンのごきげんよう』(2012年6月15日放送分)より。価格.com - 「ライオンのごきげんよう」2012年6月15日(金)放送内容森永卓郎の俺が震えた1曲、吉田拓郎「人間なんて」 | アサ芸プラス

参考文献

著書

  • 吉田拓郎 『気ままな絵日記』 立風書房、1972年 
  • 吉田拓郎 『明日に向かって走れ』 八曜社、1976年 
  • 吉田拓郎 『俺だけダルセーニョ』 集英社、1984年 
  • 吉田拓郎 『ふたたび自分の事は棚に上げて』 小学館〈BIG ORIGINAL BOOKS〉、1994年ISBN 978-4093653220 
  • 吉田拓郎 『もういらない』 祥伝社、2002年4月ISBN 4-396-42035-8 

解説書等

  • 石原信一 『吉田拓郎 挽歌を撃て』 八曜社、1980年 
  • 矢沢保 『フォーク俺たちのうた』 (改訂新版) あゆみ出版、1980年NCID BN11565436 
  • 石原信一 『俺たちが愛した拓郎』 八曜社、1985年ISBN 978-4-8270-0082-5 
  • シンコーミュージック 『フォーク黄金時代(1969〜1978) (CUT-UP-FROM YOUNG GUITAR』 シンコーミュージック、1992年 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎ヒストリー1970-1993』 ぴあ〈ぴあbook. ぴあmusic collection ; 4〉、1994年1月 
  • キンキオールスターズ 『「LOVE LOVEあいしてる」完全読本』 飛天出版、1999年10月ISBN 978-4894401594 
  • 田家秀樹 『J-POP時評 1989-2001 音楽の向こうに現代が見える』 ヤマハミュージックメディア、2001年8月15日ISBN 4-636-20982-6 
  • Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』 立風書房2001年ISBN 4-651-82048-4 
  • 恩蔵茂 『ニッポンPOPの黄金時代』 KKベストセラーズ2001年11月ISBN 4-584-12025-0 
  • 坂崎幸之助 『坂崎幸之助のJ-POPスクール』 岩波書店〈岩波アクティブ新書, 60〉、2003年ISBN 4007000603 
  • 吉田拓郎 『晴れときどき拓郎―Younger Than Yesterday.』 小学館、2003年6月ISBN 978-4093796224 
  • 別冊宝島編集部 『音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」』 宝島社〈別冊宝島1346〉、2006年8月ISBN 978-4796654258 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎』 TOKYO FM出版〈地球音楽ライブラリー〉、2007年1月15日ISBN 978-4-88745-179-7 
  • シンコーミュージック 『吉田拓郎これが青春』 シンコーミュージック・エンタテイメント〈ヤング・ギター・クロニクル, vol. 1〉、2007年1月31日ISBN 9784401630851 
  • 田家秀樹 『いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 : 小説吉田拓郎』 小学館、2007年9月ISBN 9784093797122 
  • 音楽出版社編 『吉田拓郎読本』 音楽出版社、2008年ISBN 978-4-86171-041-4 
  • 山本コウタロー 『誰も知らなかった吉田拓郎』 イーストプレス、2009年12月11日ISBN 978-4-7816-7016-4 
  • 田家秀樹 『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』 毎日新聞社、2011年ISBN 978-4-620-32046-5 
  • シンコーミュージック 『日本の男性シンガー・ソングライター』 シンコーミュージック・エンタテイメント〈ディスク・コレクション〉、2013年9月ISBN 9784401638857 
  • 馬飼野元宏 『日本のフォーク完全読本』 シンコーミュージック・エンタテイメント、2014年6月30日ISBN 978-4401639724 

外部リンク

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