あさま山荘事件
あさま山荘事件 | |
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場所 | 長野県北佐久郡軽井沢町 |
座標 | |
日付 | 1972年(昭和47年)2月19日 - 2月28日 (日本標準時) |
概要 | 人質 立てこもり発砲事件 |
武器 | 散弾銃、ライフル、拳銃、パイプ爆弾 |
死亡者 | 3名(警察官2名、民間人1名) |
負傷者 | 27名(警察官26名、報道関係者1名) |
犯人 | 連合赤軍(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久) |
対処 | 人質を救出し犯人全員を逮捕 |
あさま山荘事件または浅間山荘事件[注釈 1](あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」[注釈 2]において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。
Contents
概要
日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[6]。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
事件の発端
当時、連合赤軍の前身である京浜安保共闘および赤軍派の両派は、銀行に対する連続強盗事件や、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れるなど、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていたため、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、警察の総力を挙げて行方を追っていた。
警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。
1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。
1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。この時、最高幹部の森と永田が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。森と永田もベースが発見されたことを前日に知り、坂口たちと合流すべくベースに戻るが、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 3]
合流地点設定のため先発隊として車で出発した坂口、植垣康博らは警察の職務質問[注釈 4]を受ける。指名手配されていた坂口、植垣らは指名手配されていないメンバー2人を残して警察が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末、2月16日に逮捕された。ベースに戻り合流した坂口らは長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発したが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった(浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある)。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣ら4名が軽井沢駅で逮捕される。長期間入浴していなかったため悪臭を放っており、不審に思った食料品店の店員が通報したことがきっかけであった。こうして29名いた連合赤軍メンバーは、12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名がこの時までに逮捕されており、事件発生直前には坂口、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5名を残すのみとなっていた。
事件の経過(山荘内部)
2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[7]。
15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出すると、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見し、最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[8][注釈 5]。吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口と坂東は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念された。坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[8][9]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[8]。こうして浅間山荘での籠城が決まっていった。警察の突入に備えて山荘内に畳などを持ち込み、バリケードを築いた。
すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立て籠もっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[9]。
2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[8]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[8]。こうして3人は1日でも長く徹底抗戦を続けることで一致した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという[8]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。
犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。人質の夫や両親による説得がつづいた。
当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[8]。
人質も交えて夕食。加藤元久が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、元久が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[8]。
2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤(倫教)は「赤城」、加藤(元久)は「霧島」であった[8]。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。
さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという[8]。
19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。
2月22日、午前、吉野の母の説得中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという[8]。
正午ごろ、警察の包囲をすり抜けた新潟市内でスナックを経営する民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃[8]。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり機動隊員に保護される。男はその後容体が悪化し3月1日に死亡した。1人目の犠牲者。
14時40分ごろ、特型車の後ろに隠れて接近してきた機動隊員2名が吉野と坂東の発砲により負傷。
20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた[9]警察は、山荘の送電を断ち、部屋が真っ暗になる。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。
この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否[8][注釈 6]。
2月24日、5時と6時に人質の親族による呼びかけ。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望するが坂口は拒否[8][注釈 7]。
さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという[8]。
正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。
2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる[8]。
2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念[8]。
9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった[8][注釈 8]。
坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて逃げ遅れた警官を人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念[8]。
夕方、寺岡恒一の父が到着し、呼びかけ。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の父も警察もこの段階で山岳ベース事件を把握しておらず、寺岡がすでに死亡していることを知らなかった。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという[8]。
夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判[8][注釈 9]。
犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」[8]。
2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測[8]。
2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった[注釈 10]
9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。
11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の警部が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった[8]。
11時47分ごろ、第2機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。
11時54分ごろ、第2機動隊隊長の警視が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者。
11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第2機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという[8]。
これらを受けて、人質は被害者を増やさないためにも自分を楯にして外に出ることを訴えたという[8]。
12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟である加藤元久の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという[7]。
12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲[注釈 11]。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く[8]。
14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第2機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。
15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという[8]。
15時58分ごろ、第2機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾[10]。
17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。
17時20分ごろ、第9機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾[10]。
17時55分ごろ、第9機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾[10]。
やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明[10]。
その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという[8]。
18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。
警察の対応
初期対応
全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。
そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。
また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」を大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。
警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。
警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正(警視庁警備部付)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。
後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。
機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に第二機動隊(隊長・内田尚孝警視)が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。
第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。
警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。
結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。
制圧作戦
包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立て籠もっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った[注釈 12]。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。説得を聞いていた機動隊員らは涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した。
長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[11]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。
次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃口を壁ごと破壊するに留まった。
鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは、現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリ・ターミナルを蹴飛ばしたため」である[12]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。
当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[13]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。
ただしこの故障説[14]については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌[15]および自動車雑誌[16]で明かしている。
事件の収束
2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が盾を貫通することが分かり[注釈 13]、隊員は盾を2枚重ねて突入した。
突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け[注釈 14]、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。
内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可[注釈 15]が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。狙撃班も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな狙撃銃の使用は長官許可とされていたため[18]、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・保坂調司警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された[17]。
しかしその後も、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして、部隊指揮官の意思を尊重する形でヘルメットに指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。
作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。
逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。
事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。
事件が長期化した要因
- 生け捕りの方針であったこと
- 人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。
- 警察官が殺人罪で告発される懸念があったこと
- 1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。
- 犯人が主張や要求をしなかったこと
- 犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった[注釈 16]。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返した。
- 立て籠もり側に有利な地形であったこと。
- 山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと。頻繁に犯人が発砲してくること。警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったこと[注釈 17]などから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[11]。
事件後の情勢
連合赤軍の崩壊
あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され[注釈 18]、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。
特殊部隊の創設
1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[20]。
1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、本人が法廷闘争を望み留まった)。
1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。
裁判
山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。
関係者のその後
- 佐々淳行は初代内閣安全保障室長を経て現在は危機管理の専門家・評論家として活動している。
- 当時警察庁警備局公安第三課課長補佐として参加していた亀井静香は2017年まで衆議院議員を務めていた。
- 國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。
- 佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
- BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた[21][22][23][24]。
エピソード
- カップヌードル
- 事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い、隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員には、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。
- やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[11]。
- テレビの生放送で、カップヌードルを美味しそうに食べる隊員達の姿が映像に映り、同商品の知名度を一挙に高めた[25]。カップヌードルの売上は発売開始時の1971年には2億円だったのに対して、事件後の1972年には、前年比33.5倍の67億円になっている。
- 鉄球作戦
- 佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[11]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は東京都指定の登録文化財第1号であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。
- なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の㈱白田組に残されている。
- ヘルメットの意匠
- 当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された(現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能)。
- 生中継
- 1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。
- 後方の治安
- 当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。
- 警備心理
- 群集心理や、人質の心理のレクチャーのために宮城音弥東工大教授らが現地に派遣された。
- 人質女性
- 事件後、マスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警備していたはずの人質女性の取調べの模様が、新聞の特ダネとして次々とスクープされた。その後、女性の病室に忍び込もうとしていた新聞記者が取り押さえられ、盗聴器を所持していたことが判明したが、公にはならなかった。
- 女性は、「赤軍派にうどんを食べさせてもらった」、「3食ちゃんと食べさせていた」という発言や、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く報道され、広く世間の批判を受けることとなるが、実際には「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」、「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」、「2月29日の報道を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と後に述べている。
- 浅間山荘その後
- 事件後10年ほどは、浅間山荘は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていた。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっている。
事件を扱った作品
小説
- 円地文子 『食卓のない家』 新潮社 1979年
- 立松和平 『光の雨』 新潮社 1998年
- 山岳ベース事件を中心とした一連の連合赤軍事件をテーマとした小説。2001年に映画化された。ただし、小説・映画ともあさま山荘事件の場面はわずかである。
漫画
映画
- 『食卓のない家』 1985年
- 円地文子の同名小説の映画化。
- 『光の雨』 2001年
- 立松和平の小説『光の雨』を原作とする。原作を劇中劇とする手法を用いている。
- 『突入せよ! あさま山荘事件』 2002年
- 佐々淳行の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』を原作とする。佐々淳行、宇田川信一、後田成美がカメオ出演している。
- 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』 2008年
- 『突入せよ! あさま山荘事件』を鑑賞した映画監督の若松孝二が、「権力側からの視点でしか描いていない」として、連合赤軍側の視点で制作。
テレビ番組
- 『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』「あさま山荘事件 衝撃の鉄球作戦」 NHK 2002年
- 1話完結ではなく前編と後編に分かれており、前編は突入までの9日間、後編は突入当日の1日を追っている。この番組は主観が警察でも連合赤軍でもなく、地元住民にある。同番組では2001年に放送されたカップヌードル誕生秘話の「魔法のラーメン・82億食の奇跡」においても、あさま山荘事件のエピソードが番組の最後に紹介された。
舞台
- 「〜あさま山荘事件〜『雪原を血にそめて』」
- 劇団 S.W.A.T!による舞台演劇。1997年銀座博品館劇場、及び2000年下北沢本多劇場。
脚注
注釈
- ↑ 山荘の正式名称は「浅間山荘」であるが、事件当時から警察およびマスコミは事件名を「あさま山荘事件」と表記し、『警察白書』においても事件名としては「あさま山荘事件」が用いられている[1][2][3]。2010年代のマスコミ報道においては、「浅間山荘事件」を用いる例もみられる[4]。以下、本項目の文章では『警察白書』に基づき、事件名は「あさま山荘事件」と表記する。
- ↑ 正式には河合楽器健康保険組合の所有する「軽井沢保養所浅間山荘」であった。
- ↑ この直前、2人は道中で職務質問を受けるが、すぐに解放される。これを受けてすぐにベースに戻ることを主張した永田と、警察を警戒して山を通って迂回してベースに戻ることを主張した森との間で意見が割れ、結局森の意見を採用したために警察に先回りされ、逮捕へと繋がった
- ↑ この際「アベックを見ませんでしたか」と警察に尋ねられ、それが森と永田のことであったことを知ったのは二人が逮捕されたことをニュースで知ってからだったという
- ↑ 加藤倫教は坂口による籠城の決定を受けて、「籠城すれば、捕まるか、撃ち殺されるか、そのどちらしかない」と考え落胆したという(加藤倫教『連合赤軍少年A』)
- ↑ 坂口は吉野にはこう説明したが、内面では政治的主張と現在の状況に乖離を感じていたこと、同志殺害が発覚するのは必至と見て徹底抗戦することが左翼的良心の発露だと思っていたことがその理由だったという。しかし警察から政治的主張を言えと言われたことは坂口にとって「政治的敗北をヒシヒシと感じざるを得な」い出来事だった(坂口弘『あさま山荘1972 下』)
- ↑ 坂口は「同志殺害の途方も無い過去を背負って、(中略)ひたすら闘うことのみが、左翼の良心を示す唯一の方法」と考え、要求や取引には一切応じないことにしていたという(坂口弘『あさま山荘1972 下』)
- ↑ 坂口はこのときの約束を守り、実際にその後の裁判において弁護人が人質を証人申請しようとするのを検察側の調書に同意してまで拒んだ
- ↑ 坂口はこの一件を「山岳ベースで闘争意欲を失っていた吉野」、「傷つきながらも闘争意欲はあった坂口」、「そもそも傷ついていなかった坂東」の意識の違いによるものと後に分析している。『あさま山荘1972下』
- ↑ 吉野はこれを「『殺す』ことへのためらいがあった」ためと回想している。このことも含めて私は『殲滅戦』を闘いきれず日和ってしまった、殺されずに生け捕りにされてしまった、との思いに捕らわれました。そこから自分が『革命戦士』たり得ぬのに、同志にそれを求め死なせたことを誤りと考えるようになったのです」(連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍』(2013年8月 晧星社)吉野雅邦「省察ーー連合赤軍私史」)
- ↑ 判決では坂口は「殺意を持って」発砲したとされた
- ↑ 警察側は寺岡の所在を把握していなかったため、山荘に潜んでいると考えていたが、実際にはすでに山岳ベース事件で殺害されていた。
- ↑ 機動隊のジュラルミン盾は投石など暴動対処用の盾であり、防弾性能はない。
- ↑ 犯人は殺傷性を高めるために頭部を狙うだけではなく、眼部を狙っていた。
- ↑ 警察庁の拳銃使用許可は「適時適切な状況を判断し、適時適切に拳銃を使用せよ」というものであり、当事件及び数々の警備の現場を指揮していた佐々は拳銃使用許可について「威嚇射撃をせよ」「手足を狙って撃て」と具体的にしてくれないと困ると述べている[17]。
- ↑ 人質は夫に安否を知らせたい旨を犯人に伝えたが、犯人からは「警察は盗聴によって人質の無事を確認している」として拒否されていた。警察は盗聴を行っていたが、実際には人質の安否は確認できていなかった。
- ↑ 連合赤軍が10日間で104発の発砲をしているのに対し、警察側は実弾についてはわずか16発の威嚇発砲のみであった。この他に連合赤軍側はパイプ爆弾1発を、警察側は発煙筒12発、催涙ガス弾1489発、放水148.9トンを使用している[19]。
- ↑ 警察に逮捕されていない幹部が二人いたが、いずれも事件発生前に山岳ベースで殺害されていた。警察側はうち一名の殺害をあさま山荘事件解決以前につかんでいた。もう一人は警察が立てこもり犯の一人と見なしていた寺岡恒一である。
出典
- ↑ 昭和48年 警察白書
- ↑ 昭和50年 警察白書
- ↑ 昭和63年 警察白書
- ↑ 昭和史再訪セレクション - 地球発 - どらく 朝日新聞
- ↑ 引田惣彌 2004, p. 118.
- ↑ 引田惣彌 2004, p. 118,119,229.
- ↑ 7.0 7.1 7.2 加藤倫教『連合赤軍少年A』
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 8.11 8.12 8.13 8.14 8.15 8.16 8.17 8.18 8.19 8.20 8.21 8.22 8.23 8.24 8.25 8.26 8.27 8.28 坂口弘『あさま山荘1972 下』
- ↑ 9.0 9.1 9.2 大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層(下)』
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 「連合赤軍事件(統一組)第一審判決」(『判例時報』1052号 判例時報社 1982年11月)
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年
- ↑ 久能靖 (2000)によるクレーンのオペレーターへの聞き取り調査
- ↑ 『正論』2002年4月号『あさま山荘事件、いまだ決着せず』 産経新聞社
- ↑ 久能靖 (2000)でも故障とされている
- ↑ 『月刊アーマーモデリング』2006年6月号 大日本絵画
- ↑ 『CURIOUS』2016年vol.10 メディア・パル
- ↑ 17.0 17.1 佐々 1996, pp. 269-275.
- ↑ 佐々 1996, p. 134.
- ↑ 植垣康博 『兵士たちの連合赤軍』 彩流社、1984。
- ↑ 警察庁次長発各都道府県警察の長宛通達「特殊部隊の編成について」昭和47年9月6日乙備発第11号
- ↑ あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 ~連合赤軍45年目の新証言~
- ↑ http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170305-OHT1T50303.html
- ↑ あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 ~連合赤軍45年目の新証言~,world news
- ↑ https://news.yahoo.co.jp/byline/joshigeyuki/20170623-00072459/
- ↑ カップヌードル 誕生秘話と歴史 - 日清カップヌードル|CUPNOODLE
- 引田惣彌 『全記録テレビ視聴率50年戦争 : そのとき一億人が感動した』 講談社、2004。ISBN 4062122227。
参考文献
警察側
- 持田昭編 『旭の友特集号』「連合赤軍軽井沢事件」 長野県警察本部警務部教養課・発行 1972年6月1日
- 長野県警察本部警務部教養課による事件をまとめた資料。
- 佐々, 淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996。ISBN 4163517502。
- 対連合赤軍だけではなく対長野県警察という内部の対立を、警察庁側の視点から書いている。1999年には文庫化され『連合赤軍「あさま山荘」事件-実戦「危機管理」』の表題に改められた上出版されている。
- 『正論』2002年4月号「あさま山荘事件、いまだ決着せず」 産経新聞社
- 当時の警視庁第九機動隊長を務めた大久保伊勢男の手記「あさま山荘事件、いまだ決着せず」が所収されており、鉄球作戦は失敗ではなかったか、と疑問を呈している。
- 北原薫明 『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実 : 元県警幹部が明かす』 ほおずき書籍、2007。ISBN 9784434102431。 [親本は1996年]
- 事件当時の長野県警察警備第二課長である著者は、佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』を、(1)事実に異なる点がある、(2)長野県警察が一丸となって死力を尽くした点などが十分に記述されていない、と批判している。
連合赤軍側
- 坂口弘 『あさま山荘1972(上)(下)』 彩流社 1993年
- 坂口弘 『続 あさま山荘』 彩流社 1995年
- 実行犯のひとり坂口弘による赤軍側から見た獄中手記。
- 加藤倫教 『連合赤軍 少年A』 新潮社 2003年
- 実行犯のひとり加藤倫教による手記。著者は兄が山岳ベース事件によって殺害されており、弟と共に山荘に立てこもった。
- 大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層(上)(下)』講談社文庫、2012年
- 著者は実行犯のひとり吉野雅邦の学生時代からの友人。
報道機関側
関連項目
- 犯罪報道
- アルフ・フォン・ムト・ハイム - 妙義山中にて他1頭と共に証拠品300点あまりを発見した警察犬。
- 連合赤軍
- 山岳ベース事件